桜図譜のはなし(3)… 佐野藤右衛門『桜』(後編)2020年04月08日 19時11分16秒

「畢生の大作」という言い回しがあります。
「生涯を通じて最高の大作」という意味です。

著者・佐野藤右衛門(以下、物故者は敬称略)にとって、本書がまさにそれだと思います。本書は著者の還暦記念出版であり、当時のことですから、60歳ともなれば、死をごく身近に感じて、その出版を急いだと想像します。

だからこそ、本書の完成は著者にとって格別喜びに満ちたものであり、政治家で旧子爵の岡部長景、ノーベル賞学者の湯川秀樹、京都市長の高山義三、造園界の大立者である丹羽鼎三や井下清…といった紳士貴顕の寄せた序文が、巻頭をずらっと飾るのも、その晴れやかさの表れでしょう。

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図鑑というのは、たいてい多くの人の協力によって出来上がるものですから、ふつうの本とは違って「誰それが著者だ」と、スパッと言い難いことがあります。この『桜』の場合も、桜の原図を描いたのは、日本画家の堀井香坡と小松春夫であり、本文の学術解説を書いたのは、当時国立科学博物館にいた大井次三郎(植物学)です。

では、著者とされる佐野藤右衛門はいったい何をしたのか、何もしてないじゃないか…と思ったら大間違いで、この本は、すべて彼の企画・発案になるものであり、掲載の桜は、ことごとく彼と、その父親である先代藤右衛門が、全国を桜行脚して収集し、手ずから育てた、我が子にも等しい木々なのです。本書は、多くの苦労を伴って成し遂げられた、その偉業の集大成であり、まさに記念碑的著作。

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「佐野藤右衛門」の名は、「現代の桜守」としてマスコミに登場することが多いようです。佐野家は「植藤(うえとう)」の屋号で、江戸時代から造園業を営む家で、マスコミで拝見することの多い当代の藤右衛門氏(1928-)はその16代目。御年90歳を越えて、なお壮健と聞き及びます。

そして、『桜』の著者である藤右衛門は、そのお父さんに当たる15代藤右衛門(1900-1981)です。

(左・15代、右・16代藤右衛門氏。父子だけあって面差しが似ていますね。左は『桜』掲載写真、右は講談社刊・『桜守のはなし』表紙より)

造園業者であれば、桜の木を扱うことも多いでしょうし、「桜守」の名も別に突飛な感じはしないのですが、佐野家が深く桜に関わるようになったのは、さらに一代遡って、14代藤右衛門(1874-1934)の代からで、その時期は大正15年ですから、「植藤」の家業の中では、わりと後発の仕事に属します。

(昭和5年(1930)、藤右衛門が育てた実生の山桜の中から見出された八重咲き品種。親交のあった牧野富太郎によって「佐野桜」と命名されました。)

そのきっかけは、大正6,7年ごろ、大典記念京都植物園(現・京都府立植物園)に、植藤から植木を納入した際、そこの主任技師であった寺崎良策と知己になったことです。寺崎はその後東京に転じて、荒川堤の桜育成に関わり、さらに日本の桜品を一か所に集めた名所作りに奔走していたのですが、人世無常なり。

 「ところが、大正十五年はからずも寺崎氏の訃報に接し、父は急遽東上して良策氏の令兄新策氏に会った。新策氏は「弟は自分の遺志をつぐ者は京都の佐野しかいない」という遺言を父に伝えた。父は感激して必ず微力をつくすことを誓い京都に帰ると、私を呼んで「おれはこれから桜の蒐集をやる。お前はわしに代って家業のかたわら桜の栽培をやってくれ」と言った。
 以来父は桜を尋ねて全国を歩き廻り、私は家業と共に桜の栽培に力をそそぐことになった。」 
(本書巻末掲載の「さくら随想」より「桜を知る」の章より)

…という次第で、昭和9年(1934)に14代が亡くなると、こんどは当時34歳の次代が15代となり、内地はもちろん樺太、朝鮮、満州までも足を延ばし、蒐集行を続けました。

