パリ天文台、再び華やぐ。2022年09月27日 06時57分55秒

1874年からさらに下って1935年
暦が1回まわって、当時生まれた赤ん坊も、すでに61歳です。
この年の7月10日、パリ天文台で、またも華やかなパーティーが開かれました。


こちらは「イリュストラシオン」誌の1ページ。
天文台から漏れる明かりに照らされて、夜の庭園でくつろぐ男女の姿が、いかにも大人の雰囲気を漂わせています。

とはいえ、パリ天文台はしょっちゅうパーティーを催していたわけではありません。当然のことながら、普段は天体観測の本業に忙しく、そこで人々が笑いさざめくのは例外的な出来事です。

「宵っ張りのパリジャンにとって、天文台は気づまりな場所だ。暗闇の中をこそこそ人影が出入りし、その厳かな巨体から時折漏れる灯りは、いかにも謎めいた雰囲気を漂わせている。そこで働く科学者自身すら、自分たちが何やら孤独な、魔術めいた仕事に従事しているものと考えている。だがそうした光景は、7月10日に一変した。」

――適当訳ですが、記事はそんな書き出して始まっています。

この日何があったかといえば、国際天文学連合(IAU)の総会がパリで開かれ、その歓迎宴が、ここパリ天文台で開かれたのでした。1919年に設立されたIAUは、1922年のローマ総会を皮切りに、3年に1回のペースで総会を開き、このパリ総会が第5回です。


普段は天体観測の妨げになるためご法度の照明も、この日ばかりはフル点灯で、さらに建物自体もライトアップされているようです。

「優雅な夏の宵、天文台の庭前では、主催者が願った通り、まことに魅力に富んだ『炎の夕べ(nuit de Feu)』が繰り広げられた。天文学者はこの地上では生きられないなんて、いったい誰が言ったのか?」

…と、記事の筆者は書き継ぎます。いささか浮世離れしたイメージのある天文学者たちが、見事に「浮世の宴」を楽しんでいることに、驚きの目を向けているわけです。

それにしても、前回の記事と見比べると、男の人の姿はあんまり変わらないんですが、女性の姿は驚くほど変わりました。

(1874年の夜会風景。前回の記事参照)

かつて一世を風靡したバッスル・スタイル(スカートが大きく後ろに張り出したファッション)はとうに影も形もなくて、夜会に集う女性たちは、みんなゆったりしたイブニングドレスを身にまとっています。


前回の記事とちょっと違うのは、今回のパーティーに集っているのが一般の紳士淑女ではなく、天文学者(とその家族)限定ということですが、皆なかなか堂に入った伊達者ぞろいです。ただ、下の集合写真を見ると、やっぱり画工が相当下駄をはかせているんじゃないかなあ…という疑念もあります。

■IAU General Assembly 1935

まあ、いずれにしてもここに集った学者たちにとって重要なのは、夜会よりも学問的討議そのものなわけで、その内容については以下にレポートされています。

■The International Astronomical Union meeting in Paris, 1935
 「The Observatory」、1935年9月号所収

この年のIAU総会では、アーサー・エディントンや、チャンドラセカールらによる、恒星の構造と進化に関する、当時最先端の議論があった一方で、「世界標準時」の呼称問題のような、どちらかといえば些末な問題が熱心に話し合われたようです(イギリスが推す「グリニッジ平均時(G.M.T.)」ではなく、「世界時(U.T.)」を使うべし、とかそういった議論です)。

   ★

ちなみに上の記事の裏面は、月の地球照に関する記事になっていて、フラマリオン天文台が撮影した月の写真が大きく掲載されていました。素敵な偶合です。


ハーシェル展 続報2022年09月18日 19時09分25秒

名古屋市科学館の「ウィリアム・ハーシェル没後200年記念展」が昨日から始まりました。

科学館公式ページ:ウィリアム・ハーシェル没後200年記念展
それにしても、亡くなってから200年経っても、こうして記念展が開かれるってすごいことですよね。存命中は盛名隠れなき人でも、死後はまったく忘れ去られてしまい、「え、○○って誰?」となってしまう人の方が圧倒的に多いことを思えば、200年後に、しかも遠い異国の地で追悼されるというのは、彼が偉人なればこそです。

