パロマーの巨眼よ、永遠に2023年05月14日 12時01分52秒

(昨日のつづき)

パロマーといえば、かつては憧れと尊敬を一身に集める存在でした。
その偉業は当時アメリカのみが成し得たことであり、パロマーはアメリカの国力が今よりも更に強大だった、「パックス・アメリカーナ」時代のひとつの象徴と言えるかもしれません。

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古参の天文ファンだと、地人書館の下の写真集でパロマーに親しまれた方が多いと思います。


■大沢清輝(解説・編集)、ヘール天文台校閲
  『パロマ天体写真集―巨人望遠鏡がとらえた宇宙の姿』
 地人書館、1977(架蔵本は1981の初版第2刷)

「第Ⅰ編:わが銀河系」、「第Ⅱ編:100億光年のかなたに」という2部構成の、一部カラー写真を含む大判の写真集です。

(左:いて座の三裂星雲M20(NGC6514)、右:はくちょう座の網状星雲NGC6992)

(左:かみのけ座NGC4565、右:アンドロメダ座NGC891)

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さらに遡ると、先行して下の写真集も出ています。


■鈴木敬信(編)
 『天体写真集―200吋で見る星の世界』。
 誠文堂新光社、第5版1959 (初版1953

編者の「はしがき」には、

 「本書の主要部をなすものはウィルソン山およびパロマ山天文台の労作、世界にほこる100インチおよび200インチの巨鏡、48インチのシュミットカメラが、万物の寝静まる真夜中に最大の努力と手練とを傾ける観測者の熱意と相まって、うつしとった空の神秘である。おさめた写真のうち約150葉はこの写真集のために特に誠文堂新光社が同天文台から取りよせた最新のもの、約250葉は私が長年かかって収集したなかから選んだもの、残りは私自身が撮影した写真、それから東京天文台・花山天文台・水沢緯度観測所・科学博物館などから拝借した写真である。」

…とあって、写真の入手にも当時大変な苦労があったことが分かりますし、その苦労をおして写真集発刊を目指した鈴木氏と誠文堂新光社の熱意も伝わってきます。繰り返しになりますが、パロマーはそれだけ当時は「エラかった」のです。

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かつてパロマーが生み出した驚異の天体写真の数々。
でも、天文雑誌の読者投稿欄を見れば、今では鮮麗さにおいてパロマーの写真集をしのぐ美しい画像が、毎号のように載っています。これも21世紀に急伸したデジタル撮像と画像処理技術の進歩のおかげです。

その意味で、パロマーの威信もずいぶん凋落したように見えるんですが、考えてみれば、アマチュアが口径30cmの望遠鏡を使ってやれることは、当然パロマーの5.1mを使ってもやれるわけで、その口径差による圧倒的なアドバンテージは、いささかも揺るぎません。

パロマーのヘール望遠鏡は今も完全に現役で、最先端の研究に日々活用されていることが、パロマーの公式サイトに掲載されているレポートから分かります。

■Current Research and Observations Slideshow

最初に登場した、地人書館の『パロマ天体写真集』の冒頭で、編者の大沢氏は、

 「科学的な目的の天体写真には白黒が用いられ、カラーを使うことはない。カラーでは光量の量的測定をすることができないからである。世界一級の望遠鏡の観測時間を割いて、本書掲載のカラー写真が撮影されたのは、天体物理学の普及発達のためには、それも一種の必要な社会サービスだという、大所高所からの判断によるものであろうと思われる。」

…と書かれています。この辺の事情は今も同じでしょう。ハッブル宇宙望遠鏡やジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡による、目を驚かせるカラー画像がメディアを賑わせるのも、一種の「社会サービス」であり、ひいては予算獲得に向けたアピールにほかなりません。

パロマーの巨人望遠鏡は、今ではそうした役割を果たす必要がなくなったので、我々一般の目にあまり触れぬ形で、専門的な研究に一意専心できているわけです。

どうかパロマーが末永く壮健で、その澄んだ瞳が大宇宙を見つめ続けますように。

続・パロマー物語2023年05月13日 17時03分49秒

しばらくぼーっとしていました。
本を読むぞと宣言したわりに大して読めなかったし、というよりも本を読むと眠くなることに気が付きました。昔、年長の人がそう話すのを聞いて、そんなものかなあ…と思っていましたが、自分がその齢になってみると、これは一大真理ですね。もちろん興味のない本を読んでいるうちに、退屈して眠くなるのは分かるんですが、興味のある本でも眠くなるというのは意外な落とし穴で、残りの人生、もうあんまり本も読めないなあと思うと、ちょっぴり寂しいです。