桜の蒐集というのは、既に知られた各地の名木を分けてもらうとか、そんな生易しいものばかりではなく、走る汽車やバスの中から、民家の軒先でもどこでも「これは!」という桜を見つけると、翌年二月ごろ、記憶をたどって再度尋ねていき、接ぎ木用の穂(枝先)を譲ってもらうという、大変手間のかかるものでした。1回の旅で5~6種の収穫があったそうですが、その接ぎ木にも家伝のコツがあって、

 「接木は夫婦協力するのが、イキが合うといのかきわめて活着率がいい。あたかも子供を育てるようなものである。私は桜の接木には格別苦労しているが、接木を終ったあとで雨でも降ると、夜中であろうと一家中が飛び起きて、雨覆いをするやらいろいろと手配をする。第三者から見ると気狂い沙汰と思われるかも知れないが、それほどにしなければ最良の結果は挙がらぬものである。」 (同)

その後、まもなく戦争の時代がきて、当初こそ軍部の御用で、中国大陸への桜植樹に従事したりしたものの、戦況の悪化とともに「植木職人も続々と徴用され、桜などにうき身をやつす者は国賊呼ばわりされる世情」となり、言うに言われぬ苦労を重ねられた末、「敗戦後二年ばかりはそういう私すら桜に関心を失ったくらいである」と、15代は述懐しています(同・「戦争を中心として」より。余談ながら、この辺の心情は、敗戦とともに一時星への関心を失った野尻抱影のことを思い起こさせます。)

戦後、世の中に落ち着きが戻るとともに、再び桜蒐集に取り組んだ結果が、6千坪の土地に植わった250種、3万本の桜たち。その中から代表的なものを100種余り精選して編んだのが、この大著『桜』です。ここで冒頭に戻って、本書をあえて15代藤右衛門「畢生の大作」と呼ぶ理由もお分かりいただけるでしょう。

(大島桜)

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花あれば人あり。人あれば書物あり。
そして、そこにはまた歴史とドラマがあるわけです。

(この項つづく。閑語も弁ずべきこと多々。)

桜図譜のはなし(2)… 佐野藤右衛門『桜』(前編)2020年04月07日 17時20分48秒

桜と言えば花を賞するもの。
葉桜というのは、あまり芳しからぬものですが、葉桜の時期ともなれば、他の木々も若葉の装いをこらすのが自然の摂理で、これからは緑の美しい季節になります。

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桜図譜の話を続けます。
最初に登場するのは、以下の本です。

(前回、でかでかと写っていたのは化粧箱で、中身はこんな表情です。左上は前の所有者が貼ったラベル。机の上では開くこともできないので、畳の部屋に持ち出して撮影しました。)

『桜 SAKURA; Flowering Cherries of Japan』
 〔15代〕佐野藤右衛門(著)、堀井香坡・小松春夫(画)、大井次三郎(解説文)
 光村推古書院、1961

(同書奥付。当時、1000部限定で出ました。)

(同目次・部分。総計101の種を収録しています。)

中身は下のような感じで、見開きの左側に解説、右側にアート紙に別刷りした図版を貼り込んであります。昔の美術書にまま見られる体裁です。

(品種名「胡蝶」)

(品種名「八重紅虎の尾」)

(同解説)

この印刷について、著者はこう述べています(字下げのない改行は引用者)。

 「本書の眼目はまず桜品〔おうひん〕の原色図版で、如何にして実物に忠実なものとして、最良の効果を挙ぐべきか、私の考慮はこの問題に集中されたのであります。

そこで考えられるのはカラー写真で、私は実際にあたってつぶさに調査し研究したのでありますが、遺憾ながら原色写真では桜の花をはじめ葉も枝も、すべて実物そのものの色彩光沢を表わすことが出来ないことを知ったのであります。

これより先私は実物の写生画の作成を思いたち、在洛の画家で元帝展審査員、現日展依嘱の堀井香坡氏及びその門下小松春夫氏を煩わし、父と私が蒐集した二百五十余種から代表的なものを選択し、前後二十数年かかって百六十余種の写生画を完成したのであります。

 この写生画を原色印刷に付して、その成果を確かめるために、私は色彩の異なるもの数種を試作せしめ、これを比較研究したのでありますが、十目の見るところ光村原色版印刷の技術が最もよく原画を表現し、他の追随をゆるさぬことを認識したのであります。それは原画の正確な再現に加えて、さらに生きた桜そのものの生彩光沢を発揮しているのであります。私の喜び、むしろそれは驚嘆といってよいものであります。そこで私は原色図版その他一切を光村原色版印刷所にゆだね、その発行を京都の光村推古書院に決定しました。」
 (著者序文「刊行に際して」より)