会期の方は10月20日(木)までありますので、興味を覚えた方は、ぜひ会場に足をお運びいただければと思います。

   ★

名古屋市科学館は、地元の人にはなじみだと思いますが、その天文館の5階が展覧会の会場です。


フロアには、引退したツァイスIV型機がそびえ、


天井を見上げれば、プラネタリウムの元祖、18世紀の「エイシンガ・プラネタリウム」【LINK】のレプリカが設置され、人々の星界への憧れを表現しています。


上は今回の展示前から常設されている、ハーシェルの40フィート大望遠鏡の縮小模型。

さて、こうした星ごころあふれるフロアの一角にある特設コーナーが、今回のハーシェル展の会場です。といっても、私はオープン前日の展示設営に、日本ハーシェル協会員として立ち会っただけで、まだ実際の展覧会には行ってないのですが、その雰囲気を一寸お伝えしておきます。



まず全体のイメージは↑こんな感じです。


展示は、パネルと同時代のものを含む各種資料から成り、小規模な展示ながら、並んでいる品にはなかなか貴重なものも含まれます。


左上はハーシェルが暮らした町、イングランド西部のバースの絵地図。ここでハーシェルは売れっ子の音楽家として生計を立てながら、一方で天文学書を読みふけり、ついには自作の望遠鏡で天王星を発見し…というドラマがありました。右側に写っているのが、彼の愛読した天文書です。


ハーシェルの自筆手稿を中心とした資料群。右端で見切れているのは、ハーシェルの死を伝える故国ドイツ(ハーシェルは元々ドイツの人です)の新聞という珍しい資料。


会場でひときわ目を引く古星図。ボーデの『ウラノグラフィア』(1801)の一葉で、今は使われてない星座、「ハーシェルの望遠鏡座」が描かれています(右端、ふたご座の上)。この貴重な星図は、今回このブログを通じてtoshiさんから特別にお借りすることができました。


ハーシェルが天王星を発見する際に使った望遠鏡の1/2スケールモデル。サンシャインプラネタリウム(現:コニカミノルタプラネタリウム)の元館長、藤井常義氏が手ずから作られたものと知れば、一層興味を持って眺めることができるでしょう。

以下、その説明は現地でご確認いただければと思いますが、こうしたモノたちを前にして、会場に流れるハーシェルのオルガン曲に耳を傾ければ、職業音楽家から大天文家へと転身したその劇的な生涯がしのばれ、彼によって代表される200年前の星ごころが、身にしみて感じられる気がします。




ハーシェル去って200年・改2022年09月02日 17時24分58秒


(画像再掲。元記事はこちら

4月にも同じ話題で記事を書きましたが、会期等が決定したので、改めてのご案内です。(以下、日本ハーシェル協会のサイトより全文引用します。)

----------------- 引用ここから -----------------

ウィリアム・ハーシェル(1738-1822)が没してから、今年でちょうど200年になります。イギリスを中心に、各地で関連イベントも盛んに行われていることから、日本ハーシェル協会も、この節目を祝うイベントを、下記により開催する運びとなりました。

■名称 ウィリアム・ハーシェル没後200年記念展
■会場 名古屋市科学館
      (〒460-0008 愛知県名古屋市中区栄2丁目17-1白川公園内)
■会期 2022年9月17日(土)~10月20日(木)
      月曜休館(9月19日、10月10日は開館、翌火曜日休館)
       9:30~17:00(入場は16:30まで)
■主催 名古屋市科学館 (協力:日本ハーシェル協会)
■内容 同時代の品を含む各種の資料とパネルでハーシェルの略歴と業績を
      紹介し、併せて日本人とハーシェルとの関りについても説明します。

今回、展示される品は、

 ・天王星発見や銀河の構造論に関するウィリアムの論文
 ・ウィリアムの自筆手稿
 ・「ハーシェルの望遠鏡座」を描いた古星図類
 ・ウィリアム作曲の音楽楽譜(複製)
 ・ウィリアムを天文学の世界に導いた天文学書

