季節のたより ― 2024年11月21日 19時04分19秒
そろそろブログ本来の話題に戻ろうと思ったところで、折悪しく今シーズン最初の風邪をひきました。
昨日は一日寝床の中で過ごし、今日はとりあえず出勤しましたが、体調的にはあまり良くありません。まあ、例年のことではあるんですが、年を追うごとに、風邪をひく自分自身の方が弱体化しているので、相対的に受けるダメージは大きくなる計算で、このシーソーゲームがこの先ワンサイドゲームになると、ついには風邪をこじらせて肺炎で死亡…とかになるんでしょう。
何となく悲観的になりますが、コロナでもインフルでもない、ふつうのウイルス性の風邪だそうなので、今は自らの治癒力に望みを托し、布団にくるまるしかなく、布団の中で、「天は自ら助くる者を助く」とかなんとかブツブツ。
そんなわけで、記事の方はしばらくお休みです。
皆様もどうかご自愛のほどを。
雨は上がり、夜は明ける ― 2024年11月17日 07時03分11秒
前回の記事を受けて、さらに考えてみました。
私にとってブログを書くことは、畢竟「暇つぶし」なのです。
暇つぶしとは元々意味がないものであり、「意味がないから暇つぶしをやめよう」とはなりません。そして暇がつぶれて、しかも自分がその内容に満足できるならば、これぞ時間の使い方としては上の部であり、やっぱり書かないよりは書いた方が好いのです。
したがって、もし私がブログをやめるとしたら、そこに金銭が絡んだりして、暇つぶしにふさわしくない性質のものになったときか、他人の評価はともかく、自分自身でその内容に満足できなくなったとき、あるいは、つぶすべき暇(心身の余裕と言い換えてもいいです)が失われたときのいずれかでしょう。
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言葉を替えると、ブログを書くことは、私にとって旅のようなものです。
この先に何が待っているかは、私にも分かりません。でも、分からないからこそ続ける意味があるのです。
加藤久仁生さんのショート・アニメーション連作『或る旅人の日記』(2013)のラストで、主人公のトートフ・ロドルが心の中でつぶやいた言葉。
「夜が明けた。
心地よい朝の光を浴びながら、私は地図を広げた。
この旅は、まだ続くのだ。」
心地よい朝の光を浴びながら、私は地図を広げた。
この旅は、まだ続くのだ。」
それを噛みしめながら、私も次の一歩を踏み出すことにします。
ひとり雨聞く秋の夜すがら ― 2024年11月15日 14時57分55秒
今週は仕事に追われていました。
そして記事を書く時間がない分、ブログの来し方行く末を少し考えていました。
このブログもずいぶん長く続いていて、年が明ければ満19歳で、20周年も目前です。ブログを書くことで得たものは多いですが、それでも正直、長く続け過ぎた気もします。今となってはほとんど誰も訪ねてこない、こんなブログを続ける意味がどれほどあるのか、そう正面から自問したことはないですが、でもやっぱりそれは考える必要があります。
確かに熱心にコメントを書き込んでくださる方もいます。しかし、そういう閉ざされた会話に自足するのも、ちょっとどうなのかなあ…と思わなくもありません。それだと、ネットという公共空間に情報を挙げている意味が至極薄い気がします。
端的にいえば、ここにはすでに自己満足という以上の意味はないのです。
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しかし、じゃあそろそろ店仕舞しようか…と言い切れないのも悩ましいところで、なんとなれば、このブログは「私自身が読みたいブログ」でもあって、よそに同様のコンテンツがあればそっちをROMる手もあるのですが、それが無い以上、結局自分で書いて自分で読むという、まあ言葉は悪いですが「自涜行為」に走らざるを得ないわけです。
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こういう煩悶を抱くのは、ブログ年齢18歳という若さの故かもしれず、この先30歳とか50歳とかになれば、「あの頃は若かったなあ」と笑い飛ばせるようになるんでしょうかね。ブログ年齢50歳という先人はいないので、よくはわかりませんが、できればそうあってほしいものです。
Snore or Die. ― 2024年10月08日 18時54分54秒
文字通りの身辺雑記。
