季節外れの七夕のはなし2021年11月07日 11時37分11秒

さすがに季節外れなので、このブログでは話題にしませんでしたが、最近ずっと集中していることがあります。それは「七夕」をめぐるあれこれです。来年の7月に、また話題にできればと思いますが、それまで自分の問題意識を忘れないようメモしておきます。

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日本は星をめぐる神話や習俗が希薄と言われます。
しかし、そうした中でも突出した存在感と安定感を誇るのが七夕祭りです。

(戦後始まった代表的な「観光七夕」、平塚市の七夕祭り。昭和の絵葉書)

ただ、私の中では何となく理解しづらいものを感じていました。
それは「結局のところ、七夕祭りとは何なのか?」が、スッと呑み込めずにいたからです。例えば、正月なら「歳神さまを迎える祭りだよ」という説明を聞けば、ああそうかと思いますし、盆踊りなら「祖先の霊を迎え、慰める祭りさ」と言われれば、なるほどねと思います。では七夕の場合はどうか?

民俗行事というのは、たいていは祖先祭祀の儀礼であったり、招福除災の儀礼であったり、豊作を願う農耕儀礼であったり、大体いくつかの基本性格に分類できると思います。そして日本の七夕は、上で挙げた3つの性格をすべて備えています。すなわち、多くの地方で七夕は盆の行事と一体化し、また穢れを払うために七夕竹を川に流し、豊作を祈るために農作物を供えます。

しかしややこしいのは、「だから、七夕の基本性格は先祖供養(あるいは祓穢や豊作祈願)にあるのだ」とは言えないことです。それらは後から付加、ないし混交したもので、七夕本来のものとは言えません。

日本における七夕は明らかに大陸起源のものなので、大陸における七夕の姿も考えないといけないのでしょうが、大陸は大陸で、時代により地方により、その姿は様々で、一筋縄ではいきません。(現代中国における標準的な七夕説話ひとつとっても、現代日本のそれとはだいぶ違っています。今日のおまけ記事を参照。)

日本における七夕習俗の歴史的変遷についても、いわば「奈良時代の鹿鳴館」的な、ハイカラな新習俗として行われた宮中儀式(乞巧奠)が、徐々に民間や地方に下りてきた流れもあるでしょうし、それ以前に織物技術とセットになって半島から伝来した、より土俗的な習慣も各地に古層として存在したはずで、そうしたハイカルチャーとローカルチャーの複雑な相互作用も(今となっては検証のしようもないかもしれませんが)、一応は念頭に置かないといけないと思います。
(大雑把なイメージとしては、「七夕(しちせき)」や「乞巧奠」という漢語がハイカルチャーを、「たなばた」という和語がローカルチャーを象徴しており、「七夕」を「たなばた」と訓じたことから、いろいろ概念的混乱が生じているように思います。)

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結局のところ、外皮をすべてはぎ取れば、七夕の基本性格は「織物に関する生産儀礼」ということになると思いますが、それが「七月七日の節句行事」となった理由や、そもそも論として、それが「星祭り」という形をとった理由が分からない…というのが、私のずっともやもやしている点で、これまで納得のできる説明を目にしたことがありません。これらについて、少し時間をかけて考えてみます。

(この項、間をおいて続く)

鮮やかな古暦2021年11月03日 09時36分51秒

今日は文化の日。
昔から言われる特異日の一つで、今日もよく晴れています。

文化の日は、何が文化の日かよく分かりませんが、昔でいう天長節、すなわち天皇誕生日を引きずったもので、この場合の天皇は明治天皇のこと。その後、大正天皇の即位に伴い、11月3日は祝日から外され、いったん平日に戻りましたが、昭和になって「明治節」の名で復活しました。それが戦後「文化の日」になったわけです。


1枚の短冊に、そんな遠い日を思い出します。
もちろん、自分がその時代をじかに経験したわけではありませんが、その時代をじかに経験した証人が現にこうしてあります。こういうモノを前にすると、私はなんだか祖父の昔話に耳を傾けている孫のような気分になります。

(1月~5月)

この美しい木版刷りの短冊は12枚ひと揃いで、月ごとの景物が描かれています。

(6月~10月)

(短冊の裏面)

各葉は腰のある厚紙ではなく、ペラペラの和紙に刷られており、いわゆる短冊というよりも「短冊絵」と呼ぶ方が適当かもしれません。江戸の錦絵そのままの技法で刷られた、非常に凝った作品です。


