新暦誕生(前編)2022年12月05日 17時14分09秒

昨日につづいて明治改暦の話題。
今から150年前――正確には1873年の元旦に――、それまで馴染んでいた旧暦(太陰太陽暦)から、日本中がいっせいに新暦(太陽暦、グレゴリオ暦)に切り替わりました。


その記念すべき最初の暦、「明治六年太陽暦」がこれです。
昨日に続き、妙に煤けた画像が続きますが、これも出た当時はきわめて斬新な、新時代の象徴のような存在だったはずで、表紙に捺された「暦局検査之印」にも、御一新の風が感じられたことでしょう。

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この暦を眺めて、ただちに気づくことが2つあります。


1つは、それまでの迷信的な暦注が一切排除されていることです。
と同時に、迷信を排除した勢いで、今度は過剰なまでに天文学的な記述になっていることです。

(上の画像を一部拡大)

たとえば1月の最初のページを見ると、「上弦 午前6時46分」とか、「小寒 午後2時26分」とか書かれています(以下、引用にあたって原文の漢数字をアラビア数字に改めました)。

月の満ち欠けは、新月から満月までシームレスに進行するので、「ちょうど半月(上弦)」になるのは確かに一瞬のことで、次の瞬間にはもう厳密には半月ではありません。小寒のような二十四節気も、それを地球の公転で定義する限り、地球がその位置に来るのはほんの一瞬です。ですから、それを分単位で表示してもいいのですが、旧来の暦になじんだ人たちは、その厳密な表記に目を白黒させたことでしょう。(現代の多くの人にとっても、同じだと思います。それに明治初めの人は、分単位で正確な時計など持っていなかったはずです。)

さらに他の細部も見てみます。


1月1日の項を見ると、①「日赤緯 南23度00分52秒」、②「1時差 12秒4減」、③「視半圣 16分8秒」の3つの記載があります。この暦には凡例がないので、その意味を全部で自力で読み解かねばなりません。

まず①が太陽の天球上の位置(赤緯)で、③が太陽の視半径であることはすぐ分かります。
問題は②の「時差」です。最初は「均時差」LINK】のことと思ったんですが、数字が全然合いません。ここで渡辺敏夫氏『日本の暦』(雄山閣、昭和51年)を見たら、「〔明治5年〕政府は急遽太陽暦を版行し、一般大衆へ行き渡るように努めた。まず英国航海暦により太陽暦を作り…」云々とあったので(p.139)、実際に英国航海暦を見てみたら、ようやく分かりました。

(1846年用英国航海暦(1842年発行)より1月の太陽に関するデータ表の一部)

ここに太陽の赤緯に付随する値として、「Diff(erence) for 1 hour」というのが載ってます。その訳が「一時差」に違いありません。これは太陽の天球上の位置変化のうち、南北方向の移動量を1時間あたりで示した値です。ですからこの「秒」は角度のそれで、例えば1月1日の太陽は、1時間あたり角度にして12秒ちょっとずつ北ににじり寄っていることを示しているわけです(この時期の太陽は、南回帰線から赤道に接近中なので、南緯の数値は「減」になります)。

もう1つ首をひねったのが、1月2日にある「日最卑 午前5時5分」です。ページをめくっていくと、「月最卑 ○○時」とか、「月最高 ○○時」とかいった記載も頻繁に出てきます。意味的に、「最卑」と「最高」が対になっていることは推測できるのですが、これはいったい何か?


首をひねりつつ検索したら、昔の自分が答えているのを見つけました【LINK】。
9年前の自分は、地球の「近日点」「遠日点」の意味で、中国では「最卑点」「最高点」の語を使っていると述べています(なるほど。昔の自分にありがとう)。月ならば「近地点」「遠地点」の意味ですね。

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まあ、こんなふうに「天文」を名乗るブログを書いている現代人でも手こずるのですから、明治初めの人に、この暦が理解できたとは思えません。仮に理解できたとしても、太陽の視半径や、月の遠地点・近地点が、日々の生活を営む上で必要な情報だとは、とても思えません。

だからこそ…だと思いますが、もう一つ気づくこととして、新暦の下にやっぱり旧暦が刷り込まれていることがあります。


これも渡辺敏夫氏の『日本の暦』に詳しい記述があったので、他人の褌を借りる形になりますが、その辺の事情を見ておきます。

(ちょっと長くなるので、ここで記事を割ります。この項つづく)

七夕短冊考(補遺)2022年08月20日 08時51分15秒

先日まで7回にわたって書き継いだ「七夕短冊考」

“戦前は、七夕の短冊に願いごとを書く習慣はなかった”
“いや、一部には確かにあった”
“でも、大勢としてはなかったはず。戦後の幼児教育の影響が大きいのでは?”

…みたいなことを書きましたが、その流れにうまく接合できなかった情報があり、何となくモヤモヤしているので、ここに補遺として挙げておきます。

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連載第5回で、歌人の鮎貝久仁子氏が書かれた「甦る七夕祭(東京)」という文章を引きました。東京で育った鮎貝氏が、少女時代(大正時代)に家庭内で短冊に願い事を書くよう勧められた…という回想記です。

鮎貝氏の文章は、雑誌「短歌研究」1972年7月号に掲載されたものですが、この号は「夏の歳時記Ⅲ」と称して、一種の七夕随筆特集を組んでいます。鮎貝氏の文章ももちろんそのひとつです。

で、私が気になったのは、同じ号に収められた、中原勇夫氏(1907-1981)による「佐賀平野の七夕まで」という文章です(pp.134-137)。これは氏の思い出話ではなくて、1972年現在の佐賀近郊の情景を叙したものです。

(出典:ウィキペディア「佐賀平野」の項より)

以下、いささか長文になりますが、一部を引かせていただきます(pp.136-137、太字は引用者)。


 「街や村の小店には、やはり八月に入ると、「七夕紙あります」という貼り紙が出る。子供たちは五十円ほどのお金を手にして楽しげに連れ立ってそれを買いに行く。七夕紙には赤、黄、緑、紫色のものと、薄桃の地色に星をちりばめたものの五種があって、全体にくすんだ色調のヒキの強い紙からできている。