…等々に加え、「7フィート望遠鏡の金属鏡レプリカ(大金要次郎氏作)」、「同望遠鏡の2分の1模型 (藤井常義氏作)」、「カロラインを描いた七宝絵皿(飯沢能布子氏作)」等、会員諸氏による研究の成果も含まれます。

会場の名古屋市科学館は、東西からのアクセスに便利なロケーションにあり、また世界最大級のプラネタリウムを擁する科学館です。ぜひ皆様お誘いあわせの上、ご参観ください。

(巨大なプラネタリウムを誇る名古屋市科学館。出典:wikipedia)

----------------- 引用ここまで -----------------

ちょっと煽り気味の文章ですが、より客観的に叙述すれば、天文フロアの一角に「ハーシェル・コーナー」を設けるだけの、わりとこじんまりとした展示なので、「大ハーシェル展」みたいなものを想像されると、ちょっと肩透かしを食らうかもしれません。それでも一人の天文学者に光を当てたテーマ展は珍しいと思うので、関心のある方はぜひご覧いただきますよう、私からもお願いいたします。

ハーシェル去って200年2022年04月16日 07時52分04秒

天王星の発見者として有名なウィリアム・ハーシェル卿(1738-1822)

でも、天王星の発見はハーシェルの業績のほんの一部で、彼自身あまりそれを高く評価していませんでした。それよりも、赤外線を発見したこと、思弁ではなく実観測によって「宇宙の構造」――現代の目から見れば「銀河系の形状」――を決定しようとしたこと、星雲や星団の膨大な目録作りに挑戦したこと…etc.、時代を画する研究を、彼は次々と行い、世に問いました。

そして、彼はもともとプロの音楽家・作曲家でもあったのです。
彼は実に唖然とするほど多才でエネルギッシュな人でした。

(ハーシェルの肖像画額。背景が一寸ハーシェルに申し訳ないです)

そのハーシェルが世を去って、今年でちょうど200年になります。
現在、その記念行事が世界各地で行われていますが、日本でも日本ハーシェル協会が中心となって、記念展の開催が予定されています。

■「(仮)ウィリアム・ハーシェル没後200年記念展」について
開催は今秋、場所は名古屋。
天文学史を回顧し、偉大な「天界の冒険者」を偲ぶ催しです。
皆様お誘いあわせの上、ぜひご参観いただければと思います。
(詳細な日程等は、決定後に改めてお知らせします。)

なお、私も協会員として企画に関わっている関係で、準備作業のためにブログの方はしばらく記事が間遠になります。

彗星と飛行機と幻の祖国と2021年11月15日 21時28分05秒

…という題名の本を目にして、「あ、タルホ」と思いました。
でもそれは勘違いで、この本は稲垣足穂とは関係のない或る人物の伝記でした。
その人物とは、ミラン・ラスチスラウ・シチェファーニク(1880-1919)


■ヤーン・ユリーチェク(著)、長與 進(訳)
 彗星と飛行機と幻の祖国と―ミラン・ラスチスラウ・シチェファーニクの生涯
 成文社、2015. 334頁

334頁とかなり束(つか)のある本ですが、本文は265頁で、あとの70頁は訳者あとがきと詳細な註と索引が占めています。

本の帯に書かれた文句は、

「天文学者として世界中を訪れ 第一次大戦時には勇敢なパイロット
そして、献身的にチェコスロヴァキア建国運動に携わった、
スロヴァキアの「ナショナル・ヒーロー」の生涯」。

シチェファーニクのことは、5年前にも一度取り上げたことがあります。
過去の記事では「シュテファーニク」と書きましたが、上掲書に従い以下「シチェファーニク」と呼びます。

飛行機乗りと天文台

(シチェファーニクの肖像。上記記事で引用した画像の再掲)

天文学者で、飛行機乗りで、チェコスロヴァキア独立運動を率いた国民的ヒーローで…と聞くと、何だかスーパーマン的な人を想像します。たしかに彼は、才能と情熱に満ち、人間的魅力に富んだ人でしたが、詳細な伝記を読むと、彼が単なる冒険活劇の主人公ではなく、もっと陰影に富む人物だったことがよくわかります。