上は1月の短冊に刷られた文字。ご覧のとおり、その月の祝日や二十四節気、それから日曜日の日付が入っています。要はこれは12枚セットのカレンダーです。

冒頭の「一月大」は、1月が大の月であることを示し、江戸時代の暦の伝統を受け継いでいます。新暦になってからは、「西向くさむらい(二四六九士)が小の月」と覚えれば用が足りるようになりましたが、旧暦では大小の配当が毎年変わったので、月ごとの大小の区別だけ刷り込んだ、簡便な略暦が毎年売られていました。(参考LINK 「大小暦」

そんなことから、最初は明治もごく初期の品かと思いましたが、文字情報を考え合わせると、明治6年(1873)の新暦導入以降で、

①1月7日、14日…が日曜日である
②うるう年である
③11月3日が天長節である

の3条件を満たすのは明治45年=大正元年(1912)だけですから、時代はすぐにそれと知れます(実際には大正天皇の即位にともない、この年の天長節は8月31日に変更となっていますが、暦は前年中に刷るものですから、暦上は11月3日のままです)。

したがって、これは江戸がいったん遠くなった後、懐古的な「江戸趣味」が流行り出した頃の作品なのでしょう。花柳界で凝った「ぽち袋」が流行り出したのも、明治の末年から大正にかけてのことと思いますが、ちょっとそれに似た手触りを感じます。


11月は七五三からの連想で犬張り子、12月は伝統的に冬の画題である白鷺。


作者の「竹園」については残念ながら未詳です。

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明治と大正の端境に出た古暦。
今や明治や大正はもちろん、昭和もはるか遠くなり、平成も遠ざかりつつありますが、この古暦は、たぶん私よりもずっと長生きし、その鮮やかな色彩を今後も保ち続けることでしょう。人のはかなさと同時に、モノの確かさということを感じます。

峰雲照らす天の川2021年08月08日 09時25分03秒

残暑お見舞い申し上げます。
暦の上では秋とはいえ、なかなかどうして…みたいなことを毎年口にしますが、今年もその例に漏れず、酷暑が続いています。

さて、しばらくブログの更新が止まっていました。
それは直前の4月17日付の記事で書いたように、いろいろよんどころない事情があったせいですが、身辺に濃くただよっていた霧もようやく晴れました。止まない雨はないものです。そんなわけで、記事を少しずつ再開します。

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今日は気分を替えて、壁に掛かっている短冊を取り替えました。


 草山に 峰雲照らす 天の川   亜浪

作者の臼田亜浪(うすだ あろう、1879-1951)は最初虚子門、後に袂を分かって独自の道を歩んだ人。

平明な読みぶりですが、とても鮮明な印象をもたらす句です。

まず眼前の草山、その上に浮かぶ入道雲、さらにその上を悠々と流れる天の川…。視線が地上から空へ、さらに宇宙へと伸びあがるにつれて、こちらの身体までもフワリと宙に浮くような感じがします。季語は「天の川」で秋。ただし「峰雲」は別に夏の季語ともなっており、昼間は夏の盛り、日が暮れると秋を感じる、ちょうど今時分の季節を詠んだものでしょう。

個人的には、この句を読んで「銀河鉄道の夜」の以下のシーンも思い浮かべました。

 そのまっ黒な、松や楢の林を越こえると、俄にがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へ亘(わた)っているのが見え、また頂の、天気輪の柱も見わけられたのでした。つりがねそうか野ぎくかの花が、そこらいちめんに、夢の中からでも薫だしたというように咲き、鳥が一疋、丘の上を鳴き続けながら通って行きました。
 ジョバンニは、頂の天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投げました。 (第五章 天気輪の柱)

ジョバンニが、親友カムパネルラと心の隙間を感じて、ひとり町はずれの丘に上り、空を見上げる場面です。そのときの彼の心象と、この亜浪の句を、私はつい重ねたくなります。そしてジョバンニの身と心は、このあと文字通りフワリと浮かんで、幻影の銀河鉄道に乗り込むことになります。

異文化としての天文和骨董2020年11月20日 06時31分40秒

前回の記事は、何だか全部自分の頭で考えたことのように書きましたが、私が「天文和骨董」という概念を、明瞭に自覚したのは、一種の「外圧」によるものです。つまり、異国の人に指摘されて、そのことに気づいたのでした。

以前もチラッと触れた【LINK「History of Astronomy」というツイッターアカウントがあります(@ HistAstro)。

シカゴのサイエンス・インダストリー博物館の学芸員、ヴーラ・サリダキス(Voula Saridakis)さんのアカウントで、内容は読んで字のごとくですが、狭義の「天文の歴史」のみならず、天文に関わる事象を広く取り上げているので、ここではシンプルに「天文史」と呼ぶことにします。

