明治の生薬学の本2025年11月09日 14時41分50秒

昨日の記事の最後にチョロッと顔を出した本の書誌を改めて挙げておきます。


■大井玄洞(訳述)、勝山忠雄(校補)
 『改訂 生薬学』
 島村利助・英蘭堂(発兌)、第3版・明治20年(1887)〔初版・明治12年(1879)〕

(奥付)

本書については、2023年に開催された東京大学薬学図書館展示「近代日本における薬学の黎明―創始者たちの足跡―」の展示図録【LINK】に、簡にして要を得た解説があったので、お借りします。

 「大井玄洞は安政 2(1855)年 2 月 15 日、加賀藩の儒医の子として生まれた。藩の明倫堂で学び、更に藩の道成館で英語を習得した後、大学南校に入学し、ドイツ語を学ん だ。明治 10 年(1877)5 月、東京大学医学部製薬学科に日本人教員が教える 2 年制の通学生制度が設置され、大井は製薬学、薬品学、勝山忠雄は調剤学を担当した。

 明治 13(1880)年 2 月、Albert Wigand『Lehrbuch der Pharmakognosie』を参考に 教科書を作るに際し、ドイツ語の「Pharmakognosie」(これはギリシャ語の pharmakon (薬物)と gnosis(知識)からの造語)に「生薬学」という訳をあて、『生薬学』、『生薬学図譜』を刊行した。

 その自序に「此書ハ独逸国マクトヒルヒ府ノ大学校教授ドクトル、アルベルト、ウイカンド氏撰著ノ生薬学フアルマコクノシー(本校学則ニ之ヲ薬品学ト云フ其字義穏当ナラザルニ似タリ故ニ生薬学ト改称ス)」と生薬学と訳した理由について述べている。」 
(上掲図録p.6)

「訳述」とあるように、本書はドイツの生薬学の教科書を元に、複数の関連書籍(いずれも独書)を参考に内容を補ったものです(ちなみに解説文中にある「マクトヒルヒ府」は、原文では「馬丁堡府」となっており、即ちマグデブルグのことです)。

(「自序」冒頭)

   ★

「生薬学」という名称そのものも、このとき大井が創案したものらしく、続く本文の「緒言」によれば、これは昔の「薬物学(ファルマコロキア)」が発展的に4つの領域に分化したうちの一つで、「製薬学(ファルマシー)」、「薬性学(ファルマコジナミー)」、「方箋学〔調剤〕」と並び立つ学問だと記されています。

(本文より「薄荷」の項。本書は字ばかりで挿絵はありません)

本書の初版が出た明治12年(1879)、著者・大井は、弱冠24歳。
西洋の新学問も、それを教える者もみな大層若いです。

本書は植物のみならず動物・鉱物も含む生薬個々の解説が大半を占めていますが、著者を大いに悩ませたのは、何よりもその訳語を定めることでした。当然、先行する諸書を参照しながら訳語を当てていくわけですが、諸書が挙げる名称には音訳あり、義訳(意訳)あり、そもそも諸書に見えない名称も多数あり、中には日本産類似種の和名を当てている場合も少なからずありますが、当然同じ科に属するからといって同じ薬効があるわけではないので、これは端的にいって「誤訳」です。しかし、誤訳でも長く使われていると、改称は容易ではなく、誤訳であることを指摘しつつ、あえてその名称を使わざるを得ない場合もありました。そうしたことを考えながら訳語を一つずつ定めるのは、本当に大変な作業だったろうなあ…と頭が下がります。

(鉱物(金石)の生薬の解説。冒頭の「黒船」は「黒鉛」の誤植。実際に黒船が来たのは、本書の初版が出るわずか26年前です)

昔、鉱物名を明治の学者が定める際の苦労を振り返ったことがありますが、当時の学問は、みな多かれ少なかれ『蘭学事始』みたいな階梯をたどったのでしょう。

   ★

もう一冊の方も見ておきます。


■杉山省吾(編著)、下山順一郎(校閲)、平野一貫(参訂)
 『薬用植物図譜 全』
 半田屋医籍商店(発兌)、明治31年(1998)

(奥付)

「凡例」には、「本書ハ医薬学ヲ修ムル初学者ニ応用植物学ノ一科タル薬用植物学ヲ講習セシムルニ便スルガ為メ、本邦薬局方ニ収載セラレタル生薬ニ標拠シテ図画ヲ描キタルモノナリ」と、その狙いが書かれています。