(「八重紅虎の尾」拡大)

(さらに拡大)

インクの退色もあるでしょうけれど、カラー印刷としては、今ならむしろ粗の部類で、そんなに大絶賛するほどでもないように思うのですが、60年前にはこれが最高水準の印刷でした。この間の技術の進歩をまざまざと感じます。

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まあ、本書の場合は、純粋に図版を愛でるというよりは、著者の熱意にひたすら打たれるところに妙味があるのかもしれません。何といっても、本書は「この著者にしてこの著あり」としか言いようのないところがあって、その歴史性を珍重するに足りるからです。

(この項つづく)


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【閑語】

私の与太な予想はあっさりはずれて、安倍氏も緊急事態宣言を出しました。
当分、検束されることはなさそうですね。

ただ、検束はされないにしても、やってることは相変わらずデタラメだなあ…と思います。安倍氏は、コロナ対策に108兆円かけるのだと威張っています。国民1人当たりにすれば――お年寄りも赤ちゃんも含めて――ざっと100万円にあたります。このお金が流れ流れて、果たしてどこにいくのか?

例えば、我が家は現在5人暮らしなので、500万円相当の予算が割り振られているはずですが、直接的な恩恵は、今のところ例の布マスク2枚だけです。これはいったいどういうことか?

まあ、我が家のことは脇においても、今この瞬間、生活が立ち行かない人々の休業補償や生活保障に、108兆円のうち、いったいどれだけ割かれるのか?あるいは、医療崩壊が叫ばれる中、医療資源の拡充にどれだけ予算が充てられるのか? 

何だかんだ言って、最後は火事場泥棒みたいな連中の懐にみんな入ってしまうんじゃないかと、そのことが気がかりでなりません。というか、今の政権のやり方を見ていると、それ以外の可能性が思い浮かびません。(さらに言えば、政権そのものが火事場泥棒の集団のように私には見えています。)

理性のあるメディアは、その辺を特にしっかり報道してほしいと思います。

桜図譜のはなし(1)2020年04月05日 12時34分44秒

季節はめぐり、みっしりと桜が咲きました。
そして、早めに開いた花はもうハラハラと散り始めています。
いつもの年と変わらぬ穏やかな光景。

年度替わりのゴタゴタに翻弄されていましたが、この週末は久しぶりに自由が戻ってきました。とはいえ、コロナのせいで心底くつろぐことはできません。今年は桜の花も何だか只ならぬ気配を帯びて感じられます。

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ちょっと前に書いたように、桜の図譜を手元に置いて眺めています。
現実の桜はもちろん美しいのですが、図譜は図譜で美しく、自粛ばやりの昨今、「ひとりデカメロン」の恰好の話し相手になってくれます。

桜の図譜はこれまで何度か編まれていますが、以下は「戦後三大桜図譜」と呼ぶにふさわしい本たち。


■『桜 SAKURA; Flowering Cherries of Japan』
 〔15代〕佐野藤右衛門(著)、堀井香坡・小松春夫(画)、大井次三郎(解説文)
 光村推古書院、1961
 ※掲載種 101(同一品種内で微細な変異を示すものを含む)。表紙サイズ 35.4×26.3cm。


■『日本桜集』
 大井次三郎・大田洋愛(著)〔大井氏が文、太田氏が画を担当〕
 平凡社、1973
 ※掲載種 154(園芸品種141、野生種・外来種13)。表紙サイズ 30.5×21.7cm。


■『サクラ図譜』
 川崎哲也(著/画)、大場秀章(編)〔川崎氏の遺稿を大場氏が整理編纂〕
 アボック社、2010
 ※掲載種 41(名前未詳の1種を含む。同一種複数図版あり。巻末の「花序図」を含め、図版総数は90)。表紙サイズ 37×26.5cm。

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それぞれの中身を順次見ていきたいのですが、その前に以下の本にまず触れておきます。