そして、そこにしばしば日本のモノも登場します。でも、我々の感覚からすると、「おや?これも天文に関わる事物なのかな?」と思えるものが多くて、そこに興味を覚えたのでした。

最近のツイートから、その実例を見てみます。
(以下、青字部分はツイート本文の私訳)

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 「七福神のうちの二人である恵比寿(左)と大黒(右)、そしてネズミから始まる十二支動物の輪を描いた絹本掛軸(1816年)。依田竹谷〔よだ・ちっこく〕作、大英博物館蔵。」
https://britishmuseum.org/collection/object/A_1881-1210-0-2348

どうでしょう?この絵が、古星図やアストロラーベと並立する存在だと感じられますか?我々からすれば、単なる縁起のいい吉祥画にしか見えませんが、サリダキスさんの目には、これが「天文史の遺品」と見えているのです。おそらく、十二支という観念が、暦学をはじめ、中国文化圏における時間と空間の秩序を規定するものとして、いかに重要かを、彼女が熟知しているからでしょう。

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今度は北斎の錦絵です。

 「“天の原 ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも”
 日本人・葛飾北斎(1760-1849)の絵。詩は阿倍仲麻呂(698-770)が中国で詠んだもの。」
https://metmuseum.org/art/collection/search/56175

仲麻呂の歌の英訳も面白いので挙げておきます。

"It might be the moon that shone above Mount Mikasa in Nara 
that I see in this faraway land 
when now I look across the vast fields of the stars."

繰り返しになりますが、この絵も天文史の1ページを飾る作品なのです。少なくともサリダキスさんは、そのようなものとして、これを引用しています。月に深い望郷の思いを重ねた古人の心根とともに、「遠隔地で観察した月」という主題が、天文史的エピソードを構成しているのでしょう。

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恵比寿・大黒に続いて、布袋さまも登場です。
この禅画「布袋指月図」の賛は、英語ではこうなっています。

"His life is not poor
He has riches beyond measure
Pointing to the moon, gazing at the moon
This old guest follows the way" 

そのオリジナルとともに、以下ツイートの本文を挙げます。

 「指月看月途中老賓 (月を指し 月を看る 途中の老賓)
 生涯不貧大福無隣 (生涯貧ならず 大福隣なし)
 風外慧薫(ふうがい・えくん 1568-1654〔別資料では1650〕)作。軸装。紙本に墨。ジョンソン美術館〔ニューヨーク〕蔵。」
https://museum.cornell.edu/collections/asian-pacific/japan/hotei-pointing-moon

分かったような、分からないような話ですが、天文史の世界は、こうして禅の世界も包摂して広がっているのです。これは月の精神性というテーマに関わる領域でしょう。

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こちらは仏画です。と言って、純粋な仏画とも言えません。

 「日本の神道/仏教の掛軸。1700年ころ。雨宝童子を描いたもの。雨宝童子は毘盧遮那仏(真理と光明を放つ大日如来)の化身である。また神道の太陽女神である天照と結びつき、難陀竜王と金毘羅王を付き従えている。ジョンソン美術館蔵。」
http://emuseum.cornell.edu/view/objects/asitem/items$0040:37143

ここでは太陽の神格化が、インド・中国・日本で複雑に絡み合っている様子が、天文史的に興味深いわけです。

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さらに、こうした文芸・美術関連の品々ばかりでなく、オーソドックスな天文学史的品ももちろん紹介されています。以下は、日本の国会図書館の特設ページ「江戸の数学」からの一品。


 「江戸時代の日本の著作『秘伝地域図法大全書』の付録。太陽と月の位置関係を示す紙製装置が備わっている。国会図書館蔵。」
https://ndl.go.jp/math/e/s2/4_2.html

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他人の褌を借りましたが、こうして眺めると、私が言わんとする天文和骨董の広がりを、おおよそ分かっていただけるでしょう。そして、何となくすすけた品々が、異文化の目を通して見ると、また違った色合いに見えてくるのを感じます。

天文和骨董 序説2020年11月17日 06時39分41秒

天文和骨董を考える上で、前から考えていたことを書きます。

天文和骨董というのは、絵画や工芸の分野に限れば、要するに日月星辰を描いた作品です。…というと、「じゃあ、正月の床の間にかける初日の出の掛け軸も、『天文和骨董』と呼んでいいの?」という疑問が、もやもやと浮かんできます。

(オークションで売られていた掛軸の画像をお借りしました)

