博物学と名物学(後編)2017年10月10日 06時50分14秒

名物学が博物学のルーツと称するに足る…というのは、たとえば以下の書籍に窺うことができます。


岡 元鳳(編)、橘 国雄(画)
 『毛詩品物図攷』(もうしひんぶつずこう) 全7巻(草/木鳥/獣虫魚に3合冊
 平安杏林軒・浪華五車堂、天明5年(1785)刊

『毛詩品物図攷』とは、「毛詩に登場するモノたちの絵入り解説書」といった意味。
そして「毛詩」とは、周代に成立した中国最古の詩集・『詩経』の別名です。日本でいえば万葉集みたいなものですが、中国では時の流れと共に経典扱いされて、『詩経』の名を得ました。

何せ3000年近く前に詠われた古詩ですから、その言葉遣いも、詠い込まれた事物も、後代の人にとっては難解な点が多く、だからこそ有り難味があったのかもしれません。

ともあれ、この本はその『詩経』に出てくる動・植物を、絵入りで考証した本です。
作者の岡 元鳳(おかげんぽう、1737-1787)は、江戸中期の儒学者・医師。
この本は近世の日本で成立した、日本人向けの本ですが、内容的には古来中国で編まれた『詩経』の注釈書を引用しながら、それに和名を当てる…という作業を基本にしています。

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オオバコの図。『詩経』での名は「芣苢(フイ)」。
岩波の「中国詩人選集」に収められた『詩経国風 上』(吉川幸次郎注)によれば、『詩経』の原詩は以下のとおりです(四句三連から成る詩の冒頭四句)。

 采采芣苢  芣苢(ふい)を采(と)り采(と)り
 薄言采之  薄(いささ)か言(わ)れ之を采る
 采采芣苢  芣苢を采り采り
 薄言有之  薄か言れ之を有(も)つ

吉川博士の訳は「つもうよつもうよおおばこを。さあさつもうよ。つもうよつもうよおおばこを。さあさとろうよ」。

オオバコが不妊症の治療薬とされたことから、後人はいろいろ深読みしたようですが、元は農村の生活から生まれた、簡明素朴な歌なのでしょう。

挿絵の脇に記された本文を読むと、作者・元鳳は、「毛詩」の名の起こりともなった、秦末~漢初の学者・毛亨による注釈「毛伝」を引きつつ、「芣苢」とは「車前」の別名であり、日本でいう車前草(オオバコ)のことである…と説いています。

まあ、くだくだしいといえば、くだくだしいのですが、名物学とは元来そういったものです。

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こんな調子で、本書にはいろいろな動植物が登場します。

(サソリ)

(左:ハリニレ、右:シダレヤナギ)

(左:クリ、右:ハシバミ)

クリの解説を読むと、先行書を引いて「日本産の栗では丹波産のものが上等とされる。鶏卵ほどに大きく、味も良い」といった、雑学的なことも書かれています。

そして、何と言っても極め付きは…


このワニの図。

おそらくモノの方は、中国に住む「ヨウスコウワニ」だと思うのですが、作者・元鳳はこれに「カアイマン」を当てています。本来のカイマンワニは南米に住み、カイマンという言葉自体、スペイン語ないしポルトガル語に由来するらしいので、これは相当ハイカラな知識です。

それにしても、古詩の注釈に、ワニの液浸標本が登場するというのが驚き。
(これは西洋式の液浸標本の、最も古い図かもしれません)。

この辺までくると、名物学が本草学と合体して、それが博物学の祖となったことが、自ずと納得されます。

明治の動・植物実習図を眺める(後編)2017年10月08日 08時36分58秒

19世紀最後の年、1900年。そして20世紀最初の年、1901年。
世紀をまたいで講じられた、動・植物実習の講義用図譜の中身とは?