■『桜狂の譜-江戸の桜画世界』
 今橋理子著、青幻舎(2019)

副題に「江戸の桜画世界」とありますが、本書は桜を描いた江戸の画人を総まくりした本ではなく――そういう意味では、当時のほとんどの画家が桜の絵を描いていたでしょう――、今橋氏が「三熊派」とネーミングした4人の画家を集中的に取り上げています。(後半では、造園狂の大名・松平定信の事績と、彼が編ませた桜図譜、『花のかがみ』にも触れています。)

三熊派は、他の画家と違って、桜の絵「だけ」を描き続けた人たちです。
まさに「桜狂」の名にふさわしい人々。

三熊思孝(みくましこう、1730-1794)を始祖とし、思孝の妹である三熊露香(みくまろこう、?-1801頃)、思孝の弟子である広瀬花隠(ひろせかいん、1772?-1849頃)、そして露香の女弟子、織田瑟瑟(おだしつしつ、1779-1832)をメンバーとする、なんだか「派」と呼ぶのが覚束ないような、狭いサークル内で完結した画業です。

(広瀬花隠の画帖『六々桜品』より。上掲書pp.84-85)

彼らは、なぜ憑かれたように桜を描き続けたのか。
もちろん4人の人間がいれば、そこに4つの理由があるのでしょうが、こと思孝に関していえば、彼が「桜は皇国の尤物にして異国にはなし」という認識を持っていたからだ…と、今橋氏は指摘します(p.47)。

もちろん桜は日本の固有種ではありません。
にもかかわらず思孝がこう思い込んでしまったのは、貝原益軒(1630-1714)に原因がある…という指摘がさらに続きます。問題となったのは、益軒の『花譜』という本草書(1698刊)です。以下、今橋氏の文章を引用させていただきます(引用にあたって、漢数字を一部算用数字に改めました)。


 「その一文をここに引用してみよう。

  「花はいにしへより、日本にて第一賞する花なり。(中略)文選の詩に、山桜は果(くだもの)の名、花朱、色火のごとし、とあれば、日本の桜にはあらず。からのふみに、日本の桜のごとくなるはいまだみず。長崎にて、から人にたづねしも、なしとこたふ。朝鮮にはありといふ。」 (貝原益軒『花譜・菜譜』、筑波常治解説、八坂書房、1973年、31頁)

 〔…中略…〕実際には、中国の四川省や雲南省には桜の自生地が有るのだが、たまたまそうした事実を知らない中国人と出会ってしまった益軒は、海外情報を旺盛に摂取・発信しようとしたがために、却って逆に誤った事実を自著に記してしまったのである。だがそれ以上に問題だったのは、益軒が「中国にはなし、朝鮮にはあり」と、国ごとの桜の有無を述べていたにも拘わらず、「桜=中国不在」説がいつの間にか「桜=大陸不在」説となり、ついには「桜=異国不在」あるいは「桜=日本固有の花」「桜=国花」説という強引な文脈(コンテキスト)が出来上がってしまったことである。

 このような文脈が益軒以降、いつ頃より出来上がってしまったのかはわからないが、大博物学者益軒に端を発したことの意味は重く、この誤った情報は時代を経るにつれてより拡散され、庶民の間においても流布したことがわかっている。さらにその上、国学者の賀茂真淵(1697~1769)や本居宣長(1730~1801)らが、次のような歌を詠んでしまう。

  もろこしの人に見せばや三吉野の吉野の山の山さくら花  加茂真淵
  敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜はな  本居宣長


 つまり真淵の歌では、中国人に示すべき花は桜で「日本の花=国花=桜」という図式が示されている。そして宣長の歌ではさらに、「桜=日本精神の象徴」という文脈までもが作り出されているのである。」
 (『桜狂の譜』pp.48-49.)