「さすがにそこまで行くと、概念の拡張のしすぎじゃない?」という、内なる声も聞こえます。でも、初日の出の掛け軸だって、見方によっては立派な天文和骨董だ…というのが、熟考の上での結論です。

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日本は、星にかかわる習俗や文化が相対的に希薄だというのが、一般的理解だと思いますが、そんな日本人の暮らしにも、星(天体)に関する行事は、連綿と引き継がれています。

たとえば七夕です。あるいはお月見です。
そして初日の出を拝む行為もその一つです。

毎年、暦の最初の日に、大地や海から上る太陽を拝んで一年の幸を祈る、さらにそれを絵に描いて家の中心に飾る…となれば、これは押しも押されもせぬ、立派な天文習俗でしょう。あまりにも陳腐化して、我々はそのことを忘れがちですが、異文化の目を通して見れば、きっとそのように見えるはずです。

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それと、もう一つ気になっていることがあります。

それは「お星様」という言い方です。「お日様」「お月様」という言い方もあります。これらは現在、何となく幼児語として扱われている気がしますが、「お海様」とか「お山様」とは言いませんし、「お雲様」とも「お虹様」とも言いません。ただし「雷様」とは言います。

こうして並べてみると、「雷様」が明らかに人格化された雷神を指しているように、お星様、お日様、お月様という言い方も、日月星辰を神格化し、敬っていた名残だろうと推測されるのです。そして、お日様を「お天道様」とも言うことから、そこには中国思想の影響が濃いこともうかがえます。

こういう風に考えると、日本は星にかかわる習俗や文化が相対的に希薄だ…という言い方もちょっと怪しくて、過去のある時期において、日本人は大いに日月星辰を意識して、しょっちゅう天を振り仰いでいたんじゃないかなあ…と思うのです。(そのわりに星座や星座神話が未発達なのは何故か?というのは、また別に考えないといけません。)

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旭日画に「お日様」の姿が読み取れるなら、月の絵についてはどうでしょうか?

月を愛でるのは、多くの文化に共通でしょう。日本でも月を描いた作品は、これまで無数に描かれてきました。ただ、日本に特徴的なのは、桜、梅、ホトトギス、秋草、雁…そういう特定の自然物と組み合わされて描かれることが多いこと、すなわち表現の様式化が著しいことです。これは日本の詩歌も同様と思います。

(これも借り物の画像)

言うなれば、これはリアルな月(=個性化された月)よりも、様式化された月(=無個性な月)を愛でる態度に通じます。これこそが旭日画との大きな共通点であり、そこに私は「お月様」の匂い――月の神格化の残滓――を感じるのです。(宗教画は本来「偶像」であり、没個性をその本質とするものでしょう。) ここでは、梅や秋草や雁は、いわば月という<本尊>に対する「お供え」であり、荘厳(しょうごん)なのだ…というわけです。

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まあ、この辺は異論もあるでしょうし、私の中でもまだ生煮えの考えに留まっています。
それに、上に書いたことは、あくまでも「理念」です。潜在的に天文和骨董と呼びうるからといって、何でもかんでもそうだと言い立てるのは、良識ある態度とは言えません。記事の方はもう少し節度をもって書き進めたいと思います。

いずれにしても、この国に暮らした人々の天空への思いを、モノを通してたどろう…というのが、私の意図するところです。

天文和骨董の世界2020年11月15日 16時41分51秒

世の中は三日見ぬ間の桜かな。
まことに転変の多い世です。


昔の高橋葉介さんの漫画、「宵闇通りのブン」(1980)だと、少女ブンが「パパ遅いな…」と、街灯の下で腕時計を気にしている間にも、貧相なチョビ髭の男が民衆の英雄となり、一国の指導者に上り詰め、戦争が起こり、「話が違うじゃないか!」と嘆く民衆の上に爆弾が降り注ぎ、焼け跡に終戦の号外が配られたところで、ようやく父親が姿を見せて、「ひどいわ。ずいぶん待ったのよ。退屈しちゃったわとブンがふくれっ面をする傍らで、かつての「英雄」は、民衆によって縛り首になる…。


それぐらいの時間感覚で、世界が動いている感じです。
まあ、動くにしても、いい方向に動いているかどうかが肝心でしょうが、そこは一寸混沌としています。

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さて、しばらく蟄居している間に、私の身辺や心の内にも、いろいろなことが去来し、そこにも有為転変の風は吹き荒れていました。でも、だからこその天文古玩です。自らを安んじるため、古人の思いを訪ねて、モノを手にすることは続いています。

