快著 『中国古星図』2024年11月24日 17時18分57秒

風邪から回復しました。

で、おもむろに記事を書こうとしたんですが、書きたいことはいっぱいあるのに、どれもうまく書けない気がして、筆が進まない…。こういうことが時々あります。でも、暇つぶしのブログを埋めるのに、別にうまく書く必要もないし、とりあえず何でもいいので書き始めた方がいいことは経験的に分かっているので、ぼんやりした気分のまま書き出します。

   ★

このところ、興味をそそられる本に立て続けに出会いました。
中でも驚いたのが以下の本です。


■李亮(著)、望月暢子(訳)
 『中国古星図』
 科学出版社東京株式会社、2024.(B5判、211p)

帯には「中国天文学と古星図を包括的に紹介/悠久の歴史を持ち、独自の発展をとげた中国天文学と古星図。最新の考古学資料を含む350余点のカラー図版を駆使した稀有な一冊!」とビックリマークが付いていますが、これは大げさではなく、相当ビックリな本です。

科学出版社は、北京に本拠を置く中国最大の学術書の出版社で、本書の版元はその東京の子会社です。原著は親会社から2021年に出た『灿烂〔燦爛の簡体字〕星河 —中国古代星图(華麗な銀河 ―中国古代の星図)』です。

著者の李亮氏は、中国科学院自然史研究所のスタッフ紹介【LINK】によると、天文学史および中国と諸外国の科学技術交流史が専門で、2008年に博士号を取得後、ドイツのマックス・プランク科学史研究所やフランス国立科学研究センター、パリ第7大学で研鑽を積んだ、少壮気鋭の研究者のようです。

その意味で、本書は相当本格的な解説書で、私のようにコーヒーテーブルブック代りにしてはいけないのですが、帯にあるように、美しいカラー図版を満載した紙面は見るだけで楽しいものです。

   ★

しかも意外なことに、中国の古星図についてまとめた書籍は、中国本土でもこれまでほとんど例がないそうです。著者が序文で挙げている例外は、陳美東氏が編纂した『中国古星図』(1996)と、潘鼐(ハンダイ)氏による『中国恒星観測史』、『中国古天文図録』(いずれも2009)ですが、前者は明代の星図に特化した論文集であり、後2者はその力点と記述密度からして、古星図論としては不十分なもので、図版もモノクロが大半だそうですから、本書のように通史として十分な内容を備え、最新の資料も漏らさず、しかもカラーでそれらを紹介した一般書はまことに稀有、本邦初どころか世界初ということになるのです。

(おなじみの「淳祐天文図」ですが、星図の下に刻まれた跋文の全訳が載っているのは有益)

しかも(‘しかも’が多いですね)、本書が取り上げるのは中国国内のみならず、その影響を受けた朝鮮半島や日本の古星図についても特に章を設けており、東アジア世界の古星図を俯瞰する上で、まことに遺漏がありません。

   ★

以下に、各章の章題のみ挙げておきます。

 第1章 中国星図の歴史
 第2章 中国古天文学に関する基礎知識
 第3章 墳墓と建築の星図
 第4章 石刻星図
 第5章 紙本星図
 第6章 洋学と星図
 第7章 実用星図
  〔※航海星図や占星用星図など〕
 第8章 地理関連文献の星図
 第9章 識星の文献と星表
  〔※識星の文献とは中国星座の基本を教える『歩天歌』など〕
 第10章 器物星図
  〔※日常器物に描かれた星図や天球儀など〕
 補章A 朝鮮の古星図
 補章B 日本の古星図
(その他、巻末には参考文献と図版リストが掲載されています。)

(第10章 器物星図より)

まさに全方位死角なし。
西洋星図の歴史については、これまで多種多様な本が編まれてきましたが、東アジア世界の星図についても、ようやくそれらに匹敵する歴史書が出たわけです。まさに近来稀に見るクリーンヒットな出版物だと思います。

(補章B 日本の古星図より。この福井県・瀧谷寺所蔵の「天之図」は初見でした)

