フリッチ兄弟の夢、オンドレジョフ天文台(後編)2022年11月27日 14時30分03秒

(今日は2連投です。)

フリッチ兄弟の父親は、詩人・ジャーナリストであり、チェコの愛国者にして革命家としても著名な人物だった…という点からして、なかなかドラマチックなのですが、二人はパリで少年時代を過ごし、プラハに帰国後、兄は動物学と古生物学を、弟は物理学と化学を学び、1883年、ふたりとも二十歳そこそこで共同起業した…というのは前編で述べたとおりです。

何だか唐突な気もしますが、その前年(1882年)に、兄弟はチェコの科学者の大会に出席し、湿板で長時間露出をかけた顕微鏡写真の数々を披露したのが、大物化学者の目に留まり、その紹介で弟ヤンはドイツの工場に短期の修行に行き、さらに旋盤を購入し…というような出来事があって、それを受けての会社設立だったようです。

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ちょっと話が脱線しますが、ここで「チェコ、チェコ」と気軽に書きましたけれど、当時はまだチェコという国家はありません。あったのは「オーストリア=ハンガリー二重帝国」です。

(1871年の「オーストリア地図」。オーストリア領の西北部、ボヘミア・モラヴィア地方が後のチェコ、ハンガリー帝国の北半分が後のスロバキア)

1848年に全ヨーロッパで革命の嵐が吹き荒れた後、中欧ではハプスブルク家専制に揺らぎが生じ、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国が成立します。しかし、チェコやスロバキアの人々はこれに飽き足らず、「自分たちはスラブ人だ。ドイツ人やマジャール人の支配は受けない」という民族意識の高揚――いわゆる「汎スラブ主義」が熱を帯びます。この動きの先にあるのが、1918年の「チェコスロバキア共和国」独立でした。

ここで思い出すのが、先月話題にしたチェコの学校教育用の化石標本セットです。

■鉱物標本を読み解く

(出典:Guey-Mei HSU、”Placement Reflection 3”

台湾出身のグエイメイ・スーさんが手がけたミニ展示会に登場したのは、ヴァーツラフ・フリッチ(Václav Fric、1839-1916)というチェコの博物学者(今回話題のフリッチ兄弟と縁があるのかないのかは不明)が監修した標本セットで、自分が書いた文章を引用すると、こんな次第でした。

 「その標本ラベルが、すべてチェコ語で書かれていることにスーさんは注目しました。これは当たり前のようでいて、そうではありません。なぜなら、チェコで科学を語ろうとすれば、昔はドイツ語かラテン語を使うしかなかったからです。ここには、明らかに同時代のチェコ民族復興運動の影響が見て取れます。そして、標本の産地もチェコ国内のものばかりという事実。この標本の向こうに見えるナショナリズムの高揚から、スーさんは故国・台湾の歴史に思いをはせます。」

これが当時のチェコの科学界の空気であり、フリッチ兄弟もその中で活動していたわけです。彼らは科学に対する自身の興味もさることながら、科学によって祖国に貢献しようという思いも強かったのではないでしょうか。純粋学問の世界から、精密機械製作という、いわば裏方に回ったのも、そうした思いの表れではなかったかと、これはまったくの想像ですが、そんな気がします。

(フリッチ兄弟社の製品群。Wikipediaの同社紹介項目より))

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話を元に戻します。

フリッチ兄弟はチェコで最初の月写真を撮り、その写真は1886年にポルトガルで開かれた国際写真展で賞をもらったりもしました。彼らの天文学への興味関心は、商売を越えて強いものがあったようです。弟のヤンは1896年、私設天文台の設立を目指して大型のアストログラフの設計図面を引きました。しかし好事魔多し。ヤンは翌1897年に虫垂炎の悪化で急死してしまいます。

兄ヨゼフは二人の夢を実現するために、オンドレジョフ村に土地を買い、建物を建て、後にチェコ天文学会会長を務めたフランチシェク・ヌシュル(František Nušl、1867-1951)の協力を得て、ようやく念願の天文台を完成させます。1906年のことでした。

(写真を再掲します)

そして、そのドームの中には弟の形見として、かつて彼が設計したアストログラフが据え付けれら…というわけで、今回の絵葉書の背後には、そうした「兄弟船」の物語があったのでした。さらにその背後には、チェコの近現代史のドラマも。

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調べてみるまで何も知りませんでしたが、何気ない1枚の絵葉書も、多くの物語に通じるドアであることを実感します。