それを昨日に続けて見てみたいのですが、その前に訂正です。
昨日は、第1図をツユクサと書きましたが、ツユクサの前に「サルスベリ」の図があるのを見落としていました。結局、図譜の総枚数は31枚で、彩色図は27枚です。

(こちらが本当の第1図、サルスベリ(部分))

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さて、この実習で目に付くのは、かなり植物重視の教程になっていることです。
まず、冒頭のサルスベリから始まって、ツユクサ、シュウカイドウ、クサギ、ソバ…と身近な植物(昔風にいえば「顕花植物」)の構造と分類の講義が続きます。

(クサギ)

(サンシチソウ)

その後、顕微鏡の構造と取り扱いの学習があって、そこからはノキシノブ、サンショウモ、キノコ類、ヒジキ…といった「隠花植物」の講義と、各種植物細胞(でんぷんや根・茎・葉の組織)の観察が続きます。

(顕微鏡の図)

(カビと根粒菌の観察)

(ネギを素材にした、各種染色法による細胞の観察)

ここまでで全31枚中、23枚の図版が費やされています。
そして、残りの8枚が「動物篇」ということになるのですが、そこに登場するのはヒルとカエルのみです。この図譜が前回推測したように、上野英三郎氏による農科大学の講義ノートとすれば、以上の教程も納得がいきます。(ヒルとカエルの選択も、無脊椎動物と脊椎動物の代表ということでしょうが、いかにも農の営みを感じさせます。)

(ヒルとその解剖)

カエルについては、全部で7図を費やして、内臓から筋肉の構造、神経系や循環系、そして最後に骨格の観察に至ります。

(前回の写真は色が濃く出過ぎています。今日の方が見た目に近いです。)




おそらく仕上げとして、カエルの骨格標本を作って、学生たちは1年間の実習の思い出として各自持ち帰ったのでしょう。

東大のインターメディアテクには、今も古いカエルの骨格標本がたくさん並んでいて、あれは理学部・動物学教室に由来する明治10年代のものだそうですが、その頃から、学生たちはせっせとカエルの解剖に励んでいたんじゃないでしょうか。

(西野嘉章編、「インターメディアテク―東京大学学術標本コレクション」、2013より)

明治の動・植物実習図を眺める(前編)2017年10月07日 10時58分29秒

ふくべ書房さんのことを話題にしたので、以前宿題にしていたことを書きます。
それは今年6月にカエルの解剖について触れたときのことです。

本邦解剖授業史(2)

上のリンク先を含む前後の記事は、日本における解剖(特にカエル)の授業についてまとめたもので、その中にこんな記述が挟まっていました(画像も含めて再掲)。



 上の画像は、おそらく大学における動物学実習のために準備された講義ノートの一部で、明治30年代のものです(この美しい彩色手稿については、描き手のことも含めて、いずれじっくり書きます)。

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問題の明治時代の講義ノートは、やはり帙にくるまれて、ふくべ書房さんから届きました。


中身は『動植物実習図』と題された、手製の図画集で、大きさは37×28cmと、B4よりもさらに大きいサイズです。中には30枚の図版が綴じられており(各葉とも裏面は空白)、そのうち26枚に手彩色が施されています。

(以下、雨模様で光量が乏しいため、暗い写真になりました)

冒頭の第一図。図には講義用のアンチョコらしい説明文が貼付されており、それをめくると…


下から可憐なツユクサの図が現れます。

リアルな全体図と部分図、花の細部スケッチと花式図、さらに顕微鏡で観察した花粉や蕊の細胞(これは別種であるムラサキツユクサの雄蕊の毛の細胞をスケッチしたもの)等が、きっちり1枚の図に収まっています。



それにしても、これは相当巧い絵ですね。職業画家の巧さとはまた違うのでしょうが、繊細さと科学的正確さを兼ね備えた、真面目な絵だと感じます。


ペンで書かれた「アンチョコ」の文字も、描き手の几帳面さを感じさせます。

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この勢いで他の図も見てみたいのですが、その前に本図譜の素性を考えてみます。

この図譜は、もちろん「動植物実習」のために作成されたものです。用いられたのは、明治33年(1900)の9月から、明治34年(1901)の6月まで。当時の大学は9月に始まり、翌年6月までを学校年度とし、これを3学期に分けて授業を行ったので、ちょうどそれに対応しています。

担当教員は「上野」先生だと、表紙の文字は教えてくれます。
これが仮に東京帝大に関係したものとすれば、当時の教員は以下の資料で確認できますから、それが誰かは簡単に分かります。