(同上。司馬江漢の「天球十二宮象配賦二十八宿図」のようなマニアックな図もしっかり解説されており、著者の目配りの確かさが窺えます)

…と、書いているうちに気分が上向いてきました。
やっぱりこういうときは「書くのが薬」です。

   ★

今日は晴れ晴れとした好天気でした。
ブログを書いたり、庭仕事をしたり、地元の選挙に行ったりする合間に散歩をしていたら、街なかの木々もすっかり色づいているのに気づきました。考えてみれば、あとひと月でクリスマスですね。


兵庫ではまた妙な騒動が持ち上がっているようですが、地元の名古屋はさてどうなるか。師走を前にいろいろ気ぜわしいです。

洋星と和星2024年10月04日 18時32分13秒

先日、『野尻抱影伝』を読んでいて、抱影の天文趣味の変遷を記述するために、「洋星」「和星」という言葉を思いつきました。つまり、彼が最初、「星座ロマン」の鼓吹者として出発し、その後星の和名採集を経て、星の東洋文化に沈潜していった経過を、「洋星から和星へ」というワンフレーズで表せるのでは?と思ったのです。


   ★

骨董の世界に西洋骨董と和骨董(中国・朝鮮半島の品を含む)の区別があるように、星の世界にも「洋星」と「和星」の区別がある気がします。もちろん星に洋の東西の区別はありませんが、星の話題・星の文化にはそういう区別が自ずとあって、ガリレオやベツレヘムの星は「洋星」の話題だし、渋川春海や七夕は「和星」の話題です。

(Wikimedia Commons に載っている Occident(青)vs. Orient(赤) の図)

もっとも洋の東西とはいっても、単純ではありません。
たとえばエジプトやメソポタミアは「オリエント」ですから、基本的に東洋の一部なんでしょうが、こと星の文化に関しては、古代ギリシャ・ローマやイスラム世界を通じて、ヨーロッパの天文学と緊密に結びついているので、やっぱり「洋星」でしょう。


じゃあ、インドはどうだろう?ぎりぎり「和星」かな?
…と思ったものの、ここはシンプルに考えて、西洋星座に関することは「洋星」、東洋星座に関することは「和星」と割り切れば、インドは洋星と和星の混交する地域で、ヘレニズム由来の黄道12星座は「洋星」だし、インド固有の(そして中国・日本にも影響した)「羅睺(らごう)と 計都(けいと)」なんかは「和星」です。

その影響は日本にも及び、以前話題にした真言の星曼荼羅には黄道12星座が描き込まれていますから、その部分だけとりあげれば「洋星」だし、北斗信仰の部分は中国星座に由来するので「和星」です。つまり、星曼荼羅の小さな画面にも、小なりといえど洋星と和星の混交が見られるのです。


近世日本の天文学は、西洋天文学の強い影響を受けて発展したものの、ベースとなる星図は中国星座のそれですから、やっぱり「和星」の領分です。いっぽう明治以降は日本も「洋星」一辺倒になって、「銀河鉄道の夜」もいわば「洋星」の文学作品でしょう。

   ★

とはいえ世界は広いので、「洋星」と「和星」の二分法がいつでも通用するわけではありません。サハラ以南のアフリカや、中央アジア~シベリア、オセアニア、あるいは南北のネイティブアメリカンの星の文化は、「洋星」とも「和星」とも言い難いです。

非常に偏頗な態度ですが、便宜的にこれらを「エスニックの星」にまとめることにしましょう。すると、私が仮に『星の文化大事典』を編むとしたら、洋星編、和星編、エスニック編の3部構成になるわけです。一応これで話は簡単になります。

   ★

「洋星」と「和星」をくらべると、一般に「洋星」のほうが人気で、「和星」はちょっと旗色が悪いです。まあ「洋星」の方が華やかで、ロマンに満ちているのは確かで、対する「和星」はいかにも地味で枯れています。

しかし抱影と同様、私も最近「和星」に傾斜しがちです。
「ふるさとへ廻る六部は気の弱り」という古川柳がありますけれど、元気な若い人はまだ見ぬ遠い世界に憧れ、老いたる人は懐かしい故郷に自ずと惹かれるものです。

