あおみどりの光2022年11月30日 19時17分32秒

昨夜は本降りの雨でしたが、気まぐれで遠回りをして帰りました。
雨に濡れた路面に映る灯りがきれいに感じられたからです。乾いた町が水の中に沈み、いつもと違う光を放っているのが、夕べの心の波長と合ったのでしょう。

店舗の灯り、道路に尾を曳くヘッドライトとテールランプ、そして黒い路面にぼうっと滲んだ青信号の色。あれは実に美しいものです。
ごく見慣れたものですが、私は青信号の青緑色を美しいもののひとつに数えていて、「でも、あの色って、自然界にはあるかなあ?」と、考えながら夜の道を歩いていました。

南の海、ある種の甲虫、鳥ならばカワセミ、石ならばエメラルド。
どれも似ているけれども、どれもちょっと違うような気がしました。

考えているうちに、ふと思いついたのは「夜光貝」
サザエの仲間であるヤコウガイに限らず、磨いた貝殻の遊色の中に、あの青緑があるような気がしたのです。これは純粋に自然の色といっていいのか、もちろんそこには人為も加わっているのですが、条件によっては自然条件下で遊色を呈することもあるでしょう。

(磨き加工をしたパウア貝。手前はアンモナイトの一種(クレオニセラス)の化石。そこにも似た色合いが、かすかに浮かんでいました)

思いついたのが水に縁のあるもので、そのことがちょっと嬉しかったです。

オジギソウとギリシャ神話2022年11月20日 15時06分58秒


(オジギソウ Mimosa pudica. ウィキペディアより)

オジギソウが葉を閉じるのは、虫の食害を逃れるためだ…という研究成果を、先日ニュースで見ましたが、これに関連して、中日新聞の一面コラム「中日春秋」に、次のような文章が載っていました(11月19日)。

 「オジギソウは学校の教材でおなじみ。触るとお辞儀をするように葉を閉じる▼含羞草とも書くのは、恥じらっているように見えるからか。原産地はブラジル。天保年間に日本に伝わった▼ギリシャ神話にも登場。『花とギリシア神話』(白幡節子著)によると、美しい娘である妖精ケフィサは牧羊などを司る神パンに好かれ追い掛けられるが、その情熱に恐れをなし逃げ続けた。とらえられそうになった時に貞操の女神アルテミスに「助けて」と祈り、オジギソウに姿を変え逃れた。なるほど、恥じらいの草である▼この植物が葉を閉じるのは昆虫に葉を食べられるのを防ぐためであることを、埼玉大と基礎生物学研究所(愛知県)のグループが証明したという〔…中略…〕▼神話はこの植物を「感受性がとても強く、罪を犯した者がそばを通るだけで、まるで自分が触れられ、汚されたかのように葉を閉じる」と描く。現実は近くを通るだけでは閉じないが、触れた虫の脚を封じるとはたくましい。自然界は、恥じらうだけでは生きられぬらしい。」

これを読んで、息子が言いました。
「ブラジル原産なのに、なぜギリシャ神話に登場するのか?」と。これは息子のお手柄で、なるほど、そういわれれば確かに変です。史前帰化植物というのもあるので、最初はそれかと思いましたが、さすがに大西洋を越えるのは難しいでしょう。

   ★

上のコラムに出てくる『花とギリシア神話』(八坂書房、1992)の「あとがき」を見ると、同書の参考書として、ブルフィンチ著『ギリシア・ローマ神話』、オウィディウスの『変身物語』、呉茂一著『ギリシア神話』など5冊が挙がっていますが、オジギソウの逸話は、そこに見つけられませんでした(探し方が悪いだけかもしれませんが)。それに「ケフィサ」という妖精の名が、『ギリシア神話事典』の類を、いくらひっくり返しても出てこないのが不審です。

「うーむ」と腕組みをしつつ、ちょっと表面をなでただけで、以下推測でものを言います。
最初に結論を言っておくと、これはやっぱり変な話で、どこかでアヤシイ話が混入している気配が濃厚です。

   ★

この話の大本は、たぶんですが、Charles M. Skinnnerという人の『Myths and legends of flowers, trees, fruites, and plants in all ages and all climes』(1911)ではないかと思います。この本はさいわい邦訳が出ているので(垂水雄二・福屋正修(訳)『花の神話と伝説』、八坂書房、1985)、そこから該当記述を抜き書きしてみます。

オジギソウ(Mimosa)
 〔…〕ギリシアの伝説では、オジギソウはケフィサという乙女であったが、パンがあまりにも烈しい情熱を傾けたために、恐くなってパンから逃げた。後を追ったパンがケフィサを腕に抱きしめようとしたまさにそのとき、助けを求める願いは他の神々に聞き届けられ、ケフィサはオジギソウに化身した。古い俗信では、この草の感受性はとてつもなく過敏で、罪を犯した乙女がそばを通るだけで、まるで自分が触られたように葉を閉じると言われた。」 
(1999年新装版、p.203)

