理科室少年の部屋2017年01月10日 22時59分23秒

仮想現実がいくら進化しても、自らが身を置くリアルな物理環境を、思いのままに作り上げたいと願うのは、人間として自然な感情でしょう。

そういうわけで、昔も今もインテリアに凝る人は少なくありませんし、私も素敵な部屋の写真を眺めるのは結構好きです。まあ、見ても自室が整うわけではないのですが、彼我の懸隔が大きいところにこそ、憧れも生まれるのでしょう。

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別件で画像検索していたら、「RoomClip」(http://roomclip.jp/)という、インテリア好きの人たちが写真を共有するサイトに行き会いました。そして、そこで「理科室少年のインテリア実例」とタグ付けされた写真が並んでいるのを発見し、「あ、これはいいな」と思いました。


理科室少年のインテリア実例 http://roomclip.jp/tag/415076

驚いたのは、これが全てR-TYPEさんという、ただお一人の方が投稿されたものであることです。R-TYPEさんは、さまざまなアンティークや標本を蒐集され、それを魅力的にディスプレイして、博物館的なお宅を目指されているという、僭越ながらまことに共感できる趣味嗜好の方です。

もちろん、R-TYPEさんと私とでは、「快と感じる散らかり具合」や、色彩感覚も多少異なるので(私はどちらかといえば混沌とした空間を好みますし、いく分暗い感じの方が落ち着きます)、R-TYPEさんのお部屋をダイレクトに目指すことにはならないのですが、それでもこういう方の存在を知って、とても心強く思いました。

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最近は、以前ほど「理科室風書斎」の話題を語っていませんが、久方ぶりにそっち方面の話題も出してみようかな…と思いました。

秋爽好日2016年10月29日 10時10分00秒

青い空。涼しい風。
静かな土曜の朝を満たす黄金の光。

日曜になると、早くも明日のことを考えて、何となく気ぜわしいですが、土曜日はいちだんとノンビリした時間が流れて、光の色もこまやかな感じがします。


…と、ちょっと余裕を見せて書いていますが、写真の片隅の人体模型に、少なからず違和感を覚える方もいらっしゃるでしょう。

しかし、彼とも結構長い付き合いで、今では彼のいない部屋は考えにくいです。
ときどき、このブログで私の思いを、2人の人物に託して語らせることがありますが、実際の掛け合いの場面を想像すると、相手はこの彼をおいて他にいません。

「彼」のこと2015年12月28日 21時03分55秒

今日が仕事納めだった方も多いことでしょう。
お互いやれやれですが、まあ何はともあれ一年間お疲れさまでした…と、ご同輩にねぎらいの言葉を贈りたいと思います。

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私も何だかぐったりと疲れました。
こういうときは音楽を聞きながら、いつもの部屋で、いつもの彼と一杯やると。


見かけはあどけない子供ですが、実年齢からすれば、彼もだいぶ人生に疲労を覚えてきた頃でしょう。はたからは箱入り息子のように思われながら、人知れぬ苦労も随分重ねてきたはずです。

いつも何かにじっと耐えながら、瞳に万感の思いを込めて立っている彼は、つい弱音を吐く私よりも、たしかにずっと大人です。ああ、私も彼のようになりたい…とは思わないですが、こういうときに愚痴を聞いてくれる相手がいるのは、とても心強いことです。


悔悟と迷いと不安と―。
長い冬の夜、彼と話すべきことは山のようにあります。

My Dear Caterpillars2015年11月26日 21時59分51秒

昔、さる旧制高校に「青虫(カタピラー)」とあだ名された、非常に篤学の教師がいました。彼は学校の蔵書の充実を図ることに異常な努力を傾け、結果として、同校の図書館はある偏倚な傾向を帯びてはいたものの、特定の専門分野に関しては、大学図書館をも凌ぐ質と量を誇るに至りました。

「青虫」は一種偏屈な奇人と目されていましたが、その驚嘆すべき学殖は、最も怜悧な一群の学生たちにも畏敬の念を起こさせるものがありました。

ある日の深更、「青虫」の殊遇を得て、図書館内の一室に起居する権利を得た学生・黒川建吉のもとを、友人の三輪与志が訪ねます。

―君だね。
と、再び呟きながら、彼は三輪与志の前へ椅子を押しやった。
―青虫(カタピラー)の部屋にはまだ電燈がついているようだった。もう十二時…過ぎではないかしら。
―あ、そう。さっき此処からアキナスの『存在と本質』を持って行ったっけ…。
黒川健吉が傍らに差出した椅子に目もくれず、三輪与志は卓上に拡げられた書物を覗いた。
―『存在と本質』…あれは独訳だったかしら。青虫(カタピラー)はまだ神にへばりついているのかね。
舎監室の気配を窺うように、三輪与志は躯を曲げたまま、顔を傾けた。