ちなみにオンジョレドフ天文台は、1928年に国(チェコスロバキア)に寄贈され、曲折を経て、現在は前回述べたとおり、チェコ科学アカデミー天文学研究所の主要観測施設となっています。またフリッチ兄弟社は、戦後にチェコスロバキアが共産主義国になると同時に国有化され、各製造部門はあちこちに分有され、雲散してしまいました。

(ボーダーに音楽記号をあしらったスメタナ切手。彼のチェコ独立の夢が結実したのが、交響詩「わが祖国」です。)

フリッチ兄弟の夢、オンドレジョフ天文台(前編)2022年11月27日 13時52分16秒

絵葉書アルバムを見ていて、ふと目に留まった1枚。


表側に何もキャプションがないので、何だかよく分からない絵葉書として放置されていましたが、改めて眺めると、なかなか雰囲気のある絵葉書です。

古びたセピアの色調もいいし、全体の構図や光の当たり方、それに小道具として取り合わせた椅子の表情も素敵です。全体に静謐な空気が漂い、これを撮影した人は明らかに「芸術写真」を狙っていますね。

そして中央で存在感を発揮している光学機器。


その正体は、葉書の裏面に書かれていました。



このチェコ語をGoogleに読んでもらうと、次のような意味だそうです。

「オンドレジョフ近くの天文台にある二連アストログラフ。ヨゼフとヤンのフリッチ兄弟社製。西側ドームに設置され、恒星、小惑星、銀河、彗星、流星の写真撮影に使用されている。」

アストログラフ(天体写真儀)は、天体写真の撮影に特化した望遠鏡です。
欄外に1934年8月15日の差出日があるので、この絵葉書自体もその頃のものでしょう。

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ときに、オンドレジョフとはどこで、フリッチ兄弟とは何者なのでしょうか?

Googleで検索すれば、オンドレジョフ(Ondrejov)天文台が、プラハの南東35kmの位置にあって、現在はチェコ科学アカデミー天文学研究所の主要観測施設になっていることを、ネットは教えてくれます。(wikipediaの「Ondřejov_Observatory」の項目にリンク)

(オンドレジョフ天文台。手前が東ドーム、奥が西ドーム。Google map 掲載の写真より。Roman Tangl氏撮影)

(上空から見たオンドレジョフ天文台。中央の緑青色のドームが東西の旧棟。それを取り囲むように図書館を含む新棟や天文博物館があります。左手の広場に見えるのは電波望遠鏡のアンテナ群)

フリッチ兄弟についても同様です。
兄のヨゼフ・ヤン・フリッチ(Josef Jan Frič、1861-1945)は若干22歳で、弟のヤン・ルドヴィーク・フリッチ(Jan Ludvík Frič、1863-1897)とともに、光学機器を中心とする精密機械を製造する会社を立ち上げた人。そこで作られたのが上のアストログラフというわけです。

(左は兄ヨゼフ。右は弟のヤン。それぞれチェコ語版wikipediaの該当項目にリンク)

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それにしても、兄弟の事績を読むと、彼等はなかなかの人物です。
そしてオンドレジョフ天文台も、単なるその製品の納入先ではなくて、そもそもこの天文台を創設したのは、ヨゼフ・フリッチその人なのでした。

ちょっと話が枝葉に入るようですが、当時の事情を覗き見てみます。

(長くなるので後編につづく)

太陽王の観測塔2022年10月03日 06時12分00秒

ずるずる続けているわりに、あまり話も深まらないので、パリ天文台の話題は今日でひとまず終了にします。

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歴史を再びさかのぼって、その草創期へ。
パリ天文台が創設されたのは1667年。日本では寛文7年、4代将軍家綱の時代です。

フランスでは太陽王ルイ14世が王位についてすでに30年目ですが、この王様は1715年まで実に72年間も君臨したので、この1667年はまだその半ば。フランスの国力も、王の権威も上り坂にあった時期です。

ルイ14世は、フランスの海洋進出による国力伸長を望み、パリ天文台創設はその基盤整備の一環でした。天体観測と位置推算にもとづく信頼できるデータが、当時の航海には必要だったからです。


ルイ14世の横顔を鋳込んだ同時代の銅メダル。


そして裏面には完成したばかりのパリ天文台の雄姿。
二重基壇の上に建っていることや、屋上の超巨大な望遠鏡はもちろんデフォルメで、その権威と機能を視覚化したら、こういうデザインになったということでしょう。