こうなると、戦時中の桜プロパガンダや、現代のネット国士の桜アイコンにまでつながる話ですから、なかなか広がりのある話題です。そして、その源が江戸の国学を越えて、さらに本草学者・貝原益軒にまでさかのぼる…というのは、目から鱗でした。

(三熊思孝筆 桜図(寛政6年、1794)・部分。上掲書pp.32-33)

もちろん、美しい桜の画はただ虚心に眺めればよく、それを強いてイデオロギッシュに解釈する必要もないのですが、こういうのは知っているのと知らないのとでは、大きな差が生じますから、やはり知っておいた方がよいのです。

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さて、こういう桜党の前史を下敷きに、「戦後三大桜図譜」を見に行きます。

なお、「戦後」というからには「戦前」もあるわけですが、こちらは意外に少なくて、大部なものは、三好学『桜花図譜』(1921)が目に付くぐらいです。でも、これはかなりの稀本で、私もまだ実物を目にしたことはありません。内容を知るだけなら、以下のページで全頁カラー画像を眺めることができます(大英博物館の所蔵本です)。


(この項つづく)

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【閑語】

ホラー映画を見ていて、「あ、これは何か出るな…」とドキドキしている感じというか、強いて日常の生活を送りながらも、何だか不安で不穏な気分が持続しています。コロナのせいで、いささか気弱になっているせいでしょう。

ちょっと前まで、安倍氏は緊急事態宣言を出したくてたまらないんだろう…と、多くの人が推測していましたけれど、実際にはかたくなに拒んでいるように見えます。そして、そのことで、また多くの批判を招いています。

安倍氏には、緊急事態宣言を出すことをためらう理由が何かあるのか?
ひょっとして、彼は何かを察知しているのか? 例えば市民の外出が制限された機に乗じて、自分を検束する動きがあるという情報に接しているとか…。

5月15日、首都に複数の銃声が響きわたっても驚かないぐらい、今の私は心が浮動的です。

The Scope of Wisdom2020年01月19日 08時09分47秒

去年の今頃は、豚コレラが猖獗をきわめ、「殺処分」――これはあまりいい表現ではないですね――が、盛んにおこなわれていました。その後も発生は続いており、予防策として飼育豚へのワクチン接種や、野生のイノシシへのワクチン散布が、現在も大々的に行われています。

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調べごとがあって、戦時中の新聞に目を通していたら、お目当ての内容とは全然関係ないんですが、下のような記事を見付けて驚きました。

(朝日新聞(中支版)昭和16年(1941)4月23日)

 「猪退治にコレラ菌

 和歌山県東牟婁〔むろ〕郡では何しろ山林が多いだけに猪の繁殖もひどく、麦、甘藷、稲穂などの被害も相当な額に上るので今年は徹底的に防止すべく猪の棲息する山林に「豚コレラ菌」を飼料に混入してバラ撒き根絶する計画を進めている。」

「人間のやることは、おしなべてこうだなあ…」と、深く嘆息しました。
豚コレラに限らず、人間が物事を見通す力は、驚くほどショートスパンだし、やることはひどく場当たり的です。今の人々が、今の人々なりに考えてやっていることだって、遠くから見れば、ずいぶん滑稽なことが少なくないでしょう。

以て他山の石とすべき記事だと思いました。

(こちらは2019年10月18日付の時事通信による配信記事)


【追記】

昔の記事中にある「豚コレラ菌」は、問題となっている「豚コレラウイルス」ではなくて、細菌の一種である「ブタコレラ菌 (Salmonella enterica serovar Choleraesuis)」ではないか…という疑念もあります。

両者が似ているのは名前のみで、実体は当然まったく別物です。1900年代初頭には、豚コレラの真の原因は「菌」ではなく、「ウイルス」だと解明されていたので(※)、これが学術誌ならば間違うことはないのですが、新聞のちょい記事なので、その辺がはっきりしません。そもそも「菌」の方は致死性が高くないので、バラまいても‘根絶’には遠い気がします。


(※)笹山登生氏
  どうして、「豚コレラ」と名付けられてきたのか?その興味深い歴史
  (2019年11月12日追記として、下記リンク先末尾に掲載)

(笹山氏は保守系政治家として鳴らした方。来年80歳を迎えられるとは思えない、大変な能産性に驚きます。)

桜を愛でる師走2019年12月07日 14時24分26秒

桜を見る会の件で、安倍氏とその取り巻きが犯した罪は数々あれど、私が人知れず憤慨しているのは、安倍氏のおかげで、桜に何となく薄汚いイメージがまつわりついてしまったことです。