最近とみに睡眠の質が良くないので、睡眠外来で検査入院してきました。
その結果を昨日聞いてきたんですが、結果は「軽度の睡眠時無呼吸症」でした。私の場合、完全に呼吸が止まることはないものの、頻繁に低呼吸の状態になっていて、そうなるとやっぱり睡眠時無呼吸の診断がつくんだそうです。「まあこの程度なら、CPAP(シーパップ。管から陽圧をかけて気道を強制拡張する治療法)は適応外なので、とりあえずマウスピースを作って様子を見ましょう。」…というお医者さんの話。
最近、仕事が捗らないのは、もっぱら齢のせいかと思っていましたが、睡眠の問題も大きかったようです。そのことが分かっただけでも良かったし、マウスピースでグッスリ眠れるなら、これは大いに試みる価値があります。さっそく歯科への紹介状を書いてもらいました。
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とはいえ、これまで私なりに努力もしてきました。
仰向け寝が良くないと聞けば、うつぶせ寝を練習して、それはだいぶ上手になりました。でも、うつぶせ寝はやっぱり少し苦しいので、寝ている途中で自然と上向きになってしまい、抜本的な解決には至りませんでした。
考えてみると、うつぶせ寝の苦しさは、身体の前面(ないし全面)で地球の重力を感じる経験でもあります。目を閉じて、その苦しさを味わっていると、「ああ、自分はいま地球に引っ張られているんだなあ」としみじみ感じます。そして、この重力こそが、寝ている間に私の舌根をひっぱって睡眠時低呼吸を引き起こす根本因でもあります。国際宇宙ステーションで暮らす宇宙飛行士は、たぶん気道閉塞型の無呼吸とは無縁でしょう。
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私の小さな舌根が地球の重心と引き合うとき、心臓は全身の酸素不足を解消しようと絶望的に鼓動し、酸素を断たれた脳は不思議な夢を生み出すわけですが、それもこれも巨大な質量の存在によって生じた時空のゆがみが原因であり、私の命脈はこの宇宙の基本構造にがっちり握られているだなんて、本当に信じがたい事実です。
樹に挑む ― 2024年09月15日 09時55分40秒
庭にモクレン(白木蓮)の木が植わっています。
庭が広ければそのまま放っておけばいいのですが、狭い庭ではそんなわけにもいかず、ときどき剪定をするのですが、モクレンはなかなか剪りどころが難しくて、年月が経つうちに、いかにも不自然な樹形になってきました(素人にありがちなことです)。
この先、齢をとると剪定作業はいよいよ大変になるので、ここらで思い切って仕立て直しをしようと思いました。電柱のような幹を途中で胴切りにして、そこから新たに枝を分岐させようというのです。
しかし、わが家にある道具は錆びついたノコギリのみ。
モクレンとノコギリを見比べて、ややもするとひるむ心を叱咤して、勇猛心を奮い起こし、さながら「青の洞門」のごとく心のうちに経文を誦しながらギコギコやること1時間半。さしもの巨木もメリメリと音を立てて、ついに途中から倒伏したのでした。
その勢いで脚立が倒れ、私は叫び声を挙げながら虚空に投げ出されたのですが、これぞ経文の威徳、観世音菩薩の御名を聞けば、いかなる悪鬼魔神もまた害を加えんや、傷ひとつ負うことなく、地面にすっくと立ち上がりました。
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…というのは、もちろん大袈裟に書いているわけですが、話の骨格はそのとおりです。伐木後の処理がまた大変で、昨日は本当に疲れました。
切断部の径は15cm。電ノコがあれば楽勝で、そんなに大騒ぎするほどの太さでもありませんが、脚立に乗って手でギコギコやるのは、やっぱり大変です。年輪は30本まで数えましたが、今の家に越して来た年数を考えると、30プラス数年の樹齢だと思います。
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かつて原生林の巨木を切り倒し、大きな根株を掘り起こし、石ころだらけの土を耕耘した――しかもそれを全部人力で行った――北海道開拓民の苦労がどれほどのものであったか、こんな些細な経験からそれを想像するのはおこがましいですけれど、ちょっぴりそんなことも考えました。
(手元の地図帳に捺された北海道開拓使の蔵書印)
節々も痛いので、今日は一日休むことにします。
夏を送る ― 2024年09月05日 19時20分14秒