周囲にはラテン語で「TURRIS SIDERUM SPECULATORIA(星々を観測する塔)」の文字と、ローマ数字で「1667」の年号が鋳込まれています。

メダルの作者は、ジャン・モージェ(Jean Mauger、1648-1712)という人で、1677年にパリに出て、1685年から亡くなるまでフランス造幣局に勤務し、多くのメダル製作に関わりました。…というと、「あれ?」と思われるかもしれません。私も「あれ?何だか年代が合わないぞ」と思いました。 

でも、よくよく話を聞いてみると(LINK)、このメダルはたしかにルイ14世の治下に鋳造されたものには違いないのですが、発行年は1702年で、1667年に本当のリアルタイムで作られたものではありませんでした。
何でも1702年、ルイ14世の偉業をたたえるために、全部で286枚から成るシリーズ物のメダルが作られ、これはそのうちの1枚なのだそうです(モージェはそのうちの250枚を手がけました)。

私は最初、1667年に鋳造されたものと素朴に思っていたので、ちょっぴり残念ですが、それにしたって、若き日のパリ天文台の面影を伝える貴重な品には違いないので、先日のアダム・ペレルの版画と共に、昔をしのぶよすがとしたいと思います。

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パリ天文台の歩んだ355年間。
話が深まらなかったとはいえ、とにもかくにもその歴史の厚みを、今回一瞥しました。

ルヴェリエ賛江2022年09月29日 06時44分20秒

パリ天文台の絵葉書は、これまで何枚か載せた記憶がありますが、これはまだだった気がします。

(1910年ごろの石版刷り)

パリ天文台に長く勤め、後に天文台長となったユルバン・ルヴェリエ(Urbain Jean Joseph Le Verrier、1811-1877)の銅像です。この像について、コメント欄でお尋ねがあったので、覚えとして貼っておきます。

ルヴェリエの名は、海王星とともに記憶されています。
1846年の海王星発見に関わった役者は何人かいますが、ルヴェリエもその一人。
彼は天王星の位置が計算値と微妙にずれること(摂動)から、そこに未知の惑星が影響していると考え、その位置を計算によって導き出しました。海王星はその意味で、「発見される前に予測された最初の惑星」です。


ルヴェリエはその偉業によって、英国王立天文学会のゴールドメダルを受賞し、こうしてパリ天文台にも立派な銅像が立ちました。

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さて、コメント欄でのお尋ねというのは、「この像が建立されたのはいつか? その際の写真や記録はあるか?」というものでした。パパッと検索したところ、建立時期についてはこちら【LINK】のページに記載がありました。

少し肉付けして引用すると、この記念碑は1889年6月27 日に除幕式があり、式典には当時の公共教育大臣(後に大統領)、アルマン・ファリエール(Clément Armand Fallières、1841 -1931)が臨席し、その面前で様々なスピーチが行われた…という趣旨のことが書かれています。

で、ここからさらに検索すると、以下の同時代資料に行き当たりました。

■La Statue de le Verrier a l'Observatoire de Paris.
 L'Astronomie、vol. 8(1889)、pp.281-284.

フランス語なので詳細はお伝えできないのですが、当日のスピーチを引用しながら、式典の模様が描写されているようです。

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それにしても―。


絵葉書の隅に、こんなかわいいお客様が、ルヴェリエを表敬されていたことに、今の今まで気づきませんでした。人間の目って存外いい加減なものですね。

この少女の存在によって、「無個性な絵葉書」は、にわかに「個性あふれるスナップ写真」となり、その場の空気、匂い、音までも感じ取れるような気がします。
そして、彼女はこの後どんな人生を歩んだのか?…と、連想は静かに続きます。

パリ天文台を訪ねる2022年09月28日 06時30分38秒

ちょっと箸休めです。

パリ天文台にこだわって書いているものの、そもそもパリ天文台に行ったことがないのでは、我ながら話にならんなあ…と思いました。でも今の時代、パリ天文台にも立派なバーチャルツアーがあって(※)、画面をグリグリしながら建物の中を自由に見て回ることができます。…という事実をこのあいだ知ったので、参考に貼っておきます。


■The Paris Observatory, virtual tour of the Perrault building
そして当然のごとく、「Paris observatory」とか「Observatoire de Paris」で検索すれば、YouTubeで動画を見ることもできるし、ストリートビューで天文台の周囲を散歩することもできるわけです。