たとえば、彼はその肖像から想像されるような、鋼の肉体を持った人ではなくて、むしろ病弱な人でした。彼は重い胃潰瘍を患っており、それを押して研究活動と祖国独立運動にのめり込んでいたので、晩年はほとんどフラフラの状態でした。

(シチェファーニクの足跡・ヨーロッパ編)

(同・世界編)

本書の巻頭には折り込み地図が付いていて、シチェファーニクの生涯にわたる足跡が朱線で書かれています。その多くは独立運動のために東奔西走した跡であり、また少なからぬ部分が観測遠征の旅の跡です。病弱だったにもかかわらず、彼は実によく動きました。肉体はともかく、その精神はたしかに鋼でした。

彼は死の前年、1918年には日本にも来て、4週間滞在しています。そればかりでなく、原敬首相を始めとする時の要人に会い、大正天皇にも謁見しています。日本のシベリア出兵を促すためです。

シチェファーニクの独立へのシナリオは、第1次大戦で英・仏・露の「三国協商」に肩入れして、チェコ人とスロヴァキア人を支配してきたドイツとオーストリアを打ち破り、列国によるチェコスロヴァキアの独立承認を勝ち取ることでした。

ただし、ロシアでは革命で帝政が倒れた後、左派のボリシェビキと右派諸勢力の抗争が勃発し、在露同胞により組織されたチェコスロヴァキア国民軍とボリシェビキが対立する事態となったため、ボリシェビキを牽制するために、日本の力を借りる必要がある…と、シチェファーニクは判断したわけです。(そのため第二次大戦後、チェコスロヴァキアがソ連の衛星国だった時代には、シチェファーニクについて語ることがタブー視された時期があります。)

当時の複雑怪奇な欧州情勢の中で、シチェファーニクの情熱と言葉がいかに人々の心を動かしたか、その人間ドラマと政治ドラマが本書の肝です。そして、もちろん天文学への貢献についても十分紙幅を割いています。

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1919年5月4日、彼が乗ったカプローニ450型機はイタリアを飛び立ち、故国スロヴァキアに着地する寸前で墜落し、彼は劇的な最期を遂げました。「カプローニ機は整備不良で事故が心配だから、鉄道で帰国してはどうか」と周囲はいさめたのですが、「自分はオーストリアの土地を踏みたくない」という理由で、強引に搭乗した末の悲劇でした。

(墜落事故の現場。本書より)

そして彼の遺骸から発見された、愛する女性への手紙を引用して本書は終わっています。

   ★

最後に蛇足ですが、チェコスロヴァキア建国運動の歴史的背景を、簡単に述べておきます(私もよく分かっていませんでした)。

チェコ人もスロヴァキア人も同じスラブ系の民族であり、チェコ語とスロヴァキア語は互いに方言程度の違いしかないそうですが、両民族のたどった歴史はだいぶ違います。すなわち、ドイツ人を支配層に戴きながらも、ボヘミア王国として独立の地位を長く保ち、近世になってからハプスブルク家の統治下に入ったチェコに対して、スロヴァキアは11世紀以降マジャール人(ハンガリー王国)にずっと支配されたまま、自らの国家を持ちませんでした。

それが19世紀になると、民族意識の高揚により、チェコ人とスロヴァキア人の同胞意識が芽生え、ドイツへの対抗意識が生まれ、オーストリア=ハンガリー二重帝国からの独立運動が熱を帯び、ついには「チェコスロヴァキア」という新たなスラブ国家創設へと結びついたのです。

その中心にいたのがシチェファーニクであり、彼はほとんど徒手空拳で中欧の歴史を書き換えた傑物です。

季節外れの七夕のはなし(おまけ)2021年11月07日 11時49分34秒

現代日本の七夕のありようは、江戸時代のそれとは違うし、江戸時代のそれは室町時代のそれとも違います。

同様に七夕の本場・中国でも、やっぱり内的変化はあって、現代の中国で標準的に受容されている七夕説話の背後にも、各時代を通じて施された彫琢がいろいろあることでしょう。いずれにしても、日本の我々が親しんでいる七夕説話とは、いろいろ違う点が生じており、その違いが面白いと思ったので、内容を一瞥しておきます。