今日は明るいうちに家路につき、1つ手前の駅で下りて、散歩しながら帰ってきました。こんなふうに寄り道をするのは久しぶりです。半月前だったら熱死は必至だったでしょう。
雄大な入道雲と、刷毛目の立った筋雲が並んで浮かぶ空。
今頃になって盛んに鳴き出したツクツクボウシの蝉しぐれ。
そんな晩夏の色と音を感じながら、あの猛暑を我ながらよく生き延びたなあ…としみじみしました。
(これは今日ではなく、先週見た空)
まあ、しみじみする一方で、いつの間にか今年も残り少なくなってきたことに焦りも感じますけれど、何はともあれ今は秋の訪れを素直に喜びたいと思います。
明後日は二十四節気の「白露」。朝晩めっきり涼しくなってくる時分ですね。
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記事の方はいろいろ文字にしたい事柄も多いですが、気力・体力と相談しつつ、のんびりいくことにします。
苛酷な夏 ― 2024年08月18日 09時06分14秒
名古屋は24日間連続の猛暑日というニュースが流れていました。
これはもちろん過去最長で、記録はさらに伸びる見込みです。
ツクツクボウシが盛んに鳴く時期のはずですが、まだ2、3回耳にしただけで、今年はいろいろ勝手が違います。
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暑さもさることながら、私の町には雨が全く降らないので困っています。
ちょっと離れたところで局地的な雷雨が…みたいな話は聞くのですが、夕立からも避けられているようで、ときどき思い出したように打ち水をしても、地面はすぐにカラカラです。動植物にとってもきわめて苛酷な夏です。
各地で水の被害も出ているというのに、なかなか思うようにいかないものです。
庭のすみっこの水瓶。
この水瓶は木陰にあって、嵩(かさ)も大きいので、メダカも炎暑に負けず、このまま夏を越せそうです。水草が繁茂しているおかげで、今年生まれたメダカの子供たちも、そのまま無事大きくなりました。
一方、蒸散もはげしいため、毎日ホースで水を補っていますが、それを目当てにアシナガバチが来る、スズメバチが来る、蝶が来る、小鳥が来る…というわけで、近隣の生き物たちにとって、この水瓶が大事な「水場」と認められているのを知ったときは、ちょっと嬉しかったです。
「みんな苦労してるんだなあ…」と、仲間意識を勝手連的に感じて、打ち水の手にも力がこもります。
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そんな中、例の「32度以下に室温が下がらない職場」で働き続けているせいで、身体の深いところに疲れがたまっているのを感じます。まともにものを考えることもできないので、ブログもしばらくは開店休業状態でしょう。
猛暑、風水害、地震…多くの方が大変な夏を過されていると思います。
どうかくれぐれもご自愛くださいますように。
人は彼女の法則に反抗するときといえども、それに服従する ― 2024年07月21日 08時37分58秒
昨日の名古屋の最高気温は35.2度。
そんな中で外仕事をしたら、年寄りに続いて、今度は自分が救急車のお世話になるかも…とは思いましたが、木を伐るのは休日しかできないので、身ごしらえをしてパチンパチンとやってました。しんどかったですが、これまで淀んでいた一角に日差しと風が入るようになり、少し気持ちが軽くなりました。
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とはいえ、樹木の剪定というのは、たとえ園芸家や造園家がどう理屈をつけてみても、植物の世界の営みに、人間の都合や価値観を一方的に押し付けることに他ならず、いささか後ろめたい気持ちもまじります。(適正に管理された「健全な森」とか、管理の行き届かない「荒れた森」という言い回しにも、似たような感じを受けます。)
「庭」そのものが、そもそも人間が人間のために作ったものなので、そこでは万事人間が王様であり、人間の都合でやりたいようにやってもいいのだ…という理屈なのかもしれませんが、こうあからさまに書くと、いかにも傲慢な感じですね。
(植物は逆光で見るのがきれいだな…と思いますが、これも人間側の価値観でしょう)
そこにも自然のルールは働いているという意味で、庭は確かに小さな自然ですけれど、それ以上に、人がその自然のルールに抗い続ける場であり、人為の極とも言えます。