あと、これも参考情報ですが、ウィキペディアよりもうちょっと詳しい情報を知りたいときは、以下が便利だと思いました。(元記事は、昔の「Sky and Telescope」誌(vol.59、1980)に掲載されたものです。)

■A Short Story of Paris Observatory

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現在、フランスへの入国規制はないので(むしろ帰国時の手続きの方が面倒らしいです)、格安航空券を握りしめて、1万キロの空の旅をする手もなくはないのでしょう。でも、出不精な私としては、やっぱり億劫な気がします。当分は机の前で、のんびりバーチャルツアーを楽しむことにします。

モノにこだわるとか、ノスタルジーとか言ってる割に、何だかだらしない気もしますが、文明は得てして怠惰な方向に発展していくもので、その影響を脱することはなかなか難しいです。

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(※)ただし創立350年を記念して、2017年に制作されたコンテンツなので、現状と内容が一部異なるところがあります。たとえば、以前紹介した「フランス版117」、すなわち電話による音声時刻案内は、ツアー解説ではまだ稼働していることになっています。

パリ天文台、再び華やぐ。2022年09月27日 06時57分55秒

1874年からさらに下って1935年
暦が1回まわって、当時生まれた赤ん坊も、すでに61歳です。
この年の7月10日、パリ天文台で、またも華やかなパーティーが開かれました。


こちらは「イリュストラシオン」誌の1ページ。
天文台から漏れる明かりに照らされて、夜の庭園でくつろぐ男女の姿が、いかにも大人の雰囲気を漂わせています。

とはいえ、パリ天文台はしょっちゅうパーティーを催していたわけではありません。当然のことながら、普段は天体観測の本業に忙しく、そこで人々が笑いさざめくのは例外的な出来事です。

「宵っ張りのパリジャンにとって、天文台は気づまりな場所だ。暗闇の中をこそこそ人影が出入りし、その厳かな巨体から時折漏れる灯りは、いかにも謎めいた雰囲気を漂わせている。そこで働く科学者自身すら、自分たちが何やら孤独な、魔術めいた仕事に従事しているものと考えている。だがそうした光景は、7月10日に一変した。」

――適当訳ですが、記事はそんな書き出して始まっています。

この日何があったかといえば、国際天文学連合(IAU)の総会がパリで開かれ、その歓迎宴が、ここパリ天文台で開かれたのでした。1919年に設立されたIAUは、1922年のローマ総会を皮切りに、3年に1回のペースで総会を開き、このパリ総会が第5回です。


普段は天体観測の妨げになるためご法度の照明も、この日ばかりはフル点灯で、さらに建物自体もライトアップされているようです。

「優雅な夏の宵、天文台の庭前では、主催者が願った通り、まことに魅力に富んだ『炎の夕べ(nuit de Feu)』が繰り広げられた。天文学者はこの地上では生きられないなんて、いったい誰が言ったのか?」

…と、記事の筆者は書き継ぎます。いささか浮世離れしたイメージのある天文学者たちが、見事に「浮世の宴」を楽しんでいることに、驚きの目を向けているわけです。

それにしても、前回の記事と見比べると、男の人の姿はあんまり変わらないんですが、女性の姿は驚くほど変わりました。

(1874年の夜会風景。前回の記事参照)

かつて一世を風靡したバッスル・スタイル(スカートが大きく後ろに張り出したファッション)はとうに影も形もなくて、夜会に集う女性たちは、みんなゆったりしたイブニングドレスを身にまとっています。


前回の記事とちょっと違うのは、今回のパーティーに集っているのが一般の紳士淑女ではなく、天文学者(とその家族)限定ということですが、皆なかなか堂に入った伊達者ぞろいです。ただ、下の集合写真を見ると、やっぱり画工が相当下駄をはかせているんじゃないかなあ…という疑念もあります。

■IAU General Assembly 1935

まあ、いずれにしてもここに集った学者たちにとって重要なのは、夜会よりも学問的討議そのものなわけで、その内容については以下にレポートされています。

■The International Astronomical Union meeting in Paris, 1935
 「The Observatory」、1935年9月号所収

この年のIAU総会では、アーサー・エディントンや、チャンドラセカールらによる、恒星の構造と進化に関する、当時最先端の議論があった一方で、「世界標準時」の呼称問題のような、どちらかといえば些末な問題が熱心に話し合われたようです(イギリスが推す「グリニッジ平均時(G.M.T.)」ではなく、「世界時(U.T.)」を使うべし、とかそういった議論です)。

