オーロラの美観2017年09月11日 06時27分27秒

母なる太陽から吹き付けるプラズマの強風は、さらに地球の磁力線に乗って旋回し、地球大気と衝突しては、美しい光のダンスを演じて見せる…。

太陽フレアの発生で、オーロラの出現がいつも以上に活発化している様子を、ニュース映像で見ました。

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オーロラには様々な種類があり、その発光源となる大気中の元素も多様です。
でも、ある日、ある場所で観測された個々のオーロラに関していえば、その光は特定の元素に由来するものであり、スペクトルを調べることで、その元素を特定できるはずだ…というのは、19世紀初頭に分光学が登場して以来、考え続けられてきたことでしょう。

ただ、実際の取り組みは、安楽椅子で考えるほど容易なことではなく、ウィキペディアで「オーロラ」の項を見たら、「オーロラ分光学が始まったのは1850年代、そして最も代表的な緑白色の光の波長が正確に測定されたのは約70年後の1923年である」と書かれていました。測定行為だけでも、人間の一生に十分匹敵するぐらいの時間を要したわけです。


上は、その研究の道程を示す品。
ハーバード大学天文台が作成した「Spectrum of Aurora」のスライドです


バックライトで見たところ。
上は1897年4月1日、下は1898年3月15日に撮影された分光写真です。

(1897年4月1日のスペクトル像拡大)

(同1898年3月15日。2本の白い帯に挟まれた部分がスペクトル)

これらが何の元素に由来するかは不明ですが、いずれもきれいに輝線スペクトルを捉えています。

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光のカーテンのように揺れるオーロラは、さぞ美しいでしょう(私はまだ見たことがありません)。でも、この地味なモノクロ・スライドに凝縮されている「科学の雅致」も、見ようによっては、同様に美しい――あるいは感動を誘う――ものだと思います。

ただ、その美なり感動なりを味わうには、若干の想像力が要ります。

機械仕掛けの星占い2017年09月10日 08時43分14秒

星にちなんだ品といえば、これも一寸得体が知れない品です。


黄道十二星座や惑星記号など、占星術にちなんだシンボルが、びっしり描きこまれた紙箱(9.5cm角)。そのサークル上を、黒い金属指針がくるくる回るようになっています。


「MADE IN GERMANY」と英語で書かれているので、ドイツ生まれの英米向け輸出品のようですが、四隅に目を凝らすと、英・米・仏・独でパテント取得済みであることを誇っています。時代的には、1900年前後のものでしょうか。

詮ずる所、座興として星占いをする遊具なのでしょうけれど、その遊び方が全く分からないし、何よりも得体が知れないのは…


裏面にゼンマイを巻くための穴と心棒が見えることです。


蓋を留める金具を外して、そっと箱を開けてみると、果たして中にはゼンマイ仕掛が仕込まれていました。


錆が浮き、埃にまみれた、この歯車がクルクル回る時、運命の指針も回転を始め、厳かに目の前の相手の将来を告げる…。

あまりにも素朴な「デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)」ですが、これで十分に物理的なランダム生成装置たりえているならば、その託宣力は、熟達した術者にも、おさおさ劣りますまい(ゼンマイに頼らなくても、サイコロを投げても同じことです)。

完璧な偶然にこそ神意が示される…という観念は、時代と国を超えて強固なものがあるでしょうが、この紙箱もその延長線上にある品だと思います。

ペンネリ・コメタ2017年09月09日 08時13分31秒

昨夜は、太陽フレアのニュースを聞いて、「赤気」、すなわち低緯度オーロラの片鱗でも見えないかと、高台から北の空に目を凝らしましたが、その気配も感じられませんでした(まあ、見えなくて当然です)。

それにしても、風が頬に涼しい、気持ちの良い季節になりましたね。

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先日、こんな品を見つけました。


ご覧の通り、彗星をかたどった印刷ブロックです。
高さ16.5cm、幅12.5cmと、結構大きなものです。

(左右反転画像)

