「けいおん!」の理科室…豊郷小学校旧校舎・理科室(1) ― 2012年05月12日 19時35分28秒
五月晴れ、というのは旧暦時代は「梅雨の晴れ間」を意味したそうですが、現代では、きっと今日のような日を指して言うのでしょう。
濃く青い空、明るい日差し、それでいて大気は清涼で、ちょっと肌寒いぐらいでした。
濃く青い空、明るい日差し、それでいて大気は清涼で、ちょっと肌寒いぐらいでした。
★
さて、古書の部屋に加えて、私の理想空間には理科室テイストが必要なので、久しぶりに理科室の話題にシフトします。
かつて校舎の保存か取り壊しかで揉めた、滋賀県東部にある豊郷(とよさと)小学校。
今では、その校舎風景がアニメ「けいおん!」のモデルになったことで、いっそう有名だそうです(もちろん私は見ていませんが)。
↓の写真は、同小学校の理科準備室。
(出典:日経BPケンプラッツ 「ヴォーリズ設計の豊郷小学校が交流施設に」
http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/news/20090811/534677/)
http://kenplatz.nikkeibp.co.jp/article/building/news/20090811/534677/)
人体模型と各種の標本、剥製、実験器具…
私の脳裏にある理科準備室のイメージは、かなりこれに近いです。
結局、豊郷小旧校舎は、2009年に現状に配慮しつつ改修し、交流施設として保存されることになりました。この写真は改修直前に撮影されたもので、いくぶん荒廃の気味があるのはそのせいでしょう。2009年は、ちょうど「けいおん!」がTV放映された年に当たり、この旧校舎がアニメ版における背景画のモデルとなったことから、今ではアニメファンの聖地とされるに至ったという話。
★
豊郷小とその設計者ヴォーリズ(1880-1964)をめぐる話題は、ネット上に事欠かないので、ここでは繰り返しませんが、ヴォーリズの佳作、豊郷小学校を素材に、戦前~戦後の「理科教育空間」を振り返ってみたいと思います。
(この項つづく)
垣間見の理科準備室 ― 2012年02月01日 20時32分26秒
今日から2月。窓の外には白いものが舞っています。各地で大雪。
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さて、久しぶりの理科室絵葉書。
明治2年(1869)創立の伝統校、京都市乾(いぬい)尋常高等小学校の光景です。絵葉書自体は、大正末~昭和初年頃のもので、そのころ新校舎に建て替えたのを記念して作られた絵葉書でしょう。
机も椅子も凝っているし、全体の造作も立派で、当時は教育に金を惜しまずにかけていたことが伺えます。しかし、残念ながら京都市中心部の児童数減少により、この歴史ある学校も既にありません(現在は洛中小学校に統合)。これからの数十年間は、日本中で同様の寂しい別れの儀式が果てしもなく続くことでしょう。
ときに、この絵葉書の見所は、黒板の脇に見える理科準備室の光景です。目を凝らすと、鳥の剥製標本らしきものがチラリと見えて、中がどうなっているのか、ものすごく気になります。つかつかと絵葉書の世界に踏み込んでみたい衝動に駆られます。
この絵葉書は、昨日の写真から連想しました。
昨日の写真の手前(標本室)と奥(教室)を入れ替えると、きっとこんな感じじゃないでしょうか。
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さて、久しぶりの理科室絵葉書。
明治2年(1869)創立の伝統校、京都市乾(いぬい)尋常高等小学校の光景です。絵葉書自体は、大正末~昭和初年頃のもので、そのころ新校舎に建て替えたのを記念して作られた絵葉書でしょう。
