銀河流るる音を聴け2019年07月08日 05時33分48秒



真夜の岳 銀河流るる 音を聴け   蓼汀

作者の福田蓼汀(ふくだりょうてい、1905-1988)は虚子門の俳人。
俳誌「山火」を主宰。登山家としても知られ、「山岳俳句」の第一人者だった…というのはネットで見知ったことで、私は蓼汀その人について、それ以上のことを知らないのですが、それにしてもこの句は、まさに銀河絶唱といって良いのではないでしょうか。

高山の頂近くに身を置き、深夜、頭上を真一文字に奔る銀河を見上げたときの心持を想像すると、私の耳にもその滔々たる音が聞こえてくるようです。

   ★

こういう句をあまり人事に引き付けて考えるのは良くないかもしれませんが、蓼汀は64歳で次男を山岳事故で喪い、その悲しみを連作俳句に詠み込んだというエピソードを知ると、「天の川は死者が往還する道」ということが思い出され、句にいっそう蕭条たる陰影が添う気がします。

この句がもっと若年の作としても、晩年に自作を読み返したとき、彼の心には複雑に去来するものがあったんじゃないでしょうか。(蓼汀には、次男追悼の句として、同じく「真夜の岳(まよのたけ)」を詠み込んだ、「稲妻の 斬りさいなめる 真夜の岳」という烈しい慟哭の句もあります。)



銀河は煙り、鳥は天に集う2019年07月06日 11時31分44秒



戦前の「銀河」ブランドの煙草パッケージ。
明るい星々の間を縫って、滔々と流れる天の川のデザインが素敵です。


深みのある萌葱(もえぎ)色の空に銀刷りが美しい。
銀河の星々は明るいパステルグリーンです。


折り曲げて箱状にすると、元はこんな表情。


パッケージの裏面に目をこらすと、そこには「朝鮮総督府専売局」の文字が。
この可憐な品にも、やっぱり歴史の影は差していて、いろいろ考えないわけにはいきません。なお、京城(ソウル)の朝鮮総督府に専売局が置かれたのは、大正10年(1921)~昭和18年(1943)までのことだそうです。

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ところで、七夕習俗は中国から朝鮮半島を経て日本に伝わったものですから、現在も対馬海峡をはさんで、似たような季節行事が両国に残っています。せっかくの伝統行事ですから、ここはネットに頼らず、任東権(著)『朝鮮の民俗』(岩崎美術、1969)を紐解いてみます。

それによると、牽牛・織女の説話は同様で、若い女性が針仕事の手並みが上達するよう祈るのも日本と同じですが、それと対となるように、若い男性が二つの星を題して詩を作り、勉強に励むことを誓う日だった…というのは、微妙に違いますね。日本でも、星に和歌や書の向上を願うという風習はありますが、特に男性限定でもないような。

それと、七夕の夜に雨が降ると、牽牛と織女が出会えた喜びの雨だとするというのも、日本とは逆転しています。

ちょっと面白いと思ったのは、七夕になると、地上からカラスやカササギが一羽もいなくなるという言い伝えです。それは彼らが銀河に橋をかけるために昇ってしまうからで、もし地上にカラスやカササギがいても、それは病弱で飛べないものばかりで、元気なものはみな烏鵲橋を架けるのに参加するのだ…という話。

日本にも「烏鵲(うじゃく)の橋」という言葉があって、七夕の晩にはカササギが銀河に橋をかけることになっていますが、日本では「烏鵲」全体で「カササギ」の意とするのに対し、半島ではこれを「烏+鵲」と解して、「カラスとカササギ」の意に取るのが変わっています。

では、本家・中国はどうなのか…というのが気になります。はたしてカラスは天に上るや、上らざるや? こういう時こそ「名物学」過去記事にリンク)の出番なのですが、例の青木正児氏の『中華名物考』にも言及がなかったので、正解は今のところ不明です。


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【付記】 上のこととは関係ありませんが、「カササギ」の語源をめぐって、かつて常連コメンテーターのS.Uさんと、コメント欄で延々と語り合ったことがあります。参考にリンクしておきます。