Pennelli はイタリア語で「筆」の意。
Cometa のブランド名は、筆の穂を彗星の尾に見立てたのでしょう。

(同上)

H.L. Sterkel 自体は、イタリアではなく、ドイツ・ラーベンスブルクの絵筆メーカーで、1823年創業の老舗。そして、この印刷ブロックは、同社の製品のラベルやチラシを刷るのに使われた原版というわけです。


側面に打たれた真鍮の銘板も、なかなか良い雰囲気を出しています。
昔の活版所には、こうした印刷ブロックがズラッと並んでいて、必要なものをすぐ取り出せるように、こんな工夫を凝らしたのかもしれません。


裏面のインクの染みの向うに、かつての活版所のにぎわいを感じます。

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この手の品は、真っ当な天文趣味というか、リアルな天体観測とは、ほとんど関係がないんですが、たとえそうだとしても、そこには様々な時代の、様々な人の「星に寄せる思い」がこもっていますし、少なくとも天文趣味の一端を物語るものではあります。

ヴィクトリアン・サイエンスの夢2017年09月05日 07時23分18秒

知られざる理系アンティークショップは、まだまだ世界に多いな…と、下の写真を見て思いました。画像検索していて、偶然行き会った写真です。


有名どころの理系アンティーク・ショップは、それぞれ商品構成に特徴がありますが、こんなふうに、古風な電気実験機器をメインにした店は珍しいです。

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…というような想像が、私の脳内を一瞬駆け抜けましたが、その画像元を見に行ったら、これはショップではなくて、博物館のスナップ写真でした。その名も『ヴィクトリアン・サイエンス博物館』

Museum of Victorian Science(公式サイト)

こんな素敵な博物館の存在を今まで知らずにいたのは、私の無知のせいもありますが、そればかりではなく、この場所自体、かなりマイナーな珍スポットに属するという事情もあります。

グーグルマップでその場所を訪ねると、イングランド北部、リーズ北東70kmの草深い地に…



こんな看板がぽつんと出ているだけの施設です。
しかも、公式サイトを見ると、「見学は要予約。できれば数日前に予約されたし。16歳未満は入館禁止〔別の箇所には18歳未満禁止とも〕。質問は電話でのみ受け付けます。」と、相当な偏屈ぶりを匂わせています。

とは言え、トリップアドバイザーの該当ページを見ると、「旅行者の評価」は「とても良い」が45人で、「良い、普通、悪い、とても悪い」は0人。つまり、全員が「とても良い」を付けています。たいていの観光スポットは、「とても良い」「良い」「普通」にばらけるのがふつうですから、これは例外的な好評ぶりと言って良いでしょう。

口コミの冒頭にある、イギリス・インバネスから訪問した某氏のコメント(トリップアドバイザーによる機械翻訳をそのまま転載)。

「ビクトリアの科学博物館を見学します」
「では博物館は信じられないを訪れになりました。ありがとう!" 私たちはマルコーニでは、スライド、大砲は気に入りました!! ほぼ 2 つの砲弾獲れた! ウィムズハーストマシン素晴らしかったですthe 、私たちのお気に入りは、フランケンシュタインフィナーレでした!は、紅茶、ビスケットに感謝します。もよかったです。 私達は、本当に私たちはまた来ることができますここは私たちが今までに行ったことが今まで最高の博物館だったのでいつか行きたいです!もあり、科学に興味をお持ちでない場合は、この場所ととても魅力的であるがとても気に入りました。もします。 科学博物館の裏手にある歴史的背景もありとても気に入りました。 本当にありがとうございましたまた泊まりたいです!!!!!」

不思議な日本語はさておき、そのびっくりマークの多さに、某氏の感動と興奮がダイレクトに感じられます。

全体として、館長の個性が前面に出た、いかにもアクの強い個人博物館…といった趣です。そこにこそ、得も言われぬ面白さがあり、衝撃があるのでしょう。


さあ、あなたも“現代のフランケンシュタイン博士”、素敵な館長トニーの案内で、夢多きヴィクトリアン・サイエンスの世界へ!!!!!!