『花とギリシア神話』との類似は明らかでしょう。

スキナーの原文は、Googleブックスで読めますが、ケフィサのスペルは「Cephisa」で、これと「mimosa」で検索すると、同旨のエピソードを紹介する英文の記述がいくつか出てきます。でも、やっぱり出典を欠くものばかりで、スキナーをさかのぼる文献は見つかりませんでした。これら一連の記述は、スキナーが元ネタになっていると想像します。

では、スキナー自身は、この話をどこから引っ張ってきたのか?
『花の神話と伝説』の「訳者あとがき」には、その辺の事情がこう書かれています(太字は引用者)。

「著者スキナーについて各種の人名辞典などを調べてみたが、みあたらず、わずかにアメリカの“General Catalog of Congress Library”で以下のような情報を知りえただけである。生まれは一八五二年、没年は一九〇七年、ブルックリンあたりで活躍したジャーナリストであったらしく、多数の著作がある。〔…〕

 本書は、欧米の植物の伝説に関する書物には必ずといっていいほど引かれる古典である。〔…〕ただ惜しむらくは、少なからぬ誤植や事実関係の誤りがあることで、この点は、原著に出典及び文献が一切付されていないことと、晦渋な文体とが相まって、翻訳上おおいに悩まされた。聖書やギリシア・ローマ神話に関しては、手近に利用できる資料もあるので何とか見当をつけることができたが、民間伝承のたぐいに関しては検証は困難をきわめ、ついに真偽を確認できないまま原著を信頼するほかなかった個所もいくつかある。」

どうも、かなり注意して利用しないといけない本のようです。
ケフィサとオジギソウの件も、そんなわけで出典は不明です。そもそも、そこに確たる典拠があるのかどうか、何か民間伝承に類するもの ―― それも近世以降に成立した話 ―― を引っ張ってきたのではないかという疑念がぬぐえません。というか、論理的に考えれば、必然的にそのはずです。何せ下に記すように、古代ギリシャにはオジギソウと呼ばれる植物も、その名(Mimosa)もなかったのですから。

   ★

ちなみに、「ケフィサ」という名前で検索するとすぐに出てくるのは、道端で寝ていたキューピッドの弓を奪って恋人を射た女性の逸話で、これも真正の古典というよりは、1725年にモンテスキューが書いた散文詩(彼の創作エピソード?)が典拠らしく、結局、妖精(ニンフ)のケフィサについては、現時点では不明のままです。

■(参考ページ) カナダ・ナショナル・ギャラリー所蔵、
 ピエール=アンリ・ド・ヴァレンシエンヌ作
 「キューピッドの弓を射るケフィサ」(1797)解説

  ★

冒頭のブラジル原産の話に戻って、スキナーの話で最も首をひねるのは、ギリシャ神話にオジギソウ(ミモザ)が登場している点そのものです。

「ミモザ」というと、日本だとあの黄色い花をつけるミモザ(標準和名はフサアカシア。マメ科)のことですが、これは誤用だそうで、本当のミモザは、同じマメ科でも「オジギソウ」のことだそうです。つまり、狭くとれば種としてのオジギソウ(Mimosa pudica)のことだし、広くとればオジギソウを含む「オジギソウ属」のことです(オジギソウ属は約590の種を含む大所帯の由)。

(“ミモザ”=フサアカシア Acacia dealbata. ウィキペディアより)

そして、オジギソウ属の植物は、新大陸ばかりでなく旧大陸の原産種もあるものの、ギリシャ周辺には分布していません。ヨーロッパ全体や小アジアまで範囲を広げても同様です。存在しない植物が、神話に登場するはずがありません

(オジギソウ属の分布域。緑は原産地、紫は人為的伝播による拡大地。出典:英国・王立キュー植物園の「Plants of the World Online」、「オジギソウ属」解説ページ

また下の語源解説を見ると、「ミモザ」という名前は、語根にギリシャ語の「ミモス(道化師)」を含むものの、植物の名前としては18世紀に誕生した新参者で、これまたギリシャ神話やローマ神話に出てくるはずのない言葉です。

■“mimosa”:Online Etymology Dictionary

上記リンク先の内容を、参考訳しておきます。

ミモザ(mimosa)【名詞】
マメ科の低木の属名。ラテン語のmimusに由来する近代ラテン語(1619年)「mime」から1731年に造語された〔※引用者注:属名の考案者はリンネ〕。mime【名詞】参照 +-osa【形容詞接尾辞、-osusの女性形】。通常のオジギソウ(Sensitive Plant)を含むいくつかの種が、触れると葉を折り畳み、動物の行動を模倣しているように見えることから、その名がある。ミモザの花のような黄色の色名としても使われる(初出1909)。その名のアルコール飲料(初出1977)は、その黄色がかった色からそう呼ばれる。

<ミモザを参照している項目>
マイム(mime)【名詞】
「身振りで演じる道化師」(1600年頃)【ジョンソン英語辞典】。フランス語のmime「まねごとをする役者」(16世紀)、および直接ラテン語のmimus(語源不詳のギリシャ語mimos「模倣者、まねごと、役者、パントマイム、道化師」に由来)から。芝居を指す用例としては、1932 年に「パントマイム(a pantomime)」の形で、またそれ以前(1640 年代)は古典に関する文脈で使われた。イタリアに住んだギリシャ人やローマ人による古代のマイムは、実際の出来事や人物の滑稽な模倣からなる、通常下品な、セリフのある戯曲的パフォーマンスだった。