■東京帝国大学一覧. 明治33-34年

当時の帝大理学部や農学部(正確には理科大学、農科大学)に、上野姓の教員はただ一人です。すなわち、農科大学に在籍した、上野英三郎(うえの ひでさぶろう、1872-1935)。上野博士は、たぶん御本人よりもペットの方が有名で、あの忠犬ハチ公の飼い主だった人です(当時はまだ博士ではなく、ハチ公も飼っていませんでしたが)。

(左から5人目に上野の名が見える)

もちろん、これが東京帝大以外の、たとえば京都帝大や旧制高校、あるいは師範学校に所属する、別の上野先生のものだった可能性もあるので、うっかり断定はできませんが、この点は、おそらく上野博士の筆跡が分かればはっきりするでしょう。

以下、これが上野博士のものとして、話を進めます。

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上野博士は農業土木の大家で、もちろん動・植物の解剖学が専門ではありません。
しかし、彼が「大家」になるのは、しばらく後の話で、彼はちょうどこの年(明治33年)の7月に大学院を終えて、同年8月に農科大学講師に任じられたばかりでした。

彼が所属したのは、田中節三郎助教授率いる「農学第二講座」で、彼は田中助教授の下で、「農学第二講座に属する職務分担」を担当していました。何のこっちゃ…という感じですが、他の先輩教師のように、「家畜生理学」とか「農芸化学」といった具体的な担当科目が記されていないので、要は何でもやらされたのでしょう。

当時の農科大学は3年制です。そのうち農学科では、第1学年と第2学年で、「植物学実験」と「動物学実験」が必修でした。また農科大学には、そうした本科の他に、旧制中学卒業生等を対象とした、「実科」というのがあって、こちらは農業実務者養成を目的としたコースのようです(実科の入学者の半数は、「田畠五町歩若クハ未墾地十五町歩以上ヲ所有スル者又ハ其子弟ヨリ選抜ス」と規則で定められていました)。そして、そちらにも当然、動・植物学の講義はありましたから、そういう基礎クラス向けの手間のかかる実習を、新米講師が担当させられた…というのは、何となくありがちなことという気がします。

(以下、図譜の続きを眺めます。この項つづく)

珪藻愛2017年09月12日 06時41分53秒

上野の国立科学博物館のミクロ分館で、「大珪藻展」が好評開催中と聞いて、見に行って来ました。

(上空から見たミクロ分館)

夏休みも終わったというのに、会場は大勢の親子連れで賑わい、入場するまでちょっと待たされました。


中に入ると、壁面に珪藻の実物がずらりと並び、その迫力に圧倒される思いです。


不思議な形の珪藻たちが、黒い闇をバックに光り輝く様は、美しくもあり、怖ろしくもあり、これが自分と共通祖先を持つ生物だとは、とても思えません。

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…と、しょうもないことを書きましたが、珪藻というのは、確かに不思議な生き物です。


私が買ったのは、カリフォルニアの海辺で採取された、85個体を1枚のプレパラートに封入したものですが、それを一瞥しただけでも、その多様性に目を見張らされます。

(スマホでは広い視野が撮れないので、購入時の商品写真を流用)

その多様性から、珪藻は昔から顕微鏡ファンには人気で、その集合プレパラートもたくさん作られました。

(A. Pritchard、『滴虫類誌(History of Infusoria)』第4版(1861)より)

(同上。プリチャードのこの本には図版が40枚載っていますが、珪藻の図は、そのうちの実に14枚を占めています。)

その人気は、今も衰えを知りません。
下の写真はeBayで見かけたものを勝手に貼らせてもらっていますが、この100個体を封入したプレパラートは、その色形の美しさからグングン値を上げ、何と6万円近くの値段で落札されました(たった1枚のプレパラートがですよ)。本当に口あんぐりです。


まあ、これは巧みな暗視野写真が、美しさに下駄を履かせている部分もあるでしょう。
私も真似したかったのですが、手元の安価な顕微鏡は、暗視野観察装置を欠いており、冒頭の写真は、絞りを中途半端な位置に置いて擬似的に暗視野とし、後から画像をいじったものです。