 八月六日、七夕の前日には、どの家も家族全員で準備にかかる。〔…〕

 七夕の当日、八月七日はどの家も早く起きる。日の出前に、大人たちに連れられて子供たちは、容器を持参して露をとりに行くのである。〔…〕持ち帰った露の水は用途が二つあって、家族みんながそれで顔を洗うのと、それで墨をするのとである。その墨で短冊を書くのであるが、短冊には天の川、家内安全、八月七日、おりひめさま、ひこぼしさま、自分の願いごと、自分の名前、いろは文字などをそれぞれ年齢に応じて書く。女の子たちは「早く一年生になれますように」とか「くつを買ってもらえますように」とかわいいことを書いたりする。また男の子たちは、将来の希望の職業(おまわりさんとか新幹線の運転手とか)などを書いたりする。これらの願いごとは、朝露ですった墨で書かないとかなわないと言われる。書きはじめるのは、年長者からで、祖父がいれば祖父からはじめるのが常である。七夕竿につるすときには、「七夕さま、どうか私の願いをかなえてください」あるいは「字が上手になりますように」などと祈ってつるすのである。〔…〕書き損じた失敗作の短冊もやはりみんな残らずつるすならわしである。〔…〕

 七夕様にお願いした願いごとは、短冊が早く切れて落ちるほど、早くかなえられると言われている。また、落ちた短冊を拾いあげたら願い事がかなえられぬというので、女の子たちは自分の願い事を他人に見られて恥ずかしくてもじっとがまんして拾わずにいるのは可憐である。〔…〕

 以上の、部落、一家をあげての七夕の風習がまだまだ佐賀平野、とくに西南部の白石地方に滅びずに残っているのはうれしいことだと思う。」


これを読んでただちに分かるのは、学校や園の行事とは別に、伝統的な民俗行事としての七夕にも、短冊に願い事を書く風習はたしかに入り込んでいたという事実です。この点で、自分が以前書いた記事は、若干修正が必要です。

ただし、これは1972年現在の風習ですから、それが戦前まで遡るかどうかは分かりません。でも、少なくとも明治生まれの中原氏が、特にそれを異としている気配はありませんし、各家庭の年長者たちも、「そういうもの」と当然視しているように読めます。

また、「願いごとは、短冊が早く切れて落ちるほど、早くかなえられる」云々とあるのは、連載第5回で引用した、「〔願いを書いた短冊が〕行き方も分からないようになったら願いは叶う」という、幕末期の江戸の庶民の観念を彷彿とさせます。幕末の江戸と昭和の佐賀とで、似たようなことを信じていたということは、そうした観念が時間的・空間的に一定の広がりを持つことを推測させるもので、この辺はもうちょっと探りを入れてみたいです。

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それにしても、1972年といえば、私の子ども時代とかぶっていますが、私自身はこんな経験をしたことはありません。でも、これぞ私が思い浮かべる「懐かしい七夕」のベタなイメージで、何となく昔の「新日本紀行」を見ているような気分になります。

七夕短冊考(その7)2022年08月04日 18時39分24秒

身近にひたひたとコロナの足音が迫るのを聞いたかと思うと、気が付いたら自分自身が斃れていた…。まあ本当に斃れたわけじゃありませんが、布団に倒れ込んでいたのは本当です。先週の金曜日から様子がおかしくて、土曜日に検査したら陽性。39度台の高熱が出たのは最初の2日間ぐらいで、今はこうして机の前で普通に過ごしています。

この間ずっと、いつもブログの写真に写り込んでいる書斎に布団を持ち込んで、そこで缶詰になっているんですが、この部屋は元々狭いうえに、いろいろなモノが集積しているので、布団をきちんと敷くこともままなりません。そして自分の趣味とはいえ、剥製とか標本とか人体模型とかに見下ろされて、その隙間で体をくの字にして寝るというのは、病気療養のあり方として好ましいものではありません。呼吸器の病気にはことによろしくない感じです。


一晩だけならまだしも、連日連夜この空間に閉ざされていると、何だかいたたまれない気になって、このままここで入定して即身仏と化すんじゃないか…という気すらしました。今は気分的に楽になりましたが、一昨日ぐらいは残りの療養期間が途方もなく長く感じられたということもあります。

そこで即身仏の積ん読本を読み出したら、現実のミイラ仏の背後には、なかなか切実な事情があることを知って、粛然としました。即身仏になるのも大変です。(でも、条件がそろうと、人間の遺体は意外と簡単にミイラ化するそうですね。沙漠地帯ばかりでなく、湿潤な日本でも、お寺の土塀のくぼみとか、橋の下とか、ひょんなところからミイラが発見された例が本には書かれていました。)

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さて、ブログを放置しているうちに、今日はいつの間にか8月4日です。
以前書いた旧暦の七夕がいよいよ今日。だらだら書いた短冊の話も、ちょっと中だるみの感があるので、この辺で話をおしまいにしなければなりません。以下、はしょって書きます。

戦後の幼児教育の本として、今回以下の3冊を眺めてみました。


■松石治子(著)『子供のための幼児教育十二か月』(ひかりのくに昭和出版、1958)


■富永正(監修)・奈良女子大学幼稚園(編)『園の年中行事』(同、1962)
■舘紅(監修)『心にのこる園行事(保育専科別冊)』(フレーベル館、1979)

これらの中に「短冊の謎」はもちろん書いてなくて、そもそも短冊への言及もほとんどありません。力が入っているのは、むしろ各種の七夕飾りの製作です。

例えば1962年に出た『園の年中行事』を見ると、「ささ飾りをするにしても、従来のきまりきった短冊などにこだわらず、画紙・色紙・セロファン紙などを使って工夫創作することを教え」云々とあって(p.104)、短冊は雑魚キャラというかモブ扱いですね。ただ裏返すと、この書きぶりからは旧来の「天の川」「七夕さま」式の短冊が、まだこの頃は健在だったのかな…という推測も成り立ちます。