■かささぎの橋を越えて http://mononoke.asablo.jp/blog/2016/07/07/8126796

永劫の火2019年03月19日 19時57分37秒

俳誌『鶴』を主宰した昭和の実力派俳人、石塚友二(いしづかともじ、1906 – 1986)

(左は外箱、右は中身)

上は、彼が昭和29年(1954)に出した句集『光塵』(一橋書房)。
ここには戦中の昭和17年(1942)から昭和29年にかけて詠まれた句が収録されています。
冒頭「春」の部から、巻頭三句を挙げてみます。

  見え初めし 子の目にうつり 春の雲
  散る花や 青み渡れる 夕まぐれ
  菫咲き 崖にやさしき 日ありけり
 
いずれも平明な、読んでいて気持ちの良い句です。

   ★

しかし、私が古書検索サイトでこの句集に目を留めたのは、他に特別な理由があります。それは本書見返しに書かれた、彼の自筆句の存在です。


  「御神火の 燃えをり 天の川の涯」

この句は多義的な解釈を許す句です。
いや、仮にそうでなくとも、ぜひ多義的に解釈したい句です。

普通に解せば、「御神火」とは伊豆大島の三原山が上げる炎のことですから、おそらく昭和25年(1950)に始まる噴火活動の折に詠まれたのでしょう(作者は当時鎌倉に住んでいました)。海上に天の川が白く煙る晩、水平線上に火山の赤黒い炎がちらちら望まれたという、芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の川」の向こうを張る雄大な、そしてなかなか地学趣味に富んだ句です。

でも、私には一読、これが宇宙大の景色を詠んだ、さらに一層壮大な句と感じられたのです。天上で燃える遥かな星々、その大集団である銀河の、そのまた遥かな果てに「御神火」が燃えている…という風に。私の脳内では、「御神火」とは神がともした原初の炎であり、作者は、宇宙の遥か彼方にその創造の炎を幻視したことになっています。さらに「御神火」をビッグバンに由来する「宇宙背景放射」に重ねて、これはいよいよスゴイ句だと、勝手に盛り上がったのです。

宇宙背景放射の存在が予言されたのは1940年代、そして実際に発見されたのは1960年代のことですから、生身の石塚友二はもちろん、私が仮構した「銀河俳人」にしても、その存在を知っていたはずがありません。「銀河俳人」が、それを文学的想像力によって予見したとしたら、なおさらすごいことです。しかし、ここまでくると、さすがに自分でも何か変なことを言っているなあ…頭は大丈夫かなあ…と冷静さを取り戻します。

とはいえ、この句に触発されて脳内に結ばれた像は、なかなか気に入っています。

   ★

ちなみに、この「御神火…」の句は『光塵』所収ではなく、初出は不明。
『光塵』には、天の川を詠んだものとして、以下の二句が載っています。

  天の川 馴れても遠き 人の門
  銀河より 跳ねて一線 星隕つる

10月の星の句、星の歌2018年10月14日 14時32分01秒

10月14日付けの 『朝日俳壇・歌壇』 より。(以下敬称略。句切れは引用者)

(大串 章 選)
●銀漢や 小さき星の核兵器  (いわき市)馬目 空

天の川を振り仰ぎ、宇宙の大きさを思うとき、多くの人の胸に去来するであろう思い。
人間はおそらく過去幾百世代にもわたって、無限に広がる夜空を前に、人間の卑小さを感じ、人はなぜ生まれ、なぜ相争うのか、自問自答を繰り返してきたことでしょう。

とはいえ、人は今や銀河の一粒一粒が核の炎で燃えていることを知っているし、自らの内に燃える修羅の炎が、遺伝的にプログラムされたものであることも理解しつつあります。そこに一縷の望みがなくもありません。この句に込められた思いが、人間の遠い過去の記憶となる日が、早く来ることを願わずにはいられません。

とはいえ、人が己の闘争心を制御する術を、今後仮に身に着けたとしても、宇宙を前にして感じる深い戦(おのの)きの感情は、いささかも変わらないかもしれません。

   ★

(同)
●高原に星月夜 地に街明り  (茅ヶ崎市)村上芳江

一読、平板な句だと感じました。
しかし、作者はいったい今高原にいるのか、それとも街にいるのか…と考え出したら、いささか謎めいた句と感じられてきました。もちろん、単純に「街を見下ろす高原に来ているのだ」というのが正解かもしれません。

ただ、私なりに想像をたくましくすると、作者は高原にあって街を思い、街にあって高原を思うという、二つのリアルな経験を、今この瞬間に重ね合わせて、この句を詠まれたような気がします。だとすれば、現実の作者が今高原にいても、街中にいても、この句は成り立つことになります。

<自然と人間の対比>という意味では、先の句と同工ですが、作者は星月夜の荘厳な美に打たれると同時に、街明りの人間臭さにもどこか惹かれている感じがあって、何となくホッとできる句でもあります。

   ★

(永田和宏 選)
●理学部を一応出ました 信州の月はたしかに大きいのです (長野市)原田りえ子

一読笑みがこぼれる歌。
これはもはや反論を許さない歌ですね。
「月の錯視」とか何とか、そういう理屈を一切抜きにして、信州の月はたしかに大きいのです。それはもう確かなことです。

   ★

(江戸前期の百科全書、『倭漢三才図会』より「天河」の項。
後段では、西洋天文学の漢訳書『天経或問』を引きつつ、天の川が望遠鏡で覗くと小さな星の集まりであることを教えています。そうした天文知識が、専門の学者のみならず、市井の知識人にもよく知られていた…というのが、近世の近世たる所以でしょう。)



スターチャイルド2018年07月02日 21時24分46秒

「人は死ぬとお星さまになる」とよく言います。
あるいは、天の川は死者の霊が通う道だという伝承が、インドネシアや北米先住民の間にあることが、出雲晶子さんの『星の文化史事典』には書かれています。きっと探せば、他にも類例はあるでしょう。賢治の銀河鉄道も、まさに死者を運ぶ乗り物でした。

夜の世界が死者の世界ならば、そこに輝く星たちは、すなわち死者の霊に他ならない…というのは、ごく自然な発想だと思います。

   ★

その一方で、人は運命(さだめ)の星の下に生まれ、星の影響力を受けながら生を送るという観念も広く見られます。そして、赤ん坊は天の川を通って、この世にやってくるというアイデアも…。

そのことに、ふと気づいたのは、これまた1枚の絵葉書を見たからです。


星の流れの中を、気球を操りながらやってくる一人の陽気な赤ん坊。
その下には、「愛しい私の〔グラディス・ルイーズ〕は、本日、天の川からご到着。早く会いに来てね。〔ミセスR.C.H.〕より。」とあります。(カッコの中は手書きになっていて、子どもの誕生を知らせる、こうした出来合いの葉書が、当時はポピュラーだったことが窺えます。)


裏面には、1910年のシカゴの消印と、「今朝午前12時半、可愛い女の子が誕生。母子ともに健康。君の兄ロルフより」という(一部読み取れませんが、たぶんそんなような)文句が書かれています

  ★

夜空にかかる天の川を、生の源と見るか、死への架け橋と見るか。
対立するようでいて、これは見た目ほど対立した考えでもないのでしょう。そこにあるのは、生と死の本質的近しさであり、天の川を通って、生者と死者は絶えず往還可能なのだ…という観念です。これは宗教の如何を問わず、人間精神の古層に刻まれたイメージではないかと、まあ、あまり軽々に言ってもいけませんが、空を横切る不思議な帯を見ていると、たしかにそんな気がしてきます。


土星堂だより2017年08月17日 21時25分45秒



鳴り物入りでスタートした土星堂活版舎ですが、ご多分に漏れず、昨今の出版不況で、経営難にあえいでいます。しかも、会社の印刷技術がちっとも向上しないせいで、かしわばやし方面からも注文がさっぱり入りません。

それでも、時には新たに印刷ブロックを買い足して、顧客のニーズに応えようと努力はしているのです。


最近も、紙面を華やかに彩る銀河の飾罫を導入しました。

(何となく星条旗っぽいのは、アメリカで使われていたせいかも。)

これさえあれば、美しい星の詞がいっそう美しくなること疑いなしです。
それなのに、なぜ?…と、活版舎のあるじは、今日も窓から首を伸ばして、お客が来るのを日がな待っているのです。

   ★


今回使用したインクは、星の詞に最適の(株)ツキネコ製 「ミッドナイト・ブルー」

月遅れの七夕に寄せて:七夕和歌集(後編)2017年07月30日 08時11分42秒

ちょっと我ながら大胆過ぎる気がしないでもないですが、古今の七夕の歌を眺めての感想は、「七夕の歌に名歌なし」というものです。

七夕の歌は様式化が著しく、「年に一度の出逢いに焦がれる心」とか、「後朝の別れの恨めしさ」とか、やれ鵲(かささぎ)の橋がどうしたとか、ごく少数のパターンの中で、延々と類歌が作られ続け、しかもほとんど机上の空想歌ですから、これでは退屈な歌ばかり出来ても止むを得ません。

もっとも、これは文学において独創性を重んじる、現代の目で見るからそう思えるのであって、古人は詩歌の様式美とか、本歌取りの機知なんかを、もっと重視していたでしょうし、要は「名歌」の基準そのものが、時代とともに変ってしまった…という事情もあるのでしょう。

   ★

奈良、平安、鎌倉―。
そんな遠い昔の人が、確かにその目で見た星の輝き、夜空の色。それが眼前に迫るような歌、すなわち天の川の美しさを素直に詠んだ叙景歌が、私にとっての名歌です。

上記のとおり、七夕の歌にそういう歌は少ないのですが、そんな中で目に付いた歌を書き抜いてみます(改行と分かち書き、及び〔 〕内はいずれも引用者)。

   ★

さよふけて 天の川をそ 出て見る
おもふさまなる くもやわたると  (拾遺和歌集/よみ人しらす)

気まぐれな雲が空にかかっていないか、夜更けにつと天の川を見に屋外に出た…というだけの歌に過ぎませんが、そのさりげなさが、むしろこの歌にリアリティを与えています。

  曇り空に対する懸念。
  それを払拭するかのように、鮮やかに光る銀河。
  それを目にした作者の驚き、安堵、喜び…

そんな心理を裡にひそませつつ、初秋の涼しい空の色と、白く煙る銀河をイメージさせる、良い歌だと感じました。

   ★

くもまより ほし合のそらを 見わたせハ
しつ心なき 天の川なミ  (新古今和歌集/祭主輔親)

前掲歌と同じく、天の川の印象を素直に詠んだ歌。織姫・彦星の人間臭いドラマよりも、天の川そのものを主役に据えた点に特徴があります。

描かれたのは「雲間の銀河」です。大気上層の状態によるのか、星々がチラチラと「静心なく」またたき、天の川が波立つように感じられた―という叙景が美しいです。

   ★

ひこほしの 行あふかけ〔影〕を うつしつゝ
たらひの水や あまの河なミ  (正治院御百種/藤原朝臣範光)

これは風俗史的に面白い歌です。七夕の晩、たらいに張った水に牽牛・織女を映して、二星の行き合いを見守るというのは、江戸時代の絵でよく見ますが、その起こりは江戸よりはるか昔に遡るようです。

(伊東深水画、「銀河祭り」(1946)の絵葉書)

「澄んだ水に映る星影」というのが、清らかなイメージを喚起しますが、水鏡に星が映るぐらいですから、昔はよっぽど空が暗く、星が明るかったのでしょう。

   ★

ちょっと毛色の変わったところでは、下の歌は、その着想において光っています。

天河 これやなか〔流〕れの 末ならん
空より落る 布引の滝  (金葉和歌集/よみ人しらす)

「布引の滝」は、今の新神戸駅の近くにある名滝で、古くからの歌枕。
どうどうと音を立てるこの瀑布は、天の川の遥かな末流である…と想像の翼を広げています。

(一昨年、神戸を訪れたときに見た布引の滝)

中国には、黄河をさかのぼると銀河に達するという観念があったことを、以前書きましたが(http://mononoke.asablo.jp/blog/2011/06/16/)、あるいはそれに影響されたのかもしれません。しかし、発想は似通っていても、彼方の悠然たる大河に対し、冷たいしぶきを上げる滝を持ってきたところに、両者の風土の違いがよく出ています。