それにしても、見れば見るほど素敵な連中じゃありませんか。

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現実の国立科学博物館に「ミクロ分館」はありませんが、珪藻の一大標本コレクションは実際に収蔵されており(現在は同館の筑波研究施設に置かれているようです)、過去には「珪藻カフェ」なんていう素敵な催しもありました。

そして本邦には、珪藻を専門とする「日本珪藻学会」があり、珪藻学(diatomology)の発展に日々邁進しているのです。


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珪藻の「珪」の字は、元来中国において、天子が諸侯に授けた玉の意だそうです。
珪藻はまさにミクロの宝玉―。

科学の真骨頂2017年08月29日 22時11分36秒

昨日のスライドと一緒に並んでいたスライドをついでに載せます。
動物を写した古いレントゲン写真という、ちょっと変わった題材の品です。


種名は不明ですが、それぞれサンショウウオとヘビの一種。


手書きのラベルには、「フレデリック・ヨークによる歴史的写真。X線を用いた放射線写真」と書かれています。(反対側の面に貼られたオリジナル・ラベルには、「Radiographs by X-ray」と印刷されています)。

ここに出てくるフレデリック・ヨーク(Frederick York、1823-1903)というのは、息子とともにロンドンで写真販売会社を興し、19世紀後半から20世紀初めにかけて、大いに繁盛させた人物です。

彼はロンドン名所や、ロンドン動物園で暮らす動物の姿などをカメラに収め、それをキャビネ版や、大判写真、あるいはステレオ写真の形で売りさばきました。さらに、それらにまして売れたのが、写真を元にした幻灯スライドです。

1890年以降のヨーク社のスライドには、「Y字に蛇」のマークがあしらわれ、今回取り上げた2枚のスライドにも、やっぱりそのシールが貼られています。(余談ですが、以前登場した、美しい望遠鏡のスライド↓に貼られた「Cobra Series」のシールも、ヨーク社の製品であることを示すものでした。)


X線の発見は1895年。その後、X線撮影装置が開発されたのは1898年。
したがって、今回の写真も、それ以降のものということになります。
ヨーク社が、自前でX線撮影装置まで持っていたのか、あるいは装置は他所で借りたのかは不明ですが、撮影自体は、きっとヨーク社が行ったのでしょう。

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サンショウウオ(両生類)とトカゲ(爬虫類)は、一寸シルエットが似ています。
でも、その骨格はずいぶん違います。前者には、肋骨で籠状に覆われた「胸郭」が存在せず、その形状は魚の骨と大差ありません。これは、両生類では胸郭を用いた肺呼吸が未発達なことと関連している由。

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それにしても、こうした写真が、当時の人に与えた衝撃はどれほどのものであったか。
人びとは、まさに新時代の魔法を見る思いだったでしょう。




この発見が、当時既に盛んだった心霊ブームに新ネタを提供し、日本でも明治の末頃、学者たちを巻き込んで、透視・千里眼・念写の実験が盛んに行なわれました(当時の学者たちは、現象の背後に「京大光線」「精神線」といった仮想光線を想定しました)。ホラー小説『リング』の元ネタとなったのもそれです。

更にその後、X線はいっとき「科学おもちゃ」のような扱いを受けた…というのは、以下で触れました。

■怪光線現る…理科室のX線


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【参考】

フレデリック・ヨークと彼の商売については、以下のページを参照しました。

■The Magic Lantern Society>The Lantern Alphabet>York and Son の項

■Historic Camera>History Librarium>Frederick York, Photographer の項

本邦解剖授業史(5)2017年06月17日 11時56分44秒

さて、余儀なく授業が中断していましたが、この辺で再開します。

いよいよカエルの身体にメスが入ります。
でも、いきなりお腹にブスリ…ということはしません。
内臓を観察するだけなら、それでも良いのですが、カエルの身体構造をつぶさに観察するには、まず後肢から手術を始めます。