(園行事としての七夕。『園の年中行事』より)

以下は、そのもうちょっと前、1958年に出た『子供のための幼児教育十二か月』の1ページです。


イラストの笹飾りには、たしかに「天の川」と書かれた短冊がぶら下がっています(p.111)。さらに、同じページには、「七夕まつりの仕事」として、以下の活動例が挙がっています。

○短冊形の紙に画をかく(自分のすきな画をたてにかく)
○折紙で輪つなぎを作る
○折紙ですきな物を折る
○色紙で短冊やあみ等を作る
○色紙できものやほおずきを作る
○画用紙で星や胡瓜やすいか等を作る
○大きい星形の冠を作って彩色をして、それを冠ってリズムあそびをする
○笹竹を飾ってみんなで歌やリズムやおはなしなどをしてあそぶ

今とあまり変わらない感じもしますが、ただ戦後13年が経過したこの時点でも、「短冊イコール願い事」という定型(お約束)の成立は、まだ確認できません(別の個所(p.113)には、「七夕の笹に、色紙や短冊をかざりますね。短冊に自分の名前や、天の川、と書きますね。」ともあって、やっぱり願い事は書いてなかったようです)。ただ、短冊形の紙に自由画を描くという活動が、その萌芽のようにも思えます。(余談ながら、ここに出てくる「きものやほおずきを作る」とか、「胡瓜やすいか等を作る」とかは、相当古い習俗をとどめていますね。民俗が園の中で生きていた時代でもありました。)

最後の『心にのこる園行事』(1979)を見ると、七夕飾りにもプラスチック工作が登場していたり、すっかり今風になっています。

(p.86。左上のプラボトル製の魚に注目)

この本で興味深く思ったのは、「七夕のいわれ」というコラム記事です。
そこには「〔…〕江戸時代になると、一般にも広く行われるようになって、現在のように竹や笹の枝にいろいろな願いを書いた短冊などを結びつけて飾ったり、これを川に流したりするようになりました。」と書かれていました(p.83)。


もちろん、こんなふうに話が単純だったら、私がここまで字数を費やす必要もないわけで、この記述は明らかに事実誤認を含むのですが、この1979年の時点では、保育現場で短冊に願い事を書くことが自明視されるまでになっていたことを示すものだと思います。

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他にも、これは小学校での例ですが、毎年七夕の時期になると、教え子に願いごとを作文に書かせ、それを文集にまとめた先生の実践記録とか[1]、班ごとに七夕飾りを製作し、短冊に書いてある自分の願い事を発表しあった例とか[2]を目にしました。いずれも1960年代後半のことです。

ひょっとしたら、短冊に願いごとを書くのは、小学校での教育実践が先行しており、それが幼稚園・保育園に下りてきた可能性もあります。いずれにしても、全国津々浦々で、七夕竹に願いごとを書いた短冊がぶら下がるようになったのは、1960年代を画期として始まり、70年代に入ると、それが新たな習俗として確固たるものとなった…という新たな仮説を提示して、一応この項を結んでおきます。

無理やり七夕に間に合わせましたが、どうもあまりパッとしない内容で、空の方も今夜は涙模様ですね。今年の七夕はいろいろあかんかったです。


(この項おわり)

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【註】

[1]  鴨井康雄(編)『明日を呼ぶ子ら―重い障害をもつ子どもと教師の記録』、明治図書、1970. pp.58-59.及びpp.102-110.

[2] 今回の記事はGoogleの書籍検索にだいぶ助けられました。その中で見つけたのが、次の引用文です。

「できあがってから七夕祭をしました。各班ごとにできあがるまでのようすを発表しあい、ひとりひとりが立ちあがってたんざくに書いてある自分の願いを読みあげぎ(とうもろこし)早くくいたいなあ」。はじめ子どもたちは前の経験から「七夕 ...」

これが引用の全文で、前後は一切分かりません。Googleの書籍検索でひっかかる古い資料は、たいていアメリカの大学がスキャニングしたもので、著作権の関係で日本からだと断片しか読むことができません。しかも、多様なレイアウトの資料を無理やり機械に読ませているので、意味不明の判じ物のようなものが多く、内容を確かめるには別途原典に当たらないといけないのですが、これはまだ原典に行きついていません。

一応の出典は、「Bunka hyōron - 第 76~81 号 - 12 ページ - 1968」となっていて、おそらくは「文化評論」(新日本出版)第78号(1968年3月号、特集・教師の記録―次代の日本のために)掲載の文章ではないかと想像しています。ちなみに同号の12ページは吉成健児氏による「分校の子どもたち」という記事です。国会図書館からコピーを送ってもらえばはっきりするのですが、そこまでするか?という気もするので、これは今のところ参考引用です。

七夕短冊考(その6)2022年07月24日 07時31分28秒

昨日は空の青が濃い日でした。
夏の日差しはあくまで強く、でも空気がカラッとして、風も吹いていたので、木陰に入ればぐっと過ごしやすく、盛んな蝉の声も耳に心地よく響きました。昨日の最高気温は32度でしたから、まあ人間的な暑さの部類といえるでしょう。そういえば、昔の夏はこんな感じではなかったか。このところ毎年異常な暑さで、夏の良さを忘れがちでしたが、こういう夏ならば、私は大いに歓迎したいです。

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さて、七夕の話題。

その後もあれこれ考えていましたが、昔の人も短冊に願い事を書いていたのは事実としても、それはどちらかといえば「孤立例」で、それが現代の七夕風景とシームレスに接続しているわけでもないので、やっぱり<昔の七夕>は多くの場合、紙絵馬的短冊とは無縁であった…と言ってしまっていいのではないでしょうか。例外が存在するからといって、通則はひっくり返らないものです。(自分でもかなりいい加減なことを書いている自覚がありますが、あまりここで足踏みしていると話が前に進まないので、強引にまとめておきます。)