(人間によって維持されている小さな生態系)
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まあ、庭木の枝を払ったぐらいで、「大自然に挑む人類の代表」みたいな顔をしなくてもいいのですが、そうとでも思わんと、この炎暑の中で庭仕事なんかとてもやれんぞ…と思ったのも事実です。
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今日の記事のタイトルは、ゲーテの「自然についての断片」(1782)の一節から採りました。「彼女」とはもちろん自然のことです。
■出典:ARCHIVEプロジェクト
ゲーテ(著)・恒藤恭(訳)『自然についての断片(ほか6篇)』
ゲーテ(著)・恒藤恭(訳)『自然についての断片(ほか6篇)』
庭仕事と悟性 ― 2024年05月19日 16時15分30秒
アジサイの仲間である甘茶の花が咲き、山桜桃(ゆすらうめ)の実も少しずつ色づいてきました。この時期は植物がぐんぐん成長するので、ちょっと見ない間に庭の様子もずいぶん変わります。
それだけ庭仕事の忙しい時期で、殺伐とした最近のツイッター(X)でも、「庭仕事」で検索すると、日本中で庭仕事に励んでいる人たちの投稿がずらっと出てきて、しばし心がなごみます。私も狭い庭で汗を流すのが好きなので、大変だ大変だと口では言いながらも、それを十分楽しんでいます。
もちろん世の中には庭仕事が好きな人ばかりではありません。
親から相続した緑の濃い庭を、手入れが大変だという理由で、全面掘り起こしてコンクリートで固めた…という話も現に見聞きするので、そうした例を思えば、わが家の場合は庭にとっても、その主にとっても、幸せな関係だと言えると思います。
★
今から14年前、ヤフー知恵袋に某氏が投稿した質問【LINK】。
「長方形の面積についてですが、例えば長方形の周の長さを26cmとします。
縦11cm、横2cmとすると面積は、22平方cmとなります。
しかし同じ周の長さで、縦7cm、横6cmとすると面積は42平方cmとなります。
なぜ周の長さは、同じなのに比率を変えるだけで面積は変わるのでしょうか?
だれに聞いても答えられません。
だれか教えてください。」
縦11cm、横2cmとすると面積は、22平方cmとなります。
しかし同じ周の長さで、縦7cm、横6cmとすると面積は42平方cmとなります。
なぜ周の長さは、同じなのに比率を変えるだけで面積は変わるのでしょうか?
だれに聞いても答えられません。
だれか教えてください。」
そのベストアンサーはリンク先に書かれているので、興味のある方はご覧いただければと思います。
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なんで唐突にこんな引用をしたかというと、わが家の庭仕事が(楽しいながらも)大変なのはなぜか?と考えたからです。
「庭仕事が大変だ」というと、「さぞお庭が広いのでしょうね」という反応をされる方もいると思うのですが、わが家の庭は言うまでもなく狭いです。しかし「長い」のです。
パースが簡単にとれるぐらい長くて、これはわが家が変形敷地、いわゆる旗竿地だからです。
狭いけれども長い…というのがこの場合味噌で、長ければ長いだけ、敷地境界沿いに植わっている植物も多くなり、それが多くの庭仕事を生んでいるわけです。ヤフー知恵袋が説く如く、周囲の長さが同じでも面積は異なる…つまり裏を返せば、同じ面積でも形状によって周囲の長さは大きく異なるのです。
(よく言えば「市中の山居」っぽい感じ)
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余談に流れますが、この周囲の長さと面積に関連して、大変おもしろい論文を読みました。そもそも、人はなぜ上の知恵袋のような質問を発したくなるか?という点に関わるものです。
■西林克彦、「面積判断における周長の影響―その実態と原因―」
教育心理学研究 第36巻第2号(1988)、pp.120-128.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjep1953/36/2/36_120/_pdf
教育心理学研究 第36巻第2号(1988)、pp.120-128.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjep1953/36/2/36_120/_pdf