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さて、ブログもぼちぼち再開です。

先日、プラネタリウム100周年の話題を書きましたが、今年は他に75周年の話題もあることを耳にしました。すなわち、パロマー山天文台の200インチ(5.1m)望遠鏡が、1948年にお披露目されて以来、今年で75歳を迎えるという話題です。


上は先日購入した、パロマ―山天文台を描いたおまけカード。
左はイギリスのリージェント石油の「Do You Know?」シリーズ(1965)、右はオーストラリアのサニタリウム・ヘルス・フード・カンパニーの「Wonder Book of General Knowledge」シリーズ(1950-51)に含まれるカードです。

200インチ望遠鏡(ヘール望遠鏡)は、アメリカ一国にとどまらず、文字通り世界のヒーローでしたから、あちこちでこういう「パロマーもの」が作られたわけです。


上は1948年8月30日に発行された記念切手を貼った初日カバー。
この日、まさに望遠鏡の鎮座するパロマー山で投函され、その日の消印が押された記念すべき品です。
ただ、望遠鏡自体の完成記念式典は、それよりもちょっと前の6月1日から行われたので、望遠鏡はあと20日足らずで75歳の誕生日を迎えることになります。

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「大宇宙を見通す目」というと、今ではジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡がその象徴でしょうが、かつてその地位を占めたのがパロマー山のヘール望遠鏡です。しかもその地位は、1976年にソ連のBTA-6望遠鏡が口径世界一の記録を塗り替えるまで、30年近く盤石でしたから、パロマーに思い入れのある天文ファンは、複数世代にまたがっているはずで、もちろん私もその中に含まれます。

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自分が書いた記事に感動するというのも妙なものですが、私はパロマーと聞くと即座に16年前の記事を思い出し、読み返しては思いを新たにします。

■パロマー物語…クリスマス・イヴに寄せて

まあ、これは私が書いたといっても、地元に住むあるアメリカ人女性の文章の引用であり、彼女の記憶の中のパロマーが美しいからこそ感動するわけですが、それに感動できるということ――つまり私の中のパロマー像が彼女の記憶と共鳴するということ――それ自体、私にとっては嬉しいことです。

Every Jack has his Jill.2023年02月18日 11時37分51秒



望遠鏡を熱心に覗く男の子。その先に輝くのは…


きみは空でいちばん明るい星

季節ネタとして、バレンタインに合わせて、こんなカードを紹介しようと思ったんですが、すっかり忘れていました。


このカードは一種の仕掛けカードで、下辺に覗くタブを操作すると、割りピンで留められた望遠鏡が左右に動くようになっています。1920年~30年代のアメリカ製で、他愛ないといえば他愛ない品ですが、こういう屈託の無さが当時のアメリカっぽいです。


この女の子が、記号的に美人に描かれてないところにも、何となくメッセージ性を感じます。アメリカのどこの町や村にも、こうした男の子と女の子がいて、彼らの数だけ小さな恋物語があり、当人たちはハラハラドキドキしながらも、全体として平凡で平穏な日常が世界を覆っていることを是とする態度といいますか。

「アメリカの良心」みたいなものが、漠然と信じられた時代だったのかなあ…とも思います。

ペーパーテレスコープ2023年02月04日 08時19分08秒

「月月火水木金金」という文字を目にすると、私の脳内では即座に「げぇつげぇつかーすいもくきんきーん」という歌声が、メロディつきで再生されます。あれは、「隣組」と同類の戦時国策歌謡と思ってましたが(実際そういう側面もあるのでしょうが)、元はれっきとした海軍生まれの軍歌だそうですね。

まあ、軍歌の話をしたいわけではなくて、突如仕事が立て込んだせいで、脳内であのメロディが繰り返し再生され、発狂しそうである…という、そんな話です。

そんなわけで、なかなか記事を書くのもおぼつきませんが、有り体にいって仕事よりも天文古玩の世界に遊ぶほうが楽しいので、隙間時間を見つけてやっぱり記事を書いてみます。

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最近届いた1枚のシガレットカード。

(ペンは大きさ比較用)

英国コープ社(Cope Bors & Co)の製品で、同社は1848年から1952年まで、約100年間にわたって存続したリバプールのタバコメーカーです。他のメーカーと同様、ここもシガレットカードを煙草のおまけに付けて、大いに販売促進を狙いました。