たしかに私は抱影ほど伝統文化に囲まれて育ったわけでもないし、幼時からなじんでいるのはむしろ「洋星」ですが、それでもいろいろ見聞するうちに、抱影その人へのシンパシーとともに、「和星」思慕の情が徐々に増してゆくのを感じています。

松橘月図硯箱2024年09月17日 20時19分27秒

今宵は旧暦の八月十五夜、中秋の明月です。

今さらですが、満月は太陽と正反対の位置にあるので、太陽が西に沈むのと、満月が東から顔を出すのは、ほぼ同時になります。今宵もちょうどそれで、今日の夕日は美しい茜色でしたが、お月様も負けじと薄桃色にお化粧をして、しかも建物の隙間に浮かぶ姿があまりにも巨大だったので、びっくりしました。まずは見事な名月といってよいでしょう。

   ★

今日はお月見にふさわしく、風流な品を載せます。


古い蒔絵の硯箱。
先日も蟹と琴の硯箱を話題にしましたが、こちらは家蔵の品なので、モノの良し悪しはともかく、私にとっては一層愛着が深いです。


こんな風にコントラストをつけると、いかにも趣があるように見えますが、図柄を検討するには不向きなので、以下、購入時の商品写真を流用させていただきます(漆器は反射がきつくて、うまく写真に撮れませんでした)。


こちらが蓋の表で、


こちらが蓋の裏のデザインです。

ご覧のようにモチーフは表裏とも共通で、「松に橘」図です。
問題は、そこに描き加えられた天体で、裏はもちろん月ですが、


表は太陽なのか、月なのか判然としません。


太陽ならば「日輪と月輪」が、月ならば「満月と半月」が対で描かれた絵柄ということになりますが、これはどちらもあり得るので、にわかに判断が難しいです。でも、ここでは後者を推しておきます。なぜか?といえば、この絵柄全体の意味を考えると、その方が理解しやすいからです。

   ★

「松竹梅」のはいうまでもなく嘉樹の筆頭として長寿のシンボルであり、もまた常世の国に生える「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」として、古来、不老不死のイメージで語られてきました。

そこにです。月は永遠に満ち欠けを繰り返すがゆえに、これまた再生と不死のシンボルであり、不老不死の仙薬を持って月に逃れた嫦娥(じょうが)伝説や、切られてもすぐに再生する月桂のエピソードもそこに重ねて観念されてきました。

要するに、松・橘・月は不老不死のイメージでつながっており、これは全体として長寿を願う吉祥図になっています。そのイメージを貫徹するために、蒔絵師は月の満ち欠けを満月と半月で描き分けたのではないか…というのが、私の推測です。(これが日輪と月輪だと、その点でちょっと不完全な描写になる気がします。)

   ★

先日の「蟹と琴と月」はひどく難解でしたが、この「松と橘と月」のシンボリズムはごくシンプルで、心安く眺めることができます。いささか親馬鹿めきますが、月を眺める気分は、すべからくこうあってほしいものです。

蟹と月と琴(補遺)2024年09月08日 19時11分18秒

記事を書き上げた後で、脳内の歯車がカチッと回った気がします。

強力な鋏と固い甲羅を持つ蟹は、尚武のシンボルとして武家で好まれたデザインであり、武具や調度にも取り入れられた…というのが、ここでは重要なヒントかもしれません。

私はこれまで、この画題を「風雅」「吉祥」に引き付けて解釈しようと努めたことから、蟹の位置づけに苦しめられましたが、それ以外の要素もここにはあると考えると、また別の解釈が可能かもしません(それが何かはまだはっきりしませんが…)。

(『平安紋鑑』より蟹紋各種)

ちなみに蟹を紋所にする家もいくつかあって、可児氏も確かにその一つとのこと。


蟹と月と琴(後編)2024年09月08日 13時35分09秒

(今日は2連投です)

