青く澄んだ土星(前編)2022年12月13日 21時25分36秒

先日、天王星を思わせる青いブローチのことを記事にしました。


それに対して、透子さんからコメントをいただき、そこで教えていただいたことが気になったので、ここで文字にしておきます(透子さんに改めてお礼を申し上げます)。

まず、透子さんと私のコメント欄でのやりとりを一部抜粋しておきます。

透子さん 「今読んでいる宮沢賢治詩集の注解に、✻サファイア風の惑星 土星。と書いてあるのですが、宮沢賢治さんには土星は青いイメージだったのでしょうか?」

「土星は肉眼で見た印象も、望遠鏡で覗いても、黄色の惑星ですから、賢治はどこでサファイア色の土星のイメージを紡いだのか不思議です。これを単なる「詩人のイマジネーション」で片づけてよいか、ほかに何か理由があるのか、自分なりにちょっと調べてみようと思います。」

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問題の詩は、宮澤賢治の『春と修羅 第二集』に収められた「暁穹〔ぎょうきゅう〕への嫉妬」という詩です。ちなみに『春と修羅』は賢治の生前に出た唯一の詩集ですが、その続編たる第二集は、賢治自身せっせと出版準備を進めたものの、結局未刊に終わりました。「暁穹への嫉妬」も残っているのは下書きだけです。

筑摩版の『新修宮沢賢治全集』には、その最終形と初形が収録されています。

(最終形)

詩の冒頭近くに、「その清麗なサファイア風の惑星を/溶かさうとするあけがたのそら」という句があります。この「サファイア風の惑星」の正体は何かといえば、すぐあとのほうに「ところがあいつはまん円なもんで/リングもあれば月も七っつもってゐる」と出てくるので、常識的に土星と解釈されています。

(ベルヌイ法による合成サファイア)

しかし繰り返しになりますが、土星とサファイアは色味がまるで違うので、この比喩は不思議です。

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こういう考証ならば、天文啓発家にして賢治マニアでもあった草下英明氏の出番ですが、残念ながら今回はハズレでした。氏の『宮澤賢治と星』(學藝書林、1975)を見たら、たしかに「賢治文学と天体」の章(pp.100‐111)でこの詩が採り上げられていましたが、サファイアの謎については特に言及がありませんでした。

では…と、草下氏が賢治の天文知識の重要な情報源として挙げた、吉田源治郎(著)『肉眼に見える星の研究』(1922)も見てみましたが、「土星 洋名は、サターン。光色は鈍黄。」(p.328)とあるだけで、当然サファイアのことは出てきません。

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この詩は「あけがたの空」を詠んでいるので、徐々に明るさを増す空の青みが、惑星にも沁みとおって感じられた…ということでしょうか?

あるいは、この詩が詠まれたとされる1925年1月6日の極寒の明け方に、「過冷な天の水そこ」で光る星が、青みを帯びて感じられた…ということでしょうか?(ちなみに気象庁のデータベースによると、この日の盛岡(花巻はデータなし)の最低気温は、マイナス9.1℃だったそうです。)

そうした可能性も、もちろんあるとは思います。
でも、ここでは別の可能性も指摘しておきたいと思います。

(長くなったので、ここで記事を割ります)

胸元のブループラネット2022年11月10日 19時11分42秒

「青い惑星」といえば地球。
そして、この前多くの人が目撃した天王星もまた青い惑星です。

地球の濃い青は海の色であり、豊かな生命の色です。
一方、天王星の澄んだ青は、凍てつく水素とメタンが織りなす文字通りの氷青色(icy blue)で、どこまでも冷え寂びた美しさをたたえています。

(ハッブル宇宙望遠鏡が撮影した天王星。原画像をトリミングして回転。原画像:NASA, ESA, Mark Showalter (SETI Institute), Amy Simon (NASA-GSFC), Michael H. Wong (UC Berkeley), Andrew I. Hsu (UC Berkeley))

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以前、土星のアクセサリーを探していて、こんなブローチを見つけました。


見た瞬間、「あ、天王星」と思いました。
アメリカの売り手は天王星とは言ってなかったし、普通に考えれば土星をデザインしたものだと思うんですが、自分的には、これはもう天王星以外にありえない気がしています。