そんな中で、最近考えるのは「天文和骨董」は可能か?という命題です。

天文アンティークというのは、私自身それを唱導し、また世間でもそれを愛好する人がポツポツ現れて、そういう品に力を入れるお店もあるわけですが、総じて西洋の品で商品棚が埋まっているのが現状でしょう。

このブログだと、七夕の話題に関連したりで、和の品もときどき登場しましたが、それに興味を持つ人は皆無と言ってよく、2020年現在、「天文和骨董」というジャンルは、まだ存在していないと思います。しかし、これはいずれ形を成す…いや、成してほしいです。

まあ、遠い星の世界を愛するのに、地球上の国や地域という区分は、あまり意味がないとは思います。でも、人々の星への思い―すなわち「星ごころ」は、文化的バックグラウンドがあって花開くものですから、星と同時に「星ごころ」を愛でようとするとき、その時代や国・地域を無視することはできません。

そして、この島国に生まれ育った私が、自らの星ごころを振り返り、その文化的背景に自覚的であろうとすれば、「天文和骨董」というジャンルは、どうしてもあって欲しいのです。確かにそれがなくても、別に困りませんが、自分の趣味嗜好を、他の人と分かち合うためには、そこに共通言語があったほうが何かと便利でしょう。

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「天文和骨董」というと、野尻抱影にも先例があって、抱影には『星と東方美術』という著作があります。この本は以前【LINK】取り上げましたが、そこで抱影が話題にしているのは、「東方美術」の名にふさわしい、博物館や社寺の秘庫に収まっているような歴史的文化財です。

(画像再掲)

一方、私の言う天文和骨董は、趣味人が手元に置いて愛でたくなるような、身近な品々なので、抱影の文章は大いに参考にはなりますが、その手引きには程遠いです。ですから、天文和骨董を語ることは、ちょっと大げさに言えば、「僕の前に道はない」的な、やや強い決意を要することです。

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と言って、最初から「これが天文和骨董だ」と、決めてかかることはしません。

今回、ささやかな試みとして、「和骨董・和の世界」という新カテゴリー【LINK】を作りました。ここには和骨董的な古びた品々をはじめ、ジャパネスクな伝統工芸品や、和の匂いの濃い品をまとめました。そうした品々が集積した先に、おそらく「天文和骨董」の世界も徐々に輪郭を備えてくるのではないか…と予想します。


庚申信仰2020年09月21日 07時16分17秒

(今日は2連投です。前の記事のつづき)

その干支のひとつに「庚申(こうしん/かのえさる)」があります。
西暦でいうと、直近は1980年で、次は2040年。

ただし、干支というのは「年」を指すだけでなく、「日」を指すのにも使います。だから旧暦を載せたカレンダーを見ると、今日、9月21日は「丁卯」で、明日は「戊申」、あさっては「己巳」だ…というようなことが書かれています。

そういうわけで、庚申の日も60日にいっぺん回ってきます。近いところだと先週の月曜、9月14日が庚申の日でした。次は11月13日です。庚申塚とか、庚申講とか、いわゆる「庚申信仰」というのは、この庚申の日に関わるものです。

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庚申信仰について、ウィキペディアばかりでは味気ないので、紙の本から引用します。

 「〔…〕庚申(かのえさる)にあたる日には、特殊な禁忌や行事が伝えられている。とくに庚申の日に、眠らないで夜をあかすという習俗は、もともと道教の説からおこったものである。人の体に潜む三尸(さんし)という虫が、庚申の日ごとに天にのぼり、その人の罪を天帝に告げるという。そこで、その夜には、守庚申といって、眠らないで身を慎むのである。

〔…〕庚申待ちの礼拝の対象は、一般に庚申様と呼ばれている。しかし、もともと庚申の夜には、特定の神仏を拝んだわけではなかった。初期の庚申塔には、山王二十一社や阿弥陀三尊などがあらわれ、江戸時代になって、青面金剛(しょうめんこんごう)が有力になってくる。さらに神道家の説によって、庚申が猿田彦に付会され、道祖神の信仰にも接近した。

〔…〕庚申信仰の中核となるのは、それらの礼拝の対象とかかわりなく、夜こもりの慎みであったと考えられる。そのような夜こもりは、日待ちや月待ちと共通する地盤でおこなわれていたといえよう。」
 (大間知篤三・他(編)、『民俗の事典』、岩崎美術社、1972)

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引用文中に出てくる「青面金剛」の像を描いた掛け軸が手元にあります。(元は文字通り掛け軸でしたが、表装が傷んでいたので、切断して額に入れました。)