   ★

中国で2010年に発行された「民間伝説―牛郎織女」という4枚セットの記念切手があります。


4枚というのは、七夕伝説を起承転結にまとめたのでしょう。ストーリーの全体は、チャイナネットの「牽牛織女の物語」【LINK】に詳しいので、そちらを参照してください。


まず1枚目。タイトルは「盗衣結縁」
設定として、牽牛(牛郎)は元から天界の住人だったのではありません。元は貧しい普通の男性で、相棒の老牛とつましく暮らしていました。一方、織女は天帝の娘、天女です。その二人が結ばれた理由は、日本の羽衣伝説と同じです。中国版が日本と少しく異なるのは、老牛の扱いの大きさで、「天女と結婚したいなら、天衣を奪え」と教えたのも老牛だし、話の後半でもヒーロー的な活躍をしますが、七夕説話が牽牛と老牛の一種の「バディもの」になっているのが面白い点です。

2枚目は「男耕女織」
日本の説話だと、結婚した二人が互いの職分を忘れてデレデレしていたため、天の神様が怒って、二人を銀河の東と西に別居させたことになっていますが、中国版だとふたりは結婚後もまじめに仕事に励み、子宝にも恵まれて幸せに暮らしていました。まずはメデタシメデタシ。


3枚目は「担子追妻」
しかし、その幸せも長くは続きません。自分の娘が地上の男と結ばれたのを知って怒った天帝が、西王母を地上につかわし、娘を糾問するため天界に召喚したからです。妻との仲を裂かれて嘆き悲しむ牽牛に、老牛が告げます。「自分の角を折って船とし、あとを追いかけよ」と。言われるまま、牽牛は牛の角の船に乗り、愛児を天秤棒で担いで、天界へと妻を追いかけます。しかし、あと一息というところで、西王母が金のかんざしをサッと一振りすると、そこに荒れ狂う銀河が現れて、二人の間を再び隔ててしまいます。

4枚目、「鵲橋相会」
銀河のほとりで二人は嘆き悲しみますが、その愛情が変わることはありません。それに感動した鳳凰は、無数のカササギを呼び集めて銀河に橋をかけ、二人の再会を手助けします。それを見た西王母も、7月7日の一晩だけは、ふたりが会うことを認めざるを得ませんでしたとさ。とっぴんぱらりのぷう。

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この話にしても、地上に残された老牛はどうなったのか、牛がいなければもはや「牽牛」とは言えないんじゃないか?とか、天帝のお裁きは結局どうなったのか、夫婦はそれで良いとしても、母子関係はどうなるのか?とか、いろいろ疑問が浮かびます。

説話というのは、そういう疑問や矛盾に答えるために細部が付加され、それがまた新たな疑問や矛盾を生み…ということを繰り返して発展していくのでしょう。

繰り返しになりますが、これが中国古来の一貫して変わらぬ七夕伝承というわけではありません。絶えず変化を続ける説話を、たまたま「今」という時点で切り取ったら、こういう姿になったということで、その点は日本も同じです。

フラマリオンの部屋を訪ねる(後編)2021年10月16日 17時24分57秒

フラマリオンの観測所にして居館でもあったジュヴィシー天文台は、これまで何度か古絵葉書を頼りに訪ねたことがあります。まあ、そんな回りくどいことをしなくても、グーグルマップに「カミーユ・フラマリオン天文台」と入力しさえすれば、その様子をただちに眺めることもできるんですが、そこにはフラマリオンの体温と時代の空気感が欠けています。絵葉書の良さはそこですね。


館に灯が入る頃、ジュヴィシーは最もジュヴィシーらしい表情を見せます。
フラマリオンはここで毎日「星の夜会」を繰り広げました。


少女がたたずむ昼間のジュヴィシー。人も建物も静かに眠っているように見えます。

(同上)