机も椅子も凝っているし、全体の造作も立派で、当時は教育に金を惜しまずにかけていたことが伺えます。しかし、残念ながら京都市中心部の児童数減少により、この歴史ある学校も既にありません(現在は洛中小学校に統合)。これからの数十年間は、日本中で同様の寂しい別れの儀式が果てしもなく続くことでしょう。
ときに、この絵葉書の見所は、黒板の脇に見える理科準備室の光景です。目を凝らすと、鳥の剥製標本らしきものがチラリと見えて、中がどうなっているのか、ものすごく気になります。つかつかと絵葉書の世界に踏み込んでみたい衝動に駆られます。
この絵葉書は、昨日の写真から連想しました。
昨日の写真の手前(標本室)と奥(教室)を入れ替えると、きっとこんな感じじゃないでしょうか。
程よくヴンダー、程よく理科室 ― 2012年01月31日 20時29分50秒
理科室風書斎に何を求めるか。
比較的最近話題にした、トリノにある「ノーチラス」や、Vicious Sabrina的な、ダークなヴンダー路線ももちろん嫌いではありません。いや、はっきり好きと言ってもいいです。
しかし、もっと好きなのは理科室の風趣であり、学問としての博物学の味わいである…ということは、これまで何度も書いてきました。
あからさまなヴンダー路線は、何といっても面白く、感覚的な悦びを生みます。
しかし、ちょっと気を緩めると、単にゲテもの的な猟奇趣味に堕してしまう恐れもあり、理科室風書斎の実現に当たっては、その辺の「奇/驚」と「理/知」のバランスが肝要だと感じます。
そうしたことを考えていた折、これはちょっといいなと思える画像を、これまたblack‐poolさん経由で目にしました。オリジナル画像は、ニューヨーク在住の写真家、リチャード・バーンズ氏のサイトに掲載されたものです。
被写体はローマにあるTasso 高校内部。おそらく生物学教室に付属する標本室でしょう。
ワニの剥製や、鹿の頭骨が登場している時点で、濃厚なヴンダーカンマーの空気が漂いますが、周囲に並ぶ器具や薬品、それに正面にちらっと覗く教室風景に目をやれば、ここはやっぱり理科室の一部たることが明瞭で、その辺のバランスのとり方が絶妙です。言うなれば、ここは「理科室風ヴンダーカンマー」であり、「ヴンダーカンマー風理科室」というわけです。
もちろん、ここには「書斎」の要素がないので、ただちにこれが理科室風書斎のモデルとはなりえないのですが、こういう風情や空気感は大いに賞すべきものがあると思いました。
夏休みは理科室へ…理科室の怪談(その4) ― 2011年08月09日 21時01分00秒
(↑液浸標本戸棚。 近畿教育研究所連盟編、『理科教育における施設・設備・自作教具・校外指導の手引』‐昭和39年‐より)
ここまでのところを、もう1度まとめて、怪談の場所、出現する怪異、それにまつわる因縁譚、不気味さを演出する理科室アイテムを書き抜いてみます。
<戦前>
○事例1
場所…標本室の前に続く中2階の教室、
怪異…ノッペラボウの娘
因縁譚…学校の裏の娘がそこで死んだ
理科室アイテム…人体標本
○事例2
場所…理科室
怪異…壁面に現われる大人の手の跡
因縁譚…校舎建築時にその壁の裏から左官職人が転落死。校舎は昔墓地だった。
理科室アイテム…特になし
<昭和20~30年代>
○事例3
場所…理科室
怪異…女のすすり泣き
因縁譚…昔、理科室で女が心臓麻痺で死んだ
理科室アイテム…骸骨
○事例5
場所…理科室
怪異…理科室に入る火の玉を目撃
因縁譚…夏休みに水死した生徒の作った標本が理科室にあった
理科室アイテム…蝶の標本
<昭和50年代以降>
○事例4
場所…理科室
怪異…夜の間に部屋の鍵が開く
因縁譚…音楽室から飛び降りた女性の顔を標本にして理科室に保管。
理科室アイテム…女の顔の標本
○事例6
場所…理科室
怪異…数年前に死んだ理科の先生が夜中に出現
因縁譚…(先生の寄贈した時計が理科室にかかっている)