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ちなみに上の記事の裏面は、月の地球照に関する記事になっていて、フラマリオン天文台が撮影した月の写真が大きく掲載されていました。素敵な偶合です。


パリ天文台、華やぐ。2022年09月25日 18時42分56秒

時はおよそ200年下って、西暦1874年
ナポレオン3世が退場し、フランスは第3共和政の時代です。日本では明治7年、西郷隆盛が前年に下野し、佐賀では不平士族が反乱を起こすという世上騒然とした時代。

その頃、パリ天文台で紳士淑女を集めた、優雅な科学の催しがありました。

(版面サイズは31×21cm。周囲をトリミングしてありますが、ページサイズは38×27cmあります)

題して「Une Soirée à l'Observatoire(天文台の夕べ)」

掲載誌の「ル・モンド・イリュストレ」は、当時流行の絵入り雑誌のひとつで、関連記事が併載されているはずですが、版画の裏面は別記事なので、これがいったいどういう機会に行われたイベントかは不明です。

ただ、いずれにしても19世紀後半のフランスは、ジュール・ヴェルヌの時代であり、カミーユ・フラマリオンの時代であり、いわばポピュラー・サイエンスの黄金時代でしたから、こういう科学趣味の夜会が開かれ、そこに好奇心に富んだ紳士淑女が押しかけても、別段不思議ではありません。

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場所が天文台ですから、天球儀があったり、星図を前にしての講演があったりしたのは当然です。


でも、この晩の出し物はそればかりでなく、物理万般に及んでいたようです。
たとえば下はガイスラー管のデモンストレーションのようです。


ガイスラー菅は、低圧の希ガス――というのは古い表記で、今は「貴ガス」と書くのが正しいそうですが――を封入したガラス管の両端に電圧をかけ、放電発光させる実験装置。見た目が派手で美しいので、こういう折にはぴったりの演目です。


こちらは何でしょうか?
中央の2本のチューブをつないだ大きな実験装置は、かなり大掛かりですが、残念ながら正体不明です。左の装置は風力計っぽい姿ですが、室内に風力計を持ち込んでもしょうがないですね。向かって右手から、ライムライトの強烈な光で照射しているのが、何かの実験になっているんでしょうか? 

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…というわけで、いくぶん謎めいた感じはあるんですが、会場が賑やかなことは驚くばかりで、盛装した男女と実験装置の取り合わせに、科学趣味がファッショナブルであった時代の空気を感じます。

パリ天文台の裏の顔2022年09月24日 07時29分28秒

昨日のペレルの版画には「相方」がいます。


こちらはパリ天文台を反対側(北側)から見たところ。
昨日の版画とサイズは同一で、1690年に一連の作品として制作されたようです。
こちらも細部に注目してみます。


天文台の足元には、豪華な馬車や馬上の貴顕紳士、それに恭しく礼をする人物群が描かれ、ここが王立の施設であることを示しています。まあ、こんなふうに人々で常時賑わっていたとも考えにくいですが、一種のパリ名所として、王族や貴族が訪れる機会も実際多かったのでしょう。あるいは王様の御成りか何かの場面を、これまた「異時同図法」で描いたのかもしれません。

一方、建物を囲む塀の外は庶民の世界で、かごを背負った人、物売り、徒歩(かち)で行く男たちの姿が描かれています。

ここにビジュアライズされているのは、「内」と「外」の峻別された世界であり、当時の身分制社会そのものです。

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昨日の版画と著しく違うのは、地上に学者や技術者らしき姿がまったく見当たらないことで、彼らは一体どこにいるのかといえば…


みな屋上で観測に余念がありません。


昨日の作品では、庭前に描かれていた大型望遠鏡や四分儀は、すべて屋上に引き上げられ、そこで活躍しています。そもそも天文台が何のために建てられたかを考えれば、こちらの方が実景に近いでしょう。

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天文台の外に目をやれば、そこに広がるのはまったくの田園風景。風車がやたら目に付きますが、これらは製粉用でしょう。

(GoogleMap掲載。Hiền PHAN氏撮影)

パリ天文台から同じ方向(南東)を写した現代の写真を見ると、天文台に付属する公園緑地の向こうは、延々と市街地が続いていて、まさに「桑海の変」を目の当たりにする思いです。

変わらぬものは、ただ天文台の建物と星ごころばかりなり…です。

若き日のパリ天文台2022年09月23日 09時53分41秒

パリ天文台を主役に据えて、話を続けます。

(版面サイズ19×28cm)