後肢では、主に筋肉と骨格、それに神経を観察します。
あまり文字に書き起こすのもどうか…と思いますが、その描写がかなり具体的なので、記してみます。


 「蛙を蛙板に腹位に固定し、薬品にて麻酔せしめたる後、次の手術をする左手にピンセット、右に鋏を持ち、蛙の右後肢の大腿の中央部の皮膚をピンセットで撮〔つま〕み上げ、右の鋏でパチンと縦に切る。切れ目に鋏をいれて腿から足の尖端へ向って縦に長く皮膚を切る。膝関節のところでは皮膚が下の組織とくっついてゐるから少し注意して鋏で切るがよい。」(p.55)

そして、胴体に収まった内臓諸器官の観察。


これもまた描写がなかなか細かいです。

 「蛙を今度は仰臥位(背位)に固定する。
 胸を指で撫ると胸骨にふれる。骨に沿ふて下ると、その終り剣状突起に触れる。〔…〕で、これより少し下と思ふ所の皮膚をピンセットで摘みあげて、鋏でその下の筋肉も諸共に切断して、腹壁に小さい穴を開ける。茲〔ここ〕に鋏をいれて、腹壁を左と右の両側に切り開き、両側に達したら側腹を真直ぐ下方へ切り進んで、股まで行って止める。」
(p.101)

もちろん解剖の実技はこれにとどまるものではなく、他のページには、いっそう刺激的な記述が並んでいますが、それらは割愛します。

そもそも解剖はひとつの手段であって、その先にある目的は、生体構造を観察し、その働きを実験的に確かめることです。当然、この本でもその部分に多くのページを割いて、筋肉の疲労実験、神経の電気刺激実験、心拍動の実験、消化実験…等を紹介しています。

(本書口絵。「蛙心臓迷走神経並に後肢諸筋」。右側に見えるのは、先端にプラスマイナスの電極を仕込んだ「白金電導子」)

いずれにしても、先に紹介した小野田伊久馬(著)『小学校六箇年 理科教材解説』(明治40年=1907)の解説にあった、「蛙を解剖せんには〔…〕腹部の中央より、縦に切開すべし。」というような、単純素朴なものではないことは確かで、解剖実習をしっかり行うことは、相当の知識と経験を要することですから、そうしたものを小学校の先生が身に着けるようになった――少なくとも身に着けられる環境が整った――のは、やはり大正時代以降なのだと思います。


(そして時代は戦後へ。この項さらにつづく)

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▼閑語(ブログ内ブログ)

昨日の記事は、いささか感傷的に過ぎたようです。
国会が死んだままで良いはずはないので、おーいおーい!と声を限りに魂呼ばいし、それでも蘇生が叶わなければ、反魂の術を用いてでも…。

でも、原子の炎で焼かれた広島や長崎に緑が甦り、人々の暮らしが甦ったように、そこにまともな人がいて、まともな声を挙げ続ける限り、特に暗黒の秘術に頼らなくても、国会は自ずと甦るのではないかという気もします。

まずはまともな声を絶やさぬこと、それが大切だと思います。

本邦解剖授業史(4)2017年06月13日 21時09分38秒

前回に続き、宮崎三郎(著)『蛙を教材としたる人体生理解剖実験室』(1923)の中身を見てみます。

(本書口絵。「蛙と人の脳の比較」および「蛙血液循環」の説明図)

当然の話ですが、その説明は相当具体的です。

まずは、「第二章 実験動物」の項にあるように、「等しく蛙といっても種類が多い」ので、解剖の対象とするカエルの種類を決めねばなりません。

 「私たちの実験に都合のよいものは、形のなるたけ大きなものである。〔…〕この目的に叶ってゐるものは、まづ蝦蟇〔ひきがえる、がま〕が一等だ。」(p.12)

とあって、「あれ?ウシガエル(食用ガエル)は?」と思いますが、ウシガエルがアメリカから試験的に輸入されたのは1918年(大正7年)のことで、本書執筆の段階では、まだ全国に広まっていなかったのでしょう。