海洋気象台、地震に立ち向かう(その3)2017年09月03日 07時32分27秒

くだくだしいことは省き、以下、報告書に付属する多数の図表のうちのいくつかを転載し、彼らの熱気の一端を味わってみます。


いろいろな考察の出発点となる、関東周辺の地質概略図
時代の古いものから並べると、茶色は安山岩層、黄色は第三紀層、黄緑は洪積層、そして白は沖積層です。大雑把に言えば、古いものほどガッシリした地盤ということになります。


そこに被災状況を重ねてみます。
赤い矢印は、最大震動時の揺れの方向、赤く囲まれた地域は、家屋の倒壊が全体の半数以上に及んだ地域です。


震度の詳細分布。色の濃いところほど揺れが大きかった地域です。
相模湾に描かれた赤い楕円は、本震の震源域を示し、灰青のドットは余震の震源地です。

現代と同様、大正時代の地震学者も、こんなふうに得られる限りのデータを縦にしたり、横にしたり、その分析に心血を注いだのでした。

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著者の須田は、さらに地震の成因論についても筆を進め、それを主要な(principal)要因と、副次的・偶発的な(occasional)要因に分けて論じています。

前者については、地下での歪みの段階的蓄積と、それが相対的に弱い部位で解放されるという、地震の基礎的な理解に関わるもので、最初に掲げた地質図を議論の足掛かりとしています。

後者は、地震の直接的な「引き金」となる要因に関する所論で、地磁気や他の天体の影響、あるいは潮位や気圧の変化に言及していますが、いかにも気象台らしく、特に最後の2つ、すなわち潮位変化気圧変化については、データを元に詳しい検討を加えています。(天体の影響が気になりますが、それについては、同時代の寺田寅彦が太陽活動と地震の関係について論じている事実に触れている程度です。)

(地震発生前後の気圧変化の詳細。8月31日~9月2日)

(地震発生後の気圧推移。9月1日~9月30日)

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前回も述べたように、気象台員の活動は机上の作業にとどまらず、本報告の筆者・須田皖次ら3名の台員は、直接被災地入りして、データの収集に努めました。この報告には、そのときの写真も多く収められています。これまた一例にすぎませんが、そのいくつかを挙げてみます。

彼らは悲惨な状況に驚きつつ、冷静に観察を続けました。


その視線は、碑石の倒壊方向や、巨大な地割れの走向、


線路の屈曲に向けられ、さらには鉄橋橋脚の破断面のような微妙な点も見逃しませんでした。


そして、いかにも専門家だな…と頷かれるのは、「何もなかったもの」に注目していることです。すなわち、甚大な被害の出た地域にあって被害を免れた建物は、なぜ被害を免れたのか?という視点です。上の写真は、頑丈な砂岩の上に直接建てられた民家や、伝統的な多宝塔建築が、ほとんど無傷であることに注意を向けています。

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陸の都・東京の危機に駆けつけた、海の都・神戸の研究者たち。
関東大震災については、既に多くのことが語られていると思いますが、それらに付け加えるべく、彼らの活躍の一端を見てみました。



【付記】

関連する話題として、かつて3.11直後に、以下のような記事を書きました。
震災復興の一環として、東京・横浜全域の地質調査を徹底的に行った、地質学者集団の活躍を紹介する内容です。

■帝都復興土竜隊(ていとふっこうどりゅうたい)

海洋気象台、地震に立ち向かう(その2)2017年09月02日 15時19分55秒

(昨日のつづき)


手元にある論文集は、

■ 『海洋気象台欧文報告(The Memoirs of the Imperial Marine Observatory, Kobe, Japan)』 第1巻第1号(1922年6月)~第4号(1924年8月)