この日、二人の共通の友人である矢場徹吾が謎の失踪を遂げ、それから幾年かの後、三輪は癲狂院に収容されている矢場と再会を果たす…というところから、埴谷雄高(はにやゆたか)の形而上小説『死霊(しれい)』のストーリーは幕を開けます。


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とはいえ、『死霊』の内容を今となっては全く思い出せません。
いや、そもそも学生時代にリアルタイムで読んだときだって、全然理解できていなかったと思います。まあ、そこが形而上小説と呼ばれるゆえんなのでしょうが、ただ上に記した冒頭の描写は妙に印象に残っています。

暗い雰囲気の中で延々と続く衒学的な会話と、それを盛る器としての古風な四囲の描写に、若い頃の私はいたく心を奪われ、カタピラーの存在にも微かな憧憬を抱いたのでした。


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本当は『My Dear Caterpillars』と題された、別の本の話をしようと思ったのですが、ゆくりなくも『死霊』のことを思い出し、話題が横滑りしました。肝心の本の話は次回に。

(この項つづく)

歌う本、祈る本…カテゴリー縦覧「書斎」編2015年08月16日 20時40分09秒

人は書斎に何を求めるのでしょうか?

もちろんそれは人それぞれです。単に資料を置き、書き物をする物理的スペースがあればよい人もいるし、そこに独自の意味、何らかの精神性を求める人もいるでしょう。
私の場合、「理科室風書斎」ということをこれまで言ってきて、それに新たに付け加えることは余りありません。


とはいえ、人間は多面的存在ですから、私の書斎にしても、理科室一本槍ということはなくて、そこにはいろいろな要素があります。


たとえば、古い宗教書の類。
別に私はキリスト教徒ではありませんし、そうした本を手元に置く義理もないのですが、それらは昔の人の心について多くのことを物語りますし、いろいろ考える契機にはなります。


グレゴリオ聖歌の楽譜集もその1冊。


真鍮の金具を打った大型本は、重さが6キロもあり、相当ズシッときます。


時代は19世紀半ばですから、格別古いものではありません。
でも、当時盛んだったグレゴリオ聖歌復興運動の中心にいた一人、イエズス会士のルイ・ランビョット(Louis Lambillotte)の古写本研究をふまえて編纂されたもの…という点に、いくぶんか面白みがあります。


背後の大きいのは、19世紀後半と推定される、ロシア正教の聖歌集(その記譜法からズナメニ聖歌と呼ばれます)の手写本。手前の小さい本は、1806年の年記がある、ボヘミア地方(現チェコ)で制作されたGebehtbuch(祈祷書)です。

ロシア正教の書物は、旧ソ連時代に宗教弾圧で失われたものが多く、時代の新しい19世紀のものでも、それなりに貴重だと思います。

一方、ゲベートブッフは、18~19世紀初頭に、ドイツ語圏のカトリック教徒が生み出した庶民芸術に属するもので、こういう民衆バロック的装飾感覚が、ドイツ系移民を通じて、初期のアメリカン・フォークアートに影響を及ぼしたと聞きます。素朴な手彩色の写本ですが、装丁は凝った総革装で、ゲベートブッフが貧しさゆえに生まれたわけではなく、日本の写経と同じく、書写すること自体が篤信の行いとして尊ばれたことを示しています。


これもロシア正教の古い本です。
木の板に革を貼り付けた表紙に、緑青の出た留め金具。
こういう風情にひかれる心が、私の中には確かにあります。

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今日は、話題が書斎のことに及んだついでに、ブログの趣旨とちょっと外れたモノを載せました。

ネオ・ナチュラリスト・インテリア2015年01月03日 09時31分51秒

人の行いとは不思議なもので、まったく自分の意志で、他者とは独立にやっているようでも、意外にそうではなくて、ときには遠い海の向こうでも、誰かがやっぱり似たようなことをやっている…ということが、ままあります。