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次に、戦後の七夕に及ぼした公教育(幼児教育・幼児保育も含む)の影響を考えてみます。まあ、なかなかそう都合のいい資料はないのですが、ちょっと面白いと思ったデータがあります。


今から30年近く前、1994年に出た『都市の年中行事―変容する日本人の心性』(石井研士著、春秋社)に掲載の以下の表です。

(上掲書p.20)

石井氏が当時の大学生(都内のキリスト教系の女子大学と共学の大学、および国学院大学の3年生)を対象に行ったアンケート調査の結果です。90年代当時の大学生ですから、対象となったのは今では50歳ぐらいの人たちでしょう。

いろいろな伝統行事、それと戦後の新行事をとりまぜて、「それを現在もやっている」か、「かつてはやったことがある」か、「やったことはない」か、「そもそも聞いたこともない」かを答えてもらった結果です。

これはなかなか面白い表で、いろいろなことを考えさせられます。
中でも注目すべきは七夕で、「かつてはやったことがある」と答えた学生が63.6%と突出して多くなっています。これより数字が高いのは、最初から幼児限定の「七五三」だけですから、年中行事における七夕の特異性が、この数字によく現れています。しかも「やったことはない」と答えた学生はわずかに1.3%で、これまた極端に少ないです。

要するに、七夕はほぼすべての学生が経験しており、その多くは子ども時代に限って経験していることを示すもので、その背景に、幼稚園や保育園、あるいは小学校低学年での七夕体験があるんではないかなあ…というのが、私の想像です。
(でもその一方で、35%もの学生が「今も七夕をやっている」と答えたのは不思議です。あるいは、商店街や観光地の七夕イベントに参加することを、「やっている」うちにカウントしたせいかもしれません。

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戦後の七夕隆盛の陰に公教育の存在を想定するならば、幼児教育の本を参照すれば、その辺のことはただちに分かるだろうと思いました。たとえば、「昔の七夕は封建主義の遺制であったが、今や民主と男女平等の世である。これからは男女を問わず、短冊に自由な願い事を書いて、子どもたちの個性と創造力を大いに伸ばしていこうではないか」云々…というようなことが、戦後出た本を開くと書いてあるような気がしたのです。

でも、これまたそんな都合の良い本はなくて、「うーん、これはちょっと勝手が違ったなあ…」と思いましたが、とりあえずファクトとして、昔の幼児教育書における七夕の扱いを見てみます。


(暑さに負けずこの項つづく)

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(※)石井氏の本には「現代の七夕」に直接触れている箇所もあるので、参考までに引用しておきます(上掲書pp.189-191)

 「伝統的な年中行事の変容を知りたいと思って、七月七日の七夕に銀座、新宿、池袋のデパートを合わせて九店はしごしてみた。それぞれの地域のデパートがひとまとまりになって、七夕商戦を繰り広げていたからである。ただし、「たなばた」とはいわない。銀座・有楽町が「ラブ・スターズ・デー」、新宿が「サマー・ラバーズ・デー」、そして池袋が「スター・マジック・デー」である。消費者に購買意欲を起こさせるためには、名称変更はいともたやすい。会場にはハート型の短冊などを吊るす竹や星型の籠が置かれていたが、どこも賑わうというほどではなかった。浴衣を着た受付の女性の所在なさが妙に印象に残った。今でも保育園や幼稚園に行けば、笹の葉にたくさんの短冊の下がる光景を見ることはできるし、七夕の歌も聞こえてくるかもしれない。しかしながら「大人たちの、七夕」(銀座)は、露骨に商業主義的な色彩が強い。「七夕」が「ラブ・スターズ・デー」となることで、本来の季節感は失われ、たんなるお中元商戦のひとこま、若者への販売拡大のための機会と化したように思える。」

行事も世につれ…ですね。デパートの退潮もあり、この30年間に限っても、七夕風景は常に変容しているのを感じます。

(上掲書p.190)

七夕短冊考(その5)2022年07月19日 20時47分54秒

私が何となく思い描いた「七夕の短冊問題」の見取図は、以下のようなものでした。

「今のように、願い事で百花繚乱の「紙絵馬的短冊」が登場したのは戦後になってからで、それはおそらく幼児保育や小学校教育の中で生まれ、かつ普及したのだろう。それに対して、戦前の短冊は「天の川」や「七夕」などごく少数の定型表現と、昔の詩歌を写した「書・歌道的短冊」に限られていた。」

これまで見てきたように、この推測は“大外れ”はしてないと思うんですが、では何をそんなに手こずっているかといえば、戦後における「紙絵馬的短冊」の誕生の時期をいまだに特定できないことがひとつ、それともうひとつは、本当に昔(戦前)は紙絵馬的短冊がなかったのか?と問われると、ちょっと自信がないことがあります。

何しろ七夕習俗というのは、時代により所によりさまざまな形をとったので、冒頭のように単純化してものを言うと、必ず例外(反例)が生じて、話が複雑になります。

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まず、2番目の手こずりの原因を先に考えてみます。
すなわち、昔は紙絵馬的短冊はなかったのか?という点について。

先日の愛知県安城市の古老たちは、「確かになかった」と証言していました。
それでも探してみると、すぐ次のような例が見つかります。

話者の今泉みね(1855-1937)は、蘭方医・桂川甫周の二女として江戸に生まれた女性です。彼女が晩年の昭和10年(1935)に、幕末から明治初年にかけての思い出を息子に語って聞かせた口述筆記が『名ごりの夢』で、その後、平凡社東洋文庫の1冊に収められ、今は平凡社ライブラリーにも入っています。

その彼女が語る七夕の思い出にこうあります(太字は引用者)。

 「七月ときいて忘れられないのはやっぱり七夕でございます。今は子ども達の雑誌の口絵で見るくらいのものですけれど、あのころの七夕様と申しましたらずいぶん戸ごとに盛大だったようでございます。誰も誰もが人に知れぬ願い事が叶うという信仰を持っていたしましたのですから、考えると無邪気で可愛らしいくらい。欲張りはいずれ着物が欲しいとか帯が欲しいとか、あるいはまたどこそこへ縁づきたいなどという一筋の思いを書いたものもあったでしょう。書いてぶら下げて行き方も分からないようになったら願いは叶うと真正直に思い込んでいました