(裏側から見たところ)

飾り石はブルーカルセドニー(青玉髄)のようです。
『宮澤賢治 宝石の図誌』(板谷栄城氏著/平凡社)を開くと、「青玉髄」の項に、賢治の次のような詩の一節が引かれていました。

 ひときれそらにうかぶ暁のモティーフ
 電線と恐ろしい玉髄(キャルセドニ)の雲のきれ
 (「風景とオルゴール」より)

賢治の詩心は、明け方の蒼鉛の雲に青玉髄の色を見ました。
そこは天上の神ウラヌスの住処でもあります。
だとすれば、はるかな天王星をかたどるのに、これほどふさわしい石はないのでは…と、いささか強引ですが、そんなことを思いました。


ある星座掛図との嬉しい出会い、あるいは再会2022年07月17日 18時53分57秒

七夕の短冊の件は、その後難渋していて、少し寝かせてあります。
簡単なようでいて、正しい文章にしようとするとなかなか難しいです。

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ここでちょっと話題を変えます。
天文アンティークについてなんですが、最近は思わず唸るような品に出会う機会が減っていて、寂しくもあり、いらだたしくもあり、一方で出費が抑えられてホッとする気持ちもあり。

もちろんこれは私の探し方が拙いだけで、eBayとかではない、本格的なオークションサイトや、それこそリアルオークション会場に行けば、今も日々いろいろな美品が売り立てに登場しているはずです。でも何事も身の丈に合ったふるまいが肝心ですから、分相応のところをウロウロして満足するのが、この場合正解でしょう。

この連休も、雑事の合間を縫ってネット上を徘徊していました。そして、「やっぱりこれというものはないなあ…」と独りごちてたんですが、Etsyで次の星図に行き当たり、その佇まいに思わず目をみはりました。


程よく古びのついた、美しい星座掛図です。
ドイツの売り手曰く、ドイツ東部の学校の屋根裏部屋で発見された19世紀の石版刷りの星図だそうです。

これは久々の逸品だぞ…と思いつつ、お値段がまた逸品にふさわしいもので、やっぱりいいものは高いなあと納得しましたが、この図には微妙な既視感がありました。「あれ?」と思ってよく見たら、この品は既出でした。そう、何と嬉しいことに私はすでにこの星図を持っていたのです。


■ジョバンニが見た世界…大きな星座の図(9)

しかし、すぐにそれと気づかなかったのは、同じといいながらやっぱり違うものだったからです。私の手元にあるのは、

 Ferdinand Reuter(編)、
 Der Nördliche Gestirnte Himmel『北天の星空』
 Justus Perthes (Gotha)、1874(第4版)

というものですが、今回見つけたのは、出版社は同じですが、

 『Reuters Nördlicher Sternenhimmel(ロイター北天恒星図)』

とタイトルが変わっています。出版年は1883年で、おそらく改版と同時に表題を変えたのでしょう。そして変わったのはタイトルだけではありません。

(1883年版の部分拡大図。商品写真をお借りしています)

(1874年版の部分拡大図。過去記事より)

一見してわかるように、夜空の色合いも違いますし、星座表現が「星座絵」から恒星を直線で結んだ概略図に変わっています(だからパッと見、同じものと気づかなかったのです)。19世紀の後半に入り、星図の世界から星座絵が徐々に駆逐されていく流れを受けて、ロイター星図も改変を余儀なくされたのでしょう。

ロイター星図は、星図の世界ではあまり有名ではないと思いますが、私は非常に高く買っていて、それがこんなふうに変化を遂げ、19世紀末になっても学校現場で生徒たちの星ごころを育んでいたことを知って、無性にうれしくなりました。以前、ロイター星図を取り上げたのは、『銀河鉄道の夜』に登場する星図を考える文脈でしたが、この1883年版こそ、作品冒頭の「午後の授業」の場面にふさわしい品ではないでしょうか。

ちなみに現在のお値段33万3333円というのは、売り手が日本向けにアピールしているわけではなくて、原価2300ユーロがたまたま今日のレートでゾロ目になっただけです。何たる偶然かと思いますが、こうした偶然も、いかにも一期一会めいて心に響きました。

