懐かしい友の顔2017年05月21日 21時11分46秒

「あれえ?○○さんじゃない!いやあ、久しぶりだね!!へえ、今はこちらにお勤めなんだ。もう何年ぶりかな。10年?いや、もっとかなあ。…でも、元気そうだね。うん、僕のほうは相変わらずさ。まあ、ちょっと齢はとったけどね。それにしても、こうして○○さんの顔を見ると、あの頃を思い出すよ。どう?せっかくだから今晩あたり…?」

しばしば異動のある職場だと、ひょんな所で、こんなやりとりがあると思います。

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今日、部屋の模様替えをして、ちょうどそんな気分を味わいました。

もう何年もアクセスの道が断たれていた抽斗。手が届かなかった本棚の奥。
物理的な距離にすれば1メートルにも満たないのに、手ごわい障壁にさえぎられて、長らくその隔たりを越えることができずにいました。

手前にどんどんモノを積み重ねていくと、どうしてもそういうことになります。
これではいけないと思っても、背に腹は代えられず、ここ数年間、環境の悪化が進むのを、いたずらに指をくわえて見ていることしかできませんでした。

しかし、今日は意を決して、山をうがち、谷を削り、異常な努力によって地形を改変して、そんな陸の孤島の解消を図りました。まあ、それによって新たな孤島が生まれただけとも言えますが、とにもかくにも、今日は懐かしい友と再会し、旧交を温めることができました。

…というわけで冒頭のセリフに戻ります。
しかし、相手からすれば「何と身勝手な…」と思われてもやむを得ないところで、黙ってこちらに付き合ってくれる、モノの優しさが、今日は身に沁みます。

旅と病2017年05月07日 09時20分50秒

旅に関連して、最近思いついたことがあるので、書き付けておきます。

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自分が高校を卒業し、浪人生となった頃のエピソードです。

あの頃の自分は、何となく落ち着かない気分でした。
「何かこの世界に大変なことが起きるんじゃないか」という不安と焦燥感に駆られ、「こうしてはいられない」と、気持ちが常にソワソワしていたのです。
友人から「世界の真実を語る○○という人」の噂を聞かされると、ぜひその人に会いたいと思うぐらい、心が浮動的でした。

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この記述を読むと、統合失調症について学んだ方ならば、それは一種の「世界没落体験」であり、統合失調症の初期に見られる典型的な症状だと思われることでしょう。
確かにその通りで、もしあのタイミングで受診していれば、ほぼ確実に統合失調症の診断が下され、すみやかに投薬が開始されたはずです。

幸か不幸か、私の場合、特に治療を受けることもなく、そのまま症状は消失し、今に至っていますが、このことから想像するに、統合失調症の生涯有病率は、現在考えられているよりもはるかに多くの暗数を含んでいて、実際には相当数の自然寛解例があるのではないか…という気がします(通常の疫学調査にはかからないので、あまり目立ちませんが)。

大学の新入生がカルトにはまって、その後発病…というのも、よく耳にしますが、自分のことを振り返ると、彼/彼女らの心の動きは、実感として分かる気がします。

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例によって湯船につかりながら考えていて、ふと、統合失調症とは実は「自立の病」なのではないか…と思いました。さらにまた、<今ここ>から<どこか遠く>をひたすら目指す「旅の病」ではないのか…とも。

自分が若い頃に味わった、あの気分。

「こうしてはいられない」、「今の世界は『本当の世界』ではない」、「どこかにある『真実』を求めて、自分はただちに歩み出さねばならない」という焦慮感――。

これはひょっとしたら、ヒトが成長の過程で自然に発現させる、生物学的にプログラムされた心の働きであり、大昔、例えばヒトが定住生活を送る以前は、種の拡散にきわめて有利に働いた資質なのかもしれません。即ち、巣立ちと旅立ちを促す動因というわけです。

遠い昔のヒトは、常に社会的であることを求められず、むしろ、ライフコースのどこかで非社会的になり、「群れ」を離脱することがスタンダードであり、そして放浪の末に、他の群れに再統合された。…これは、群れで生活する他の哺乳類でも、見られるパターンですから、あながち根拠のない空想でもありません。

そして、それこそが、統合失調症が思春期の直後に好発年齢を迎えることの意味ではないかと、湯につかりながら思ったのです。(ただし、他の生物の場合、そういう行動を取るのは主にオスですが、統合失調症の発症に性差はないとされているので、両者をパラレルに捉えることには、一定の限界があります。)

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もちろん、過ぎたるはなお及ばざるが如し。
やはり統合失調症には、「病」と称するほかない状態像もあります。
幻覚、妄想、そして自我の解体…。

あるいは、彼らはあまりにも急速に自立を求め過ぎたのかもしれません。
彼らは自らの王国を築くとともに、他人から干渉され、侵食されることを断固拒絶し、その王国を守ることに全精力を傾け、結果的に社会から受け入れられない存在となりがちです。でも、それこそ「自立」の陰画でもあるのではないでしょうか。

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「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず〔…〕そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず」云々という、芭蕉の『奥の細道』の有名な序文。

当時の芭蕉は45歳ですが、彼が漂泊の思いにとらわれ、風狂に目覚めたのは「いづれの年よりか」はっきりしない、かなり若年の頃からのようでもあります。芭蕉が現代の診察室に現れたら、おそらくは…と思わなくもありません。

「旅」には、常に狂的な要素と、癒しの要素が並存しています。
正確にいえば、「旅」は狂的な要素によって始まり、癒されることで終わるのでしょう。

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しっかり概念規定をしないまま、連想で話を進めているので、いささか取り留めのない文章になっていますが、人生の終盤に差し掛かった今も、果たしてこれが自分のいるべき場所なのかな…と、ふと疑問を感じることがあります。

思春期ならぬ思秋期のそれも、やっぱり群れからの離脱を促しますが、若い時のそれとは違って、今度の旅のゴールは至極明瞭です。そして再統合されることは二度とありません。要は死に場所を求めての旅です。寂しいような気もしますが、でも、それは永遠の癒しでもあります。


(何だか深刻ぶって書いていますが、この文章は深刻に読まれるべきものではありません。すべては湯船の中で考えたことです。)

四月一日2017年04月01日 08時52分04秒

短いがゆえに苦しく、苦しいがゆえに長かった年度末が終わりました。

珍名紹介の欄で目にする「四月一日さん」は、冬の綿入り装束を脱ぎ捨てる季節の意から、「わたぬきさん」と読むそうですが、今日はちょっと肌寒くて、厚手の上着が欲しいです。考えてみれば、この四月一日は旧暦のそれでしょうから、その季節感を味わうには、まだひと月ぐらいかかる道理です。

それでも、窓の外に目をやれば、桜も一輪二輪とほころびつつあります。
じきに、この草臥れた脳と心と身体も息を吹き返すことでしょう。
いくぶん残務整理があるので、復旧にはもう少し時間がかかりますが、近日中に通常運転に戻れそうです。

壺の中にも天地あり2017年03月08日 07時20分18秒

つくづく思うのですが、このブログの画像は、毎度毎度背景が同じですね。
たぶん見る人もそう感じるでしょうし、私自身苦にしているのですが、これはもうどうしようもないです。


自然光が入って自由になる空間は、とにかくこれだけしかないので、いつもこの赤茶けた机の上、わずか30cm四方のスペースにモノをのっけて、縦にしたり、横にしたり、苦労して写真を撮っているのです。まさに「方寸の地」。

しかし、「goo辞書」によれば、この「方寸」という言葉には、

 胸の中。心。「万事―の中にある」
 《「蜀志」諸葛亮伝から。昔、心臓の大きさは1寸四方と考えられていたことによる》

という意味もあるのだそうです。
となれば、まさに人の心は自由自在な一大天地ですから、この極端な制約の中でも、思いだけは気宇広大、精神を縦横無尽に羽ばたかせて、大地と海と空へ、さらに遠い宇宙へと向かうことにします。

まあ、四字熟語を使って無理に力む必要もないですが、これからも背景は変らねど、懲りずにお付き合いいただければと存じます。

往くが如し2017年01月17日 06時51分43秒

毎度のことながら、生きていくためには雑務の突沸にも耐えねばならず、なかなか記事をノンビリ書くことができません。ブログの方はしばし開店休業です。
まことに人の一生は、重き荷を負うて遠き道を…

歳末風景2016年12月27日 07時01分05秒

「師走は忙しい」という経験則の正しさは今年も証明されて、年末はやっぱり忙しいです。
記事の方は、年賀状を書き上げてから、おもむろに再開の予定。

秋爽好日2016年10月29日 10時10分00秒

青い空。涼しい風。
静かな土曜の朝を満たす黄金の光。

日曜になると、早くも明日のことを考えて、何となく気ぜわしいですが、土曜日はいちだんとノンビリした時間が流れて、光の色もこまやかな感じがします。


…と、ちょっと余裕を見せて書いていますが、写真の片隅の人体模型に、少なからず違和感を覚える方もいらっしゃるでしょう。

しかし、彼とも結構長い付き合いで、今では彼のいない部屋は考えにくいです。
ときどき、このブログで私の思いを、2人の人物に託して語らせることがありますが、実際の掛け合いの場面を想像すると、相手はこの彼をおいて他にいません。

眠り男2016年10月03日 20時37分00秒



今回はよほど疲れていたのでしょう。
トイレに起きたり、飲食したりの時間を除いて、こんこんと眠り続けていました。途中熱が出てきて、汗をどっとかいて、それが収まったら、ちょっと楽になりました。でも、まだぼーっとしています。

記事のほうは、もうしばらく休んでから再開します。

Living Dead2016年09月12日 06時36分49秒

依然蒸し暑いですね。でも、街路のけやき並木に目をやれば、濃い緑が少し黄ばんできました。暑くても、やっぱり秋は秋です。

さて、私ぐらいの年恰好の者が、突然ウンともスンとも言わなくなると、「ひょっとして、アイツは頓死したのではないか」とか、頓死はせぬまでも、「何か良からぬことをしでかして、遁走したのではないか」と思われがちです。

まあ、こうして無事生きているのですが、しかし遁走ならぬ遁世の志が胸にきざすぐらい、このところ身辺がバタバタして、盆もなければ正月もなく、さらには土曜も日曜もなしに昼夜兼行で走り続けるような仕儀におちいっていました(多少大げさに言っています)。

そんなわけで、いろいろ不義理を重ねていますが、もうちょっとしたら、またノンビリ記事を再開できると思います。というか、早くそうなって欲しいです。

秋、懐かしい級友(とも)の顔2016年09月03日 21時42分49秒

9月となり、季節は秋に。
夏の疲れがどっと出て、今日はこんこんと眠り続けました。

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三省堂池袋本店のナチュラルヒストリエで7月から始まった、「博物蒐集家の応接間 避暑地の休暇」も、8月いっぱいで第1章「旅のはじまり」が終り、新たに第2章「petit musée ~ 天文と好奇心の博物館」がスタートです(第2章は10月28日まで続きます)。

博物蒐集家の応接間 避暑地の休暇
 第2章『 petit musée ~ 天文と好奇心の博物館 』

 http://ameblo.jp/salon-histoire-naturelle/entry-12196055330.html

第1章では、会場の賑やかしに私も少しご協力したのですが、会期終了とともにその物品が返却されてきて、それを見ていると今年の夏もつつがなく終ったなあ…と、しみじみ感じます。

第2章はテーマが天文なので、一見、天文古玩の出番がありそうですが、私の提供する品はすべて非売品なので、むしろこの種のイベントには不適だったりする事情もあるわけです。

それはともかく、明日はしばらくぶりで再会した品を棚に戻すので、そのついでに、今回池袋に出かけた品を一瞥しておきます。


(この項つづく)