理科室アイテム…先生が手にしたフラスコ、試験管
○事例7
場所…理科室
怪異…ホルマリン漬けのカエルが鳴き出す、ガイコツの模型が話しかけてくる
因縁譚…特になし
理科室アイテム…ホルマリン漬けのカエル、ガイコツの模型
★ ★
ごく少数のサンプルから大胆に推測してみます。
初期には、理科室周辺で不慮の死を遂げた死者の霊が怪異の主役だったのに、だんだん理科室に置かれたアイテムそのものが恐怖の対象となり(事例6の「理科の先生」も理科室に付属する存在であり、一種のアイテムと言えるのではないでしょうか)、それと並行して、因縁譚の希薄化傾向が見られます。いわば、心理的恐怖から即物的恐怖への転化が生じているわけです。
「え、理科室の怪談?夜中に人体模型が動き出すという、あれでしょ?」と、今では当然のように考えられていますが、実は、それはここ3~40年ぐらいの話ではあるまいか…というのが、現時点における私の推測です。
「理科室の怪談」の内実が、昭和40年代以降、変質を遂げた理由は、容易に想像できます。それは、昭和30年代を通じて、理科室そのものが各学校に普及し、同時に理科室備品も大幅に増加したからに違いありません。
当り前の話ですが、理科室も人体模型もなければ、それにまつわる怪談の生まれようがありません。(昭和33年当時、まだ全国の6割の小学校には理科室がありませんでした(注1)。また、文部省が定めた「理科室設備基準」の充足率は、昭和29年にはわずか15%で、それが70%に達したのは、ようやく昭和40年のことです(注2)。)
さらに、学校文化・学校民俗は、その参加者の意識としては、1校だけで完結しているように思えても、実は周辺校も含めて面的な広がりがないと成り立たず、理科室の怪談の場合も、地域全体に理科室が普及し、充実化が図られて初めて成立したのだ…ということも、仮説として述べておきたいと思います。
つまり、怪談というのは本質的に「語りの文化」ですから、例えば「友達のお姉さん」とか、「塾で知り合った隣の学校の奴」とかを含む、広範な語りのネットワークの中で、「ああ、分かる、分かる」と、共感的に受け止められて、初めて意味なり力なりを持ちうるので、市内の先進校にポンと理科室ができたからといって、それだけですぐ理科室の怪談が生まれるわけでもないのでしょう。
★
ところで、私自身のことをふり返ると、小中高を通じて、母校にまつわる怪談や七不思議を聞いた記憶がなくて、なんだか寂しい学校生活でした。私も「語りのネットワーク」とやらに参加して、きゃーきゃー言ってみたかった…。
(注1) 戦後の理科室について
(http://mononoke.asablo.jp/blog/2007/12/10/2501818)
(注2) 魅惑の理科準備室(付・理科室の昭和30年代)
(http://mononoke.asablo.jp/blog/2011/06/03/5895570)
夏休みは理科室へ…理科室の怪談(その3) ― 2011年08月08日 20時40分56秒
(↑理科器材メーカーの広告。昭和30年)
時代を少し戻って、以下は再び昭和30年代の怪談です。
長いですが、全文引用します(途中の1行空けは引用者)。
■事例5
「魂のおとずれ・その一
長野県の千曲川ぞいにある埴科郡戸倉町の中学に、姉の息子が勤めていて、昭和三十一年の秋の夕方、電話をかけてきました。
「叔母さん、今夜花火見にこないかね」
「そうね、ここからは.バスもあるし、いこうか」
というわけで、戸倉町へやってきました。待ちくたびれていた甥と連れだって外へ出ましたが、今夜は黒山の人だかりで、押しあい、へしあい、とうとう花火も踊りもあきらめて、「学校へでもよって帰るとするか」ということになり、裏道をぬけて中学の庭にきました。
学校は静かでした。たまに花火やお宮のおはやしの音が遠いところからきこえます。