(左ページは「自序」末尾。それに続いて右ページの「凡例」が来ます)

余談ながら、この本で驚いたのは、ご覧のように縦書きなのに左から右に読ませる「左縦書き」が登場することです。本文(図鑑部分)は普通の横書きなのに、序文と凡例だけ無理に縦書きにしようとしたため、折衷で妙なことになったのだと思いますが、こういう些細な事でも、明治の頃はいろいろ試行錯誤があったことが分かります。

(第70図「薄荷」ほか)

内容は、石版刷りのカラー図版を用いた普通の植物図鑑と同様の体裁ですが、解説文中、特に「供薬」の項を設け、薬用部位や成分、用途に触れているのは、本書の目的からして当然とはいえ、いろいろ興味をそそるところです。

(薄荷解説)

(第44図「石榴(ザクロ)」ほか)

ちなみに著者の杉山省吾は「第一高等学校 医学部助教授」の肩書を名乗っています。これは明治27年 (1894)の高等学校令の公布に際して、旧制一高に大学予科と並んで医学部(修業年限 4か年の医学科と 3か年の薬学科)が置かれたことを反映しています。

同時期、帝大にも医学部(医科大学)がありましたが、こちらの卒業生は「医学士」を名乗ったのに対し、一高医学部の卒業生は「医学得業士、薬学得業士」を名乗ったという違いがあります。旧制一高は、新制東京大学の前身の一つですが、一高医学部の方は明治34年 (1901)に千葉医学専門学校となり、現在の千葉大学医学部と系譜的に連なっています。

   ★

ところで、昨日の記事に今日の2冊を登場させたのは、「生薬イコール漢方(≒東洋医学)」みたいな連想が働いたためですが、上記のことから明らかなように、昔は東洋でも西洋でも薬といえば即ち生薬であり、生薬以外の薬は皆無でしたから、上の連想ははっきり言って誤りです。薬草を調合するのは、漢方医や魔法使いお婆さんの専売特許ではありません。カプセルや錠剤ばかり見慣れていると、そのことをつい忘れがちですが、自戒をこめて心したい点です。

西洋でも17世紀までは(あるいは18世紀に入ってもなお)ヒポクラテスやガレノス以来の、体液のバランス説や生命生気(プネウマ)説による病因論が幅を利かせていたらしいので、解剖学的知識や外科的処置術を除けば、蘭方医と漢方医で、そう学的水準に違いはなかったんじゃないかなあ…という気もします。

コメント

_ S.U ― 2025年11月11日 09時50分15秒

前の投稿の、ヒサヤ大黒堂、天藤製薬などの創業者が気になったので、私も少し調べました。製薬会社の創業者は、漢方医or西洋薬学者の二択とは限らず、本草学者や薬種問屋、それから蘭学の弟子みたいな人もあったようです。天藤の創業者は、後者から出発して西洋薬学を学んだようです。鎮痛成分は、和漢の生薬の発想からスタートして、最終的に西洋の合成物を使っています。

 我が天文同好会の拙稿で、平賀源内は天才と書きましたが、かれが天才だったのは、蘭学の初期で西洋のものがどれも珍しかった時代に、西洋や唐の薬種が日本に自生する植物と比して、「万物に属種の繋がりがある以上、同じ成分を含みうる」ということを早々と見抜いたことだと思います。この繋がりは、日本では、源内の一撃でほぼ達成されたように見えますが、今年の大河ドラマを見て以来、上の繋がりの哲学を源内に教えたのは、『蘭学事始』の杉田玄白であった可能性があると想像しています。

_ 玉青 ― 2025年11月18日 19時19分19秒

またまたありがとうございます。
法の網がかかる前の民間薬は、もちろん名の通った薬舗が手掛ける素性の確かなモノもあったでしょうが、もう片方には、「がまの油」然とした香具師の世界もあって、傍から見る分には随分面白い世界ですね。薬学史と医療民俗学が交錯する領域と思います。

>万物に属種の繋がりがある以上、同じ成分を含みうる

舶来の品を無暗に有難がる癖が先人にはありましたが、これは大いなる発想の転換。まあ、いつでもその手が使えるわけでもないでしょうが、そういう目で見直せば、身近に眠る知られざる宝が見つかることもあり、まさにコロンブスの卵、幸せの青い鳥みたいな話ですね。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック