蘇生濫造2021年09月26日 08時36分46秒

未明から雨。雨音に目が覚めて、そのまま暗い中でじっとしていたら、雨にも負けずコオロギが鳴いているのに気づきました。「天地の間に我とコオロギと雨のみ是有り」というような、何となく昔の文人めいた思いがきざして、こういうのをさらさらと漢詩に詠めたら本当の文人なのでしょうが、そうした素養のないことを残念に思います。

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さて、今日は内容のない雑談です(いつも雑談です)。

このブログの「About」欄を見ると、「2018.7.14を以て通常営業を終了しました」と書いてあります。これは一体なんだろう?と、我ながら気になりました。

もちろん自分で書いたので、これを書いた時の気分は覚えています。
要するに、これからは更新も不定期になるし、ひょっとしたら放置しっぱなしになるかもしれない、でも「通常営業」ではないのだから、放置しっぱなしでも構わんだろう…というような、何となくやさぐれた気分です。そこに若干不健全なものを感じるわけですが、当時は正直疲れていたので、自分で自分に同情します。

でもそうなると、今こうして書いているのは一体何だろう?「特別営業」かな?
…と考えると、端的に言って「通常営業」と何も変わらないので、こういう意味のない看板は下ろした方がいいんじゃないかと思い直しました。一昔前のいつも閉店セールをやっている家具屋とかパチンコ屋とかを連想するからです。

というわけで、この【付記】は明日以降、削除します。
「復活」というほど大袈裟なものではなくて、ちょっとしたかさぶたが取れた感じです。

(”After The Rain On Terrace” by Maria_Pella)

去りてまた還らず2021年09月17日 18時37分40秒

えらい目にあった―。

というのは、PCが正常に起動しなくなり、あれこれ試したものの、万策尽きた末にPCのリフレッシュをやったからです。リフレッシュというのは、完全初期化とは違って、自分で作ったファイル類は残ると聞いたので、「それならいいじゃないの」と軽く考えてやったのですが、やっぱり世の中うまい話はないもので、メールソフトごと、メールがごっそり削除されてしまったのには、すこぶる当惑しました。

そして元の環境を復元するためには、OSの再バージョンアップ(Windows 8 から 8.1 への)から始めて、セキュリティ対策ソフトの再インストールとか、延々と作業が続きます。しかも、画像編集でも何でも、私は古いソフトをそのまま使い続けていて、それで何の不都合も感じなかったのですが、もはや入手不能なものも多く、新しいフリーソフトを探してインストールしたり、そういう作業がひどく億劫に感じられます。

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その中でつくづく思ったのは、世の中が便利になるということは、高齢者にとってはかえって不便になることなんだな…ということです。高齢者は、家電製品を買い替えるたびに、「なんでわざわざ不便に作り替えるんだろう?」とぼやきます。もちろん、古い製品が新しいものより便利だったわけではなくて、自分の適応力が衰えただけですが、主観的にはまさに「なんでわざわざ…」です。私の感慨もそれとまったく同じです。

“家庭用カラオケマシンさえあれば十分楽しいし、それで小さな孫も喜んでいるんだから、もうこれ以上何も要らん”…と思っているお年寄りもいらっしゃるでしょう。しかし、幸福な時も長くは続きません。孫はじきに大きくなるし、カラオケマシンも永遠ではないのです。それを知ったときのお年寄りの嘆きは痛いほどわかるし、自分だってまったく同じ立場です。

「動画サイトとSNSさえあれば十分」と思っている人もまた、次なる時代への適応がスムーズにいかないと、同じ嘆きを味わうことになりかねないぞ…と、これは老婆心ながらのつぶやきです。

(心象としての蕭条たる河畔。出典:http://www.tousan13.com/?p=11073

「天球の回転について」を原文で読了2021年09月02日 09時55分35秒

ラテン語はとにかく単語の活用と変化が大変なんだと聞かされていました。

たとえば動詞だったら、主語の人称と数、時制、能動か受動か…等々に応じて、すべて活用形が違うと聞くと、相当クレージーな言語に思えます。入門書には、「そうは言っても、そこにはある程度規則性があるので、慣れれば大丈夫」みたいな慰めが書いてありますが、これはまさに慰めにすぎず、そもそも本当に「慣れる」ことがあるのかどうかすら怪しい気がします。中には、「ラテン語を何十年もやってきた私にも、まだ分からないことがある。だから、初心者の皆さんに分からないことがあっても当然で、安心してください」みたいな、ぜんぜん安心できないことが書いてあったりもします。

名詞もまた同じで、こちらには格変化というのが伴います。
英語だと I、my、me…のように、人称代名詞に化石的に残っているだけの格変化が、ラテン語だとすべての名詞に生じ、その変化のパターンも多様で、まずは第1変化、次に第2変化、第3変化というのがあって、辞書の後ろの活用表を見ると、さらに第4変化、第5変化というのまで載っています。

その第3変化までこぎつけたところで、早くも「これはたまらん」と音を上げかけていました。

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しかし―です。

そんな折にネット記事を読んでいて、例のコペルニクスの『De Revolutionibus Orbium Coelestium』という書名が、ふと目にとまりました。そして、その意味を考えたとき、突如さとったのです。ここに出てくるのは、すべて第3変化名詞であり、Revolutionibus は複数与格(~に、の形)、Orbium と Coelestium は複数属格(~の、の形)であり、冒頭の前置詞 De(~について)と合わせて、全体は「諸天の諸球の諸回転について」の意味だと。意味をおさえて訳せば、まさに『天球回転論』ですね。


まあ、revolution も orb も celestial も英語に入っていますから、字面からその意味は何となく想像がつくのですが、その文法上の建て付けが分かって、はじめて対象がシャープな像を結んだ気がします。

「これはたまらん」と、ふうふう言いながらも、やればやっただけのことはあります。
これぞコペルニクス的転回…とまでは言いませんが、私にとっては確かにひとつの成功体験であり、アッハ体験でした。これを励みにもう少し頑張ってみます。

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というわけで、私は「De Revolutionibus Orbium Coelestium」を、原文で読了したと胸を張って言えるわけです。(そうでしょう?ちがいますか?)

言の葉の森2021年08月13日 17時50分49秒

今日は雨。午後からはしばし豪雨。

近況です。せっかくブログを再開したのだから、もっとバンバン記事を書きたいのですが、なかなかそうはいかない理由があります。そのことを書きます。

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私の部屋の本棚には、読めない本がたくさん並んでいます。そこに書かれた言葉がさっぱり分からないからです。読めない本でも、手元に置くだけで心が豊かになることもあるので(日本語の本でもそういうことはあります)、これまではそれで良しとしていたのですが、一抹の寂しさや良心の呵責がなくもない…。というわけで、一念発起して語学の勉強を始めることにしました。


具体的にはドイツ語とラテン語です。
手にしたのは一番初歩の入門用テキストで、der、des、dem…とか、amo、amas、amat…とか、口をパクパクさせるところからやり始めました。でも、何せ若いころとは違って、一つ覚えると一つ忘れてしまうので、なかなか前途は険しいです。この調子だと天文古書を読めるようになるのは、いったい何時のことか…。正直、読めるようになる気がしませんけれど、努力するのとしないのとでは自分の中での納得感が大いに違いますから、結果はどうあれ、ささやかな自己満足のために、これはしばらく続けることにします。

ただ、語学の勉強は初歩でもそれなりに労力を要することで、ブログと両立するのはなかなか大変です。これが上で書いた「理由」です。まあ、いずれこの努力が天文古玩趣味に役立つことを夢見て、今日も口をパクパクさせることにします。

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こんなふうに恥を捨てて公言すると、自ずと勉強を続けないわけにはいきませんから、これもブログのひとつの効用でしょう。一種の起請文ですね。

浮き世とは憂き世なり2021年04月17日 18時25分26秒

「若い時の苦労は買ってでもしろ」という言葉があります。
その真偽の程は定かではありませんが、「歳をとってからの苦労は売ってでもしたくない」――というか「金を払ってでもしたくない」――のは確かな真実です。

4月に入ってから、通勤時間が伸びただけでなく、なかなか日常の波風が高いです。
日ごろ何となく達観したようなことを呟いていますけれど、人と人との関わりの中では、心穏やかでいられない出来事も生じ、自分の「達観」ぶりの底の浅さを知ることになります。

そういうとき、ふと「前世において、私がその人にひどい悪行を働いたため、その報いを現世で受けているのかもしれんなあ…」と思うと、少し心が落ち着いたりします。因果応報思想というのは、苦しい生を生きた過去の人々が、自らを保つために編み出した集合知なのかもしれませんね。また、そうした死生観にリアリティを感じてこそ、「輪廻の鎖を断ち切ることが、真の解脱なのだ!」と喝破したお釈迦さまの言葉が、一層尊いものに感じられます。

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そんなわけで、本来の記事は、もう少し身辺の霧が晴れてからになります。

日本のグランドアマチュア天文家(後日譚)2021年04月10日 09時37分59秒

「あれ?おかしいなあ。4月になったら余裕ができて、記事もバンバン書けるはずだったのに…」と首をかしげつつ思うに、確かに生業の方は若干余裕が生まれたものの、通勤時間が1時間余分にかかるようになって、時間的にはむしろ余裕が乏しくなったのでした。以前は文字通り「朝飯前」に記事を書いてましたが、今それをやろうと思うと、異様に早起きしなければなりません。でも、新しいリズムに慣れてくれば、その辺もまた変ってくるでしょう。

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さて、本題です。
最近、すこぶる嬉しいお便りをいただきました。

これまた過去記事に絡む話題ですが、以前、日本のアマチュア天文史の一ページを彩る存在として、萑部進・守子(ささべすすむ・もりこ)夫妻という、おしどり天文家が、戦前の神戸で活躍していたことを、5回にわたって紹介しました。


神戸は今でも素敵な町です。さらに戦前の神戸となれば、その不思議な多国籍性が、とびきりハイカラで、モダンで、お洒落な香りをまとって、さながら稲垣足穂の『一千一秒物語』のような世界であった…と、この目で見たわけではありませんが、そんなイメージがあります。

(昔の神戸の絵葉書)

そのモダン都市・神戸の一角、六甲の高台に、萑部夫妻は瀟洒な邸宅を構え、私設天文台に据え付けた巨大な望遠鏡で星を追い、海を眺め、音楽を楽しんだ…という、本当にそんな生活がありうるのかと思えるようなライフスタイルを、上の一連の記事でスケッチしました。

(萑部氏の山荘風邸宅と天文台。上記「日本の…天文家(1)」から再掲)

最近いただいた嬉しいお便りというのは、神戸大学の青木茂樹氏からのもので、氏がさまざまな探索手法を駆使した末に、萑部氏の邸宅跡を発見・特定されたこと、そしてお二人の戦後の動向についても情報を得て、それらをまとめて紀要論文にされたという内容でした。

青木茂樹(著) 「六甲星見臺」址を探して
 神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究紀要
 Vol.14, No.2, pp.85-89
 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81012658.pdf

そう、萑部氏の私設天文台「六甲星見台」は、本の中だけの存在ではなく、確かに「実在」したのです。そうであるならば、萑部氏の営んだ美しい生活もまた実在し、そして憧れの夢幻都市・神戸も、やはりこの世に存在したのだ…と、あえて断言したいと思います。

内容の詳細は、青木氏の論文を参照していただくとして、特筆すべきは、萑部夫妻の写真をそこで拝見できたことです。

(青木氏上掲論文より)

いずれも戦後のポートレートですが、お二人とも理知的で人間的な豊かさに満ちた素敵な面差しです。この写真から20~30年前の若き日のご両人を想像し、その六甲での暮らしを思うと、やっぱり夢幻的だなあ…と思います。

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しかし―と繰り返しますが、お二人は確かに現実の人です。

お二人の体温を直接感じるのは、何よりもその愛機(望遠鏡)です。拙稿では、その後紆余曲折を経て、それが神奈川県の横浜学園に所有されていることまでは触れましたが、青木氏の論文によれば、望遠鏡はそこからさらに四国に渡り、現在は香川県の「天体望遠鏡博物館」で大切に保管されている由。(事の顛末を、同博物館の白川博樹氏が、雑誌「天界」2020年5月号に発表されています)。

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神戸は、そして世界は、今ウイルスの侵襲で大変なことになっています。
またコロナ禍とは別に、社会の在り様は、いささか無惨なものとなっています。

まあ冷静に振り返れば、無惨な社会の方が歴史的にはデフォルトなのかもしれませんが、かつて美しい町、美しい生活、美しい心根が存在したことも、また確かな事実です。そして、世界が人の心の投影であるならば、美しいものに対する憧れさえ失わなければ、夢幻世界は何度でもよみがえるに違いありません。

柳に月2021年03月29日 06時26分37秒

箸にも棒にもかからぬ…とはこのことでしょう。
戦時中のフレーズじゃありませんが、3月は文字通り「月月火水木金金」で、もはやパトラッシュをかき抱いて眠りたい気分です。しかし、それもようやく先が見えてきました。
まあ4月は4月で、いろいろ暗雲も漂っているのですが、先のことを気にしてもしょうがないので、まずは身体を休めるのが先です。

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今年は早々と桜が咲きました。
花びら越しに見上げる月も美しいし、雨に濡れる桜の風情も捨てがたいです。

そして爛漫たる桜と並んで、この時期見逃せないのが若葉の美しさで、今や様々な樹種が順々に芽吹いて、その緑のグラデーションは、桜に負けぬ華やぎに満ちています。

中でも昔の人が嘆賞したのが柳の緑で、その柔らかな浅緑と桜桃の薄紅の対比を、唐土の人は「柳緑花紅」と詠み、我が日の本も「柳桜をこきまぜて」こそ春の景色と言えるわけです。

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「花に月」も美しいですが、「柳に月」も文芸色の濃い取り合わせ。

(日本絵葉書会発行)

この明治時代の木版絵葉書は、銀地に柳と月を刷り込んで、実に洒落ています。

しかも機知を利かせて、「 の 額(ひたい)の櫛や 三日の 」と途中の文字を飛ばしているのは、絵柄と併せて読んでくれという注文で、読み下せば「青柳の 額の櫛や 三日の月」という句になります。作者は芭蕉門の俳人、宝井其角(たからいきかく、1661-1707)。

青柳の細い葉は、古来、佳人の美しい眉の形容です。
室町末期の連歌師、荒木田守武(あらきだもりたけ、1473-1549)は、「青柳の 眉かく岸の 額かな」と詠み、柳の揺れる岸辺に女性の白いひたいを連想しました。其角はさらに三日月の櫛をそこに挿したわけです。


春の夕暮れの色、細い三日月、風に揺れる柳の若葉。
その取り合わせを、妙齢の女性に譬えるかどうかはともかくとして、いかにもスッキリとした気分が、そこには感じられます。

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惜しむらくは、この絵葉書は月の向きが左右逆です。
これだと夕暮れ時の三日月ではなしに、夜明け前の有明月になってしまいます。でも、春の曙に揺れる柳の枝と繊細な有明月の取り合わせも、また美しい気がします。

(絵葉書の裏面。柳尽くしの絵柄の下に蛙。何だかんだ洒落ています。)

黄色い粉の舞い飛ぶ空に希望はあるか2021年03月15日 19時14分17秒



私の机の上に、かつて1本の杉の木が生えていました(LINK)。
枯死してすでに久しいですが、それを嘆くまでもなく、杉の木はこの国土全体を覆っています。

世の中に たえて花粉のなかりせば 春の心はのどけからまし
心底そう思っている人も多いことでしょう。

何故、たかがあんな小さな粒々に苦しまなければならないのか?
といっても、ここで真の問題は、花粉ではなくて、花粉に対する我が身の反応の方です。そんなにいちいち反応しなければいいのに…と思いますが、我が身のことながら、これがなかなか自由になりません。