そして屋上にそびえるドームで星を見つめる‘城主’フラマリオン。
フラマリオンが、1730年に建ったこの屋敷を譲られて入居したのは1883年、41歳のときです。彼はそれを天文台に改装して、1925年に83歳で亡くなるまで、ここで執筆と研究を続けました。上の写真はまだ黒髪の壮年期の姿です。


門をくぐり、庭の方から眺めたジュヴィシー。
外向きのいかつい表情とは対照的な、穏やかな面持ちです。木々が葉を落とす季節でも、庭の温室では花が咲き、果実が実ったことでしょう。フラマリオンは天文学と並行して農業も研究していたので、庭はそのための場でもありました。

   ★

今日はさらに館の奥深く、フラマリオンの書斎に入ってみます。


この絵葉書は、いかにも1910年前後の石版絵葉書に見えますが、後に作られた復刻絵葉書です(そのためルーペで拡大すると網点が見えます)。


おそらく1956年にフラマリオンの記念切手が発行された際、そのマキシムカード【参考リンク】として制作されたのでしょう。


葉書の裏面。ここにもフラマリオンの横顔をかたどった記念の消印が押されています。パリ南郊、ジュヴィシーの町は「ジュヴィシー=シュロルジュ」が正式名称で、消印の局名もそのようになっています。
(さっきからジュヴィシー、ジュヴィシーと連呼していますが、天文台の正式名称は「カミーユ・フラマリオン天文台」で、ジュヴィシーはそれが立つ町の名です。)


書斎で過ごすフラマリオン夫妻。
夫であるフラマリオンはすっかり白髪となった晩年の姿です。フラマリオンは生涯に2度結婚しており、最初の妻シルヴィー(Sylvie Petiaux-Hugo Flammarion、1836-1919)と死別した後、天文学者としてジュヴィシーで働いていた才女、ガブリエル(Gabrielle Renaudot Flammarion、1877-1962)と再婚しました。上の写真に写っているのはガブリエルです。前妻シルヴィーは6歳年上の姉さん女房でしたが、新妻は一転して35歳年下です。男女の機微は傍からは窺い知れませんけれど、おそらく両者の間には男女の愛にとどまらない、人間的思慕の情と学問的友愛があったと想像します。


あのフラマリオンの書斎ですから、もっと天文天文しているかと思いきや、こうして眺めると、意外に普通の書斎ですね。できれば書棚に並ぶ本の背表紙を、1冊1冊眺めたいところですが、この写真では無理のようです。フラマリオンは関心の幅が広い人でしたから、きっと天文学書以外にも、いろいろな本が並んでいたことでしょう。


暖炉の上に置かれた鏡に映った景色。この部屋は四方を本で囲まれているようです。


雑然と積まれた紙束は、新聞、雑誌、論文抜き刷りの類でしょうか。

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こういう環境で営まれた天文家の生活が、かつて確かに存在しました。
生活と趣味が混然となったライフタイル、そしてそれを思いのままに展開できる物理的・経済的環境はうらやましい限りです。フラマリオンは天文学の普及と組織のオーガナイズに才を発揮しましたが、客観的に見て天文学の進展に何か重要な貢献をしたかといえば疑問です。それでも彼の人生は並外れて幸福なものだったと思います。

なお、このフラマリオンの夢の城は、夫人のガブリエルが1962年に亡くなった際、彼女の遺志によってフランス天文学協会に遺贈され、現在は同協会の所有となっています。

コメント欄に冴える包丁技2021年10月09日 14時36分00秒

ブログのコメント欄というのは、一般に和やかな交流の場だと思いますが、「天文古玩」の場合はそれに加えて、記事の内容を実質的に補うものとして、ときとして記事本編より内容が濃くなることがあります。ひとえにコメントを寄せられた方のお力によるもので、ありがたく思います。

私自身が書くものは、ネットの生け簀ですくった情報をそのまま皿に盛った「シッタカ鰤の俄か仕込み」で、本来であれば人様にお出しできるような代物ではありません。一方、世の中には真に知識と見識にすぐれた方がいて、そういう方のお話に接すると、本当の板前仕事とはこういうものかと、思わず背筋が伸びます。