  ★

例によってくだくだしくなりましたが、こんなことでも書いておけば、いつか何かの参考になるかと思って贅言しました。

静と動2022年11月04日 05時34分53秒

「表面がギザギザしてて、見る角度によって違った絵柄が見えるやつ」と言って、何のことか分かっていただけるでしょうか?昔はよくシール状のものが、お菓子のおまけに入っていました。子供心に実に不思議で、表面のギザギザをボンナイフで削って、その謎を解こうと試みた思い出があります。

あれの正式名称は「レンチキュラー」というそうです。
表面の透明ギザギザシートの下には、すだれ状に細切りにした複数の画像が交互に並べてあって、ギザギザを通して見ると、光の屈折の加減で、見る角度によって特定の絵柄が浮かび上がる仕組みだとか。


上はロサンゼルスにあるJ.ポール・ゲッティ・ミュージアムのお土産にもらったブックマーク(しおり)。



牛、鹿、犬(?)の疾走する姿が、レンチキュラーでアニメーションのように見えるという、まあ他愛ないといえば他愛ない品なんですが、シンプルなものほど見飽きないもので、つい見入ってしまいます。

(しおりの裏側)

オリジナルの作者は、エドワード・マイブリッジ(Edweard J. Muybridge、1830-1904)。彼は、当時としては画期的なハイスピード撮影法を編み出し、走っている馬の脚の動きを捉えたことで知られますが、上のも同工の作品で、彼の写真帳 『The Attitudes of Animals in Motion (移動時の動物の姿勢)』(1878-81)から採った写真が、3枚組み合わさっています。

   ★

こういうのを見ていると、「運動の本質」とか、「時間の最小単位」とか、「眼に映る変化はすべて虚妄であり、我々の生は連続する静止画に過ぎない」とか、見方によっては“中二病”的な考えがむくむくと湧いてくるんですが、これは決して軽んずべき問題ではなくて、少なくとも一度は真剣に考えないといけないものばかりだと思います。

カエルの発生2022年08月16日 06時09分05秒

そういえば、こんなものもあったなあ…というシリーズ。
今回はカエルの発生過程を、1本のアクリル棒に封じ込めたものです。

(長さ153mm)

これはいつ、どこで手に入れたのかはっきり覚えていません。いかにも印象が薄いのは、カエルの発生標本としては別の品がすでに手元にあって、そちらの方がモノとしては確かだからです。それは発生段階ごとに個別にプレパラート化したもので、このブログでは6年ばかり前に登場済み。

■めぐる命

今回の品も顕微鏡で覗けば、いくぶん鮮明さを欠くものの、卵割の様子を観察することはできます。でも、たぶんこれは観察目的の品というよりも、多分にシンボリックな存在というか、生命の不思議がこうして1本のアクリル棒に封じ込められているのを眺めて、「ほお…」と感慨にふけるための品のような気がします。


昔の理科室には(今も?)、オタマジャクシから、後肢が出て、前肢が出て、さらに尻尾が短くなって、立派な親ガエルになるまでの過程を液浸標本にしたものが飾られていましたが、今回の品はあれと対になるものでしょう。

(戦前の理科教材カタログより。「蛙発育順序標本:卵ヨリ成長迄ノ順序ヲ十一段ニ表ハセルモノ」)


標本はアクリル棒の中心ではなく、一つの面に偏って(およそその2ミリ下に)埋め込まれています。


全体は飴色というか、寒天色というか、薄い黄色みを帯びています。
いかにも時代を経た感じが、個人的には好ましいのですが、アクリルの真骨頂はあくまでも無色透明さにあるので、このように黄変することは一般的には望ましくないでしょう。

そもそも何で黄変するかといえば、多くの場合、紫外線が原因だと耳にします。
改めてネットを徘徊すると、高分子化合物が吸収した紫外線のエネルギーが、ポリマーの水素原子を切断してラジカルを生成し、そのラジカルと空気中の酸素が結合することでペルオキシラジカルが生じ、さらに…というようなことが書いてあります。しかとは分かりませんが、平たくいえば、紫外線は一連の光化学作用により、アクリル内部に酸化劣化をもたらすということのようです。

それによって、化合物内部にカルボニル基・アゾ基等、可視領域に吸収スペクトルを持つ「発色団」が生成され、色づいて見える…というのも、私には理解の及ばない事柄ですが、分かる人には分かるのでしょう。

カエルの発生も、いったんサイクルが回り出すと、一連のステップが自動的に繰り広げられ、不可逆に進むという点では、アクリルの黄変と似たものを感じますが、それは単なる比喩に過ぎないのか、あるいは比喩以上の意味があるのか、この辺はもう少し思案が必要です。

名も知らぬ遠き島より2022年08月14日 09時58分29秒

身近にありながら、これまで登場する機会のなかったモノたち。


このところ、それらを意識して紹介していますが、机の脇にころがっている、このヤシの実もそのひとつです。たぶん25年ぐらい前にLOFTの雑貨屋で買ったもので、考えてみればずいぶん長い付き合いです。

   ★

ヤシの実ときくと、すぐに島崎藤村の詩が口をついて出たり、柳田国男の「海上の道」を連想する方も多いでしょう。私より上の世代にとって、それはいわばデフォルトの連想かもしれません。もちろん、私にもそういう「南方ロマン」の影響は及んでいます。

でも、ヤシの実の向こうに見え隠れするもの、そして私の情動を一層掻き立てるのは、さらに個人的な経験です。

まず、何といっても、ヤシの実は私の通った学校の理科室にも置かれていました。
戦前の旧校舎にあった、あの古風な理科室は、私の価値観の根幹を形作っているので、理科室の棚にあったというだけで、ヤシの実の評価は個人的に爆上がりです。

それと、もう一つの思い出。
あれは確か小学校3年生ぐらいのときでした。ある日、父親がヤシの実をもらってきたことがあります。当時、ヤシの実は今よりもはるかに珍しい存在でしたから、ぜひ子どもたちに体験させてやりたいと考えたのでしょう。そして、ヤシの実の水はとても甘くて美味しいのだ…と言って、包丁を突き立てて周囲の繊維を苦労して取り除き、中の硬い殻にキリで穴を開けて、それを子どもたちに飲ませてくれました。

(ウィキペディアから借りてきたココヤシとその実。分厚い繊維層の下に硬い殻があり、その内部にココナツジュースやココナツミルクが入っています。)

その果汁は油臭いような、青臭いような、決して父が言うような美味しいものではありませんでしたが、とにかく貴重な味ではありました。それぞれの家庭には、それぞれ晴れがましい思い出があると思いますが、あのヤシの実は、確かに我が家にとって晴れがましいエピソードのひとつでした。(いま、この文章を書きながら、そのときの匂いと味をまざまざと思い出した自分自身に驚きました)。

そして、私は残った殻を貴重な品として貰い受け、「これは磨くと立派な置物になるよ。油をつけて磨くといい」という祖父の言葉にしたがって、食用油をつけては、せっせと布で磨いたのでした。でこぼこした、細かい凹凸のあるヤシの殻は、磨いてもそんなに艶は出なかったし、父や祖父がいうほど立派な風格も生じませんでしたが、私はあくまでもそれを貴重な品と信じて、結構長いこと手元に置いていました。

   ★

ヤシの実にまつわる思い出は、かように複雑で多義的です。
手元のヤシの実を一瞥すると、子供時代のあれこれや、今はもういない人々のことが一瞬にして思い出されて、しばし感慨にふける自分がいます。

そういえば、今はちょうど死者を迎えるお盆の時期ですね。
ツクツクボウシが鳴き、晩夏の哀愁を感じる時期でもあります。

ぎょちょうもく、申すか申すか2022年08月13日 11時00分30秒

みんなで輪になって座り、魚・鳥・木の名前を言い合う「魚鳥木(ぎょちょうもく)」という伝承遊びがあります。考えてみれば、あれはなかなか博物趣味に富んだ遊びでした。

   ★

ドイツのカードゲームを見ながら、そんなことを思い出しました。


外箱には愛らしいベニテングタケの絵の脇に「Naturgeschichtliches Quartett Spiel」(博物学カルテットゲーム)とあって、さらに、「美麗な多色カード。花、虫、鳥、などなど」、「印刷・発行 エルンスト・カウフマン社 バーデン州ラール市/ニューヨーク、スプルースストリート7-11」と書かれています。

カウフマン社は1816年の創業。驚くべきことに現在も盛業中です【公式サイト】。
初代はあの石版技術の発明者・ゼネフェルダーに直接学び、その後、多色石版の流行とともに事業を拡大し、ニューヨークを含む海外に出店したのは1880年のことだそうです。このカードゲームも1880~90年代のものと思います。


中身のカードは、いろいろな生物が4枚1グループになっていて、全15グループ、総計60枚のカードから成ります。


Iグループは甲虫の仲間です。絵の下に2列4行にわたって生物名が書かれていますが、一番上に書かれているのが、当該カードの生物名です。左側はドイツ語、右側はフランス語の一般名。そして残り3行が、同じグループを構成する他の生物名で、これを手がかりに「仲間集め」をするわけです。


上段からV(果樹)、VI(野菜)、VII(実のなる木)の各グループ。


同じくXII(キノコ)、XIII(野の花)、XIV(ベリー類)。
カウフマン社ご自慢の多色石版技術が光っています。


中にはちょっと不思議なグループもあって、中段(IX)の鳥の巣も突飛だし、上段(VIII)は蝶グループのようですが、左端には蛾が1匹まじっています。まあ、分類学的に両者は同じ仲間だし、ドイツ語では蝶と蛾を区別しないので、これは理解できます。でも、下段(X)の蜂グループに、トンボが1匹まじっているのは、かなり苦しいです。


このXIグループになると、毛虫、アリ、クモ、バッタと、強いて言えば「雑多な虫」でしょうが、もはやグループの体をなしていません。

まあ、ごく少数のカードで博物趣味を語るとすれば、多少正確さが犠牲になるのもやむを得ません。それよりも、こういう愛らしいカードで身近な生物に対する関心を育み、ゲームを通じて「分類」という作業に慣れ親しむのは、大いに是とすべきことで、その意気に感じます。

   ★

以下、おまけです。

カルテットゲームは、カードをやりとりしながら、4枚1グループの「仲間」をできるだけ揃えた人が勝ちという遊びです。これまで天文モチーフのカルテットゲームを集めていた関係で、手元には既に何種類もあるのですが、実のところ、その詳細な遊び方はよく知りませんでした。この機会にそれを調べてみたので、メモ書きしておきます。

カルテットゲーム(Quartett Spiel)は、上述のように4枚1グループの「仲間」集めをすることからその名があります。でも、ゲームの性質を考えると、これは別に5枚1グループでも、6枚1グループでもよく、またグループ数も、たまたま今回のものは15グループですが、これまた任意のグループ数で差し支えないわけです。

カルテットゲームはドイツの専売特許ではなくて、英米にも、フランスにもあって、英語圏だと「ゴーフィッシュ」の名称がポピュラーで、そう聞くと、私もかすかに遊んだ記憶があります。あれは普通のトランプを使って、同じ数字のカード4枚をグループに見立てて遊ぶカルテットゲームの一種だったわけです。

あるいは「ハッピー・ファミリーズ」という、専用のカードを使って遊ぶゲームもあります。こちらは「○○家」の家族メンバーを揃えていくという遊びですが、こちらは5枚で1グループだったり、6枚で1グループだったり、いろいろバリエーションがあります。

で、私は知らなかったのですが、この「ハッピー・ファミリーズ」は日本にも古くから移入されていて、「家族合わせ」の名称で、戦前から親しまれていたそうです。その家族合わせゲームの詳細を、ネットで解説されている方がいて、そこから遡って本家のカルテットゲームの遊び方も、ようやく見当が付いた次第です。

■伝統ゲーム紹介:家族合わせ(概要)
■同:家族合わせの遊び方
(ここには3種類の遊び方が解説されています。カルテットゲームもきっと同じでしょう。)

愛鳥趣味と鳥のゲーム2022年08月11日 14時56分42秒

バードウォッチングを楽しんだりする愛鳥趣味というのがあります。
手っ取り早く、ウィキペディアの「野鳥観察」の項【LINK】を参照すると、以下のように記述されています。

 「趣味としての探鳥は、1889年英国王立鳥類保護協会が設立され、野鳥を捕殺したり飼育することを禁止しようということで、鳥を見て楽しむことが奨励された。20世紀に入り、欧米を中心に広がった。日本においては、昭和10年〔1935〕ごろ中西悟堂らによって提唱され現在に至る。」

まあ大枠はこういうことなのですが、さらに「英国王立鳥類保護協会(RSPB)」のサイトを見に行ったら、私がぼんやり考えていたこととは、いささか違うことが書かれていて、大いに蒙をひらかれました。


■The Royal Society for the Protection of Birds(RSPB)のサイトより
 「Our history」のページトップ

同協会の歴史のページには、冒頭に2人の女性の写真が掲げられています。
左の女性はEmily Williamson(1855-1936)、右の女性はEtta Lemon(”Etta”は通称。本名はMargaretta Louisa Lemon、1860-1953)で、さらにもう一人、Eliza Phillips(1823-1916)を加えた3人の女性がRSPBの創設者です。

協会が創設された1889年当時、はなやかなファッションの世界では、鳥の羽毛や鮮やかな飾り羽が大量に消費されていました。そのため、野生の鳥類、コサギやカンムリカイツブリ、ゴクラクチョウなどは実際絶滅の危機に瀕していたのです。しかも、そうした深刻な事態に対して、男性のみに門戸を開いていた英国鳥類学会は、何のアクションも起こさない―。そのことに業を煮やした末に、彼女たちは立ち上がったのです。

その動きは一時の激情にかられたものではなく、非常に息の長いものでした。
1904年には勅許を得て「王立」を名乗ることが許され、鳥類保護協会は「王立鳥類保護協会」になり、そして多年の努力が実って、「羽毛輸入(禁止)法(The Importation of Plumage (Prohibition) Act)」が議会で成立したのは、実に1921年のことでした。

ピ-ターラビットの作者、ビアトリクス・ポッター(1866-1943)は、若い頃生物学への関心が強く、特にキノコの研究では立派な業績も上げていたのに、学会が女性の参加を拒んだために、やむなく絵本作家に転じたことはよく知られています。それだけ学問の世界が女性に対して抑圧的だったわけです。その抑圧されたエネルギーが正当な出口を見出した時、いかに大きなことが成就されるか、RSPBの歴史はそのことも物語っているように思います。