これは都人の机上の作だと思いますが、それだけにとどまらない、幻想味の濃い、鮮烈な良い歌です。

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…こんなふうに挙げていくと、「名歌なし」と言いながら、結構な数の歌を挙げることになってしまうので、最後に本当のメモを書き付けておきます。

これも以前の話題ですが(http://mononoke.asablo.jp/blog/2015/07/07/)、『銀河鉄道の夜』に登場する、銀河のほとりに群生するススキの原に関連して、そのイメージは賢治以前から、日本の文芸の世界に伝わってきたものと推測したことがあります。

そのときは、江戸時代の短冊一枚からそう思ったのですが、『七夕和歌集』に他の類例を見付けたので、ここに挙げておきます。

七夕の 行あひになひく 初おはな〔尾花〕
こよひはかりや 手枕にせん  (新続古今和哥集/前大納言為定)

手枕は共寝の謂い。いかにも艶なる歌です。

世界は渦巻く2017年05月20日 17時32分12秒



彼は例によってもじゃもじゃの頭を掻きながら、ぼそぼそ呟いた。

「そう、銀河全体のことを考えれば、地球という微粒子上の、さらに小さな一区画で何が起ころうが、あまり大した問題ではないんですよ。」

私が何か言いたそうにするのを見て、彼は続けた。

「ただ問題はね、うなりを上げて旋回する巨大な銀河よりも、コップの中の嵐の方が、コップの中の住人にとっては、はるかに大きな影響を及ぼすってことです。」

(この銀河模型については、http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/06/16/5167091 を参照)

「それに―」と、彼はここで少し遠くを見るような目をした。

「このちっぽけなコップでも、そこに含まれる点の数は不可算無限であり、銀河どころか宇宙全体に含まれる点の数とも等しいのですよ。ええ、別に比喩的な意味じゃなしに、あなたが今手にしているコップ、そのコップでも同じことです。コップの中には嵐も吹くし、宇宙全体をすっぽり収めることだってできる。」

「なるほど。たかがコップ、されどコップってわけですか。」

「ええ、コップを侮っちゃいけません。」

   ★

…というようなことを考えたのは、一昨日、天文学史のメーリングリストで、銀河系を相手にした、ある天文学者の政治信条に関する投稿を目にしたからです。

話題の主は20世紀前半に活躍した、オランダのアントン・パンネクーク

その投稿は、「このリストメンバーの中には、興味を持たれる方もおありでしょうから…」という書き出しで、以下のページにリンクを張っていました。

チャオカン・タイ(著)
 「急進左派と銀河系: アントン・パンネクークにおける科学的価値と社会主義的価値との結びつき」 (Left Radicalism and the Milky Way: Connecting the Scientific and Socialist Virtues of Anton Pannekoek)

リンク先には学術論文のアブストラクトが掲載されており、学術関係者ならばその先も読みにいけるはずですが、私が読んだのはアブストラクトだけです。その内容を適当訳すると、

 「アントン・パンネクーク(Anton Pannekoek, 1873-1960)は、有力なマルクス主義者であり、且つ革新的な天文学者だった。本稿では、天の川の見え方や、銀河系内部における恒星の統計学的分布を表現するために、彼が開発した様々な革新的手法を、認識論的価値(epistemic virtues)という枠組みを用いて分析する。それによって、彼の天文学研究が持つユニークな側面が強調されるばかりでなく、そうした側面と、彼が背負っているマルクス主義急進左派という看板との関係も明らかになるだろう。

パンネクークの天文学的手法のきわめて重要な特徴は、天文学者が果たすべき能動的役割だった。天文学者は、天の川の外見的特徴に適合するように、データをまとめ上げる直感的な能力を求められると同時に、個人的経験や銀河系の形状に関する理論的予想の影響を避けねばならなかった。

この手法により、彼はカプタイン宇宙モデル〔我々の銀河系は、直径約 4万光年で、太陽は銀河系の中心近くにあるとする説〕に否定的な結果を導き出し、代わりにハーロー・シャプレーの大銀河系説〔同じく直径約30万光年で、太陽は銀河系の中心から遠く離れているとする説〕を支持する証拠を見つけた、オランダで最初の天文学者となった。 