をまとめて製本したものです。元はアメリカのスミソニアン協会の蔵書でしたが、除籍されて市場に出たものが、回り回ってこうして日本に里帰りしました。

問題の関東大震災に関する報告は、第1巻第4号をまるまる当てており、これだけで第1号~第3号を合わせたよりも分厚くなっています。(第1巻の約3分の2近くを、第4号が占める格好です。)

その報告の正式な題名は以下のとおり。

■K. Suda:  On the Great Japansese Earthquake of September 1st, 1923.
 (須田皖次、『1923年9月1日の日本大震災について』)

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さて、東京では昨日の記事のような塩梅でしたが、神戸では「その時」どうであったか。
須田の報文には、以下のように書かれています(拙訳)。

 「神戸では、弱い衝撃が1923年9月1日のほぼ正午に感じられた。上から吊り下った電灯がゆっくり揺れ、地震計は大きな、だがゆっくりとした大地のうねりを記録した。大森式水平振子の目盛りは、地震発生後2、3秒のうちに振り切れたため、その震動記録からは、発震の事実と、当気象台が最初に動いた方向を読み取ることができるのみだった。これは、これらの振子に制動装置がなかったことに起因している。磁気式制度装置を備えた大森式震動計およびヴィーヘルト式地震計は、大地の震動を忠実に記録したものの、限界を超える震動の端末において、やはり装置の描針が振り切れてしまった。」

東日本大震災のとき、震源から遠い地方の人も、何か尋常でない「ゆっくりとした大地のうねり」を感じて、たいへんなことが起きたのを直感した人が少なくないと思います。きっと94年前も同じような感じだったのでしょう。その際の地震計の記録が、昨日の記事に載せた図です。

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この後、まずやらねばならないのは、正確なデータの集積です。


報文には、台北、那覇、名瀬、鹿児島…から始まって、帯広、根室、大泊、釜山、仁川、大連に至るまで、当時、日本の版図だった内外56か所の観測拠点のデータが集約されて、一覧表になっています。(肝心の東京や横浜のデータが欠けているのが、被害の大きさを感じさせます。)

明治~大正の60年間弱で、とにもかくにも、これだけの観測網を築いた…というのはすごいことです。

表には地震の相(phase、地震の波形分類)と、到達時刻(世界標準時)が書かれており、相についてはP、L、Mというのが書かれています。

地震といえば、P波とS波を連想しますが、表中のPはP波に同じもの。いっぽうS波は、P波とともに「前走波」に分類されるので、ここでは特に区別されていないのでしょう。そして、L波「主要動の長波」M波「主要動の極大動」を意味します。「カタカタカタ…」の前走波に続く、「ガタガタガタ」「グラグラグラ」の部分です。

(下関や大分のようにP波とS波を、分けて読み取っている地点もあります)

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これらのデータを集約して、1枚の図にすると、震源と第一波の進行状況が、明瞭に浮かび上がります。


黒い矢印は、各地点における地面の初動方向、赤い曲線は、地震波が到達した等時線、そして各地のデータに基づく推定震源域のライン(黒線)が最も濃密に交わる相模湾こそ、真の震源であることを、結果は示しています。
この海底で発生した地震波は、片や北東へ、片や南西へと進み、2分あまりで列島全体に到達したのでした。


こちらは、全国の震度分布図
I(無感覚)~V(烈震)の5段階で表示されています。伊豆半島までがすっぽり最大のV、さらにⅣの範囲が広く名古屋、福井まで伸びているのが目を引きます。

なお、この5段階法ですが、和達清夫の『地震学』(昭和4、1929)では、我が国独自の「気象台震度」として、「0(無感覚)、Ⅰ(微震)…Ⅴ(強震)、Ⅵ(烈震)」の7段階法を挙げており、当時はまだ震度階級が浮動的かつ暫定的だったように思います。

ちなみに地震そのものの大きさをエネルギー量で示す「マグニチュード」の考え方は、1935年にチャールズ・リヒターという人が考案したそうで、こちらも当時はまだ未確立でした。