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昨日、Haさんとtoshiさんから頂いたコメントも、まさにそうした思いを抱かせるものでした。この場を借りて重ねてお礼を申し上げます。

Haさんからのコメントは、10月4日付の記事で採り上げた、日本天文学会(編)『新撰恒星図』に関連して、明治から昭和にかけての星座和名の変遷と、その陰にあった人間臭いドラマを詳細に述べられたものです。

一方toshiさんのコメントでは、10月8日に登場した『日本中心 表半球図』について、この「日本中心」「表半球」という特異な用語のルーツをご教示いただきました。

こういう貴重な情報がコメント欄に埋没してしまうのは良くないと思い、記事として挙げておきます。

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「それにしても…」と、冒頭の感慨に戻りますが、何事も先達はあらまほしく、常に師友は求むるべく、そして師父は仰ぐべきものです。

虚空の花…かに星雲2021年09月25日 13時57分20秒


(パロマーの巨人望遠鏡が捉えた、今ではちょっと懐かしい「かに星雲」のイメージ。

メシエ目録の栄えある1番、M1星雲である「かに星雲」。
「かに星雲」といえば『明月記』…そう刷り込まれていたので、私はずいぶん長いこと『明月記』の作者、藤原定家(1162-1241)が超新星爆発を夜空に見て、それを自分の日記に記したのだと思っていました。

もちろんそれは間違いで、「かに星雲」の元となった超新星の出現は1054年のことですから、定家とは時代が全然ちがいます。定家はたしかに空に新天体を見ましたが、彼が見たのは彗星で、それを日記に書く際、参考として約180年前の古記録を併せて記したのでした(1230年のことです)。

しかも以下の論考によると、『明月記』の該当箇所は定家の自筆ではなくて、「客星」(普段の空には見られない星)について、陰陽寮の安倍泰俊(晴明七代の裔)に問い合わせた折に、先方から受け取った返書を、そのまま日記に綴じ込んだものらしく、そうなると定家と「かに星雲」の関係は、さらに間接的なものということになります。

■白井 正 氏(京都学園大学)
 京都の天文学(4) 藤原定家は、なぜ超新星の記録を残したか
 星空ネットワーク会報「あすとろん」第5号(2009年1月1日)

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1054年は和暦でいうと天喜2年で、後冷泉天皇の御宇にあたります。
この帝の乳母をつとめたのが、紫式部の娘、大弐三位(だいにのさんみ)だと聞けば、いかにも平安の代にふさわしい、「王朝」の薫香をそこに感じます。
その王朝の空に光を放ち、その後千年かけて宇宙にほころんだ花、それが「かに星雲」です。

   ★

その花をガラスに閉じ込めて、好きな角度から眺められるようにした品があります。



以前、土星や銀河の模型を紹介した、イギリスのCrystal Nebulae自社サイト)の今年の新作です。現在はEtsyにもショップを出しているので、購入もいっそう簡単になりました。

(LEDステージに載せたところ)

6センチ四方のガラスキューブに、レーザーで「かに星雲」が造形されています。
3Dモデルというと、今では3Dプリンターが幅を利かせていますが、こんなフラジャイルな構造はとてもプリント不可能でしょうし(そもそも不連続で離散的な表現はできません)、透明なガラスならではの魅力というのも、やはりあるわけです。


7200光年先に浮かぶ星雲の背後に回って、その後姿を眺める…なんてことも、これなら簡単。人間、神様にはなれないしにしろ、神様の気分を味わうことはできます。


差し渡し10光年の光塊を、手のひらに載せてクルクル回す喜び。
1000年前には公卿・公達でも味わえなかった愉悦でしょう。

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7200光年先の爆発を、1000年前の人が目撃した…ということは、超新星爆発が起こったのは今から8200年前で、ようやく1000年前に、その光が地球人の目に飛び込んだわけです。そして、今我々が見ているのは、当然7200年前の星雲の姿です。

以下のサイトで、1950年から2100年までの150年間におよぶ膨張変化を、GIFアニメで見ることができます。「現在のかに星雲」、すなわち「7200年後に我々が目にするであろう、かに星雲」は、この調子でさらに大輪の花を咲かせていることでしょうね。