そしてこの間、世界の潮流も大きく変わりました。1899年にはドイツ鳥類保護協会とオランダ鳥類保護協会が、1905年にはアメリカではオーデュボン協会が、1912年にはフランス鳥類保護連盟が誕生し、民間主導の自然保護運動は商業主義に対抗し、多くの成果を挙げたのでした。(この段落は、日本大百科全書「動物保護」の項を参照しました。)

   ★

穏やかな愛鳥趣味の背後に目を向ければ、そこには熱い歴史があります。
下はそんな熱い時代に生まれた「鳥のゲーム(Game of Birds)」です。

(チョコレート色の箱の大きさは9.5×20.5cm)

発売元の「パーカー・ブラザース」は、1880年代創業のアメリカの老舗ゲームメーカーで、1935年にはあの「モノポリー」を手がけて大儲けしたそうです。同社が20世紀の始めに売り出したのがこの鳥のゲームで、これも当時かなり売れたらしく、今でもeBayでは普通に売られています。

このゲームが人気を博したという事実と、上のような鳥類保護の歴史を考え合わせると、この他愛ないカードゲームに対する見方もいくぶん変わる気がします。

(黄色のチップがビニール袋に入っているのは、後の持ち主の工夫です)


トランプと同様、カードは4種類のスートから成り、各スートは1~13の数字が振られています(すなわちカードは全部で52枚です)。4つのスートはAシリーズ、Bシリーズ、Cシリーズ、Dシリーズと呼ばれ、Aは「攻撃的な鳥(fighting birds)」、Bは「派手な色の鳥(birds of bright plumage)」、Cは「森や荒れ地に住む鳥(birds who haunt the woods or wilds)」、Dは「身近な鳴く鳥(our song birds)」を表しています。

(A~Cの3種のスートについて、1番から5番まで並べたところ)

ゲームは、すべてのカードをプレイヤーに配ったあと、プレイヤーが順番に「親」となって、1枚ずつ手札を場に出しながら進みます。場に出すのは、原則として「親」が出したのと同じスートのカードですが、スートA(攻撃的な鳥)はいつでも出すことができ、他にAのカードが出ていなければ、その場のカードを全取りできます(A同士だと数字の大きい方が勝ちます)。しかし、やみくもカードを取ればいいというわけではなくて、カードの中にはババ、すなわち手元にあると減点になるカードがいくつかあって、それをどのタイミングで相手に取らせるか、その辺の駆け引きがゲームを面白くしています。
(ゲームの詳細はこちら【LINK】を参照のこと。)

(2つ折り4ページのゲーム解説。左上に写っているのはカードの裏面で、すべてのカードで共通です)

   ★

日ごろ登場しないものを簡単に紹介しようと思いましたが、他愛ないように見えても、調べ始めると、やっぱりいろいろな歴史がそこにはあって、モノがたりは尽きることがありません。

生物学の授業1939(その3)2022年06月25日 16時41分39秒

ところで現在の中学校では、生物の授業はどうなっているのでしょうか?


上は(株)進学会さんのサイトから勝手にお借りしたものですが、今の中学校の理科の生物分野では、大体こういうことを習うのだそうです。

80年余り前と今とを比較すると、意外にというか、当然というか、あまり習うこと自体は変わっていません。基本となるのは、大まかな生物分類の知識と、体の構造(細胞と器官)とその働き(光合成、呼吸、循環、消化、生殖)についてです。まあ、細部を見れば、今は生態系と環境のことを重視しているし、昔は保健分野(衛生の話題)が理科にくっついていたので、授業にやたら寄生虫の話題が出てくるという違いはあります。

   ★

それよりも大きな違いを感じるは、叙述のスタイルです。
一言でいうと、当時は妙に「文学的」です。川崎君のノートは、教科書の文体や、先生の口述を反映しているのでしょうが、その言葉遣いや、論の立て方・進め方に、何となく文学的な匂いを感じます。

たとえばこれから生物学を学ぼうという、1学期の第2回目の授業で、先生はこんな実験に言及します(おそらく先生も実際にやったわけではなく、あくまでも思考実験だと思います)。


それは同じぐらいの大きさのソラマメと小石をならべて土に植えるというもの。


ずっと観察を続けていると、ソラマメからは、やがて根と芽が出て、葉を茂らせ、花が咲き、実がなります。それに対して小石の方に何の変化もない。あるいは、陶製の擬卵と本物の卵を鶏に抱かせても又然り。生物は常に変化し、無生物は変化しない。一体なぜか?