「あそこがね、ほら二階のまん中辺。あそこがクラスの教室で…」
といいかけてやめたので、わたしはそのまん中辺を見ました。橙色と緑色を合せたような美しい色の火の玉がおりてきて、すいーっと尾をひいてまた屋根の上に上っていくではありませんか。またおりてきて今度は水平にゆらり、ゆらりと波打って、すいーっと教室の窓の中へ入ってしまいました。見ていた甥は、
「あそこは理科室だ。叔母さん先に帰っててくれないか」
というなり宿直室めがけて駆けだしました。火の玉はそれっきり出てきませんでした。
その夜おそく帰った甥はこんな話をするのでした。
「あれから宿直の人と一緒に理科室へいってみたのだけれど、火の玉はいなかった。二人ともやたら寒くて、ぶるぶる、ふるえて懐中電燈だけ頼りに室内を見てまわったのだけれど、最後に教壇の協にある、夏休み中の生徒の作品を見た時、ギョッとして息がとまりそうだった。というのは、そこに青白く光っているのはA君の夏休み中の作品で昆虫標本だったのだが、A君は夏休み中の或る日、千曲川で溺れたのだよ。十日目ごとの夏休み登校日にその作品を持ってきた時のA君は得意気で、誰にもさわらせなかった。それを『おいA君、ちょっとの間貸しとけよ、学校中の先生に見てもらいたいし、君だってその方がいいだろ』っていうと恨めしそうに、父ちゃんと三日がかりで作ったのだもの、とぐずぐずいうのを、いいじゃないか、な、な、と、あまりの蝶の美しさについひかれて説き伏せてしまった。それから三日後にA君は死んだんだ」
暗然とした甥は、大きなため息をしました。
次の日、早速標本を丁寧に布に包んでA君の家を訪れ、仏前に供え、心から詫びたと申しますが、A君のお母さんは、
「あれはお祭りが好きでやしてな、きっとお祭りを見に来たついでに、標本を見に寄ったんでやしょ、気にしないでおくんなしゃ」
と淋しく笑ったそうです。 長野県・多田ちとせ/文」 (松谷pp.143‐45)
良い話です。恐いというよりは、哀切な話ですね。科白まで詳細に書かれていますが、もちろん全てが実話ではないでしょう。(と私は睨んでいます。)
理科室、蝶の標本、水死した中学生、祭りの晩、母の嘆き…そうした素材を、古典的な怪談の筋立てを使って、実に印象深くまとめています。蝶は伝統的に亡き魂の象徴でもあるので、その辺も効いています。
★
さて、以下はより新しい時代の怪談です。
■事例6
「神奈川県川崎市のある中学校。昭和五十年頃の話。理科の○○先生は数年前に亡くなったが、その後、夜中の理科室にぼうっと明りがともり、○○先生が片手にフラスコ、片手に試験管を持ち、笑いながら立っているのだといいます。理科室にかけられた時計は、○○先生が寄贈されたものだそうです。僕が小学校六年の夏の夜、盆踊りの帰りに兄の友人から、その学校の門の前で聞いた話です。 回答者・加地仁(神奈川県在住)。」 (松谷pp.165‐66)
マッドサイエンティスト風の幽霊ですね。何となく、アメリカンコミックの影響を感じます。この幽霊には間違いなく足があるので、じめっとした旧来の幽霊と一線を画しているのは確かです。
■事例7
「学校によっては、ホルマリン漬のカエルが鳴きだすとか、夕方一人で理科室にいるとガイコツの模型がうしろから肩に手をかけて「ねえ、背くらべしようよ」と話しかけてくるなどという。」 (常光p.42:話者については説明なし)
この話は、昨日の「顔面4分の1標本」の話の説明として出てくるので、やはり1980年代の採録かと思います。ここまで来ると、すっかり「平成風・理科室の怪談」となっています。
(この項つづく。次回は全体考察編です。)
夏休みは理科室へ…理科室の怪談(その2) ― 2011年08月07日 15時58分51秒
(背景は、武田信夫氏の写真集『懐かしの木造校舎』‐作品社、1992‐より)
昨日のつづきです。