人の行き来もあるし、同じ時代の空気を吸っているので、自ずとそういうことになるのだと思いますが、やっぱり不思議な気がします。

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このブログもそうかもしれませんが、本当のサイエンスとはちょっと位相の異なる、いわば「風俗としての理科趣味」を追う動きが、近年、世界同時多発的に起きている気配があります。

その一方の旗頭は、言うまでもなくヴンダーカンマー嗜好ですが、さらにそれとは別に、「スッキリ系の理科趣味インテリア」を愛好する人もいて、アメリカではそれを「ネオ・ナチュラリスト・インテリア」と呼ぶらしい…というのが、今日の話題です。


リンク先のページは、「Lamps Plus」という、アメリカ西海岸を本拠とする照明器具屋さんのインテリア・コラム。今から3年前の、ちょっと古い記事ですが、当時(2012年)、このネオ・ナチュラリスト・スタイルが、新しいトレンドとして、デザイン雑誌やショップ・カタログを賑わしていたようです。以下、記事の内容をかいつまんで紹介すると…

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ネオ・ナチュラリスト・インテリアのポイントは、ヴィクトリア朝のテイストをまぶした研究室風の外観と、そこに流れるノスタルジアの感覚。産業革命期のごつい金属ランプは、白熱するフィラメントの懐かしい光を投げかけ、ガラスドームに収まる蝶の標本は、そこにロマンティックなムードを添え、あたかも19世紀の植物学者の住まいを思わせる風情を漂わせます。金属の質感が持つ、男性的・科学的な要素と、優しく和やかなムードの組み合わせから成るこのスタイルは、オフィスや書斎、あるいはキッチンにも最適(…と、コラムの書き手は主張します)。

以下はその実例(キャプションは適当訳)。
 

ネオ・ナチュラリスト様式のお手本ともいえる仕事部屋。ガラスドーム、婦人用の椅子、ロマンティックな机が、古風な照明と組み合わされることで、レトロ感を生んでいます。
 

これまたネオ・ナチュラリスト趣味にあふれた快適な仕事部屋。金属と木でできたカウンター用の丸椅子が素晴らしい。これは座面を回転させることで、ちょうどよい高さに調節できます。古びた革張りのウィングバック・チェアーが、古びた金属ランプや、ふんだんに用いられた木部とよく調和しています。
 

インダストリアル・エイジの黎明期のムードが漂う部屋。驚異の部屋(Cabinet of curiosities)と同様、この仕事部屋も、温もりのある木材と金属との組み合わせからできています。切り貼りやラッピング作業には、まさにうってつけのスペース。ここに見られる品の大半は、フリーマーケットや地元のアンティーク・ショップで見つけることができるでしょう。古い事務用キャビネットを、紙モノや細々した手芸用品の収納に転用するのもいいですね。この様式には何の制約もないのですから、どうぞご自由に。

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個人的には、もう少し理科室風味を増量したいところですが、そうなると、結局ヴンダー趣味と変わらなくなってしまうので、これはこれでいいのでしょう。そこで生活することを考えれば、スッキリしている方が便利で快適には違いありません。


【付記】 画像をそのまま貼り付けたら、著作権侵害で怒られるんじゃないかと思いましたが、よく見たらオリジナルの記事も「Photos courtesy of Pinterest」と堂々と書いているので、負けじと貼っておきます。(アメリカはこういうことにやかましいと思ったら、意外に緩いところもあるんですね。)

紳士淑女は理科室風書斎をめざす、かも。2014年07月16日 20時34分42秒

理科室風書斎」という言葉は、これまで「天文古玩」の専売特許でした。
もちろん、本当は専売でも特許でもなくて、そういう言葉を使う必要を、誰も感じていなかっただけのことで、長らく孤独な趣味だったのですが、ついにその言葉が大手を振って流通する日がやってきました。

それは横浜に来年完成する某マンションの広告です(←「理科室風書斎」で検索)。
ディベロッパー側は、物件の高級感をアピールせんがために ―「○○坂に暮らす」というコピーからして、いかにもという感じです ― いくつかのアイテムを提示しながら、このマンションにおけるライフスタイルを提案しているのですが、それは「能」であり、「クラシック家具」であり、「和服」であり、そして「理科室風書斎」なのです。