しかし、著者はいったん候補に挙げたヒキガエルをすぐに退けます。

 「蝦蟇といふ奴はどうも私たち人間には気味の悪い動物である。両棲類や爬虫類の跋扈した前世紀、私たちの祖先がこの動物のため随分と苦しめられたので、その頃の恐怖感が今尚私たちのうちに潜在意識として存するからだそうな。芝居の天竺徳兵衛、児雷也、さては蝦蟇仙など、大きな奴の背に乗って現れる。のそりのそりと動き出し、口から火焔を吐いたりするのを見ては、子供の頃に恐ろしがったものだ。蝦蟇は悪気を吐くとか、背の疣にじゃ毒物があるとか(尤もこれは噂だけでなく、事実がま毒なるアルカロイドがあるそうだ。)兎に角よくない評判を立てられてゐる。」(同上)

アルカロイドを除けば、およそ科学の徒らしからぬ理由づけです。
別に天竺徳兵衛や児雷也を持ち出さんでも…とは思いますが、まあこれも時代でしょう。それに「子供たちを怖がらせてはいけない」という、一種の教育的配慮が働いているのかもしれません。

こうして、著者はトノサマガエルを第一候補に挙げ、「以下特に断り書きのなきところでは、蛙といへば常に殿さま蛙のことゝ思って頂きたい。」と宣言します(p.13)。

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さて、ここからいよいよ解剖の実技に入っていきます。

解剖作業の最初は、カエルの固定です。
「実験動物の生きたまゝに手術を施さうといふのだから、荒れくるふのは想像に難くない。で手術を容易にするため、之を一定の板上に固定するのである。」(p.15)


…というわけで、カエルの四肢を上のような「蛙板」に糸で縛り付けるか、あるいはコルク板に直接ピンで打ち付けてしまうという、かなり荒っぽいことも可としています。

なお、著者は、「実験に差し支へを来さない限りは、動物を麻酔せしめて、然る後に手術を施すべきである」(p.29)という意見なので、麻酔をかけてから蛙板に固定するか、あるいは先に固定してから、鼻先にエーテルを嗅がせて麻酔することを勧めています。ただし、これは作業の便というよりも、もっぱら人道的な理由によるものです。

 「私たち人間は他を殺さないでは生きて行かれない様に運命づけられてゐる、悲しき神の摂理である。私は故に、学問のためとか、人類の幸福のためとか、所謂「大の虫」を担ぎ出すことは避け難い。逃れ難きある宿命によって私たちは動物を殺すのである。決してよい事ではない。で、その際に当って、切〔ママ〕めても私たちの心の慰めは、その動物が割合に苦痛なく死んでくれることである。」(pp.28-29)

「だから麻酔が必要なのだ」…というのですが、この辺は現代の目で見ると、手前勝手な人間中心主義として退けられるべきところでしょう。でも、これが当時の意識でした。


(何だか書き出すと長くなりますね。この項、もう少しだけつづく)

本邦解剖授業史(3)2017年06月11日 12時39分26秒

大正時代、特に第1次大戦後は、「児童実験」が盛んに言われた時期です。
すなわち、明治時代のように、単に絵図を見せたり、あるいは教卓上で先生が実験して見せたりするだけではなく、生徒自らが実験することの重要性が叫ばれた時代。

これが理科室の基本構造にも影響を及ぼし、4~5人で1つの机を囲み、グループ単位で先生の説明を聞きながら実験するという、現代に通じる理科室風景が誕生したのも大正時代のことです。

カエルの解剖が一般化したのも、やっぱりルーツは大正期だと思います。
この連載の1回目で、串間努氏の『まぼろし小学校』を引いて、大正4年(1915)に、「博物用解剖器」が実用新案として出願されたと書きましたが、それも1つの傍証になります。

もちろん、解剖実習はそれ以前から方々で行われていましたから、解剖器が大正4年に突如登場したわけではないでしょうけれど、「博物用」と銘打って、小・中学校用の教材として商品化されたのが、この前後だろうと思います(この「博物」は「物理・化学」と対になる語で、動・植・鉱物について学ぶ科目を指します)。