(通貨表示を切り替えたところ)

銀河をゆく賢治の甥っ子たち(前編)2022年03月26日 09時30分33秒



『アストロノミー』第1巻第1号と題された冊子を手にしました。
ごく粗末な謄写版刷りで、全22頁。昭和5年(1930)5月に発行されたものです。
発行者は「盛中天文同好会」

当時の旧制中学校で「盛中」と略せるのは、岩手県立盛岡中学校だけです。
すなわち今の盛岡第一高校の前身であり、宮沢賢治の母校。

もちろん、この冊子と賢治が在籍した時代はずれています。
賢治が盛中に入学したのは明治42年(1909)年で、卒業したのは大正3年(1914)ですから、彼が卒業してから既に16年が経過しています。同好会のメンバーは、いわば賢治の甥っ子、ないし年の離れた弟に当たる世代の少年たちです。それでも、賢治の母校に天文同好会があった…ということを発見して、何となく嬉しく感じました。



当時、ここにはどれだけの会員がいたのか?
執筆しているのは「会友 堀内政吉」君と「星野先生」の2名で、それ以外に「編輯人 大川 将」君という名前が奥付に見えます。もし星野先生が顧問の先生だったら、会員はわずかに2名。でも、「編輯後記」を読むと、「四月は事務多忙に就いて遂に何も出版出来なかった。会員諸子におはび〔原文ママ〕申します。今月も可なりおそくなって申訳ありません」と平身低頭しているので、もうちょっといたのかもしれません。

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ここで、星野先生が書いた「宇宙(Univers)」という一文を読んでみます(引用に当たって句読点を補いました)。


 「暑い夏の一日も暮れて、夕飯後、打水の涼しい庭先に涼み台を出して、団扇を片手に仰向に寝転ぶ。日は暮れ果てて涼風がたち初める。何とも云ひようも無い好い気持ちだ。空はあくまで澄み渡り、金銀を鏤めた様に天空に植え込まれた無数の星。神秘を物語るかの如く、囁くかの如く、頻りに瞬く。大きい星、小さい星、青白く輝くもの、赤く光るもの、乳色にほの白く流れる天の河…。

 数へれば数へる程数を増し、凝視すればする程新しく現れて来る。一体星の数はどれ程あるものだらう?星の世界は何処まで続くものだらう?どこまで拡ってゐるのだらう?而して其の果はどんなものになってゐるのだらう?

 不思議は更に不思議を生み、神秘は更に神秘を加ふ。〔…〕」

ここには「あからさまなロマン」があります。そして、そのことに何のためらいも照れもありません。当時の天文趣味の素朴さを感じるとともに、こういう大らかさを今一度見直したい気がします。

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こうして星野先生は星空の美を謳い、さらに最新の銀河の説に説き及びます。

 「この星の総ては殆ど銀河系統と云ふ宇宙界に於ける星の集団に属してゐるのです。どうしてこんな名前をつけたのかと申すと、夏の夜、頭の上を北方の天から南方の天にかけて、乳色に光る天の河(銀河と云ふ)と云ふのが流れているでせう。これを望遠鏡で見ると、みんな輝く恒星の集からなって、又それが天の河方向にのみ多く重ってゐるので、あんなに見えるのだと云ふことがわかったのです。天の河の他にある星も、この広い広い空間に拡ってゐる天の河に属する星に過ぎないと云ふ事が知られました。そして、この天の河に属する星一切を含めて銀河系と呼ばれてゐるのです。
〔…〕
 こんな広大な宇宙(銀河系)の形はどんなのかと申しますと、色々の説がありますが、先ずレンズ型と見たらよろしいでせう。次の図のやうにこの宇宙が又素晴しい勢で矢の方向に廻転してゐるのです。そして全体が一度廻転して仕舞ふに三億年前後はかかるだらうと見られてゐます。」


   ★

昭和5年といえば、ちょうど賢治が「銀河鉄道の夜」の執筆と推敲を行っていた時期です。そして、作品冒頭に置かれた「午后の授業」を知っている人ならば、上の星野先生の文章が、それとよく似ていることに驚くでしょう。