 「これは不思議なことだときがつくと、これをどうしてもしらべずにおけなくなるのが人性の常である。しかし人はこれに不思議を感じない人が多い」

目の前の事実を、当たり前ですませずに、なぜなんだろう?と疑問に思うことこそ、人間の人間たるゆえんであり、そこから「科学する心」も生まれるのだ…と先生は言いたいわけです。こういう考えさせる授業は、今でもあると思いますが、問題設定の仕方がいきなりというか、相手の虚を突くところが、少なからず文学的と感じられます。

続く第3回の授業でも、

 「前回に述べたように、蚕豆や鶏卵は小石や陶器とちがって色々の変化をなすものである。
野蛮人は物を考へないが文明人たるものは物を考へねばならぬ。
故に我々文明人は斯様な現象が起るかを不思議であると思はづにいられない。」


と、同じテーゼが繰り返されており、先生としては、この点に相当力こぶを入れていました。「文明人」と「野蛮人」を対比するのは、いかにも時代がかっていますが、まあ、ここでは「知性を重んずる人とそうでない人」ぐらいの意味に捉えていいのかもしれません。

こうして我々の心に芽生えた疑問に、我々はどのように答えを見出すべきか?

「これをしらべるにはその動物を解部〔剖〕するのも一つの手段であるし又その動物を培養飼育をするのも一つの手段である。
又他人の経験録すなはち昆虫であればファーブルの昆虫記を読むといったふうにするのもよい。」


「生物の生活の現象をしらべるにはどうして研究するのが便利か
蚕豆の根を針の先ほどとってこれを顕微鏡で観ると図の如く見える」

こうして細胞の話から始まり、授業はいよいよ本格的な内容に入っていきます。
余談ながら、授業の中でファーブル昆虫記が大いに推奨された事実は、日本人のファーブル好きを物語るもので、ファーブルは教育的良書として、当時は今以上に喧伝されていた気配があります。

   ★

以後の内容は、当然のことながら教科書的な記述が多いですが、ところどころにリアルな授業の息吹が感じられる個所があります。たとえば、2学期の第5回の講義は、動物の呼吸について学ぶ回なのですが、なぜか唐突に上杉鷹山のことが出てきます。


 「かてもの
 この本は往昔山形の米沢の藩主上杉鷹山公が時の学者共に研究させて作った本である。当時は大ききんがたびたびあって人民はとても苦しんだ そこで上杉鷹山公は人民の苦るしみを思って終いにこの本をつくらうと意を決したのである。この本はだれにも読めるやうにかなまでがふってある。内容は米等があまり取れなかったのでその代りに何をたべればよいか又どうして食べればよいかなどとくわしく書いた本である。
明治時代等は何でも西洋のものがよいことにして西洋のものでなければだめであるといふ時代であったのでこの本などはわすれられた。しかし欧州大戦に独逸(Germern〔ママ〕)は野生の草を食用に用ひたので近来になって又日本の物がよいといふ時代になって再びこの本を造り出したのである。」

「かてもの」は「糧物」の意で、飢饉の際の救荒食物のことだそうですが、授業はこの後さらに脱線して、生徒たちは自ら「かてもの」作りを経験するため、校庭で育てていた大根の世話に精を出したことが書いてあります。

 「かてものの様なものを造る練習に夏休中に小使さん達が造ってゐて下さっ〔た〕大根をつくる事にした。今日は時間の余に1所に二〔三?〕株ある所を二株にしなほ時間があったので一株にし、なほ葉の後についてゐる蛾や蝶の卵をのぞきかつ家にもってかへった。」


   ★

こんな風に見ていくと、本当にきりがありません。
当時の授業の進め方は、学校によっても違ったでしょうし、先生の裁量も大きかったと思いますが、少なくとも川崎君の受けた授業はとても魅力的です。

ここに宮沢賢治的世界を重ねて見ることは容易ですけれど、現実世界ではきな臭いものが間近に迫っていました。

(3学期第12回のノート。日付は2600年1月15日。1940年(昭和15年)は皇紀2600年だというので、世間は大層浮かれていました。しかし翌年には太平洋戦争に突入して、学校も徐々に授業どころではなくなっていきます。)

(中途半端ですが、この項いったん終わり)

生物学の授業1939(その2)2022年06月19日 16時07分32秒

今でいうところの中学2年生に進級した川崎浩君。

川崎君が在籍した学校名を探したのですが、それはどこにも書かれていませんでした。ウィキペディアによれば(↓)、旧制の7年制高校は台湾の台北高校を含めて9校のみで、わりとマイナーな存在のようです。創立はいずれも大正末から昭和の初めにかけてで、時代的にもかなり限定されます。


このうちのどこかに在籍した川崎君の生物学の勉学のあとを追ってみようと思うのですが、まず外形的なことを述べておくと、このノートは1学期が18回、2学期は16回、3学期は22回の合計56回分の講義録から成ります。(なお、当時の学期の区切りは今と違って、2学期の授業は6月26日から、3学期の授業は11月22日から始まっています。)

そして全ての回について、その都度ノートを先生に提出して添削を受け、ときには「も少し丁寧に書きなさい」と注意を受けたりしながらも、延々と川崎君はノートを書き継いでいきました。


その間に、Nの向きを間違えることもなくなったし、最初は「NOⅡ」(第2回講義の意)としか書かれてなかった冒頭部も、最後の方は「第十八回 第九章 第二課 下等生物の生殖(其の二)」とシステマティックに書くようになり、川崎君にも成長のあとが見られます。


(川崎君の悪筆は最後まで変わりませんが、レタリングは上手くなりました)