 〔…〕なんでも一と月ぐらい前からその心掛けで支度していました。一年がかりの願い事ででもあったのかもしれませんが、一生懸命書いて笹にぶらさげます。

 〔…〕さげるものは、色紙とか短冊とかそれに絵の入ったものなどもあって、〔…〕そして文言はただの言葉もありましたし、風流に三十一文字(みそひともじ)にするのもありますので、この七夕がゆくりなくも歌のけいこにもなり、この機会にたちのよい歌が詠めるようになるものさえございました。」(東洋文庫版pp.154-155)

こうはっきり述べている以上、少なくとも江戸の人は、短冊に願い事を書いたと考えざるを得ません。

そもそも、七夕様と願い事は昔からセットになっていました。
願いをこめて七夕竹に五色の糸をかける「願いの糸」というのは、俳句の季語にもなっていて、江戸中期の服部嵐雪や、与謝蕪村も句に詠んでいますから、少なくとも都市部(江戸)ではおなじみの風俗だったことでしょう。やがてその「五色の糸」の役割が、「五色の短冊」に移ったとしても、ごく自然な流れのように思います。

(江戸の七夕の賑わい。歌川広重「名所江戸百景」より。出典:https://www.library.metro.tokyo.lg.jp/portals/0/edo/tokyo_library/modal/index.html?d=5431

ただし、江戸で盛んだった七夕祭りは、明治の末にはひどく衰えて、ほぼ伝統が絶えたらしいので(※)、江戸の習慣がそのまま引き継がれて、後の「紙絵馬的短冊」につながったとも考えにくいです。

裏返すと、明治の末から大正にかけて東京で育った人の中には、子供時代に七夕を経験していない人がいるはずで、現にそんな世代の一人、歌人の鮎貝久仁子(1906-1996)氏は、こう記しています(「甦る七夕祭(東京)」、雑誌「短歌研究」1972年7月号pp.120-123)。

 「〔…〕こう大々的に七夕祭を年中行事のひとつとして、いまだに賑々しく発展している東北地方に比べて、関東地方はあまりにも心細い状態である。〔…〕まして東京では、前から東京府として、また東京都として七夕祭を行事とした記憶がないから面白い。

 日本の古来からの五節句のひとつにも関わらず、力こぶの入らないのが不思議にさえ思いながらの現在である。

 〔…〕東京では集合の七夕祭を盛大に行わないのは、今日だけでなく、明治の末期に女学生であった姉の話でもわかる。」

でも、その鮎貝氏にもこんな思い出がありました。

 「しかし、私はもの心ついた幼稚園のころから小学校時代にかけて、この七夕祭は星を祭る美しい夢のある物語として教えられ、七夕祭を行ってきた記憶が、愉しくも懐かしくも甦ってくる。〔…〕それは母よりも、出戻りの美しい伯母の感化かもしれない。
 彼女は物凄いお洒落の上に、几帳面な折目正しいことを好む女(ひと)で、五節句の行事は一手に引きうけて重んじていた。〔…〕

 七夕祭もこの調子で、伯母は竹を伐らせたのを取りよせて、それ「七夕や」そら「天の川」と書くものと促したものである。それに若し願いごとがあったなら、一年に一度のことであるから、遠慮なくそれを書くようにともいった。」

こうしたエピソードを前に、「昔は短冊に願い事を書いた」と言うべきか、「書かなかった」と言うべきか。江戸・東京というピンポイントで見てもこんな調子ですから、じゃあ京や大阪ではどうだったのか?東北では?中国・四国では?…と見ていくと、何か一般化してものを言うことが、いかに難しいかが分かります。

(成行き上、この項さらに続く)


(※)明治44年(1911)に出た『東京年中行事』(若月紫蘭著、平凡社東洋文庫所収)には、「東京では陽暦の七月七日を七夕と言っている。けれどもこの星祭は今はほとんど廃れてしまって、昔に見たような立派な光景は先ずないと言ってもいい。〔…〕七、八年前までは、方々の河岸あたりではこの七夕祭の飾りを少しは見かけたようであるが、今はほとんどこれを見ることが出来なくなったのは惜しいことである。」とあります。

七夕短冊考(その4)2022年07月14日 05時24分15秒

ここに1枚の絵があります。


以前、ヤフオクで売りに出されていた掛軸で、今は既にどなかたの手元にある一幅です。七夕にちなむ品を探していて見つけたもので、その絵を大層印象深く思ったので、こうして今は他人様のものでありながら、画像のみ保存していました。出品者及び落札者の方にお詫びしつつ、ここに画像をお借りします。

この絵の生みの親は、河内舟人(かわうちしゅうじん)という明治に生まれ、昭和に亡くなった日本画家です。これまた安易にネット情報【LINK】を転載しておくと、

 河内舟人 Kawauchi Shujin (1899 - 1966)
 日本画家。明治32年生。安田靭彦、荒井寛方に師事。
 院展・日本美術院院友、日展入選。
 小杉放庵ら栃木県出身の画家たちの団体「華厳社」を中心に活躍。
 晩年は良寛に私淑し、児童画を得意とした。

という経歴の人です。


ご覧の通り、七夕の晩に縁台で涼む母子を画いたもので、この絵自体は作者晩年の作かもしれませんが、母子の服装からして、題材となっているのは、作者の子供時代(明治末~大正初年)の思い出ではないかと想像されます。

で、この絵をなぜそんなに印象深く思ったかといえば、その理由は短冊の描写にありました。


そこには「七夕、七夕、七夕…」「天の川、天の川、天の川…」とひたすら書かれています。その時は戦前の短冊事情を何も知らなかったので、一見して「え?これって作者の手抜きじゃないの?」と思いました。