以下、青字は常光・松谷両氏の前掲書からの引用です。
■事例1
「三 のっぺらぽう・一つ目・お岩さん
昭和十三年、三年生の頃の話。古い校舎の二階に標本室があり、人体標本などのあるうす暗い部屋の前から中二階の教室(畳敷)があり、数段の階段があった。そこに行くと、うす暗くなった頃に妙齢の娘が出て、顔はノッベラポウだといった。何でも学校の裏手の家の娘で、そこで死んだという話を聞いたことがあった。すぐそばに便所があり、廊下からみると階段の上にその部屋の天井が見えていて、変な中二階であったことが噂を作ったのかも知れず、担任もそこへ行くものでないといっていたのは、その場所が補習科(高等科)の女の人の裁縫の部屋だったからかも知れぬ。 山形県・武田正/文」 (松谷p.203)
理科室(標本室)が登場する、古い時代の怪談の例です。
ただし、直接理科室にまつわる怪談というよりは、階段・便所とともに、不気味なムードを醸し出す舞台装置として、理科室が利用されているにすぎません(戦前のいたずら坊主どもも、理科標本には相当ビビっていたようですね)。まだ「理科室の怪談」と呼ぶには未完成で、ノッペラボウというのが、むしろ江戸以来の怪談話との連続性を感じさせます。
ただし、直接理科室にまつわる怪談というよりは、階段・便所とともに、不気味なムードを醸し出す舞台装置として、理科室が利用されているにすぎません(戦前のいたずら坊主どもも、理科標本には相当ビビっていたようですね)。まだ「理科室の怪談」と呼ぶには未完成で、ノッペラボウというのが、むしろ江戸以来の怪談話との連続性を感じさせます。
■事例2
「五 工事事故のたたり
当校の卒業生である先生に聞く。現在勤めている学校。昭和十年完成。二階建の新校舎を建てる時(以前墓地)すでに大方仕上がり二階部分の壁ぬり作業になった。足場を組んで外回りをぬっている時、一人の職人があやまって足をすべらせ地面に落ちてしまった。そのため、死亡してしまった。その後工事は進み、校舎は仕上った。しかし、その後、日が経つにつれ、理科室の壁面に怪奇な現象が起こるようになった。準備室の戸棚の陰の部分に大人の手の跡が現れるということだ。夕方下校時や雨もようのうすぐらい日などに起こるという。ちょうどその壁の裏側から職人が落ちたということだ。今はその校舎もこわされ、近代的な新校舎になった。 群馬県・山本茂/文」 (松谷p.35)
これまた戦前に遡る古風な因縁話。
理科室が正式な舞台として登場していますが、「出る」のは工事中に死んだ左官職人の手の跡ですから、いわゆる「理科室の怪談」― つまり、理科室という空間の特殊性と結びついた怪談とも言い難い。理科室独自の怪談が生まれるまでには、いろいろなプロトタイプがあったことが想像されます。
■事例3
「宿直の怪・その一
兵庫県小野市のある学校に入り、初めての宿直の夜のこと、宿直室の隣りの理科室でコツコツという足音がする。怖いもの見たさに木刀をさげて、理科室の前へいった。と、女の人のすすり泣きが聞えてきた。なかをあけると声はやみ、懐中電燈の光の中に骸骨が立っていた。次の朝、用務員さんにいうと、ああそのことかと簡単にいった。昔、理科室で女の人が心臓麻痺で死んだ。それで先生方は泊りの夜、一番に理科室の前へ行って、今夜静かにしといてや、いうて拝むのや。そしたら何にもないんやで、といわれた。その理科室はのちに神主さんがおはらいをし、坊さんにお経をあげてもらって女の人の魂をなぐさめた。それからは何もおこらない。雨の夜になると思い出す。 兵庫県・玉井義明/文」 (松谷p.169)
これは時代が不明ですが、教員が宿直に当たっていた頃ですから、たぶん昭和20~30年代の話でしょう(文部省が教員の宿直廃止を省議決定したのは昭和42年)。この頃に至って、理科室の怪談の「型」が徐々に定まってきたのではないでしょうか。