もちろん、桜に一切罪はなく、ひとえにその咎は、桜にことよせて無法なふるまいをした安倍氏自身にあります。しかし、これから年々桜を見上げるたびに、きっと私の心には安倍氏のエピソードが去来するでしょうし、苦い記憶が重なることで、桜の見え方もこれまでとは幾分違ったものになるでしょう。

とはいえ、年月が重なれば、いつか暗愚な為政者の逸話も歴史の一ページとなり、桜はそうした俗世の出来事とは無縁に美しく咲き誇り、むしろそのコントラストが、桜をいっそう美しく見せることになるかもしれません。…でも、それはまだ少し先の話です。

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その「少し先」に備えて――あるいは「少し先」を手繰り寄せるために――桜の勉強をすることにしました。

探してみると、桜に関する本は山のように出ています。図書館に行けば、桜の本は植物学の棚にもあり、文学や美術のコーナーにもあり、あるいは民俗や宗教の棚にも並んでいるという具合で、桜の見せる顔は多面的です。そして、それらの顔が混然となって桜の魅力は構成されているようです。

これから注文した本が順次届くにつれ、ちょっとした桜ブームの到来です。

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何はともあれ、桜はあくまでも清々しい心持ちで見上げたいものです。

ペンギンの翼2019年07月16日 06時24分10秒

暑い夏を熱くする政治の話題も大切ですが、今日は涼しくペンギンの話。


ガラスシャーレに載っているのは、「ペンギンの翼
…という名前の二枚貝です。

和名はマベガイ。養殖真珠の母貝であるアコヤガイとは、同じウグイスガイ科の兄弟、そして食用にされるカキ(こちらは同じカキ目のイタボガキ科)とは、従兄弟のような関係になります。

学名の「Pteria penguin」は文字通り「ペンギンの翼」の意味で、英名も「ペンギンズ・ウィング・オイスター」。その名の由来については、説明不要でしょう。まさに名は体を表す。


この貝殻は磨きをかけてあるので、裏も表も美しい遊色が出ています。


まさに極地に出現するオーロラのようです。
その美しさから、マベガイは貝細工の原料とされ、また真珠母貝としても利用される由。

実際の生息地は南極ではなくて、温暖な西太平洋~インド洋です。
まあ、その出自は寒暑いずれにせよ、夏こそ恋しくなる海からの贈り物。

銀河は煙り、鳥は天に集う2019年07月06日 11時31分44秒



戦前の「銀河」ブランドの煙草パッケージ。
明るい星々の間を縫って、滔々と流れる天の川のデザインが素敵です。


深みのある萌葱(もえぎ)色の空に銀刷りが美しい。
銀河の星々は明るいパステルグリーンです。


折り曲げて箱状にすると、元はこんな表情。


パッケージの裏面に目をこらすと、そこには「朝鮮総督府専売局」の文字が。
この可憐な品にも、やっぱり歴史の影は差していて、いろいろ考えないわけにはいきません。なお、京城(ソウル)の朝鮮総督府に専売局が置かれたのは、大正10年(1921)~昭和18年(1943)までのことだそうです。

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ところで、七夕習俗は中国から朝鮮半島を経て日本に伝わったものですから、現在も対馬海峡をはさんで、似たような季節行事が両国に残っています。せっかくの伝統行事ですから、ここはネットに頼らず、任東権(著)『朝鮮の民俗』(岩崎美術、1969)を紐解いてみます。

それによると、牽牛・織女の説話は同様で、若い女性が針仕事の手並みが上達するよう祈るのも日本と同じですが、それと対となるように、若い男性が二つの星を題して詩を作り、勉強に励むことを誓う日だった…というのは、微妙に違いますね。日本でも、星に和歌や書の向上を願うという風習はありますが、特に男性限定でもないような。

それと、七夕の夜に雨が降ると、牽牛と織女が出会えた喜びの雨だとするというのも、日本とは逆転しています。

ちょっと面白いと思ったのは、七夕になると、地上からカラスやカササギが一羽もいなくなるという言い伝えです。それは彼らが銀河に橋をかけるために昇ってしまうからで、もし地上にカラスやカササギがいても、それは病弱で飛べないものばかりで、元気なものはみな烏鵲橋を架けるのに参加するのだ…という話。