本稿では、まずパンネクークのマルクス主義哲学を検討し、彼の天文学的手法と史的唯物論に対する解釈は、いずれも人間精神に対する彼独自の理解を、光学的に応用すべく発展させた方略と見なしうることを論じる。」

どうも、これだけだと要領を得ないところもありますが、タイ博士によれば、パンネクークの中では、その研究活動と政治的信条が、密接不可分に結びついていたようです。

   ★

銀河系の研究者といえば、常に広大な宇宙に心を浮遊させて、地上のことなど眼中にないんじゃないか…といえば、決してそんなことはなくて、中には積極的に政治にコミットした人もいました。もちろん、パンネクークのように、それがマルキシズムである必然性はありません。急進右派に向う人もいれば、中道に向う人もいるでしょう。

まあ、別にマルキストでもない「天文古玩」の管理人が、パンネクークを引き合いに出して力み返っても、いささか滑稽な感は否めないんですが、いずれにしても我々は(専門家も素人も)銀河の渦と同時に、コップの中の渦から逃れることはできませんし、両方に等しく関心を持って生きるのが自然ではなかろうかと思います。




乳酪の道2017年02月15日 07時12分27秒

ポスタースタンプといえば、こんな品もあります。
年代ははっきりしませんが、雰囲気としてはこれも1920~30年代のものでしょう。


天の川は、空に乳が流れた跡だ…というのは、いにしえよりの見方で、そこから英語の「ミルキーウェイ」の称も生まれたわけですが、上のカードは、これを乳ならぬバターの道と見立てている――あるいは、天上から滴り落ちた乳が、地上にバターの道を描いている様を描いています。

(夜空にかかる「CUE BRAND」の文字。バターの商標でしょうが、詳細不明)

ここでバターを持ち出したのは、もちろんバターメーカーの商業主義のなせる業でしょうし、乳に比べていささか雅に欠けるきらいはありますけれど、夜空を虎たちがぐるぐる回る姿や、天上からパンケーキの焼ける匂いが漂ってくるところを思い浮かべると、少し心が温かくなります。

銀河草紙(後編)2016年09月22日 13時51分39秒

実は、昨日の文章にはウソが1つまじっています。

昨日は、あたかも『銀河草紙』の存在を知ってから、その現物を探し始めたように書きましたが、実際には古書店で現物を目にしてから、その関連情報を求め、その延長で国会図書館や大阪市立科学館のページに行き当たったのでした。

ですから、探すのには何の苦労もなくて、唯一の苦労は懐の問題だけです。

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古書店で売っていたのは、中巻のみの端本でしたが、京大にだって上巻しかないのですから、私にとっては十分すぎる品です。

(題箋は下半分が欠)

そして中巻には、あの「天の川の条」が含まれているので、三巻の中でどれか一つ選べと言われたら、やっぱり中巻を取ると思います。


   ★

それにしても、七夕とはつくづく多義的な祭です。


それは織女=天女からの連想で、羽衣伝承と結びつき、


「七夕踊り」と盆踊りの類縁性に見られるように、盆の習俗とも結びついています。

そもそも七夕は、夏と秋の交代の時期の行事として、6月晦日の夏越(なごし)の祓から、7月中旬の盆行事まで続く一連の祭事に組み込まれたもので、本来は、歳送り・歳迎えの新年行事と対になるものです。

そこには笹流しに見られる祓えの要素もあり、7月7日を「七日盆」と称する土地もあるように、祖霊の魂祀りの要素もあり、そうした古俗に中国伝来の乞巧奠の性格が加わって、今のような七夕が成立した…というのが、平均的な七夕理解でしょう。

(冒頭二首。「年毎に逢ふとはすれど棚ばたの 寝る夜の数ぞ少なかりける」、「浅からぬ契りとぞ思ふ天の川 逢ふ瀬は年に一夜なれども」)

そして、古来多くの人が地上の男女の機微を天上に投影し、和歌を詠み、星に願いを捧げ、ますます陰影に富んだ行事として発展し、伝承されてきました。

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現在では、幼稚園や保育園で短冊を書いたり、折り紙で飾りを作ったりする日に矮小化されている観もありますが、歳を重ねた今、たなばたの陰影に今ひとたび目を向けてみばや…と思ったりします。