(記事が長くなるので、ここで記事を割ります。次回につづく)

海洋気象台、地震に立ち向かう2017年09月01日 16時29分38秒

大正12年(1923)9月1日、午前11時58分。
94年前の今日、相模湾を震源とする巨大地震の発生で、東京と横浜を中心に甚大な被害が出ました。いわゆる関東大震災です。

あの地震を経験したのは、私の身内でいうと祖父と曾祖父の世代の人たちで、私は幼いころに祖父から、「あのときはまるでコンニャクの上を歩いているようだった」と、事あるごとに聞かされたため、今でもコンニャクを見ると地震を連想します。

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ときに、地震を科学する立場の中央気象台(現・気象庁)は、その瞬間どんな有り様だったか?当時その場で執務していた、地震学者・中村左衛門太郎(1891-1974)の証言があります。

(震災後の中央気象台。ウィキメディアコモンズより)

■『関東大震災調査報告 地震篇1』
 中央気象台編、大正13年(1924)発行
 国会図書館デジタルコレクション所収 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/984966

彼は当日、皇居の東側にあった中央気象台本館の階上にいました。
最初、南北方向の急激な振動が数秒続き、北向きに並べた戸棚が転倒。中村はあまりの揺れに歩くこともままならず、机に両手をついて立っているのがやっとでした。そして、いったん揺れが収まったものの、直後に東西方向の激しい揺れが襲ってきて、東向きの戸棚も次々に転倒。

この間、中村は外の様子を確認しようと窓に目をやりましたが、とにかく自分の身を守ることに精一杯で、「僅かに神保町附近に砂塵の立昇るを目撃したるに過ぎず、錦町河岸附近には目立ちたる家屋の倒壊するを見ざりき」。

たしかに揺れは凄かったのですが、窓外の町並は意外に持ちこたえていました。
中央気象台においても、「本館其他主要庁舎並に附属庁舎の被害は極めて軽微」でした。しかし、この震災の恐ろしさは、周知のごとくその後に続いた大火災で、「斯くの如く地震に因る被害は比較的軽微なりしが 次いで起れる火災にかゝりて 大部分焼失の悲運に陥りたるなり」…という結果になったのです。

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貴重な測器類も被害甚大でした。

当時の中央気象台あった、大森式微動計、普通地震計、ウィーヘルト地震計はいずも重錘の落下や転倒により大破。中村式簡単微動計や、最新式のガリッチン地震計は、大破を免れたものの、「何れも今回の地震に依って破損せられ 一時観測を中止するの止むを得ざるに至」ったのでした。

こうした状況の下、震災直後の東京で、中央気象台員たちがどんな苦労を重ね、地震のデータ解析に取り組んだかは、上の報告書に記載がないので分かりませんが、当然のことながら、かなり右往左往したことでしょう。

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そんな中、頼もしい助っ人が、地震発生直後から活動を始めていました。
震災の3年前、大正9年(1920)に業務を開始したばかりの神戸海洋気象台」(現・神戸地方気象台)の台員たちです。

(9月1日、午前11時59分27秒、東京に遅れること41秒後に神戸で感知した地震動。Wiechert地震計が記録した南北・東西方向の揺れは、神戸でもあっさりスケールアウトしており、その揺れの大きさを物語っています。)

神戸のスタッフは、全国の気象台・測候所の観測データを整約し、地震の全貌を明らかにするとともに、須田皖次(すだ かんじ、1892-1976)ほか2名の台員が現地入りして、地震の影響を実地に確認しました。

9月10日に沼津入りした彼らは、以後10月12日までのほぼ1ヶ月にわたって、御殿場、三島、熱海、小田原、箱根、厚木、藤沢、鎌倉、横浜、東京、大宮、熊谷、千葉、木更津、館山、鴨川、銚子…と、静岡、神奈川、東京、埼玉、千葉の各所を踏査しましたが、鉄道が寸断されていたため、その行程の多くは徒歩でした。未曽有の惨事を前に、いつも以上に奮い立った面はあるにせよ、その研究者としての熱意と執念に打たれます。