一、午后の授業

「ではみなさんは、そういうふうに川だと云いわれたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」
〔…〕
「このぼんやりと白い銀河を大きないい望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。ジョバンニさんそうでしょう。」
〔…〕
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズを指しました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶがみんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いのでわずかの光る粒即ち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒即ち星がたくさん見えその遠いのはぼうっと白く見えるというこれがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれ位あるかまたその中のさまざまの星についてはもう時間ですからこの次の理科の時間にお話します。〔…〕」

   ★

賢治は当時ほぼ無名の人であり、「銀河鉄道の夜」のストーリーも、彼の原稿用紙の中にのみ存在しました。おそらく天文同好会のメンバーと賢治は、互いの存在を知らなかったでしょう。それでも星野先生のような人が自ずと現れて、ジョバンニの先生のような口ぶりで銀河の説を語るというのは、さすがイーハトーブです。

まあ、当時一般化しつつあった説を、生徒向けに分かりやすく説いたために、自ずと口調が似ただけのことかもしれませんが、その偶合が他ならぬ盛岡中学校で起こったことに、やっぱり不思議なものを感じます。

(この項つづく。後編では彼らの天文ライフを垣間見ます)

あめゆじゅとてちてけんじゃ2021年12月31日 08時46分21秒

雪の大晦日。今年二度目の本格的な雪です。

雪に対する印象はもちろん人さまざまで、雪に良くない思い出があれば暗い気分になるでしょうし、もっぱら楽しい思い出ばかりなら、心が浮き立つことでしょう。
私はどちらかと言えば後者で、一面の銀世界を見ると、その瞬間にパッと心が明るくなって、一種のすがすがしさを感じます。

まあ、ひとりの社会人として、交通機関の乱れや、通勤の苦労を考えないわけではないですが、それはひとしきり雪を愛でてから心に浮かぶことで、最初の印象は「!!」という言葉にならぬ心の弾みです。ことに今日は外出する必要のない休日ですから、雪はあえて嬉しいものに数えたくなります。

   ★

賢治の絶唱、「永訣の朝」
雪の苦労を賢治は十分知っていたし、何よりも眼前の悲痛な出来事と重なる存在でしたが、このときの賢治にとって、雪は決して忌むべきものではなしに、死の床にある妹を浄化する、限りなく美しく清らかなものでした。

 この雪はどこをえらばうにも
 あんまりどこもまつしろなのだ
 あんなおそろしいみだれたそらから
 このうつくしいゆきがきたのだ

その天からの贈り物を口にすることで、人は地上を離れ、より天に近い存在となる…。それは神々が住まう「兜率の天の食」にもなぞらえることのできるものでした。

 銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
 そらからおちた雪のさいごのひとわんを…
 〔…〕
 雪と水とのまつしろな二相系をたもち
 すきとほるつめたい雫にみちた
 このつややかな松のえだから
 わたくしのやさしいいもうとの
 さいごのたべものをもらつていかう

「永訣の朝」は、文飾に凝った詩というよりも、自らの思いを血を喀くように文字にした詩だと思いますが、それにしてはあまりにも静かで、心にしんしんと沁み徹る趣があります。それは、この詩が妹の死を悼むと同時に、雪とみぞれに覆われた透明な世界の美を謳っているからでしょう。

   ★


こんな日は、賢治のことを思いながら、私も「あめゆじゅ(雨雪)」を口にしようと思いましたが、街の雪は埃臭い気がして、どぶろくに氷を浮かべることで、兜率の天の食に代えました(何だかんだ言って雪見酒になるのです)。

銀河の流れる方向は2021年10月05日 05時50分58秒

(昨日のおまけ)

「新撰恒星図」と、「銀河鉄道の夜」との関わりについて、一言補足しておきます。

   ★

これも以前の話ですが、「この物語を実写化するとしたら、こんな星図が小道具としていいのでは?」という問題意識から、その候補を挙げたことがあります。それはドイツ製の掛図で、北天だけを描いた円形星図でした(もちろん賢治その人は、その存在を知らなかったでしょうが)。

(画像再掲。元記事はこちら

ここで改めて、「銀河鉄道の夜」の原文を見てみます。
問題の星図が登場するのは、物語が幕を開けた直後です。

一、午后の授業

「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」先生は、黒板に吊した大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指しながら、みんなに問をかけました。