もう一つの万葉集云々ですが、これは『万葉集』巻十六に収められた「乞食者(ほかひひと)が詠(うた)ふ歌二首」のうちの一首を指します。

新潮日本古典集成(青木生子他校注)の注釈によれば、「乞食者(ほかひひと)」とは、いわゆる路傍で物乞いする人ではなく、「家々の門口を廻って寿歌(ほぎうた)などを歌って祝い、施しを受けた門付け芸人」とあります。


万葉集は、その寿歌を2首採録していて、1首目は鹿の歌、2首目が蟹の歌です。
いずれも捕らえられた鹿と蟹が、やがて我が身が大君のお役に立つであろうと、彼ら自身が述べる体裁になっています。まあ、鹿や蟹にとっては災難ですが、人間側から見れば、豊猟や豊漁を予祝する歌といったところでしょうか。

煩をいとわず、蟹の歌を全文掲げれば以下の通りです(新潮日本古典集成による。太字・改行は引用者)。

おしてるや 難波の小江(をえ)に
廬(いほ)作り 隠(なま)りて居る
葦蟹(あしがに)を 大君召すと
何せむに  我を召すらめや
明(あきら)けく 我が知ることを
歌人(うたびと)と 我を召すらめや
笛吹きと 我を召すらめや
琴弾きと 我を召すらめや
かもかくも 命(みこと)受けむと
今日今日(けふけふ)と 飛鳥に至り 
置くとも 置勿(おくな)に至り
つかねども 都久野(つくの)に至り
東(ひむがし)の 中の御門(みかど)ゆ
参入(まゐ)り来て 命(みこと)受くれば
馬にこそ ふもだしかくもの
牛にこそ 鼻縄(はななは)はくれ
あしひきの この片山(かたやま)の もむ楡を
五百枝(いほえ)剥き垂れ
天照るや 日の異(け)に干し
さひづるや 韓臼(からうす)に搗き
庭に立つ 手臼(てうす)に搗き
おしてるや 難波の小江の 初垂(はつたり)を からく垂れ来て
陶人(すゑひと)の 作れる瓶(かめ)を
今日行きて 明日取り持ち来(き)
我が目らに 塩塗りたまひ
腊(きた)ひはやすも 腊(きた)ひはやすも

以下、同じく現代語訳。

難波入江の葦原に廬りを作って、潜んでいるこの葦蟹めなのに、大君がお召しとのこと、どうして私などお召しなのか、私にははっきりわかっていることなんだけど、歌人にとお召しになるものか、笛吹にとお召しになるものか、琴弾きにとお召しになるものか、でもまあ、お召しは受けましょうと、今日か明日かの飛鳥に着き、置いても置勿(おくな)に辿り着き、杖も突かぬに都久野(つくの)に着き。さて東の中の御門から参上して仰せを承ると、馬にならほだしを懸けて当りまえ、牛になら鼻緒をつけて当りまえ、なのに蟹の私を紐で縛りつけてから、傍(そば)の端山(はやま)の楡の皮を五百枚も剥いで吊し、お天道様でこってり干し上げ、韓臼で荒搗きし、手臼で搗き上げ、故郷(ふるさと)難波江の塩の初垂り、その辛い辛いやつを溜めて来て、陶(すえ)の人が焼いた瓶を今日一走りして明日には持ち帰り、そいつに入れた塩を私の目にまで塗りつけて、乾物にし上げて舌鼓なさるよ、乾物にし上げて舌鼓なさるよ。

この歌に関連して、国文学者の吉田修作氏は、

 「三八八六番歌には「琴弾き」の前に「歌人」「笛吹き」とあり、それらの歌舞音曲の担い手として「吾を召すらめや」という文脈の中に位置付けられている。これらに対し、代匠記〔※引用者注:江戸時代の国学者・契沖による『万葉集』の注釈書、『万葉代匠記』のこと〕は蟹が白い沫を吹く動作や「手ノ数モ多ク爪アリテ琴ヲモ引ツベク見ユル故ナリ」との解答を与えている。蟹の動作を擬人化、戯画化したということだが〔…〕」