憤怒相の青面金剛を中心に、日月、二童子、三猿、それに二鶏を配置しています。
庚申の晩は、これを座敷に掛けて、近隣の者がその前で夜通し過ごしたのでしょう。といって、別に難行苦行というわけではなくて、ちょっとしたご馳走を前に、四方山の噂をしたり、村政に関わる意見を交わしたり、村人にとっては楽しみ半分の行事だったと思います。


線は木版墨摺り、それを手彩色で仕上げた量産型で、おそらく江戸後期のもの。
改めて庚申信仰を振り返ってみると、

○それが暦のシステムと結びついた行事であること、
○道教的宇宙観をベースに、人間と天界の交流を背景にしていること、
○日待ち・月待ちの習俗と混交して、日月信仰と一体化していること、
○夜を徹して営まれる祭りであること

…等々の点から、これを天文民俗に位置づけることは十分可能です。まあ、この品を「天文アンティーク」と呼べるかどうかは微妙ですが、このブログで紹介する意味は、十分にあります。

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ところで、手元の品を見て、ひとつ面白いことに気づきました。


この掛け軸は、絵そのもの(いわゆる本紙)は、割と保存状態が良かったのですが、一か所だけ、三猿の部分が著しく傷んでいます。特に「言わざる」の口、「聞かざる」の耳、そして「見ざる」に至っては顔全体が激しく摩耗しています。

おそらくこれを飾った村では、見てはいけないものを見た人、聞いてはいけないことを聞いた人、言ってはいけないことを言った人は、庚申の晩に、対応する三猿の顔を撫でて、己の非を悔いる風習があったのではないでしょうか。そうした例はすでに報告されているかもしれませんが、私は未見なので、ここに記しておきます。

(上の想像が当たっているなら、その摩耗の程度は、当時の「三悪」の相対頻度を示すことになります。昔は見ちゃいけないものが、やたら多かったのでしょう。)

夏の果ての雲の色2020年08月31日 07時00分05秒

秋は空から下りてくる―。

以前ブログの中で呟いた言葉ですが、これは我ながら名言。暑さに汗をぬぐいながらも、ふと細かい鱗雲や、刷毛ではいたような筋雲が、高い空に浮かんでいるのを見ると、「ああ秋も近いな」としみじみ思います。山里だと、赤とんぼが山から下りてきたり、山のいただきから木の葉が色づいたりするので秋を感じるのでしょうが、都会でも雲の景色は自然の理をあらわして、いたって正直なものです。

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ですから、「晩夏雲(ばんかのくも)」と題された次の歌を知ったときは、大いにうれしかったし、その透徹した観察眼にシンパシーを感じました。

  白雲のみねのけしきはかはりける
    そらより夏はくれんとすらむ

目に焼き付くような純白の入道雲に、いつか秋色がまじり、地上に先駆けて、まず空の彼方から夏は暮れようとしている…。鮮明な印象を伴う歌です。


この歌を詠み、短冊に筆をふるったのは、黒田清綱(1830-1917)
いわゆる維新の功臣の一人で、薩摩出身の官僚として、最後は枢密顧問官をつとめた人。その一方で和歌をよくし、歌人としても一家を成しました。画家の黒田清輝はその養嗣子です。

私は元薩摩藩士と聞くと、つい豪傑肌の人を想像してしまうので、こういうこまやかな歌の存在を知って、意外に思うと同時に、己の不明を大いに恥じました。

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今日で8月も終わり。いよいよ本物の秋がやってきます。


【9月1日付記】

上の短冊の読み方について。上の読みは、売り主である古本屋さんが教えてくれたものですが、私には「峰のけしき」の「は」の字が読み取れません(作者が書き洩らしたか?まあ、そういうことも無くはないでしょう)。そして「かはりける」の結びが正しければ、「峰のけしき」とでもすべきところですが、決め手に欠けるので、ここでは疑問を記すにとどめます。

雨と月2020年06月14日 12時12分14秒

雨がやんで、少し空が明るくなりました。
それでも、空は依然として湿った灰色をしています。

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今は官許の旧暦がないので、何を以て正しい日付とするか、そこに確かな答があるわけではありません。それでも日めくりを見れば、旧暦の日付が載っています。

旧暦は、新暦のだいたいひと月遅れですから、梅雨の今頃は、例年だと旧暦5月に入って幾日か過ぎた時分にあたります。ただし、今年は4月と5月の間に「閏(うるう)月」がはさまったせいで、来週の今日(21日)から、ようやく旧暦5月が始まるんだそうです(今日はまだ閏4月の23日です)。