どうです、今や「理科室風書斎」は、お能と並ぶ、紳士淑女のたしなみなのですぞ!
私も最初見たとき目を疑いましたが、これは結局お金が絡む話ですから、単なる洒落や冗談ではなさそうです。うーむ、それにしても…。

この広告のライター氏は、何となく拙ブログを見られたような気がします。
だからといって、私がそれを勝手にキャプチャーし、勝手に貼りつけていい道理はないのですが、ここは人間相身互いということで、ぜひご納得いただきたい(違っていたらごめんなさい)。

ついでといっては何ですが、その文面もササッと転記しておくと、

「そうはいっても、文学作品をそれほど読み込んでいるという程ではないのだけれど…。でも書斎は欲しい」という方に是非おすすめしたいのが、書斎を少し理科室風にインテリアを整えてみること。

理科少年といえば、地球儀や天球儀、鉱物石や貝殻、昆虫や蝶々の標本などがすぐに思いつきますね。また雰囲気のあるアンティークの薬の瓶や、三角フラスコなどは、割と手軽に雑貨屋さんなどで手に入ります。

かつて少年少女の頃に、理科室の実験道具に心躍らせていた時の事を思い起こして、読書をするのもいいかもしれません。

理科室風書斎を世に知らしめようという「義挙」に対し、あえて突っ込むことはしませんが、しかし最初の一文はちょっと弱さが感じられますね。
理科室アイテムは決して文学作品の代用品ではありませんので、紳士淑女各位におかれましては、ぜひ理科室アイテム独自の価値を認めたうえで、素晴らしい空間づくりに励んでいただきたい。

椅子還る2014年06月11日 05時58分46秒



椅子が修理から戻ってきました。
スプリングがすっかりダメになってしまい、座っているうちにお尻と腰が痛くなって困っていたのですが、近所の家具屋さんに直してもらったら、新品同様の座り心地になりました。


今使っている机と椅子は、中学以来もう35年以上の付き合いになります。
思えば長い付き合いです。
机のほうは普通の学習机で、椅子は食卓用のものなので、高さも雰囲気も合わないのですが、もうこれだけ使っていると、その辺はどうでもよくなってきて、たぶん臨終まで使い続けることでしょう。

(なぜダイニングチェアかといえば、子供心に風情が欲しかったからです。回転いすでは風情に欠けるような気がしました。使い勝手より風情を優先するのは今も変わらないですが、だんだん求める風情が特殊化してきて、今や何が風情なのか判然としなくなっている…ような気がします。)

たそがれ部屋2014年02月17日 22時01分10秒

私の部屋は東向きに窓が付いているのですが、夕方になるとそこから西日が入ります。というのは、隣家の窓に反射した夕日が差し込むからで、西日といっても、太陽が一定の高さにある、ごく短い時間に限られるので、特に迷惑を感じることはありません。むしろ休日などは、「ああ今日も一日が終わってしまったなあ」と、一種の感慨を催すのが常です。


先週、西日が人体模型の面を明るく照らしているのを見ました。
その表情がとても優しく見えたので、カメラを構えたのですが、光は既にその額から頭上へと移りつつありました。夕日の動きは予想以上に早いものです。


こうなると夕闇が訪れるのもじきです。
日没前に一瞬感じる「さみしい明るさ」が写り込んでいるように思ったので、変わり映えのしない光景ですが、貼っておきます。

鉱石倶楽部幻想(5)…自室にて2013年08月18日 19時25分58秒



鉱石倶楽部に行ってみたい―。
ネット上には、そう切望する声が少なくありません。
 

今回、そのイメージを求めて、インターメディアテクやcafeSAYAさんを訪問したわけですが、残念ながら、いずれも「いつでも好きな時に入り浸れる場所」ではありません。(我が家からだと、その都度、新幹線に乗らねばなりません。)
 

結局、鉱石倶楽部にいつでも行くためには、自らの手で「自分だけの鉱石倶楽部」を作るしかないのでしょう。そのためには、相当な時間とエネルギーが必要で、現実にはほとんど不可能とも思えますが、でも、せめてそのイメージの断片なりとも…と、いじましい努力を日々続けているようなわけです。
 

そして、人間「足るを知る」ことも重要ですから、今はこれで満足しなければなりません。そして、足りない部分は想像力で補うのです。
 

どんなにささやかでも、これこそが「自分だけの鉱石倶楽部」であり、私にとっては掛け替えのない空間なのです。