過渡期ゆえか、上の話では女の人がなぜ理科室で心臓麻痺を起したのか、そこに納得のいく説明がありません。例えば、「女の人が理科実験の失敗で死亡し、その遺体が骨格標本にされて、夜な夜な泣くのだ」とでもすれば、怪談のプロットとして一応首尾が整いますが、上のストーリーは、そうした意味で怪談としてまだまだ進化途上という気がします。
上のリライトはちょっと後段がグロテスクですが、しかし理科室の怪談は確かにそういう方向性を持って進化したらしく、常光氏の本には次のような例が見えます。
■事例4
「姉の通っている私立高校で、昔四階の音楽室から女の人が飛び降り自殺をした。その死んだ女性の顔の四分の一を標本にして理科室に保存しておいた。ところが、それ以来、夕方理科室の鍵をかけておいても、朝になると不思議に開いているという (女子・中学一年になって高一の姉から聞く)」 (常光p34:常光氏が1985年に都内の中学校で採録)
全くありえない設定ですが、話者の心意としては、話のリアリズムを犠牲にしてでも、生理的な気味悪さを強調したかったのでしょう。ホラー映画がスプラッタームービー化した時代の産物でしょうか。女生徒たちも存外それを喜んでいたみたいですね。
(この項、さらにつづく)
夏休みは理科室へ…理科室の怪談(その1) ― 2011年08月06日 17時36分17秒
(↑「学校の怪談」予告編(1995)。
「学校の怪談って観終わった後なぜか寂しいような切ないような気持ちになってた~ もう10数年前の話ですけど^^夏休みの終わりって感じがします」という、YouTubeに寄せられたコメントがいいと思いました。)
夏深し。朝の通勤時に生垣のそばを通ると、懐かしい夏の匂いがします。
ラジオ体操の行き帰りに嗅いだのも、ちょうどこんな匂いでした。
来週8日は立秋で、その翌週はお盆。そうなると子どもたちは、ぼちぼち夏休みの残りが気になって来るころでしょう。
この季節は、理科室趣味の徒にとっても、そぞろ懐旧の情を催す時で、理科室情緒を求めて、いろいろ空想にふけったりします。
★
今宵は季節柄、理科室の怪談について考えてみたいと思います。
理科室には、気色悪い人体模型(※)やビン詰め標本があったり、ガラスの実験器具や薬品が魔術めいたムードを発散させていたりして、もともと子どもたちにとっては剣呑な雰囲気があるので、怪談の舞台としては絶好のように思えます。
しかし、現実に流布している学校の怪談話の中で、理科室の役割は意外なほど軽いです。
たとえば、映画「学校の怪談」シリーズの原作(というよりタネ本)となった、常光徹氏の『学校の怪談』(角川ソフィア文庫、平成14)や、あるいは松谷みよ子氏の労作、「現代民話考」の1冊である、『学校― 笑いと怪談、子供たちの銃後・学童疎開・学徒動員』(立風書房、1987)を見ても、学校の怪談の舞台として断トツに多いのは「トイレ」、次いでピアノ、階段、体育館、時計、鏡、肖像画などにまつわるもので、理科室はどちらかといえば「その他大勢」的な地位に甘んじています。
怪談というのは「何となく不安を掻き立てる」場所に発生しやすく、理科室のように「あからさまに怪しい」ところには、むしろ発生しにくいのかもしれません。
とはいえ、理科室にまつわる怪談も複数報告されているので、「理科室民俗学」(今作った用語です)の材料として以下に転記し、簡単に考察を加えてみます。
(文章が長いので、ここで記事を割ります。以下、明日につづく)
(※) 私は人体模型を気色悪いとは思いませんし、むしろ愛らしいと思いますが、多くの生徒が恐がるという事実は当局も無視できなかったようで、文部省が著した 『改訂版・新しい特別教室』 (昭和36、光風出版)という本を見ると、「人体模型および骨格模型ケース」は、「生徒が不快の感を起さないよう、ガラス戸の内面からカーテンを引いてお」きなさいという注意事項が書かれています(p.65)。