と述べられています(吉田修作『古代文学表現論―古事記・日本書紀を中心にして』(おうふう、 2013)、25頁)。

   ★

結局、万葉集の蟹は琴を弾くこともなく、干物にして食べられて終わりで、あんまり風流な結末ではないんですが、蟹と琴の関係を古典に求めると、確かにこういう細い糸があります。

しかし、この糸はいかにも細く、頼りなげです。
そしてあまり風雅・富貴な歌ともいえません。
それにこれだけだと、蟹と琴はいいとしても、月の存在が宙に浮いてしまいます。
ここまで追ってきても、依然この硯箱の謎は深いです。

   ★

うーむ…と腕組みしながら、しばし考えました。
ひょっとしたら、この硯箱は万人向けの、いわば普遍的な風雅や吉祥をテーマにしたものではなく、注文主(最初の持ち主)の属人的な記念品として制作されたのではあるまいか?

なんだか最後の最後で、ちゃぶ台返しのような結論になりますが、そうでも考えないと、この硯箱が存在する意味が分かりません。

(画像再掲)

たとえば、これは可児氏ゆかりの女性が、亡夫追善のため「想夫恋」を下敷きに作らせた硯箱であり、蟹は仏を象徴する「真如の月」を拝んでいるのだ…といったようなストーリーです。まあ出まかせでよければ、ほかにいくらでもストーリーは作れますけれど、そうなると、この絵柄の意味は注文主だけに分かる「暗号」であり、その謎は永遠に解けないことになります。

(関ケ原合戦図屏風に描かれた戦国武将・可児吉長(才蔵))

ここまで頑張ってきて残念ですが、今のところはこれが限界のようです。

(不全感を残しつつ、この項いったん終わり)

蟹と月と琴(中編)2024年09月08日 13時29分00秒

蟹と月と琴の三題噺の続き。

   ★

「月と琴」だけなら、昔から風雅な取り合わせとして、その典拠には事欠きません。
たとえば、唐の詩人・王維の古来有名な五言絶句「竹里館」

 獨坐幽篁裏  独り坐す 幽篁の裏(うち)
 彈琴復長嘯  琴を弾じて復た長嘯す
 深林人不知  深林 人知らず
 明月來相照  明月 来りて相照らす


日本の古典だと、『源氏物語』「横笛」巻で、源氏の嫡男・夕霧が「月さし出でて曇りなき空」の下、女二宮(落葉の宮)の邸を訪問し、琵琶と琴で「想夫恋(そうぶれん)」の曲を合奏するシーンだとか、『平家物語』巻六で、嵯峨に隠れ住む高倉帝の寵姫・小督局(こごうのつぼね)を、源仲国が「明月に鞭をあげ」て訪ね、これまた「想夫恋」を琴と笛で合奏するシーン。後者は能「小督」の題材ともなり、広く人口に膾炙しました。

(作者不明の小督仲国図。以前、オークションで売られていた商品写真を寸借)

   ★

問題は「琴と蟹」で、蟹が出てくると途端にわけが分からなくなります。
なぜここで蟹なのか?

前回の記事の末尾に掲げた、「特別展 日・月・星(ひ・つき・ほし)―天文への祈りと武将のよそおい」の図録に書かれた解説文を再掲します。

「満月のもと、琴と蟹を蒔絵で表す。主題の意味ははっきりしないが、万葉集に、葦蟹(あしがに)を大君が召すのは琴弾きとしてか、と詠んだ歌がある。あるいはまた琴弾浜を表すとも考えられる。」

   ★

話の順序として、まず「琴弾浜」由来説から先に検討しておきます。

琴弾浜(琴引浜)は京都府の日本海側、現在の京丹後市にある観光名所で、摩擦係数の大きな石英砂を主体とする浜であるため、ここを歩くとキュッキュッと音がすることから、その名を得たそうです(いわゆる「鳴き砂」)。

(ウィキペディアより)