その須田が、震災の翌年、海洋気象台報として英文でまとめた論文が手元にあるので、その中身を少し見てみます。


(この項つづく)


八月尽2017年08月31日 18時03分40秒

八月尽(はちがつじん)。

8月の終わりを示す俳句の季語です。私がよく引く山本健吉氏(編)の歳時記には、「弥生尽、九月尽などに準じて、近ごろ詠まれることが多い。暑中休暇や避暑期が終るので、この語に特別の感慨があるのである」と解説されています。

まさに「特別の感慨」でこの日を迎えた少年少女も多いでしょう。
私も子供の頃の特別の感慨が、鮮やかに甦ります。

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山本氏は「八月尽」の例句として、以下の句を挙げています。

  八月尽の赤い夕日と白い月  中村草田男

8月最後の一日がまさに暮れようとするとき、作者の目に映った光景は、鮮やかな朱の太陽と、白光をまとった月でした。

ありふれた光景といえば、たしかにそのとおりです。
でも、ひとつの季節の区切りに際して、その至極ありふれた光景が、何か常以上の意味を持って作者の胸に迫ったのでしょう。

そして、その光景がありふれているのは、天体が常に変わらず空をめぐっているからに他ならず、ふと立ち止まって考えれば、そんな風に過去から未来にわたって、天体が永劫ぐるぐる空を回り続けているのは、やっぱり不思議なことです。

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何だか要領を得ませんが、この世界は不思議に満ちており、旅を続けるに値する場所だと、自分はおそらく言いたいのです。「あの赤い夕陽と白い月を見るだけでも、それは分かるじゃないか」と、見も知らぬ人に説いて回りたいのです。

毎年、9月1日に命を絶つ若者が、その前後に比べて有意に多いと聞き、そんなことを思いました。

科学の真骨頂2017年08月29日 22時11分36秒

昨日のスライドと一緒に並んでいたスライドをついでに載せます。
動物を写した古いレントゲン写真という、ちょっと変わった題材の品です。


種名は不明ですが、それぞれサンショウウオとヘビの一種。


手書きのラベルには、「フレデリック・ヨークによる歴史的写真。X線を用いた放射線写真」と書かれています。(反対側の面に貼られたオリジナル・ラベルには、「Radiographs by X-ray」と印刷されています)。

ここに出てくるフレデリック・ヨーク(Frederick York、1823-1903)というのは、息子とともにロンドンで写真販売会社を興し、19世紀後半から20世紀初めにかけて、大いに繁盛させた人物です。

彼はロンドン名所や、ロンドン動物園で暮らす動物の姿などをカメラに収め、それをキャビネ版や、大判写真、あるいはステレオ写真の形で売りさばきました。さらに、それらにまして売れたのが、写真を元にした幻灯スライドです。

1890年以降のヨーク社のスライドには、「Y字に蛇」のマークがあしらわれ、今回取り上げた2枚のスライドにも、やっぱりそのシールが貼られています。(余談ですが、以前登場した、美しい望遠鏡のスライド↓に貼られた「Cobra Series」のシールも、ヨーク社の製品であることを示すものでした。)


X線の発見は1895年。その後、X線撮影装置が開発されたのは1898年。
したがって、今回の写真も、それ以降のものということになります。
ヨーク社が、自前でX線撮影装置まで持っていたのか、あるいは装置は他所で借りたのかは不明ですが、撮影自体は、きっとヨーク社が行ったのでしょう。

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サンショウウオ(両生類)とトカゲ(爬虫類)は、一寸シルエットが似ています。
でも、その骨格はずいぶん違います。前者には、肋骨で籠状に覆われた「胸郭」が存在せず、その形状は魚の骨と大差ありません。これは、両生類では胸郭を用いた肺呼吸が未発達なことと関連している由。