「いや、しかし待てよ…」と考え直したところから、今回の短冊調べは始まっているので、この絵は今回の連載の有難い生みの親です。そして調べてみると、この絵は確かに戦前の実景に違いないことが見えてきたわけです。

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蛇足めきますが、近代以降の絵で、他にも往時の短冊事情がうかがえるものを見てみます。


ここでは手っ取り早く、2012年に静岡市美術館で開催された「七夕の美術―日本近世・近代の美術工芸にみる」展の図録から、関連部分を見ることにします。

まずは大御所・竹久夢二(1884~1934)の「七夕」(大正11年/1922)。屏風仕立ての二曲一隻の作品です。


(部分拡大)

ルーペを使って読んでいくと、向かって右から「天の川」「(牽)牛(おり)ひめ」「ふた星」「七夕天の川」「(?)星」「天の川」「星の…(和歌一首)」「ふた(ほ)し」「(七?)夕」といった文字を読み取ることができます。

続いて、図録の表紙にもなっている橋本花乃(1897~1983)の「七夕」(昭和5~6年/1930~31頃)。こちらも屏風仕立ての二曲一双の作品です。


(右隻拡大)

(左隻拡大。下も同じ)


読み取れる文字は左隻の「七夕」と、左右に共通する「を(り)ひめさま」、「天の川」の3種。

続いて林司馬(はやししめ、1906~1985)の「七夕」(昭和13年/1938)から。


(部分拡大)

はなはだ読み取りにくいですが、無理して読むと「(?)女」「(?)の織女」「天の川」「七夕」といった文字が見えます。

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ごく限られた例ではありますが、大正~昭和戦前にかけて、七夕の折に短冊に書く文字といえば、「天の川」と「七夕」の二つが両横綱で、あとは七夕の主役である「織姫/織女」「牽牛」「ふた星」の名を記したり、ちょっと気取って和歌を書きつけたり…というのが通例だったことが、ここでも推測できます。

(この項まだまだ続く)

七夕短冊考(その3)2022年07月13日 07時09分06秒

平成15年(2003)に安城市歴史博物館が発行した、以下の図録を手にしました。


■特別展 安城七夕まつり第50回記念
 「日本の三大七夕 ― 七夕「額」飾りの世界」
 編集・発行 安城市歴史博物館

日本三大七夕というのは、仙台七夕が筆頭で、二番目が神奈川県平塚市の七夕。ここまでは異論のないところですが、三番目の席をめぐって、愛知県の一宮市と安城市が争う状況がずっと続いています。これはその安城側からのプロパガンダの一環として企画された――と私は睨んでいますが――特別展の展示図録です。

副題にある「額」飾りというのは、安城周辺でかつて見られた七夕風俗で、七夕に合わせて芝居の舞台のミニチュアというか、ジオラマをこしらえて飾る風習を指します。よその地方だと「立版古」とか「組上げ灯籠」とか呼ばれる細工物に相当します。基本的には子供行事ですが、家ごとの、あるいは地域間の対抗意識もあり、大人たちも熱心に手伝って、戦前はなかなか賑やかなものだったそうです。

(七夕の「額」飾りの例。昭和6年(1931)撮影。上掲図録掲載の写真を一部トリミング)

その思い出を古老にインタビューした内容が、この図録に収められていて、昔の七夕を知る貴重な資料になっています。「額」については、また別の機会に譲るとして、ここでは短冊について述べた部分を一部引用させていただきます。いずれも話者の生年から、昭和ヒトケタ、おそらく1930~35年頃の思い出と思います。

■鈴木和雄氏(大正10年(1921)生まれ)の話

 「また、竹を竹藪から切ってきて短冊をつけ、竹飾り(笹飾り)を作ります。竹はできるだけ大きな、3階まで届きそうな高さが5mはあるくらいのものを選びます。短冊は100枚が1シメになっているものを2~3シメ買ってきて、これに何かを書きます。一番多かったのは「七夕まつり」で、他に「お飾り」(お供えもの)の「すいか」「なす」「うり」とか、その絵を加えたりしていました。でも、当時は今と違って、「勉強がよくできますように」とはあまり書きませんでした。「裁縫が上手になりますように」くらいは女の子が書いたかもしれませんが、願い事を書くということがほとんどなかったような気がします。」(図録p.38)

■石原光郎氏(大正11年(1922)生まれ)の話

 「また、短冊をつるした笹飾りは、各組ごとに2本ずつ用意します。短冊には、皆で分担して「七夕まつり」とか、「算数がよくできますように」「妹の病気がよくなりますように」といった願い事を書き、これをシュロの葉を裂いたもので竹にしばりつけました。」(図録p.42)

■鈴木清市氏(大正11年(1922)生まれ)、沢田坂男氏(同)、磯村守氏(大正12年(1923)生まれ)、鈴木正明氏(大正14年(1925)生まれ)の共同座談

 「下級生は短冊に字を書いて笹飾りを作ります。購入してきた短冊に、上級生から「お前は20枚書いて来い」とか、低学年の子は「5枚書いて来い」とかいわれて、家で字を書いてくるのです。当時は願い事を書くとそれがかなうといことはなく、「天の川」が最も多く、他には「七夕」とかがありました。これを、近くの竹藪から切ってきた大きな2本の孟宗竹に、シュロの葉を裂いたもので結わえていきました。こうした作業は女の子も一緒に行い、総勢で40人程度だったと思います。」(図録p.45)

■古橋知次氏(大正12年(1923)生まれ)の話

 「笹飾りの短冊は、今では願い事を書くということになっていますが、当時は「お星さま」や「天の川」など、その程度のことしか書かなかったような気がします。」(図録p.50)

この中では2番目の石原氏の証言が異質で、当時すでに「「算数がよくできますように」「妹の病気がよくなりますように」といった願い事を書」いたと証言されています。ただ、他の方はみな口をそろえて「当時は今と違って、願い事を書くことはなかった」と述べているので、この辺は後の経験による記憶の変容の可能性も考慮すべきでしょう。