で、ここが古来歌枕として名高く、万葉歌人がここで蟹と月を詠み込んだ歌を作っていたりすれば、すぐに問題は解決するのですが、もちろんそんな都合のいい話はありません。

そもそも、琴引浜の名が文献に登場するのは、江戸時代もだいぶ経ってからのことで、そうなると例の硯箱の方が地名より古いことになり、話の辻褄が合いません。どうもこの説は成り立ちがたいようです。

(長くなるので、ここでいったん記事を割ります。この項つづく)

蟹と月と琴(前編)2024年09月07日 08時14分22秒

昨日書いた「あるもの」とはです。

最初それに出会ったのは、「日輪と月輪―太陽と月をめぐる美術」展(サントリー美術館、1998)の図録上でしたが、そちらの図版はモノクロなので、所蔵者である東京国立博物館のサイトから画像を一部トリミングして転載します。


以下、同ページの作品解説より。

蟹琴蒔絵硯箱(かにことまきえすずりばこ)
 黒漆塗の地に金の高(たか)蒔絵で蟹と琴を描いた硯箱。蟹の目には金鋲(びょう)をうち、雲に金銀の切金(きりかね)を置き、月は銀の板を切り抜いた平文(ひょうもん)で表わすなど、大胆な図柄でありながら、様々な技巧が凝らされている。桃山文化期にも、伝統様式の蒔絵が存続していたことを示す一例である。」

時代は「江戸時代・17世紀」となっていますが、解説には「桃山文化期」ともあるので、まあ江戸の最初期の作品なのでしょう。

何だかシュールな、いかにもいわくありげな図柄ですが、これは一体何を表現しているのか? まあ「何を」といえば、もちろん蟹と月と琴なんですが、この取り合わせの背後にあるストーリーなり、典拠なりを知りたいと思いました。

当たり前の話ですが、昔の人は筆で文字を書いたので、硯箱は必需品でした。当然、膨大な数が作られたと思いますが、大半の実用品は古くなれば廃棄され、今も残る品は調度品を兼ねた、いわば「高級品」です。

そういう品の常として、そこに施される蒔絵は、もっぱら「吉祥」や「風雅」の意をこめたものであり、古典に取材した画題を採用していますから、この「蟹・月・琴」の場合も、そこには何か典拠があるはずだと思いました。

しかし、国立博物館の解説は、技法について言及しているだけだし、『日輪と月輪』展の図録に至っては、サイズ・時代・所蔵者がそっけなく書かれているだけで、解説めいたものは皆無です。

   ★

この件については、ネットもあまり役に立たなくて、何となくポカーンとしていましたが、別の展覧会の図録に、そのヒントが書かれていました。それは2004年に仙台市博物館で開かれた「特別展 日・月・星(ひ・つき・ほし)―天文への祈りと武将のよそおい」の図録です。


この展覧会でも、同じ「蟹琴蒔絵硯箱」(ただし図録では「琴蟹蒔絵硯箱」になっています)が出品されたのですが、その解説にはこうあります。

「満月のもと、琴と蟹を蒔絵で表す。主題の意味ははっきりしないが、万葉集に、葦蟹(あしがに)を大君が召すのは琴弾きとしてか、と詠んだ歌がある。あるいはまた琴弾浜を表すとも考えられる。」(図録p.122)

なるほど、これは脈ありかも…ということで、さらに謎を追ってみます。

(この項つづく)

「鬼と星」アゲイン2024年08月16日 19時17分49秒

以前、鬼と星の絵柄の湯飲みのことを書きました。

(同上)

この図がいったい何を意味しているのか、その時はまったく分かりませんでしたが、昨日、偶然その謎が解けました。これは「魁星図」あるいは「魁星点斗図」というものだそうです。

魁星とは何か?
どうもソースによって微妙に違うのですが、ここは本場中国に敬意を表して、「百度百科」を参照すると、北斗七星の柄杓の桝(水を汲む方)を構成する4つの星を総称して「魁星」といい、古来文章の神様として尊崇され、ひいては科挙試験の神様として拝まれたものだそうです(科挙試験の首席合格者を「魁甲」あるいは「魁首」と称しました)。まあ、日本の天神様みたいなものでしょう。