ここで注目したいのが、「上から下へ白くけぶった銀河帯」の一句。
賢治の脳裏にあった星図は、銀河が「縦」に流れており、そこが上のドイツ製星図のいわば“弱点”です。一方、「新撰恒星図」はこの点で作品の叙述と一致しています。


まあ、銀河が縦に流れる星図は世の中に無数にあるので、そのことだけで「新撰恒星図」を推すのも根拠薄弱ですが、資治がそれを学校時代、現に目にしていたことの意味は大きいです。しかも、「掛図形式の星図」としては、当時日本ではおそらく唯一のものでしたから、その影響は小さくないと考えます。

   ★

銀河が縦に流れるか、横に流れるかは、あえて言えば作図者の趣味で、そこに明確なルールがあるわけではありません。どちらも星図としては等価です。

天の赤道と銀河面の関係は下の図のようになっています。

(出典:日本天文学会「天文学辞典」 https://astro-dic.jp/galactic-plane/

赤道面と銀河面のずれが仮に90度だったら、銀河は天の両極を貫いて、星図の中央を真一文字に横切るはずですが、実際には62.6度の角度で交わっているため、文字通りの真一文字とはいかず、天の両極を避けるように、弓なりに星図を横切ることになります。(天球上の星々を天の赤道面に投影したのが円形星図です。)

そして、赤道面と銀河面の交点を見ると、春分点(ないし秋分点)から、ほぼ直角の位置――正確には約80度離れた位置――から、銀河は立ち上がっているので、<春分点‐秋分点>のラインが水平になるように作図すれば、銀河はそれと交差して縦に流れるし、分点ラインが垂直ならば、銀河は横方向に流れることになります。


「新撰恒星図」の場合は、分点ラインが水平で、秋分点を接点として南北両星図が接しているので、当然銀河は縦に流れるわけです。

(春分点が右にくると、必然的に赤経18時が真上にきます)

   ★

縦か横か。ささいな違いのようですが、銀河が縦に流れれば、銀河鉄道の旅もそれに沿って流れ下るイメージになり、生から死への一方向性がより一層強調される…というのは、たった今思いついた奇説ですが、そんなことがなかったとも言い切れません。

星座掛図は時をこえて(後編)2021年10月04日 05時30分04秒

(昨日のつづき)

(表装を含む全体は約83×105cm、星図本紙は約72×101cm)

細部はおいおい見るとして、全体はこんな表情です。傷みが目立ちますが、こうして自分の部屋で眺めると感慨深いです。上の画像は、光量不足で妙に昔の写真めいていますが、それがこの掛図にちょうど良い趣を添えている…と言えなくもないような。

(よく見ると植物模様が織り出してあります)

星図そのものとは関係ありませんが、この古風な布表装に、昔の教場の空気を感じます。ひげを生やした先生が、おごそかに咳ばらいをしている感じです。

星図は、天の南北両極を中心とした円形星図と、天の赤道を中心とした方形星図を組み合わせたもので、1枚物の全天星図としては標準的な構成です。


凡例。1等星と2等星の脇の小さな注記は「ヨリ」。つまり、これらは明るさに応じてさらに2段階に区分され、「より」明るい星を大きな丸で表示しているわけです。


刊記を見ると、手元の図は昭和3年(1928)8月8日の発行となっています。


さらに説明文を読むと、これは「昭和3年改訂版」と称されるもので、明治43年(1910)の初版に続く、いわば「第2版」であることが分かります。となると、これは賢治が目にした星図とは、厳密に言えば違うものということになります。実際、どの程度違うのか?