例年でいえば、旧暦5月はたいてい梅雨の盛りなので、5月には「雨月(うげつ)」の異称があります。そして「雨月」は「雨夜の月」も意味し、雨雲に隠れた月を偲ぶ語でもあります(俳句の世界だと、お月見の晩に限って言うので、秋の季語です)。さらにまた、上田秋成は「雨が上がり、おぼろな月が顔をのぞかせた晩に編纂したから…」という理由で、自らの怪談集を『雨月物語』と命名しました。

雨と月の関係性もいろいろです。
両者は人々の心の中で、反発し合いながらも睦み合うところがあって、文学上の扱いが、なかなかこまやかです。

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野口雨情の「雨降りお月さん」は、意味のよく分からない、不可解な歌ですが、私はずっと寂し気な「月の花嫁」が、雨の降る晩、天馬に揺られて空の旅路を行く場面を想像していました。そして、月に帰ったかぐや姫のことを思ったりしました。

たぶん、これは作者の意図とはずいぶん違ったイメージでしょうが、「雨情」と名乗るぐらいですから、彼が雨に思い入れがあって、月の横顔に麗人の姿を重ねて愛していたことは確かだという気がします。

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明月もよく、おぼろ月もよく、そして雨月もまたよいのです。

(月と流水紋。京都十松屋製の舞扇。いっとき月にちなむ「和」の品にこだわった時期があって、今もその思いは伏流水のように潺湲(センカン)と続いています。)

桜図譜のはなし(1)2020年04月05日 12時34分44秒

季節はめぐり、みっしりと桜が咲きました。
そして、早めに開いた花はもうハラハラと散り始めています。
いつもの年と変わらぬ穏やかな光景。

年度替わりのゴタゴタに翻弄されていましたが、この週末は久しぶりに自由が戻ってきました。とはいえ、コロナのせいで心底くつろぐことはできません。今年は桜の花も何だか只ならぬ気配を帯びて感じられます。

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ちょっと前に書いたように、桜の図譜を手元に置いて眺めています。
現実の桜はもちろん美しいのですが、図譜は図譜で美しく、自粛ばやりの昨今、「ひとりデカメロン」の恰好の話し相手になってくれます。

桜の図譜はこれまで何度か編まれていますが、以下は「戦後三大桜図譜」と呼ぶにふさわしい本たち。


■『桜 SAKURA; Flowering Cherries of Japan』
 〔15代〕佐野藤右衛門(著)、堀井香坡・小松春夫(画)、大井次三郎(解説文)
 光村推古書院、1961
 ※掲載種 101(同一品種内で微細な変異を示すものを含む)。表紙サイズ 35.4×26.3cm。


■『日本桜集』
 大井次三郎・大田洋愛(著)〔大井氏が文、太田氏が画を担当〕
 平凡社、1973
 ※掲載種 154(園芸品種141、野生種・外来種13)。表紙サイズ 30.5×21.7cm。


■『サクラ図譜』
 川崎哲也(著/画)、大場秀章(編)〔川崎氏の遺稿を大場氏が整理編纂〕
 アボック社、2010
 ※掲載種 41(名前未詳の1種を含む。同一種複数図版あり。巻末の「花序図」を含め、図版総数は90)。表紙サイズ 37×26.5cm。

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それぞれの中身を順次見ていきたいのですが、その前に以下の本にまず触れておきます。


■『桜狂の譜-江戸の桜画世界』
 今橋理子著、青幻舎(2019)

副題に「江戸の桜画世界」とありますが、本書は桜を描いた江戸の画人を総まくりした本ではなく――そういう意味では、当時のほとんどの画家が桜の絵を描いていたでしょう――、今橋氏が「三熊派」とネーミングした4人の画家を集中的に取り上げています。(後半では、造園狂の大名・松平定信の事績と、彼が編ませた桜図譜、『花のかがみ』にも触れています。)

三熊派は、他の画家と違って、桜の絵「だけ」を描き続けた人たちです。
まさに「桜狂」の名にふさわしい人々。

三熊思孝(みくましこう、1730-1794)を始祖とし、思孝の妹である三熊露香(みくまろこう、?-1801頃)、思孝の弟子である広瀬花隠(ひろせかいん、1772?-1849頃)、そして露香の女弟子、織田瑟瑟(おだしつしつ、1779-1832)をメンバーとする、なんだか「派」と呼ぶのが覚束ないような、狭いサークル内で完結した画業です。

(広瀬花隠の画帖『六々桜品』より。上掲書pp.84-85)