(カードの裏面)

上のカードは1925年に出た「おもちゃモデルシリーズ」の1枚で、他社のシガレットカードと差別化を図るため、切り抜いて組み立てると小さなおもちゃができるのを売りにしていました。いわばシガレットカードとグリコのおまけのハイブリッドみたいなものですね。

(eBayの商品写真より)

いろいろな屋台店とか、乗り物とか、遊具とか、カラフルで楽しいシリーズですが、今回はその中から1枚だけ望遠鏡のカードを買いました。これも線にそって切り抜いて、要所を折り曲げて、ちょちょいと糊付けすれば、可愛くてしかも立派な望遠鏡が完成します。


望遠鏡の構造としてどうなの?という細部の詮索はおいて、ここに漂う愛らしさといったらどうでしょう。そして、1920年代の子どもたちにとって、望遠鏡は夢と憧れであったことも、このカードからわかります。

フリッチ兄弟の夢、オンドレジョフ天文台(後編)2022年11月27日 14時30分03秒

(今日は2連投です。)

フリッチ兄弟の父親は、詩人・ジャーナリストであり、チェコの愛国者にして革命家としても著名な人物だった…という点からして、なかなかドラマチックなのですが、二人はパリで少年時代を過ごし、プラハに帰国後、兄は動物学と古生物学を、弟は物理学と化学を学び、1883年、ふたりとも二十歳そこそこで共同起業した…というのは前編で述べたとおりです。

何だか唐突な気もしますが、その前年(1882年)に、兄弟はチェコの科学者の大会に出席し、湿板で長時間露出をかけた顕微鏡写真の数々を披露したのが、大物化学者の目に留まり、その紹介で弟ヤンはドイツの工場に短期の修行に行き、さらに旋盤を購入し…というような出来事があって、それを受けての会社設立だったようです。

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ちょっと話が脱線しますが、ここで「チェコ、チェコ」と気軽に書きましたけれど、当時はまだチェコという国家はありません。あったのは「オーストリア=ハンガリー二重帝国」です。

(1871年の「オーストリア地図」。オーストリア領の西北部、ボヘミア・モラヴィア地方が後のチェコ、ハンガリー帝国の北半分が後のスロバキア)

1848年に全ヨーロッパで革命の嵐が吹き荒れた後、中欧ではハプスブルク家専制に揺らぎが生じ、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国が成立します。しかし、チェコやスロバキアの人々はこれに飽き足らず、「自分たちはスラブ人だ。ドイツ人やマジャール人の支配は受けない」という民族意識の高揚――いわゆる「汎スラブ主義」が熱を帯びます。この動きの先にあるのが、1918年の「チェコスロバキア共和国」独立でした。

ここで思い出すのが、先月話題にしたチェコの学校教育用の化石標本セットです。

■鉱物標本を読み解く

(出典:Guey-Mei HSU、”Placement Reflection 3”

台湾出身のグエイメイ・スーさんが手がけたミニ展示会に登場したのは、ヴァーツラフ・フリッチ(Václav Fric、1839-1916)というチェコの博物学者(今回話題のフリッチ兄弟と縁があるのかないのかは不明)が監修した標本セットで、自分が書いた文章を引用すると、こんな次第でした。

 「その標本ラベルが、すべてチェコ語で書かれていることにスーさんは注目しました。これは当たり前のようでいて、そうではありません。なぜなら、チェコで科学を語ろうとすれば、昔はドイツ語かラテン語を使うしかなかったからです。ここには、明らかに同時代のチェコ民族復興運動の影響が見て取れます。そして、標本の産地もチェコ国内のものばかりという事実。この標本の向こうに見えるナショナリズムの高揚から、スーさんは故国・台湾の歴史に思いをはせます。」

これが当時のチェコの科学界の空気であり、フリッチ兄弟もその中で活動していたわけです。彼らは科学に対する自身の興味もさることながら、科学によって祖国に貢献しようという思いも強かったのではないでしょうか。純粋学問の世界から、精密機械製作という、いわば裏方に回ったのも、そうした思いの表れではなかったかと、これはまったくの想像ですが、そんな気がします。

(フリッチ兄弟社の製品群。Wikipediaの同社紹介項目より))