オリジナルの明治43年版は、京大のデジタルアーカイブ【LINK】で見ることができます。

(明治43年版全体図。京都大学貴重書デジタルアーカイブより)

(同上 解説文拡大)

こうしてみると、全体のデザインはほとんど同じ。違うのは恒星の位置表示で、明治43年版は「ハーヴァード大学天文台年報第45冊」に準拠し、昭和3年版は「同第50冊」に拠っています。ただ、恒星の座標表示の基準点である「分点」は、いずれも1900年(1900.0分点)で共通です。各恒星の固有運動による、微妙な位置変化などを取り入れてアップデートしたのでしょうが、それもパッと見で分かるほどの変化ではないので、賢治が見たのは、やっぱりこの星図だと言っていいんじゃないでしょうか。


天の南極付近。
1930年に星座の境界が確定する前ですから【参考LINK 】、星座の境界がくねくねしています。星座名は外来語以外は基本漢字表記で、いかにも古風な感じ。中央の「蠅」(はえ座)の上部、「両脚規」というのが見慣れませんが、今の「コンパス座」のこと。その右の「十字」は当然「みなみじゅうじ座」です。

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上で述べた明治43年版との違いが、やっぱりちょっと気になったので、うしかい座で比べてみます。上が明治43年版、下が昭和3年版です。

(京都大学貴重書デジタルアーカイブより)


比べて気づきましたが、星座名が一部差し替わっています。明治43年版では「牧夫」「北冠」だったのものが、昭和3年版では「牛飼」「冠」になっており、この辺は明治と昭和の違いを感じます。現行名はそれぞれ「うしかい座」「かんむり座」です。

肝心の星の位置ですが、うしかい座α星「アークトゥルス」――ひときわ大きな黒い丸――は、固有運動が大きいことで知られ、毎年角度で2秒ずつ南に移動しています。比べてみると、明治43年版では赤緯+20°の線に接して描かれていたのが、昭和3年版では+20°線から分離しており、確かに動いていることが分かります。明治43年版と昭和3年版はやっぱり違うんだなあ…と思いますが、違うといってもこの程度だともいえます。

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この星図が出る少し前、明治40年(1907)には、同じく三省堂と日本天文学会が組んで、日本最初の星座早見盤が売り出されており、これまた「銀河鉄道の夜」に登場する星座早見盤のモデルとされています【参考LINK】。

(画像再掲)

その意味で、この星図と星座早見はお似合いのペアなので、どうしても手元に引き寄せたかったのです。それに「銀河鉄道の夜」を離れても、これは近代日本で作られた、最初の本格的な星図であり、その歴史的意味合いからも重要です。そんなこんなで今回の出会いはとても嬉しい出会いでした。やはり長生きはするものです。

星座掛図は時をこえて(前編)2021年10月03日 10時10分04秒

ブログを長く続けていると、過去の自分と対話する機会が増えてきます。
その中で、「あの時はああ書いたけれど、今になってみると…」とか、「あの時取り上げた品には、実は兄弟分がいて…」というように、複数の記事が響き合って、新たな意味が生じることも少なくありません。

あるいは、過去の自分への贈り物めいた記事もあります。
過去の自分が憧れた品、あるいは「こんなものがあったらいいな」と言いながら、その存在すら知らなかったような品を、当時の自分に届けるつもりで記事を書く場合です。

こういうのはブログに限らず、日常でも経験することですが、ちょっと不思議な感じを伴います。当時の自分も自分だし、今の自分もやっぱり自分。そこには一貫したアイデンティティがあるのに――あるいは、だからこそ――自我が分裂したような、自分が同時に二つの場所に存在するような気分といいますか。まあ、それこそが「経験の年輪」というものかもしれません。

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今日の品は、13年前の自分への贈り物です。贈り先は以下の記事。

■ジョバンニが見た世界…天文掛図の話(その3)

ここで話題になっているのは、「銀河鉄道の夜」の冒頭の授業シーンで、ジョバンニが目にした星座掛図の正体、ないしモデルを探るというものです。上の記事では、賢治が学生の頃、母校の盛岡高等農林(現・岩手大学農学部)で接した掛図が、そのモデルではなかろうか…という説を採り上げています。

それは明治43年(1910)に、三省堂から出た『新撰恒星図』で、草創期の日本天文学会が作成したものです。13年前は、それを京大や金沢大の所蔵品として眺めるだけで、現物を手にすることがどうしてもできませんでした。しかし「求めよさらば与えられん」。13年越しに、それはやってきました。


多年の思いとともに、その中身を見てみます。

(この項つづく)