これは当局自身が、「不快な存在」のお墨付きを与えたに等しく、人体模型がちょっとかわいそうですね。それに、下手に隠すともっと怖いんじゃないでしょうか。本来であれば、そうした不快の感を超克し、人体生理に知的興味を抱かしむるのが理科教育だと思うんですが…。まあ、余談です。
魅惑の理科準備室 (付・理科室の昭和30年代) ― 2011年06月03日 18時32分44秒
コメント欄でS.Uさんから質問のあった、「理科準備室とは何ぞや?」という件について。
最近の様子はよく分からず、また戦前の状況も資料がなくて詳細不明ですが、昭和30年代について言えば、その役割は、以下のように規定されていました。
(※出典:近畿教育研究所連盟(編)、『理科教育における施設・設備・自作教具・校外指導の手引』、六月社、昭和39)。
最近の様子はよく分からず、また戦前の状況も資料がなくて詳細不明ですが、昭和30年代について言えば、その役割は、以下のように規定されていました。
(※出典:近畿教育研究所連盟(編)、『理科教育における施設・設備・自作教具・校外指導の手引』、六月社、昭和39)。
●教師の教材研究や予備実験をするための研究室であり、かつ、児童、生徒に自由研究やクラブ活動で直接指導する相談室である。
●器具、薬品、機械、標本、掛図、資料等の学習材料が必要に応じて迅速に活用できる合理的、能率的な保管室であること。
●標本、資料の体系的な分類、機械、器具類の効果的な展示を施した科学センターであること。
●児童、生徒の自由研究やクラブ活動をもりたてるような環境を構成すること。
●実験器具の製作、修理などが手がるにできる簡易工作室であること。
●フィルム、テープなどの視聴覚教材、図書、各種の資料、子どもの実験きろくや報告書などを分類、整理した小型の科学図書館であること。
理科準備室とは、研究室であり、保管室であり、科学センターであり、工作室であり、科学図書館である! ああ…こうして文字を打っているだけでも万感胸に迫ります。
こういう部屋がぜひ我が家にも欲しいものです。
★
その具体的な姿を、上掲書に掲載された平面図で見てみましょう。
向って右側が理科教室、左側が準備室です。
準備室に居並ぶモノたちに注目して下さい。人体模型と骨格模型、鉱物標本ケース、標本戸棚、薬品戸棚、器械戸棚、電気工作台、飼育・栽培実験観察台…。これで図書戸棚がもっと充実していたら(あるいは図書室と隣接して、自由に行き来できるのであれば)、理科室風書斎の理想形として、まさに言うことなしですね。
下は、もう少し大規模校の設計例。
ここでは理科教室と準備室に加えて、左端に「生徒研究室」のスペースが設けられています。また準備室には暗室が付属します。
実際にこんな理科室が当時あったかどうかは分かりません。あるいは、当時の教育者が夢想した理想像に過ぎないのかもしれませんが、それにしてもこれを見ると、当時の理科教育にかける熱意が伝わってくるようです。
★
ちなみに昭和30年代というのは、理科教育振興に国を挙げて注力していた時期に当たります。
理科室好きの方には、「理振法」という名が親しく感じられることでしょう。
これは昭和28年に公布された「理科教育振興法」の略であり、戦後の理科室備品の大枠はこれによって決まりました。より詳しく言うと、理振法には「施行規則」という省令が付随し、そのまた別表に「理科教育設備基準」というのがあって、理科室が備えて然るべきモノは、ここに書かれているのです。そして、理科室の備品に麗々しく貼られている「理振法準拠品」のラベルは、この「設備基準」に合致する品であることを示すものです。
理振法準拠品を買い入れるときには、国の半額補助があったため、各学校はこぞってその購入に努め、その努力の甲斐あって、昭和29年度にはわずか15%だった「設備基準」の充足率が、昭和40年度には約70%に達しました(充足率は、備品の金額ベースによる)。