魁星が奇怪な鬼の姿で描かれるのは、「魁」の字を分解して、「鬼が斗(升)を蹴り上げる姿」に見立てたからで、このへんは完全に言葉遊びですね。そこに星の絵を添えれば、文字通り「魁星」というわけです。

(「魁星点斗独占鼇頭」図。出典:百度百科の同項より)

さらにその鬼が筆を持ち、伝説の巨亀「鼇(ごう)」に乗っているのが、絵に描くときのお約束で、これは「魁星点斗、独占鼇頭」、すなわち科挙試験に合格すると、受験者名簿の姓名欄に墨で点が打たれ、皇帝に拝謁する際は、首席合格者だけが宮殿前庭に置かれた鼇の像の頭上に立つことを許された…という故事に由来する絵柄だそうです。

   ★

これが湯呑の絵になると、全体が大幅に簡略化されて、蹴り上げているはずの「斗」もないし、「鼇」の姿もありませんが、そもそも日本に科挙制度はないので、あまり細部にこだわらず、それっぽく見えればよかったのかもしれません。いずれにしても、学問成就や家運隆昌といった意味合いを込めて、一種の吉祥画として江戸の人に受容されたのでしょう。

あるいは科挙制度から縁遠いからこそ、こういう異国の蘊蓄を語ることが、ぺダンティックな江戸の文人趣味に叶い、一部でもてはやされたのではないか…とも想像します(もっぱら染付の煎茶碗や香炉に描かれるところが、何となく文人趣味臭いです)。

   ★

何はともあれ、継続は力なり―。
こうして謎が解けて、またひとつ心が軽くなりました。


--------------------------------------
【付記】 本項を書くにあたり、上記以外に以下のページを参照しました。

青森県立図書館:伝える伝わる本の世界~「書物の世界」編~
 書物の神様「魁星」其の壱、其の弐
集字魁星点斗図
遅生の故玩館ブログ:古染付魁星点斗図煎茶碗(5客)

風流高楊枝2024年07月07日 06時38分27秒

七夕ということで、風雅を気取って掛軸をかけました。


なんとなくモヤモヤとして、遠目には何が描かれているのか、さっぱりわかりません。


ここまで近づいて、はじめて文机に梶の葉、その脇に秋草と燭台が描かれていることが分かります。七夕の景物をさらっと淡彩で描いているのですが、今回しげしげと眺めて、「うーむ、これは…」と思いました。

どうも文机の足の描き方が変だし、燭台の柱も曲がっている上、台座との関係も不自然です。要するにデッサンが狂っている。それにこれは屋外ではなく、縁側の光景のはずなのに、秋草が床から直接生えているのが、いかにも奇妙。


箱書きには「八十一翁 文翠書之」とあって、谷文晁門下の榊原文翠(文政8-明治42/1824-1909)が、明治37年(1904)に描いたことになっているのですが、職業画家がこんな下手な絵を描くはずはないので、要は粗悪な偽物でしょう。

榊原文翠といっても、今ではその名を知る人も少ないでしょうから、「そんな無名の人の偽物を作って、何かメリットはあるの?」と思われるかもしれませんが、当時にあってはそれなりの画家でしたから、やっぱり贋作を作る意味と旨味はあったわけです。

   ★

そんなわけで、風流の道もなかなか険しいです。
でも贋物でもなんでも、今宵は七夕の二星に捧げものをすることこそ肝要。風流の真似とて書画を飾らば即ち風流なり、これはこれで良しとしましょう。


 天の川 初秋風の 通ふらん
  雲井の庭の 星合の影

「雲井(雲居)の庭」は、かしこき宮中の庭の意。ステロタイプな凡歌にすぎませんが、宮中の庭から牽牛・織女の星を見上げ、天の川のほとりには、今頃初秋の風が吹いているだろう…と想像するのは、たしかに涼しげではあります。