峰雲照らす天の川2021年08月08日 09時25分03秒

残暑お見舞い申し上げます。
暦の上では秋とはいえ、なかなかどうして…みたいなことを毎年口にしますが、今年もその例に漏れず、酷暑が続いています。

さて、しばらくブログの更新が止まっていました。
それは直前の4月17日付の記事で書いたように、いろいろよんどころない事情があったせいですが、身辺に濃くただよっていた霧もようやく晴れました。止まない雨はないものです。そんなわけで、記事を少しずつ再開します。

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今日は気分を替えて、壁に掛かっている短冊を取り替えました。


 草山に 峰雲照らす 天の川   亜浪

作者の臼田亜浪(うすだ あろう、1879-1951)は最初虚子門、後に袂を分かって独自の道を歩んだ人。

平明な読みぶりですが、とても鮮明な印象をもたらす句です。

まず眼前の草山、その上に浮かぶ入道雲、さらにその上を悠々と流れる天の川…。視線が地上から空へ、さらに宇宙へと伸びあがるにつれて、こちらの身体までもフワリと宙に浮くような感じがします。季語は「天の川」で秋。ただし「峰雲」は別に夏の季語ともなっており、昼間は夏の盛り、日が暮れると秋を感じる、ちょうど今時分の季節を詠んだものでしょう。

個人的には、この句を読んで「銀河鉄道の夜」の以下のシーンも思い浮かべました。

 そのまっ黒な、松や楢の林を越こえると、俄にがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へ亘(わた)っているのが見え、また頂の、天気輪の柱も見わけられたのでした。つりがねそうか野ぎくかの花が、そこらいちめんに、夢の中からでも薫だしたというように咲き、鳥が一疋、丘の上を鳴き続けながら通って行きました。
 ジョバンニは、頂の天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投げました。 (第五章 天気輪の柱)

ジョバンニが、親友カムパネルラと心の隙間を感じて、ひとり町はずれの丘に上り、空を見上げる場面です。そのときの彼の心象と、この亜浪の句を、私はつい重ねたくなります。そしてジョバンニの身と心は、このあと文字通りフワリと浮かんで、幻影の銀河鉄道に乗り込むことになります。

銀河の時計2021年01月26日 22時42分19秒

先日、天文時計の話題から、時計と天文学はつながっている…という話題につなげました(LINK)。だからこそ、このブログで時計の話題を採り上げる意味もあるし、昨年8月には「時計」という新たなカテゴリーが生まれたのでした(LINK)。

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時計に関して、もう少し話題にしようかな…と思ったとき、このブログで時計を取り上げる理由が、もう一つあったのを思い出しました。それは、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の世界に出てくる時計たちの存在です。

たとえば物語冒頭近くの時計屋の場面。
あのショーウィンドウに並ぶ時計たちの何と魅力的なことか。あのショーウィンドウを再現するためだけに、このブログは相当な時間と労力を費やしたことを思い出したので、さっき過去記事を拾い出して、改めて「時計」のカテゴリーに分類し直しました。

それだけではありません。鉄道とは何よりもダイヤの正確さを貴ぶものです。
空を走る銀河鉄道も、常に定時運行を心がけているので、ジョバンニが車内の時計をぼんやり見ていると、検札に来た車掌は、「南十字〔サウザンクロス〕に着く時刻は次の第三時ころになります」と厳かに告げるし、白鳥の停車場付近を散策する二人は、列車の出発に遅れぬよう、腕時計に目をやって一目散に駆け出すのです。

そして印象的なのが、ドラマの終幕で、カンパネルラのお父さんの手に握りしめられた懐中時計。その針は、お父さんに残酷な事実――息子の死――を告げます。

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天体の動きを説明する際、回転と周期性の概念は、頻々と顔を出します。
地球という小さな惑星もそうだし、巨大な銀河もまたそうです。時計と暦が生まれたのも、もちろん地球の自転と公転の反映に他なりません。

物体の物理的な運動だけでなく、生命現象や社会現象に関しても、サイクリックな変化は常に観察されるもので、その背後に円環的なダイナミズムが想定されることも多いでしょう。「そしてまた、生と死も永遠に回り続ける巨大な環のようなものなんだよ」…とか言うと、何となくもっともらしさと胡散臭さが同時に漂いますが、こんな静かな雨の晩は、「銀河鉄道の夜」と時計のメタファーの関係を、ぼんやり考えたりしたくなるのです。