日本にも「烏鵲(うじゃく)の橋」という言葉があって、七夕の晩にはカササギが銀河に橋をかけることになっていますが、日本では「烏鵲」全体で「カササギ」の意とするのに対し、半島ではこれを「烏+鵲」と解して、「カラスとカササギ」の意に取るのが変わっています。

では、本家・中国はどうなのか…というのが気になります。はたしてカラスは天に上るや、上らざるや? こういう時こそ「名物学」過去記事にリンク)の出番なのですが、例の青木正児氏の『中華名物考』にも言及がなかったので、正解は今のところ不明です。


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【付記】 上のこととは関係ありませんが、「カササギ」の語源をめぐって、かつて常連コメンテーターのS.Uさんと、コメント欄で延々と語り合ったことがあります。参考にリンクしておきます。

■かささぎの橋を越えて http://mononoke.asablo.jp/blog/2016/07/07/8126796

豚供養2019年05月21日 18時09分53秒

豚コレラの終息が見込めません。

そもそも感染経路もまだ不明であり、考えられる対策をすべて施してもなお、新たな感染が発生している状況なので、あとは神頼みに近い感じもあります。巷間言われるように、感染の拡大に小動物が介在しているならば、それを完全に断つことは、確かに神業に近いかもしれません。

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豚コレラの防疫措置、すなわち殺処分の現場は、当然のことながら酸鼻を極めたものです。仔ブタたちは、密閉空間内で二酸化炭素を放出することによって、一度に多数が死に至ります。親ブタたちは、大型の枝切りばさみのような、両側から体を挟み込む形の通電器によって、電撃を3回ないし4回与えられて、最後に薬液注射によって、一頭ずつ絶命させられます。

電撃の際、全身がピンと筋強剛する様も恐ろしいし、通電がうまくいかず、その都度ブタが挙げる悲鳴(それは確かに悲鳴であり、絶叫と呼ぶに足ります)を聞いて、まったく平気でいられる人は少ないでしょう。そして、苦悶の色を目に残して、ずるずると袋に落とし込まれるブタたちの顔、顔、顔…。

   ★

こう言うと必ず、

「じゃあ、お前さんが食ってる豚肉、あれはどうやって作られてるんだね?」
「どうせ豚コレラがなくたって、彼らはいずれ食われちまうんだ。今さら変に善人ぶってどうする。」

という声が出るでしょう。私の心の内からもそういう声が聞こえるし、それはロジックとして正しい気がするので、答に窮します。

「だから、そんな罪深い殺生はやめた方がいいんだよ。」

という肉食廃止論者の人もいます。
それもまた正しいような気がするのですが、でも私が仮に、野に生きる狩人か何かで、野生のイノシシを仕留めて、その場で屠って、肉を食べる場面を想像すると、そこに「むごい」という感情はあまり生じません。それが自然な生の営みの一部として納得されるからです。

   ★

結局、私の感じる「むごさ」の奥には、生類憐み的な感情のみならず、食べるためだけに肥育し、増殖するシステムと、その効率の最大化を進める「巧緻な非情さ」への、素朴な反発があるのだと思います。

近代牧畜業に限らず、古来、牧畜(あるいは広く農耕)というシステムには、やっぱり素の自然からは遠い、不自然なところがあります。もちろん、ヒトが人となり、社会を築いたのはそのシステムのおかげですから、私もそれを否定はしません。否定はしませんが、でも、そこにこそ人の「業」があり、我々は、今後も永く「楽園を追われた存在」として生きていかねばならないことは、繰り返し反芻せねばならないと思います。

   ★

ところで、殺処分の実際を見聞して、一つ奇妙な事実に気づきました。

ブタは、目の前で仲間が殺されても、またその悲痛な声を聞いても、ピクリとも反応しないのです。殺処分が行われているすぐそばの豚房で、何事もないように、ブタたちは餌をあさり、互いにつつき合い、眠っています。子供のころから、屠殺前の動物が、死の予感におびえて恐怖する…という話を耳にしていたので、ブタたちがそうした素振りを露ほども見せないことに、違和感を覚えました。