   ★

授業は、1学期の最初の方は、

第1回 生物が生存する条件
第2回 生物と無生物、純正生物学と応用生物学
第3回 細胞
第4回 キュウリの種まき、植物の細胞観察、細胞の構造

…という具合に始まって、以下、細胞分裂、単細胞生物と多細胞生物、生物の栄養法、光合成、澱粉、下等動物の栄養法、昆虫の消化器、蝶の構造と観察、甲殻類と軟体動物、脊椎動物、哺乳類、(ここから2学期)寄生虫と寄生植物、生物の呼吸作用と循環作用、排せつ作用、蛙の解剖、植物の外皮、貝殻の真珠層、動植物の護身作用、(ここから3学期)保護色・警戒色・擬態、動物の移動運動、動物の感覚

…と続き、3学期の最後の方は

第15回 第9章 生殖 第1課 下等生物の生殖(其の一)
(アメーバ、バクテリア、ゾウリムシ)
第16回 同(ヒドラ)
第17回 同(菌類、スギゴケ、シダ)
第18回 第2課 下等生物の生殖(其の二)(つくし、とくさ)
第19回 同(サンショウモ、クラマゴケ)、第3課 顕花植物の生殖
第20回 第4課 下等動物の生殖(クラゲ、サナダムシ)
第21回 同(肝蛭、肝臓ジストマ、ミミズ、ヒル、回虫)
第22回 同(十二指腸虫、蟯虫、ウニ・ヒトデ、タコ・イカ・ハマグリ・アサリ・サザエ・ホラガイ)


…と、生殖作用に多くの時間をかけて、1年間の授業を締めくくっています。

   ★

次回以降、ノートの中身を見ながら、当時の生物学の授業を振り返ってみようと思いますが、ここで次の疑問に答えておきます。

そもそもこのノートはどのように作成されたのか?

このノートには丁寧な彩色図がたくさん入っており、いろいろな図版の切り抜きも貼り込んであります。授業を聴きながら、そんな作業をする余裕があったはずはないし、「今日は○○について習った」という書きぶりから察するに、これは講義の最中に筆記したのではなくて(そういう本当の意味でのノートはまた別にあったはずです)、授業後に、今日習ったことをまとめた「復習ノート」なのでしょう。(それを先生に提出して、チェックしてもらっていたわけです。たくさんある科目のひとつに過ぎない生物学でも、それだけ時間をかけて学んでいたとなると、全体としては相当な学習量ですね。)

(応用生物学の例として挙がっている金魚の品種改良)

それともう1つ気になったのが、ノートに貼られた図です。
そこには学習雑誌の付録っぽいのもありますが、どうも教科書から切り抜いたとしか思えないものもあって、教科書を切り刻むというのは、今の感覚からすると違和感を覚えますが、それを先生も咎めていないところを見ると、少なくとも川崎君の学校では、既成の教科書よりも、自分の手でまとめた講義録に重きを置いていたような気がします。

(鳩の解剖図)

(この項つづく)

生物学の授業1939(その1)2022年06月17日 18時24分40秒

私が子供のころの理科室の思い出も、相当な過去に属するのですが、それよりもさらに昔、戦前の理科の授業の思い出を、鮮やかに今に伝える品が手元にあります。


すなわち昔の理科のノートを1冊にまとめて製本したものです。


標題は「生物学」。尋常科2年級の川崎浩君の力作です。

「尋常科2年級」というのを、私は最初「尋常小学校2年生」の意味だと思いました。これは今の小学2年生と同じです。でも、7つか8つの子供が「生物学」を学ぶのはちょっと変だなあ…と思って調べたら、これは「高等学校 尋常科2年生」の意味でした。すなわち昔の旧制高校の中には、今でいう中高一貫校に当たる「7年制高等学校」という区分があって、その7年課程を年少の4年と年長の3年に分かち、前者を「尋常科」、後者を「高等科」と称したのだそうです。

昔の学制はややこしいので、ウィキペディアから説明図を借ります(クリックして拡大)。


上は1935年頃の学制で、左端に「7年制高校」が見えます。
結局、尋常科2年級とは、今の中学2年生と同じ学年に当たります。

現在、大学の講義録をとっておく人がどれぐらいいるのかはわかりませんが、昔は講義の筆録を貴重な資料として後々までとっておく、心掛けの良い人が少なからずいました。そして、そういう習慣は大学のみならず、初等・中等教育段階でもあったらしく、この川崎君のノートも、稚拙といえば稚拙ですが、1年間の立派な学習の記録として、こんなふうにきちんと製本されて、ながく手元に留め置かれたと見えます。

(Nの書き方がちょっと変。)

ノートは1939(昭和14)年4月7日から始まっています。


「今日は今迄使用してゐた科学入門ではなくて
生物学(Biology)についておそはることになった。
此の生物学は人及び動植物は何故生きてゐるのだらう。
又生きて行くにはどうゆう条件が必要なのだらう。
といふことをきはむる学科は既〔即〕ち生物学である。」

たどたどしくも初々しい、川崎君の生物学探求の足跡を、さらにたどってみます。

(この項つづく)