なぜ自分で自分を苦しめるようなことをするのか? 
ここにおいて、苦しめる「自分」と苦しむ「自分」は、はたして同じ「自分」なのか?
そもそも「自分」とは何なのか?…と、大いに哲学的な問いが発せられます。

ちょっと考えると分かるように、「自我意識」「自分」(=自己という存在)は大きくずれる部分があって、強いていえば、後者の方が圧倒的に大きな存在です。自我意識は、そう念じても髪の毛一本の脱落すら阻止できないし、そのプロセスを意識することもできません。(だから自殺は良くないのだ…という人もいます。ちっぽけな自我意識が、より大きな自分そのものを抹殺するのは僭越に思えるからです。)

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まあ暇に飽かせて、そんなことを考えても、花粉症が軽くなるわけではありませんが、ただ、希望がまったくないわけではありません。たとえば鼻がグズグズする、目がかゆい、頭がボーっとする、そうした感覚の存在は否定できないとしても、それを「苦痛」と感じるかどうかは、結構裁量が利くからです。

鼻がグズグズすると、人はなぜ苦痛と感じるのか? それは必然というよりは、単なる予断と刷り込みに過ぎないのではないか? ひょっとしたら、人間は鼻がグズグズする状態を「快」と受け止める可能性だってあるのではないか?
…ということは、考えてみる価値が大いにあります。

何だか「坊主の寝言」のようですが、実際、「鼻がグズグスしだしたら、報酬(たとえば金銭や精神賦活物質)がもらえる」という条件付けをくりかえし行った場合、「鼻グズグズ」の主観的体験の色合いが、180度変わることだって、理論的にはあり得ます。

我々の経験を形作るものとして、いわゆる「認知的成分」(対象の受け止め方)は、相当大きなウェイトを占めるので、この辺がちっぽけな自我意識を以て花粉症という難敵に立ち向かう肝であり、大いなる希望ではなかろうか…と、うららかな空を見上げながら考えました。

3月といえば2021年03月07日 18時22分38秒

3月といえば年度替わり。今年もバタバタつづきです。

とはいえ忙中自ずから閑あり、何か記事を書こうと思ったのですが、どうもダメですね。考えがうまくまとまらないし、自分で書いていて、あまり面白いと思えないです。

こういうときは悪あがきせず、タイミングをはかるのが吉と見ました。遠からず季節の移ろいとともに、また心が整い、興も乗ってくるでしょう。

白と黒2021年01月30日 08時25分10秒

昨日は午後から雪。それも一時は、かなりはげしく降りました。

強い横風が吹き付けると、雪はいっせいにサーッと流れ、ビルの上からは、まるで街全体が白濁した川の流れに揉まれているようです。そして、その白い流れの中に、真っ黒いものがこれまた無数に舞い飛び、なんだか只ならぬ状景でした。

その黒いものの正体はカラス。カラスたちも突然の雪に興奮し、狂喜しているように見えましたが、実際カラスは賢いので、彼らなりに「雪遊び」を楽しむ感覚だったのでしょう。

白と黒が入り乱れる、その不思議な光景を、「何だか花崗岩みたいだな…」と思いながら見ていました。

(花崗岩の岩石標本)

緻密な岩石と、風に揺らめく雪景色は、当然まったく違います。
でも、地殻の深部からフワフワと浮かび上がり、地上に顔を出すと、やがてサラサラと風化して、純白の石英砂を残す花崗岩と、湿った雲がまき散らす雪の結晶には、いくぶん似たところもあります。いや、もし黒く光るカラスも、雪雲から生まれるのだとしたら、むしろそっくりだと言えるかもしれません。

(上の標本ラベル)