彼らは、なぜ憑かれたように桜を描き続けたのか。
もちろん4人の人間がいれば、そこに4つの理由があるのでしょうが、こと思孝に関していえば、彼が「桜は皇国の尤物にして異国にはなし」という認識を持っていたからだ…と、今橋氏は指摘します(p.47)。

もちろん桜は日本の固有種ではありません。
にもかかわらず思孝がこう思い込んでしまったのは、貝原益軒(1630-1714)に原因がある…という指摘がさらに続きます。問題となったのは、益軒の『花譜』という本草書(1698刊)です。以下、今橋氏の文章を引用させていただきます(引用にあたって、漢数字を一部算用数字に改めました)。


 「その一文をここに引用してみよう。

  「花はいにしへより、日本にて第一賞する花なり。(中略)文選の詩に、山桜は果(くだもの)の名、花朱、色火のごとし、とあれば、日本の桜にはあらず。からのふみに、日本の桜のごとくなるはいまだみず。長崎にて、から人にたづねしも、なしとこたふ。朝鮮にはありといふ。」 (貝原益軒『花譜・菜譜』、筑波常治解説、八坂書房、1973年、31頁)

 〔…中略…〕実際には、中国の四川省や雲南省には桜の自生地が有るのだが、たまたまそうした事実を知らない中国人と出会ってしまった益軒は、海外情報を旺盛に摂取・発信しようとしたがために、却って逆に誤った事実を自著に記してしまったのである。だがそれ以上に問題だったのは、益軒が「中国にはなし、朝鮮にはあり」と、国ごとの桜の有無を述べていたにも拘わらず、「桜=中国不在」説がいつの間にか「桜=大陸不在」説となり、ついには「桜=異国不在」あるいは「桜=日本固有の花」「桜=国花」説という強引な文脈(コンテキスト)が出来上がってしまったことである。

 このような文脈が益軒以降、いつ頃より出来上がってしまったのかはわからないが、大博物学者益軒に端を発したことの意味は重く、この誤った情報は時代を経るにつれてより拡散され、庶民の間においても流布したことがわかっている。さらにその上、国学者の賀茂真淵(1697~1769)や本居宣長(1730~1801)らが、次のような歌を詠んでしまう。

  もろこしの人に見せばや三吉野の吉野の山の山さくら花  加茂真淵
  敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜はな  本居宣長


 つまり真淵の歌では、中国人に示すべき花は桜で「日本の花=国花=桜」という図式が示されている。そして宣長の歌ではさらに、「桜=日本精神の象徴」という文脈までもが作り出されているのである。」
 (『桜狂の譜』pp.48-49.)

こうなると、戦時中の桜プロパガンダや、現代のネット国士の桜アイコンにまでつながる話ですから、なかなか広がりのある話題です。そして、その源が江戸の国学を越えて、さらに本草学者・貝原益軒にまでさかのぼる…というのは、目から鱗でした。

(三熊思孝筆 桜図(寛政6年、1794)・部分。上掲書pp.32-33)

もちろん、美しい桜の画はただ虚心に眺めればよく、それを強いてイデオロギッシュに解釈する必要もないのですが、こういうのは知っているのと知らないのとでは、大きな差が生じますから、やはり知っておいた方がよいのです。

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さて、こういう桜党の前史を下敷きに、「戦後三大桜図譜」を見に行きます。

なお、「戦後」というからには「戦前」もあるわけですが、こちらは意外に少なくて、大部なものは、三好学『桜花図譜』(1921)が目に付くぐらいです。でも、これはかなりの稀本で、私もまだ実物を目にしたことはありません。内容を知るだけなら、以下のページで全頁カラー画像を眺めることができます(大英博物館の所蔵本です)。


(この項つづく)

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【閑語】

ホラー映画を見ていて、「あ、これは何か出るな…」とドキドキしている感じというか、強いて日常の生活を送りながらも、何だか不安で不穏な気分が持続しています。コロナのせいで、いささか気弱になっているせいでしょう。

ちょっと前まで、安倍氏は緊急事態宣言を出したくてたまらないんだろう…と、多くの人が推測していましたけれど、実際にはかたくなに拒んでいるように見えます。そして、そのことで、また多くの批判を招いています。

安倍氏には、緊急事態宣言を出すことをためらう理由が何かあるのか?
ひょっとして、彼は何かを察知しているのか? 例えば市民の外出が制限された機に乗じて、自分を検束する動きがあるという情報に接しているとか…。

5月15日、首都に複数の銃声が響きわたっても驚かないぐらい、今の私は心が浮動的です。