なお、詠み手の「よしため」は未詳。ひょっとしたら、これもでっちあげで、そもそもそんな人はいないのかもしれません。まこと、すべては夏の夜の夢のごとし。

宝暦暦一件2024年05月30日 18時32分26秒

渋川春海が心血を注いだ貞享暦
しかしそれも完璧ではありえず、時代が下るとともに、改暦の声がぽつぽつ出てきます。まあ、実際には貞享暦もまだまだ現役で行けたのですが、将軍吉宗の鶴の一声で、最新の蘭学を採り入れた新暦プロジェクトが動き出し、それを受けて宝暦5年(1755)から使われるようになったのが「宝暦暦」です(「宝暦」という年号は「ほうれき」と読むのが普通だと思いますが、暦のほうは「ほうりゃくれき」と呼びます)。

(明和3年(1766) 宝暦暦)

しかし、この暦には芳しからぬ評判がついて回ります。
その点についてウィキペディアの「宝暦暦」の項は以下のように記します。

 「将軍徳川吉宗が西洋天文学を取り入れた新暦を天文方に作成させることを計画したが、吉宗の死去により実現しなかった。結局陰陽頭・土御門泰邦〔つちみかどやすくに、1711-1784〕が天文方から改暦の主導権を奪い、宝暦4年(1754年)に完成させた宝暦暦が翌年から使用されたが、西洋天文学にもとづくものではなく、精度は高くなかった。」

 「騙し騙し使っていたものの、先の暦である貞享暦よりも出来が悪いという評価は覆し難く、日本中で様々な不満が出て、改暦の機運が年々高まっていく事となった。結局、幕府や朝廷は不満の声に抗しきれず、改暦を決定した。評判の高かった天文学者の高橋至時〔たかはしよしとき、1764—1804〕を登用し、寛政暦が作成され、宝暦暦はその役割を終えた。」

(同上。部分拡大)

渋川春海の「貞享暦」と高橋至時の「寛政暦」。
実力隠れなき2人の俊才が、知恵と努力を傾けた2つの暦の間にあって、宝暦暦は「ダメな暦」の代表であり、それはひとえに土御門泰邦という愚かな「公家悪(くげあく)」のせいなんだ…というのが、一般的な見方でしょう。

   ★

歴史物語は往々にして「悪者」や「敵役」を欲するので、土御門泰邦も実際以上に悪者とされている部分があると思います。泰邦にだって、きっと言い分はあるでしょう。

兄たちが次々に早世する中で、土御門兄弟の末弟でありながら当主の役割を負った泰邦。彼の行動は私利というよりも、暦に関する権能を幕府天文方から取り戻し、土御門家の栄光を再び輝かすことに動機づけられており、当時の「家の論理」に照らせば、それは一種の「正義」とすら言えます。

   ★

宝暦の改暦をめぐっては、渡辺敏夫氏が『近世日本天文学史・上巻』で、70頁余りを費やして詳しく論じています。それによると、泰邦も最初から横車を押してきたわけではなく、改暦の準備作業のため江戸から派遣された天文方の西川正休(にしかわまさやす、1693-1756)に対して、当初はまずまず穏当な対応をしていました。しかし、西川の表裏ある性格や、明らかな実力不足を知るに及び、「それならば…」と暦権奪還に向けて舵を切ったことが窺い知れるのです。

愚昧という点でいえば、西川正休の方がよほど愚昧だったかもしれません(西川が作成した新暦案に土御門側は数々の疑問を呈しましたが、それらは一応筋の通ったもので、西川はそれに返答することができませんでした)。その意味で、泰邦とその周辺にいた人物は、たしかに暦学について一通りの見識を備えていたのです。

しかし問題は、改暦の大仕事は「一通りの見識」でできるようなものではなかったということで、そこを無視して改暦に手を染めたのは、やはり無謀だったと言わざるを得ません。

(同上)

   ★

暦というのは、天体の運行と人間生活が出会うところに生まれるものなので、本来的に人間臭いところがあります。そして宝暦暦を見ると、改暦というイベントはそれに輪をかけて人間臭いなあ…と思います。