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話を元に戻します。

フリッチ兄弟はチェコで最初の月写真を撮り、その写真は1886年にポルトガルで開かれた国際写真展で賞をもらったりもしました。彼らの天文学への興味関心は、商売を越えて強いものがあったようです。弟のヤンは1896年、私設天文台の設立を目指して大型のアストログラフの設計図面を引きました。しかし好事魔多し。ヤンは翌1897年に虫垂炎の悪化で急死してしまいます。

兄ヨゼフは二人の夢を実現するために、オンドレジョフ村に土地を買い、建物を建て、後にチェコ天文学会会長を務めたフランチシェク・ヌシュル(František Nušl、1867-1951)の協力を得て、ようやく念願の天文台を完成させます。1906年のことでした。

(写真を再掲します)

そして、そのドームの中には弟の形見として、かつて彼が設計したアストログラフが据え付けれら…というわけで、今回の絵葉書の背後には、そうした「兄弟船」の物語があったのでした。さらにその背後には、チェコの近現代史のドラマも。

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調べてみるまで何も知りませんでしたが、何気ない1枚の絵葉書も、多くの物語に通じるドアであることを実感します。

ちなみにオンジョレドフ天文台は、1928年に国(チェコスロバキア)に寄贈され、曲折を経て、現在は前回述べたとおり、チェコ科学アカデミー天文学研究所の主要観測施設となっています。またフリッチ兄弟社は、戦後にチェコスロバキアが共産主義国になると同時に国有化され、各製造部門はあちこちに分有され、雲散してしまいました。

(ボーダーに音楽記号をあしらったスメタナ切手。彼のチェコ独立の夢が結実したのが、交響詩「わが祖国」です。)

フリッチ兄弟の夢、オンドレジョフ天文台(前編)2022年11月27日 13時52分16秒

絵葉書アルバムを見ていて、ふと目に留まった1枚。


表側に何もキャプションがないので、何だかよく分からない絵葉書として放置されていましたが、改めて眺めると、なかなか雰囲気のある絵葉書です。

古びたセピアの色調もいいし、全体の構図や光の当たり方、それに小道具として取り合わせた椅子の表情も素敵です。全体に静謐な空気が漂い、これを撮影した人は明らかに「芸術写真」を狙っていますね。

そして中央で存在感を発揮している光学機器。


その正体は、葉書の裏面に書かれていました。



このチェコ語をGoogleに読んでもらうと、次のような意味だそうです。

「オンドレジョフ近くの天文台にある二連アストログラフ。ヨゼフとヤンのフリッチ兄弟社製。西側ドームに設置され、恒星、小惑星、銀河、彗星、流星の写真撮影に使用されている。」

アストログラフ(天体写真儀)は、天体写真の撮影に特化した望遠鏡です。
欄外に1934年8月15日の差出日があるので、この絵葉書自体もその頃のものでしょう。

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ときに、オンドレジョフとはどこで、フリッチ兄弟とは何者なのでしょうか?

Googleで検索すれば、オンドレジョフ(Ondrejov)天文台が、プラハの南東35kmの位置にあって、現在はチェコ科学アカデミー天文学研究所の主要観測施設になっていることを、ネットは教えてくれます。(wikipediaの「Ondřejov_Observatory」の項目にリンク)

(オンドレジョフ天文台。手前が東ドーム、奥が西ドーム。Google map 掲載の写真より。Roman Tangl氏撮影)

(上空から見たオンドレジョフ天文台。中央の緑青色のドームが東西の旧棟。それを取り囲むように図書館を含む新棟や天文博物館があります。左手の広場に見えるのは電波望遠鏡のアンテナ群)

フリッチ兄弟についても同様です。
兄のヨゼフ・ヤン・フリッチ(Josef Jan Frič、1861-1945)は若干22歳で、弟のヤン・ルドヴィーク・フリッチ(Jan Ludvík Frič、1863-1897)とともに、光学機器を中心とする精密機械を製造する会社を立ち上げた人。そこで作られたのが上のアストログラフというわけです。

(左は兄ヨゼフ。右は弟のヤン。それぞれチェコ語版wikipediaの該当項目にリンク)

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それにしても、兄弟の事績を読むと、彼等はなかなかの人物です。
そしてオンドレジョフ天文台も、単なるその製品の納入先ではなくて、そもそもこの天文台を創設したのは、ヨゼフ・フリッチその人なのでした。

ちょっと話が枝葉に入るようですが、当時の事情を覗き見てみます。

(長くなるので後編につづく)

ある望遠鏡の謎を追う(完結編)2021年10月13日 05時51分51秒

6年前、1台の古い望遠鏡を話題にしたことがあります。

■ある望遠鏡の謎を追う(前編)(後編)