掲載誌名から分かる通り、教育心理学分野の論文です。その冒頭部より。
「ある図形の面積が、その周囲の長さ(周長)に影響されて誤判断されやすいことはよく知られている(銀林、1975)。とくに顕著 なのは周長が同じであると面積までが同一であるとみなされる傾向である。したがって小学校算数教科書に、その点に留意した記述が見られるものもある。細谷(1968)は、小学校2-4年生に周長を等しく保ちながら長方形を平行四辺形の形に押しつぶして面積の比較をさせ、各学年とも、面積は同じであって変わらないとする反応が過半数に達する結果を得たという。」
周長が等しければ面積も等しい…というのは、上の知恵袋で見たように、明らかに間違った考え方です。しかし小学生を被験者にして実験すると、そうした間違った考え方が2年生から4年生に至るまでずっと保持され続けている(つまりこの点では4年生も2年生と変わらない)という、不思議な結果を示しています。
著者・西林氏はこの点に焦点を当てて実験を重ね、その結論は以下のとおりです(太字は引用者)。
「周長の面積判断への影響は、面積概念の混乱や未成熟さに帰せられるものではないことは明らかである。それは保存の概念を経由して入り込んでくるのであり、成長し保存の概念を獲得したが故に誤るようになるのである。Bruner (Bruner et al., 1966) は、「成長によるエラー」を、「正確にいうなら、1つの表象システムと、いま1つの表象システムとの間に照応性や一致性をうちたてようとして、うまくゆかない最初の段階を示しているのである」として、表象システム間に限っているが、もっと一般化してよい概念だと思われる。」
つまり子供たちは成長につれて、見た目の変化に影響を受けない「保存」という概念を獲得し(これは高度に抽象的な概念です)、それを周長と面積の関係に不適切に応用してしまうため、結果的に誤った判断をしてしまうということです。ここで正しい判断を下すためには、さらにもう一段階成長を遂げる必要がありますが、次の段階にいけない人も多いことはヤフー知恵袋が証明しています。
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上のことは人間理性のありようを考えるとき、きわめて示唆に富んだ話だと思いました。ひょっとして、人間がこの先いかに進化しようとも、神の視点からすれば同じようなことが繰り返されるのかもしれません。
庭仕事の合間にそんなことを考えました。
朝の教訓 ― 2024年04月04日 05時57分46秒
音楽家から天文学者に転身したウィリアム・ハーシェル(1738-1822)。
彼が天王星を発見したゆかりの地である、イングランド西部の町バースは、英国ハーシェル協会の本部があるところで、地元のバース王立文学科学協会(BRLSI)とも協力して、ハーシェル関連のイベントがなかなか盛んです(彼の旧居は現在ハーシェル天文博物館として公開されています)。
(Googleストリートビューで見るバースの町とBRLSIの建物(正面左手))
そのBRLSIが主催して、ウィリアムの息子で同じく天文学者のジョン・ハーシェル(1792-1871)に関する講演会があると聞き、たまには勉強しようと思ってオンラインで参加することにしました。
(同講演会の案内ページより。晩年のジョン)
しかし参加はしたものの、何だか様子がおかしい。
入室した時点で話がえらく進んでいて、おや?と思う間もなく「結論 Conclusion」というパワポのスライドが出て、そのまま講演は終わってしまったのでした。
★
「指折り数えても時間は合っているはずなのに、おかしいなあ」
…というのを読んで、「ははーん」と思われた方もいるでしょう。
そうです、私はやっぱり時間を間違えていたのです。
イギリスでは先月末からサマータイムが始まっていて、日本との時差は今は9時間ではなく、8時間で計算しないといけないのでした。イベント慣れしている人には何でもないことかもしれませんが、ごくたまに発心する程度の人間にはちょっと難易度が高かったです。
参加チケットを事前購入して、がんばって早起きまでしたのに、何たることか。
まさに時間どろぼうに遭った気分ですが、まあここで一度失敗しておけば、次回からはたぶん大丈夫でしょう。
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