1690年制作の銅版画なので、1667年のオープンから23年後。
御年355歳になるパリ天文台の、まさに青年時代の絵姿です。

パリ天文台の屋上にドームが載ったのは、19世紀半ば、正確には1847年のことで、その歴史はドームの有無でほぼ折半されます。もちろん、この絵はドームがない時代のものです。

作者のアダム・ペレル(Adam Pérelle、1640-1695)は、その父親や弟とともにパリで図案家・版画家として名を成した人。いずれも風景や建物の絵をよくし、全部で1300点の作品が一家の手になるものとされます。さらに「王室御用版画家」の称号を許され、高位の人々に絵の手ほどきをするなど、社会的にも栄達を遂げました。

…というのは、例によってwikipediaからの安易な引用ですが、ペレルはそういう立場の人でしたから、天文台の敷地に入ってスケッチすることも許されたでしょうし、この絵は当時のかなり正確な描写だと思います。

とはいっても、昼日中に星を観測することはないし、これほど多くの人が同時に作業を進めたとも思えないので、この絵は何枚かのスケッチを合成して1枚の絵にまとめた、いわゆる「異時同図法」でしょう。

そういう目で仔細に見ると、その細密な描写に思わず惹き込まれます。


屋上で熱心に望遠鏡?を覗く人々。


地上では天球儀(アーミラリースフィア)を脇に、何やら盛んに書き物をしています。これは屋内作業を、屋外の景に置き換えたのかもしれません。瘠せ犬を追っ払う姿がユーモラス。


こちらは滑車で操作する、長焦点望遠鏡の調整作業でしょうか。


大型四分儀による星の位置測定。
パリ天文台は同時代の他の天文台と同様、星の厳密な位置測定を重ねて、それを天測航法に生かそうという「航海天文学」の研究拠点でしたから、これこそが天文台の本務といえるものです。

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忙しく立ち働く300年前の天文学者や技術者たち。
その姿を見ていると、観測装置こそ素朴なものでしたが、彼らもまた現代と同様、持てる力を尽くして、天界の秘密に挑んでいたことが、無言のうちに伝わってきます。

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この機会に一言釈明しておくと、このブログに掲載する写真は、しばしば右上に影が入りがちです。これは下のような狭苦しいところで写真を撮っているためで、いかにも見苦しいのですが、環境のしからしむるところ如何ともしがたいです。


パリ天文台の3世紀2022年09月21日 22時13分56秒

先日、パリ天文台のテレホンカードを載せました。
あれからちょっとパリ天文台のことが気になっています。

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今から55年前に、「パリ天文台 1667-1967:天文学の3世紀」という展覧会がありました。そのポスターが手元にあります。

(大きさは49.5×36.5cm)

会期は1967年6月23日から7月31日まで、入場は毎日15時から18時まで…とあって、会場は書かれていませんが、当然パリ天文台でしょう。

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事程左様に、パリ天文台の歴史は古いです。

天文台の歴史というと、その言葉の定義にもよりますが、近代的な天文台――望遠鏡観測を主体とする、一定規模以上の施設――に限れば、その嚆矢は1637年創設のコペンハーゲン天文台(デンマーク)で、次いで1650年のダンチヒ天文台(ポーランド)、そして三番手が1667年のパリ天文台になります(さらにその後は、1670年のルンド天文台(スウェーデン)、1675年のグリニッジ天文台(イギリス)…と続きます)。

こうした老舗天文台の中でも、その後の歴史的影響という点では、グリニッジと並んでパリ天文台が図抜けていて、自らの歴史を天文学の歴史に重ねて、「天文学の3世紀」と称するだけのことはあります。

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改めて1967年のパリ天文台。


この水彩スケッチ風の絵には、何となく懐かしさを感じます。
うまく言えませんけれど、私が子供の頃も、こういうタッチの絵があちこちに――たとえば学生街の喫茶店あたりに――架かっていた気がボンヤリするからです。折りしも世界的に学生運動が高揚し、パリは1968年の「五月革命」の前夜でした。

パリ天文台の3世紀は、そうした時代の変遷を横目に、星を眺め続けた300年であったわけです。


なお、原画はの作者は「Gilles Murique」というサインが見えますが、ネットで検索すると、この人はJeannine Gilles-Murique(1924-2002)というパリ出身の画家で、お祖父さんの代から画家という、絵師一家に育った女性だそうです。【参考LINK