(画像再掲)

木箱に入った小さな真鍮製の望遠鏡。
私はこれをヤフオクで見つけて、正体不明のまま買い入れたのですが、その後同じ望遠鏡が、島津製作所発行の戦前の理化学器械目録(学校向け理科教材カタログ)に載っているのを見つけ、さらにメーカー名は不明ながら、おそらく外国製であろうことまでは分かりました。

その後ひょんなことから、明治の青森で異彩を放ったアマチュア天文家、前原寅吉もまた同じ望遠鏡を持っていたことを知り、さらに追加記事を書いたのでした。それが昨年5月のことです。

■古望遠鏡は時を超え、山河を越えて

(画像再掲。前原寅吉が使用した望遠鏡。この件についてお知らせいただいたガラクマさんにご提供いただいたものです)

前原寅吉については、別のところでもいろいろ記事を書いたので、このことは本当に嬉しい驚きでしたが、望遠鏡そのものの正体は、依然杳として知れませんでした。

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しかし偶然の女神は備えある心に微笑むとかや。
昨日の記事を書くために、フラマリオンのことを改めて調べていて、その正体がにわかに分かったのです。


■ASTROPOLIS.FR:Camille Flammarion, 1842 - 1925.

上記のページを漫然と見ていたら、おなじみの『アストロノミー・ポピュレール』の表紙と並んで、あの特徴的な三脚と見慣れたフォルムが輝いているではありませんか。

(上記ページより画像寸借)

説明文に目を走らせると、フラマリオンは『アストロノミー・ポピュレール』の中で、「学校用望遠鏡(la lunette des écoles)」なるものを提唱し、それをフランスの望遠鏡メーカー、バルドー(Bardou)と共同で開発したようなことが書いてあります。バルドーはフラマリオン御用達で、彼の活動拠点ジュヴィシー天文台のメイン機材もバルドー製でしたから、これは大いにありうる話です。

「え!」と驚きつつさらに検索したら、この望遠鏡がフランス文化省のサイトで、文化遺産として紹介されているのを発見しました(上の望遠鏡の画像もここから採ったもののようです)。

■lunette astronomique dite 'lunette des écoles' ou 'à noeud de compas'

Googleによる英訳だと、ちょっと意味の取りにくいところもありますが、フラマリオンは初等教育の現場に望遠鏡を普及させるため、この望遠鏡をミニマムスペックのものとして提案し、1902年のフランス教育同盟の場で採択されることを願ったようです。
彼はかつて「砲筒の代わりに望遠鏡を!」と訴え、天文学が普及することで人類の意識が変化し、平和な世界が実現することを夢見ていました。いわばその「先兵」が、この望遠鏡だったわけです。

残念ながら、フラマリオンの夢はいまだ実現していません。
でも、その夢が美しく気高いものであることを否定する人はいないでしょう。その願いは、はるか日本にもさざ波のように寄せ、青森では前原寅吉がそれを手にし、また偶然の連鎖を経て、私もそれを手にすることになりました。

フラマリオンの思いに応えるために、今何ができるのか?
これは望遠鏡とともにフラマリオンから託された大きな宿題です。

謎の学校天文台2021年08月29日 08時34分00秒

1枚の絵葉書を買いました。謎の多い絵葉書です。


そこに写った2枚の写真には、それぞれ「天文台」、「屋上観望台 望遠鏡」とキャプションがあります。一見してどこかの学校の竣工記念絵葉書と見受けられます。しかし、どこを写したものか、まったく手がかりがなくて、それが第1の謎です。

(裏面にも情報なし)

(右側拡大)

背景に目をやると、ここは人家の立て込んだ町の真ん中で、遠近に煙突が見えます。戦前に煙突が櫛比(しっぴ)した都市といえば、真っ先に思い浮かぶのは大阪ですが、まあ煙突ぐらいどこにでもあったでしょうから、決め手にはなりません。

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この天文台の載った建物は、隣接する木造校舎に接ぎ木する形で立っていて、この真新しい鉄筋校舎の竣工記念絵葉書だろうとは容易に想像がつきます。

1つ不思議に思うのは、この天文台が計画的に作られたものなら、当然新校舎内の階段を通って屋上に出ると思うのですが、実際には旧校舎の「窓」から、急ごしらえの階段をつたって屋上に至ることです。なんだか危なっかしい作りです。となると、この天文台は計画の途中で、無理やり継ぎ足されたのかなあと思ってみたり。でも、そのわりにこの天文台は立派すぎるなあ…というのが第2の謎です。