下は昭和に入ってからの例ですが、島津と並ぶ代表的理科教材メーカー、前川合名会社(後に「前川科学」→「マリス」と社名変更)が出した、昭和13年(1938)のカタログの一ページ。これを見ると、当時、さまざまなタイプの解剖器が作られ、学校に売り込みが図られていたことが分かります。まさに“需要のあるところに供給あり”というわけでしょう。

(昭和13(1938)、前川合名会社発行『理化学器械 博物学標本目録』より。5点セット・レザーサック入りの80銭から、17点セット木箱入りの最高級品20円まで、多様なラインナップ)

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さらに、いっそう直接的な証拠としては、大正時代の後半になって、ずばりカエルの解剖をテーマにした理科教育書が出版されていることを挙げることができます。


■宮崎三郎(著)
 『蛙を教材としたる人体生理解剖実験室』
 中文館書店、大正12年(1923)

この本は、序文に説くように、「小学並に中学に於ける人体生理解剖学教授上の一参考」として書かれたものです。そして、この本を書くに至った著者の思いが、序に続く「緒言」(pp.4-10)に、こう記されています(引用にあたって、一部読点を補いました)。

 「世界大戦争の勃発後は、四囲の情況に影響されて、我国にては在来余り顧みらるゝこと少かった理科教育が、盛に奨励さるゝに至った。かゝる機運に促されて、中学、小学に於ける物理、化学の設備は其面目を一新し、実験といふことが大に重ぜらるゝ様になった。然しながら、之を動植物学の方面に見るに、如何なる状態であらうか。更に之を医学(人体生理、解剖、衛生)の方面に見るに如何?尚従来の教科書と掛図による説明の域を脱しないではないか。」

著者である宮崎の見る所、理科における「児童実験」ブームは、物理・化学に限られ、生物分野には依然として及んでいなかったというのです。「これではいかん」というのが、宮崎の問題意識であり、その主な原因は「その教材を得ること難きと、之が実験方法の困難なるべしと思惟さるゝ為」だというのが、彼の意見でした。

たとえば心臓の動きについて学ぶのでも、「生体解剖を人体に行ふわけにも行くまい」し、「模型といふものはどんなに上手に出来てゐてもやはり『模型』だ」。そこで、比較解剖学や比較生理学の考えを援用して、「私は蛙及蝦蟇〔がま〕を採らるゝことを御奨めしたいのである」と、宮崎は主張します。

 「蛙ならば材料を得るにも容易である。田舎ならば裏の泥田に鳴いてゐる。都会ならば実験用の蛙を売る商人がゐて、頼めば幾十匹でも揃へる。
 更に蛙は小さい故に、他試験動物に比してその取扱ひ極て簡単であり、〔…〕所謂生体解剖をやったとて、流血の惨を見ること少く、蛙ならば惨酷なといふ感じも起すこと少いであらう。」

当時でも、「惨(残)酷」という観点を、まったく顧慮しなかったわけではありませんが、相対的に罪が軽いと思われたようです。さらに続けて、宮崎は下のように書くのですが、これも当時の意識のありようを伺わせる内容で、興味深いです。

 「動物愛護の声の高い英国では、学者の研究室での実験にも、試験動物は必ず麻酔をかけることに規定されてゐる。時々其筋の役人が見廻りに来るとの事である。その英国ですら蛙の実験には麻酔を用ひないでよいことになってゐる。これは蛙は大脳の発達幼稚にして、疼痛を感じないからとの理由であるそうな。」

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カエルの解剖は、その終焉がぼやけているのと同様、その始まりの時期も一寸はっきりしないところがあります。少なくとも、ある年を境に、全国でパッと行われるようになったわけではなく、大正時代いっぱいを通じて、各地の理科教師が研鑚を重ねる中、徐々に普及していったのが実態だろうと思います。


(次回、宮崎の本の中身をもう少し見てみます。この項つづく)

本邦解剖授業史(2)2017年06月10日 12時35分51秒

今もあるかもしれませんが、昔の理科室には、よく内臓全開のカエルやハツカネズミがホルマリン漬けになっていました。

あれはもちろん、脊椎動物のからだの構造を生徒に教えるための教材ですが、ふつうの感覚からすれば、いかにも陰惨な印象を伴うもので、人体模型とともに、昔の理科室に独特の陰影を与えていました。