ただし、そんなブタたちが、唯一恐怖を示すことがありました。
他のブタの群れから引き離されることです。

上記のとおり、ブタたちは一頭ずつ「処分」されるのですが、その際、同房のブタたちから引き離されることを、彼らはひどく恐れ、激しく逃げまどいます。でも、一頭だけ別区画に追い込まれてしまえば、さっきまでの恐慌が何だったのか、何事もなかったように、また餌をあさり始めます。

そんなブタたちの姿に、今の日本人を重ねて、別の意味で恐怖を感じた…と書くと、シニカルに過ぎるかもしれませんが、でも、正直その思いを抑えかねました。

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まあ、私の余分な感想はともかく、その後、鹿児島県立博物館で見た説明文(家畜化に伴うブタの知能低下)を思い出して、ブタたちの振る舞いも大いに頷かれました。


確かに野生の状態でああだったら、とても生き延びることはできないでしょう。しかし、これまた人間の業の深さを物語る事実だと思います。

ライオンゴロシはライオンを殺さない2019年04月21日 15時21分59秒

…という趣旨の記事を以前書きました。

■京都博物行(4)…ライオンゴロシの実(前編)

■京都博物行(5)…ライオンゴロシの実(後編)


小泉元首相を悪罵しているうちに、ふと思い出しただけのことで、まあ小泉さんとは全然関係ない話ですけれど、さっき調べたら、ライオンゴロシの「風説」は、どうもいまだに健在のようなので、今一度世人に注意を喚起すべく、貼り付けておきます。

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妙に長い記事ですが、肝となるのは「前編」の途中に出てくる

 「ウィキペディアを見る限り、この植物とライオンを結びつけて記述しているのは日本語版のみで、少なくとも英・独・仏語版のウィキペディアには、ライオンに関する言及は見当たりません。」

という事実と、「後編」の最後に出てくる以下の帰結です。

 「…この話題の究極の火元は、19世紀のイギリスにあったと見てよいでしょう。
 その逸話が20世紀初頭のドイツ語の本に引用され、さらに半世紀後、日本の書籍に再引用されて、以後、連綿と語り継がれてきた…というわけです。
 ともあれ、これは19世紀の博物学的想像力が生んだ「残酷なロマンス」であり、ファンタジーなのだと思います。それが本国でフィクションとして捨て去られた後も、極東の地で化石化して生き続けているとしたら、それはそれで素敵なことではないでしょうか。」

Une Petite Histoire Naturelle(小さな博物誌)2019年04月18日 06時02分03秒

ハチドリを迎え入れるにも、いきなりというわけにはいきません。
いや、いきなりでもいいのですが、博物趣味の香気を一層濃くしようと思ったら、それなりの下準備が必要です。

今回は小さな剥製にふさわしい、小さな図譜を事前に用意しておきました。
両者の取り合わせによって、「博物趣味の小部屋」を気取ろうというのです。


密林を舞う美しいハチドリのために、かつて豪華な図譜がいくつも作られましたが、ここでは身の丈に合った品として、ウィリアム・ジャーディン(Sir William Jardine、1800-1874)が編んだ「ナチュラリスト叢書」から、ハチドリの巻(2冊)を選びました。


「ナチュラリスト叢書」は、1830~60年代にエディンバラで刊行された、全40巻から成る一大叢書です。以前、甲虫の巻を載せましたが、昆虫にしろ、鳥類にしろ、魚類にしろ、およそ博物愛好家の興味を惹くものは、何でも取り上げています。

新書版より一寸ちいさいポケットサイズ―― いわゆる十二折版(duodecimo)――というのが、この場合重要で、さらに緑の革装丁は、ハチドリのイメージともぴったりです。

(パートⅠの口絵。左側はラップランドの衣装を身に着けたリンネ(Carl von Linné、1707-1778)の肖像)


もともと普及版の図譜なので、「豪華絢爛」とはいきませんが、64枚のプレートすべてに手彩色を施した、この愛らしい小冊は、眺める愉しさを十分備えています。


図版も縦あり、横あり。



左向きのハチドリがいるかと思えば、右向きもあり。

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「なかなか素敵な小部屋じゃないか」と、自分では思うんですが、これまたいつものムード先行で、“生産性に欠ける”と言われれば、返す言葉もありません。でも、ざらついた今の世の中で、少しでも潤いを求めようと思えば、あえてこんな挙に出るのもやむ無し…です。