「ハリー・ポッターと魔法の歴史」展によせて(2)…天文学のこと2021年09月20日 09時14分40秒

昨日、部屋の中でゴキブリを見かけ、殺虫剤を噴きかけたものの、逃げられました。あれがまだ部屋の中にいるのかいないのか、死んだのか生きているのか、シュレディンガー的な状態で、ずっと落ち着きません。別にゴキブリが怖いわけではないんですが、ゴキブリは本でも標本でもかじるので、私の部屋では最大のペルソナ・ノン・グラータ、要注意人物です。ここしばらくは警戒が必要です。

   ★

ゴキブリの話がしたいわけではなくて、ハリー・ポッター展の話です。
図録を見ての感想を書きつけたいのですが、図録そのものをここに載せるのは幾分遠慮して、話の都合上、その展示構成だけ述べておくと、「天文学」の章に登場するのは以下の品々です。こういった品々で、ホグワーツでの天文学の授業を偲ぼうというわけです。

●12世紀の写本から採った「おおいぬ座」の図(※シリウス・ブラックにちなみます)
●太陽・月・地球の配置を描いた、レオナルド・ダ・ビンチの手稿(1506~8頃)
●アラビア製のアストロラーベ(1605~06)
●ケプラーが著した『ルドルフ星表』(1627)(※彼の母親は魔女として捕えられました)
●ドイツのドッペルマイヤーが作った天球儀(1728)
●愛らしい星座絵カード「ウラニアの鏡」(1834)
●ジェームズ・シモンズ作の見事な大太陽系儀(1842)

(チラシより)

この展示構成で気になるのは、「占星術」の話題がまったく出てこないことです。
この展覧会には「天文学」とは別に「占い学」の展示もあるのですが、占星術はそちらにも登場しないので、結局、占星術の話題はゼロです。天文学と占星術の歴史的関係からしても、またハリー・ポッターの世界観からしても、占星術を抜きに語るのは、ちょっと不自然な感じはあります。

(ただ、今の目から見ると占星術はいかにも魔法っぽいですが、近代以前はオーソライズされた学問体系として、むしろ公的な性格のものでしたから、怪しげな魔術師風情といっしょにしないでくれよ…と、昔の占星術師なら思ったかもしれません。)

   ★

考えてみると、ハリー・ポッターと天文学の話題は、相当微妙ですね。
魔法使いたち御用達の「ダイアゴン横丁」では、惑星の運行を表す太陽系儀(オーラリー)が、教材として昔から売られているといいます。でも、オーラリーと魔法はどう関係するのか?

(ジョセフ・ライトが描いたオーラリー実演の光景。「A Philosopher Lecturing on the Orrery」、1766頃)

上の有名な絵も、一見したところ妖しい印象を受けます。
でも実際には真逆で、ニュートンが発見した万有引力の法則によって、天体の運行が見事に説明されるようになったこと、言い換えれば世界から魔術めいたものが一掃されたことを誇っている絵です。要は18世紀の啓蒙精神を鼓吹する絵ですね。

そればかりではありません。作品中には、ハーマイオニーがハリーとロンをたしなめて、次のように言う場面があって、図録でも引用されています。

 「木星の一番大きな月はガニメデよ。カリストじゃないわ…それに、火山があるのはイオよ。シニストラ先生のおっしゃったことを聞き違えたのだと思うけれど、エウロパは氷で覆われているの。子ネズミじゃないわ…。」

…ということは、魔法学校で講じられる天文学は、ルネサンスの手前で止まっているわけでは全然なくて、むしろ惑星探査とか最新の知識に基づいて行われているらしいのです。当然、天体力学や、さらには一般の物理学も踏まえた上でのことでしょう。

さてそうなると、通常の物理法則に従わない、自分たちの魔法・魔術というものを、彼らはどのように説明・理解しているのか?

もちろん、ファンタジーにそうした理屈は不要と割り切ってもいいのですが、こういう展覧会をやるとなると、その辺の接合が少なからず難しいなあ…ということを感じました。

(これもチラシより。それと図録の一部をやっぱり載せてしまいます)