まあ、グロテスクといえばグロテスクなのですが、ああやって1匹が犠牲になることで、毎年多くのカエルが解剖台の上で絶命することを免れるならば、その方がより「道徳的」だ…という、考え方もあったと思います。少なくとも、そうした意見が免罪符となって、理科室の標本は徐々に増えていったのでしょう。

とはいえ、標本を眺めるだけではなく、自らの手で生物を解剖し、生きた内臓を観察することの方が、いっそう理科の授業らしいと考えられたため(と想像します)、立派な壜詰め標本の前で、やっぱり毎年多くのカエルやフナが犠牲となっていました。

理科教育関係者は、ぜひカエル供養やフナ供養をせねばならんところですが、そもそもカエルやフナの解剖は、いつから初等教育で行われるようになったのか?

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とりあえずフナは脇に置いて、カエルに話をしぼります。
カエルの解剖は、比較解剖学の授業の一環として、高等教育ではおなじみのもので、たぶん今でもそうでしょう。




上の画像は、おそらく大学における動物学実習のために準備された講義ノートの一部で、明治30年代のものです(この美しい彩色手稿については、描き手のことも含めて、いずれじっくり書きます)。

ただし、そうした知識と技術が小学校の現場に下りてくるには、高等教育を受けた人が中等教育を担い、中等教育を受けた人が初等教育を担うようになるまでの時間差が、そこになければなりません。


尋常小学校で、カエルを解剖するというアイデアが、一部の先進的教師の脳裏にきざしたのは、おそらく明治も末のことで、明治40年(1907)に出た小野田伊久馬『小学校六箇年 理科教材解説』には、簡単な説明図とともに、蛙の解剖について解説されています。


蛙の解剖  蛙を解剖せんには、なるべく大形のものを捕へ、これを瓶に入れて、コロロホルム数滴を点下し、暫時蓋をなして、全く麻酔するを待ち、取り出して、腹部の中央より、縦に切開すべし。」

まあ、これだけの簡便な説明でカエルに挑んだとしたら、挑まれたカエルもいい迷惑で、相当無益な殺生を重ねないと、人に教えるだけの解剖術は身に着かなかったでしょう。何しろ解剖は手技を伴うものですから、実地に習うことがどうしても必要です。

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いずれにしても、小学校の解剖授業に関していえば、明治時代はまだ萌芽期で、それが多いに進んだのは、次の大正時代のことだと思います。


(この項つづく)

心のかはず天にきこゆる2017年06月08日 21時29分19秒

全国的に梅雨入り。
でも、昼過ぎには雨も上がり、帰り道には真珠色の月が光っていました。

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今日の「天声人語」は、雨にちなんでの記事でした。

私もカエルが好きです。カエルにどんな感じを抱くかは人それぞれでしょうが、子ども時代の私にとって、カエルは自然そのものの象徴――より正確には、当時憧れた「いなか」の象徴――でした(何と言っても昆虫少年でしたから)。

 砂泥質の水底に光が揺らめく中を泳ぐオタマジャクシの群れ。
 アカガエルの卵塊を手ですくったときの、くすぐったい感触。
 水稲の青と競うトノサマガエルの鮮緑の斑紋。

ウシガエルの大きなオタマジャクシを飼っていた時は、どんなに大きなカエルになるのだろうと楽しみでしたが、何だかカエルに近づくにつれて、だんだん身体が小さくなっていくのでガッカリした…なんていう幼い思い出に共感してくださる方も、きっといらっしゃるでしょう。


そして、これが今いる部屋の隅に座っている蛙です。
いわゆる「教育玩具」なのでしょうが、「4D VISION」という動物模型シリーズの1つ。



きっと3次元の生物も、4次元方向から見れば、こんなふうに中身が丸見えなんだよ…という意味で、「4D」と銘打ったのでしょう。いわば高次元生物の視知覚の疑似体験です。



まあ、これはこれで面白いんですが、やっぱり今の自分は、生き生きとした自然からは遠ざかっているなあ…という反省と、それを寂しく思う気持ちがあります。


(今日の「天声人語」 冒頭)