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それにしても、こうした写真が、当時の人に与えた衝撃はどれほどのものであったか。
人びとは、まさに新時代の魔法を見る思いだったでしょう。




この発見が、当時既に盛んだった心霊ブームに新ネタを提供し、日本でも明治の末頃、学者たちを巻き込んで、透視・千里眼・念写の実験が盛んに行なわれました(当時の学者たちは、現象の背後に「京大光線」「精神線」といった仮想光線を想定しました)。ホラー小説『リング』の元ネタとなったのもそれです。

更にその後、X線はいっとき「科学おもちゃ」のような扱いを受けた…というのは、以下で触れました。

■怪光線現る…理科室のX線


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【参考】

フレデリック・ヨークと彼の商売については、以下のページを参照しました。

■The Magic Lantern Society>The Lantern Alphabet>York and Son の項

■Historic Camera>History Librarium>Frederick York, Photographer の項

星座神話のかけら2017年08月28日 07時06分19秒

一昨日の記事を書いた際、下の幻灯スライドのことを連想しました。


これは「ギリシャ時代のコインに見られる星座の姿」を写したもので、製作者は幻灯メーカーのニュートン社(ロンドン)。


キャプションを見ると、元はイギリスの科学雑誌『ナレッジ Knowledge』(1881~1918)に掲載された図です(同誌は1885年に週刊から月刊になり、巻号表示が変更されたため、以後「New series」と称する由)。

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これが一昨日のモザイク画とどう結びつくかと云えば、ギリシャ・ローマの天文知識を、生の形で(つまり後世のフィルターを通さずに)知る方法はないか?…という問題意識において、共通するものがあるからです。

我々は空を見上げて、ギリシャ由来の星座神話を気軽に語りますが、星座絵でおなじみの彼らの姿は、本当にギリシャ人たちが思い描いた姿と同じものなのか?

まあ、この点は有名な「ファルネーゼのアトラス像」なんかを見れば、少なくともローマ時代には、今の星座絵と同様のイメージが出来上がっていたことは確かで、それをギリシャまで遡らせても、そう大きな間違いではないのでしょう。

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とはいえ、何かもっと生々しい、リアルな資料はないか…?
そこで、コインの出番となるのです。


その表面に浮き出ているのは、星座絵そのものではないにしろ、確かに昔のギリシャの人が思い描いたペガサスであり、ヘラクレスであり、牡牛や牡羊などの姿です。

しかも、その気になれば、それらは現代の貨幣と交換することだってできるのです。
古代ギリシャの遺物を手にするのは、なかなか容易なことではないでしょうが、コインは例外です。絶対量が多いですから、マーケットには今も当時の古銭がたくさん流通しています。

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天文を中心に、『理科趣味』の雅致を、モノにこだわって嘆賞するサイト」の管理人であるところの私が、大昔の星座神話の欠片に惹かれるのは自然です。実際、購入する寸前までいきました。

でも、ここで「待てよ…」という内なる声が聞こえたのは、我ながら感心。
考えてみると、コインというのは、「なんでも鑑定団」でも、それ専門の鑑定士が登場するぐらい特殊な世界ですから、やみくもに突進するのは危険です。

たとえば下のサイトを見ると、粗悪なものから精巧なものまで、贋物コインの実例が山のように紹介されています。

■Calgary Coin: Types of Fake Ancient Coins

これを見ると、世の中に本物の古銭はないような気すらしてきます。実際には、やっぱり本物だって多いのでしょうが、いずれにしても、ここは少し慎重にいくことにします。(上のページの筆者、Robert Kokotailo氏も、「市場に流通しているコインの多くは本物だ。初心者にとって大事なのは、何よりも信頼のおける確かな業者を選ぶことだ」と述べています。至極常識的なアドバイスですが、これこそ古今変らぬゴールデンルールなのでしょう)。