   ★

これは愛知県安城市というピンポイントな事例に過ぎませんが、戦前は短冊に願い事を書く習慣がほとんどなかったか、たとえあったとしても、ごく一部で行われたに過ぎない…という推測を裏付ける材料と思います。

と同時に、前回、前々回採り上げた「書・歌道的短冊」ともまたちょっと違う、素朴な短冊が子どもの世界にはあったことも分かります。少なくとも安城の少年少女は、和歌や俳句を短冊に書くことはありませんでした。そして、こうした子供文化の存在が、その後の「紙絵馬的短冊」が流布する土壌ともなったのではないかと思います。

子どもにとって、願い事をするのは古歌を書くよりもはるかにハードルが低く、しかも楽しいことに違いありません。そして何枚も、ときに何十枚も「七夕」や「天の川」と書かされるよりも、子どもなりに「意味」を感じ取れる作業だったでしょう。そういう状況で、大人がちょっとした示唆を与えれば、子どもたちがいっせいに「紙絵馬的短冊」に移行することも、自然な流れと思えるからです。

(この項まだ続く)

七夕短冊考(その2)2022年07月11日 07時17分00秒

(昨日の続き)

こちらも昨日の付録とほぼ同時期に出た本です。


■影山常次(著)
 七夕祭短冊帖
 発行所・乞巧奠礼賛会、昭和12年(1937)

著者の影山常次氏は、この名前で検索するといくつか情報が出てきます。それらを総合すると、どうやら昭和戦前~戦後に活躍した、福島県の教育者・郷土史家のようです。本書刊行時には、同県田村郡三春町に在住し、発行所の「乞巧奠礼賛会」は影山氏の自宅と同住所ですから、要はこれは私家版なのでしょう。

本書は題名のとおり短冊の書き方のお手本帖です。

(序文)

その序文がちょっと興味深いので、一部転記してみます。

 「七夕祭の伝説は既に人口に膾炙してゐるから省略するが、もと支那の風俗でその起源は詳かではない。古く漢代に始まったらしく〔…中略…〕徳川時代に入っては式日として、諸大名長裃で参賀祝儀申上げること三月上己の式と同じく、五節句の一に数へられてゐた。古くから士農工商皆この日を祭日として祝ひ七夕踊を踊ったことさへある。明治以来一般に廃れて来たけれども、雅味溢れるこの種の行事は大いに礼賛復興に努め、とかく荒み勝な近代生活に滋味を注入したいと念願する。その意味で本書の刊行を試みたのである」

少女雑誌の付録に登場するぐらいですから、七夕は依然ポピュラーな祭りではあったのでしょうが、昭和10年代の七夕はちょっと旗色が悪くて、<すたれゆく風俗>のように受け止める向きもあったようです。福島在住の著者の目にそう映ったということは、都市部ばかりでなく、地方でもそうした傾向は進行していて、「これではならじ」とばかりに編まれたのが本書です。

その背景には、国粋主義的な復古の空気も作用していたのかもしれません。そして、その延長線上に、昭和16年(1941)に出た例の文部省唱歌(笹の葉さらさら…)もあったのかなあ…と想像しますが、まあこの辺はただの想像です。

   ★

(掲載歌・句の一覧)

(第一首。「思ひどもつらくもあるかな七夕の などかひとよと契りそめけん」)

この本の内容は、ご覧の通り七夕や天の川にちなむ古歌・古句のオンパレードで、それを筆で上手に書くことに意義を込めていたと受け取れます。ここには「七夕の短冊というのは、願い事を書くものだ」という観念の片鱗も見られません。この点は昨日の「少女倶楽部」の付録とまったく同じです。

(右から。「七夕にけふはたむくることのをの たへぬや秋の契りなるらん」、「荒海や佐渡に横たふ天の川」、「七夕や賀茂川渡る牛車」)

いずれにしても、こうした「書・歌道的短冊」が、今ある「紙絵馬」のような短冊に変わったのは、おそらく戦後のことだろうという状況証拠にはなります。

(この項さらに続く)

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【余滴】

参院選は自民党大勝で、これは大方の予想通りでしょう。
常々政権に批判的な私としては、もちろん苦いものを感じるのですが、大切なのはこの結果が安倍政権ではなく、岸田政権下で得られたものだという点です。この意味は決して小さくありません。これによって信を得た岸田さんの発言力は、これまで以上に強まるでしょうし、そうなると自民党の党内力学もかなり変化するはずです。願わくは、それが「まともな」方向の変化であることを強く期待したいです。

七夕短冊考(その1)2022年07月10日 08時30分07秒

七夕にちなんでいろいろ書こうと思いましたが、書けぬまま七夕も終わってしまいました。最近は晩にビールを飲むと眠くなるし、朝は朝でやっぱり眠いので、平日に記事を書くのが難しいです。…といって、昔は夏場でも平気で書いていたわけですから、やっぱり齢は争われません。

でも、まだ旧暦の七夕というのが控えていて、今年は8月4日だそうです。それまで焦らず、旧来の季節感に素直に書いていくことにします。

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この前、七夕の短冊のことを書きました。
いかにも地味な話題ですが、何事も分からないことは調べるだけの価値があるので、戦前の七夕の実態はどうだったのか、少し史料を探してみました。そこで見つけたのが下のような紙ものです。

(大きさは38×58.5cm)

■加藤松香先生(書)
 七夕お習字手本
 昭和11年(1936)7月発行 少女倶楽部七月号第二附録

これを見ると、書かれているのはすべて七夕にちなんだ和歌や俳句ばかりで(それと「七夕」「天の川」というのも定番でした)、あたかも「紙絵馬」のように願い事を書きつらねる今の七夕とは、だいぶ趣が違います。