理科室趣味の徒として総括するなら、昭和30年代は、「理科室備品充実の時代」だったと言えるでしょう。逆に言うと、たとえ同じ学校の卒業生でも、昭和20年代から40年代にかけて、各世代の理科室体験は相当異なっているはずです。
(※この項は以下を参照しました。文部省初等中等教育局中等教育課(監修)、『改訂理科教育設備基準とその解説』、大日本図書、昭和41)
理科室と理科準備室 ― 2011年06月02日 20時37分54秒
前の記事で、理科室(理科教室)と理科準備室のことを書きました。
下は両者を並べた珍しい絵葉書です(そもそも理科準備室の絵葉書自体が珍しい)。
奈良県立五條高等女学校(この校名になったのは大正12年。現・五條高校)の光景。
下は両者を並べた珍しい絵葉書です(そもそも理科準備室の絵葉書自体が珍しい)。
奈良県立五條高等女学校(この校名になったのは大正12年。現・五條高校)の光景。
理科室の方は、教室なので当り前ですが、机があって、黒板があって…。ただ、グループ実験に対応して、4人で1卓になっている点に、理科室らしさが表れています。機能的な机や丸椅子も、いかにも理科室らしい。
ただ、端的に部屋として見た場合、ここに格別の「理科的佳趣」があるとも言い難く、それを感じるには、ここで実験や観察が厳粛に(あるいはワイワイと)行われている場面を想像する必要があります。
いっぽう理科準備室の方は、そこにあふれるモノ自体が「理科的佳趣」の源泉であり、またモノの稠密さがヴンダーな味わいを高めています。
標本の入ったガラスケースもあるし、捕虫網もあるし、当然、人体模型もあります。
棚の上に立っているのは何でしょう?恐竜の模型?カンガルーの剥製?
窓からは明るい光が斜めに差し込み、手前の定位置に腰かけた理科の先生は、思わずコックリコックリ…。そんな生活が、何だか無性に羨ましく感じられます。
これが理科室だ! ― 2011年05月31日 21時50分13秒
また少し理科室の方向に話題をもっていこうと思います。
写真は、八幡尋常小学校(現・北九州市立八幡小学校)の絵葉書。
同校のサイト(http://www.kita9.ed.jp/yahata-e/enkakusi.html)によると、この絵葉書が出た昭和10年(1935)に、鉄筋コンクリートの新校舎が完成しており、それを記念して作られた絵葉書でしょう。
左上が理科室で、下は朝会の様子です。
先生も子どもたちも、妙な方向を向いて「気を付け」の姿勢をしていますが、これが噂に聞く「宮城遥拝」の情景なのでしょう。左下には「下関要塞司令部許可済」とあって、何だかものものしいです。
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さて、ここで注目すべきは、左上の理科室の賑やかさ。
画像が粗くて、細部が分かりにくいですが、人体骨格模型、鳥の剥製、壜詰め標本の棚、天秤ばかり、台付きレンズ、化学や電気の実験装置、掛図などなど、多様な分野の品がずらっと並んでいて、いかにも「理科室らしい理科室」です。私が思い浮かべる典型的な理科室は、まさにこんなたたずまいです。
でも、こういう「理科室らしい理科室」の絵葉書に出会うことは意外と少ない。その意味で、これは貴重な1枚だと思いました。
(実は「理科室」といいながら、これは「理科準備室」の光景なのかもしれません。私は「理科教室」よりも「理科準備室」にいっそう惹かれるのですが、後者は単なる「物置」と思われている節があって、前者よりも絵葉書の被写体になりにくいという事情があるのだと思います。)












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