物理的フォーマットも、いわゆる短冊ばかりでなく、扇面あり色紙ありで様々です。


これは「少女倶楽部」の読者が、七夕を祝うことを前提とした企画ですから、そこでイメージされる七夕の担い手は、若干高年齢層に寄っています(ウィキペディア情報によれば、同誌の読者層は「小学校高学年から女学校(高等女学校)低学年の少女」の由)。少なくとも幼児専門の行事ということは全然なくて、さらさらと水茎の跡もうるわしく和歌を書きつけるのを良しとするその態度は、マジックでたどたどしく書かれた文字を見て「子供らしくほほえましい」とする現代とはかなり異質です。

(裏面には「七月特別大懸賞」の広告があり、読者の年齢層や趣味嗜好の一端がうかがえます。おそらく「良家の子女」と、それに憧れる少女たちが雑誌を支えていたのでしょう。)

とはいえ、これ1枚で何かものを言うのも根拠薄弱なので、別の史料も挙げておきます。

(この項ゆっくり続く)

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【余滴】

安倍銃撃事件があり、その事件背景として統一教会の問題が取りざたされ、そして今日は参院選の投票日。まことに慌ただしく、見ている方はポカーンとしてしまいますが、今後、年単位、あるいは10年単位で、今目の前で起きていることの意味が明らかになり、整理されていくのでしょう。ナスカの地上絵みたいなもので、その場にいる人間には見えないものも、距離をとることで見えてくることは実際多いです。

とはいえ、歴史に傍観者はなく、我々は否応なく歴史を担う主体でもありますから、視界が利きにくい中でも自分なりに考え、自分なりの道を見出す努力は欠かせません。そんな思いで、今日は一票を投じてきます。(何か妙に大上段ですが、大きな事件の後でやっぱり心が波立っているのでしょう。)

七夕雑感2022年07月03日 15時33分25秒

ここしばらくは狂気を発するぐらい暑い日が続き、ものを考えることも難しかったですが、今日は久しぶりの雨で、少し過ごしやすくなりました。

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7月になったので、七夕の話題です。
七夕というと、「笹の葉 さーらさら」の歌が口をついて出ますが、ネットで検索すればすぐ分かるように、あれは「たなばたさま」というタイトルの曲で、昭和16年(1941)に文部省が発行した「うたのほん 下」が初出だそうです。いわゆる文部省唱歌ですね。

(「うたのほん 下」に掲載の「たなばたさま」。国会図書館デジタルコレクションより。

今ではあの歌のない七夕は考えられませんが、考えてみると、江戸時代はもちろん、明治や大正時代の子供も、昭和戦前の子供だって、「笹の葉さーらさら」と歌わずに、七夕の夜を過ごしていたわけで、なんだか不思議な気がします。まあそれを言えば、昔のひな祭りに「あかりをつけましょ ぼんぼりに」の歌は流れていなかったし(初出は昭和11年/1936)、正月を前に「もういーくつ寝ると」と歌うこともありませんでした(同 明治34年/1901)。

でも、「あの歌が流れないなんて、昔の年中行事はさぞさみしかったろうなあ…」と思うのは、後世の人間の錯覚で、事態はたぶん逆でしょう。「たなばたさま」の歌は、地方的差異の大きかった民俗行事に公教育が介入・介在することで、その均質化が進んだ――言い換えれば貧弱になった――例のひとつだと思います。(あの歌自体は嫌いじゃありませんが、「笹の葉と短冊」だけに光を当てて、他の七夕習俗の要素、たとえば梶の葉とか、縫織の技とか、管弦とか、農作物のお供えとかを捨象したことは、やっぱり貧弱化につながったと思います。)

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上で公教育の介入による行事の変質ということを言いましたが、私が以前から疑問に思っていることのひとつに、「七夕で短冊に願い事を書く風習はいつ始まったのか?」というのがあります。

もちろん、昔の人も七夕の宵は星に願いを託しました。
しかし、戦前まで短冊に書きつける文句といえば「天の川」と「七夕」の2つがポピュラーで、それに加えて古歌や古詩、あるいは自作の和歌を書いて、それによって歌道や書道の上達を願うという形が本来だったはずです。そのことは江戸期の風俗画でも確認できます。

今や全国津々浦々で、笹竹に子どもたちの、それこそありとあらゆる願い事が翻っていますが、あれは多分そんなに古いことではなくて、戦後になって保育園や幼稚園、小学校で始まったことだと睨んでいます。(さらにさかのぼると、大正自由教育の流れの中で、一部の進歩的な学校や園では、すでにそういう試みがあったのではないか…とも想像しています。)


そもそも「お祖母さんの病気が治りますように」とか、「世界平和」とかをお願いされても、織姫や彦星にそれを叶える力があるとは思えません。

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ただし、この辺はよくよく注意を要することで、七夕に短冊をぶら下げて、「字が上手になりますように…」と願うのは、元をたどれば奈良・平安まで遡るのかもしれませんが、それが浮世絵の題材になるぐらいポピュラーになったのは、江戸時代の寺子屋で年中行事として行われるようになって以降のことらしく、何でも「昔」とひとくくりにして言うのも危険です。

(「風俗画報」明治31年(1898)7月10日号より、富田秋香画「寺子屋七夕祭之図」。明治になってからの江戸回顧図と思います。)

七夕が教育的な配慮のもと、子供の行事化したという点で、江戸の昔と令和の今には共通する部分があり、民俗を考える際は、このように変化する要素と連続する要素を常に考えておかなければいけない…とか、素人の私が言っても何の説得力もありませんが、そういう気がします。(では、近世以降と近世以前を対比させるとどうか?といっても、江戸時代以前の民間の七夕習俗は、資料もありませんし、まったく不明というほかないんですが、農村の七夕習俗には、古風な要素が一部痕跡として残っていたと思います。)

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なんだか話を大きくし過ぎて、まとまりませんが、七夕という行事も振り返ればいろいろ陰影に富んでていて、今の七夕のありようをもって、過去を推し測ることは到底できない…ということが言いたかったのでした。(なお、上では触れませんでしたが、今の七夕に影響したものとしては、公教育以外にも、<日本三大七夕>のような「観光七夕」「商業七夕」の成立と発展も大きいです。)