【8月29日付記】 
記事を上げてから思いつきましたが、この新校舎の各教室に行くには、旧校舎から水平移動するしかなくて(壁の一部を抜いたのでしょう)、新校舎内部には一切階段スペースがなかったんじゃないでしょうか。だとすれば、第2の謎は謎でなくなります。

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実際、この天文台はひどく立派です。
この絵葉書は大正年間のものと思いますが、当時の小学校――写真に写っている風力計や風向計は、高等小学校レベルのものでしょう――にこれほどの施設があったというのは本当に驚きです。

以前紹介した例だと、大正12年竣工の大阪の船場小学校にドームを備えた天文台がありました。


船場小は地元財界の協力もあって、特に立派だったと思うんですが、しかし今日のはそれよりもさらに立派に見えます。

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そして、左の写真に写っている望遠鏡も実に本格的です。

(左側拡大)

メーカー名が不明ですが、乏しい知識に照らすと、野尻抱影の愛機「ロングトム」↓に外見がよく似ています。


口径4インチのロングトムよりも若干小ぶりに見えますが、架台を昇降させる特徴的なエレベーターハンドルがそっくりです。日本光学製のロングトム――というのはあくまでも抱影がネーミングした愛称ですが――は、昭和3年(1928)の発売。ただし同社はそれに先行して、大正9年(1920)に2インチと3インチの望遠鏡を売り出しており、ひょっとしたらそれかな?と思います。この辺はその道の方にぜひ伺ってみたいところ。

参考リンク:March 2006, Nikon Kenkyukai Tokyo, Meeting Report

上記ページによれば、日本光学製の3インチ望遠鏡(木製三脚付)のお値段は、大正14年(1925)当時で500円。小学校の先生の初任給が50円の時代です。
しかも、この屈折望遠鏡のほかに、ドーム内にはもっと本格的な望遠鏡(反射赤道儀か?)があったとすれば、破格な上にも破格な恵まれた学校ですね。

ちなみに、望遠鏡の脇のロビンソン風力計の真下は、自記式記録計が置かれた観測室だったはずで、それと隣接して理科教室があったと想像します。そこで果たしてどんな理科の授業が行われたのか、そのこともすこぶる気になります。

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こんなすごい学校と天文台のことが、今となってはまるで正体不明とは、本当に狐につままれたようです。

(※最後に付言すると、上の文章には、「これが小学校だったらいいな…」という私の夢と願いが、強いバイアスとしてかかっています。実際には旧制の中学や高校、あるいは女学校なのかもしれません。)

望遠鏡と顕微鏡2021年03月04日 22時32分14秒

昨日の記事には、下の写真を添えると良かったかなと、後から思いました。


R.A. Proctorの『Half Hours with the Telescope』(1902)と、Edwin Lankesterの『Half Hours with the Microscope』(1898)。日本の新書版とほぼ同じサイズの、ごく小ぶりの本です。もちろん専門書ではないし、特にマニア向けの本でもありません。タイトルから分かるとおり、ひと時とは言わず、せめて半時を趣味に充てて楽しもうじゃないかと、一般の読者に呼びかけている本です。

このブックデザインは、当時、望遠鏡趣味と顕微鏡趣味を「好一対」のものと感じる人が、少なからずいたことを物語るようです。博物学が依然として隆盛だった頃ですから、せめてどちらか一方に通じていることが、紳士・淑女のたしなみだ…ぐらいの雰囲気だったかもしれません。

しかし、同じレンズを覗き込むのでも、両者の違いは歴然としていました。


望遠鏡の向こうに広がるのは、どこまでも深い闇と、かそけき光の粒と雲です。
いっぽう顕微鏡の視野を満たすのは、複雑な形象と鮮やかな色彩。

それぞれが世界の秘密を分有するビジョンとして、そこに優劣はないのでしょうが、やっぱり天文趣味は、地味は地味ですね(少なくとも眼視の場合はそうでしょう)。視力よりも想像力が求められる趣味だ…と呼ばれるゆえんです。

ミクロスコープ国の独立2021年03月03日 07時09分36秒

このブログの記事カテゴリー(左欄外にずらっと並んでいます)を、今以上ゴチャゴチャにするのは気が進まないのですが、今回、顕微鏡の記事を書いていて不便に思ったのは、これまで顕微鏡と望遠鏡が「望遠鏡・顕微鏡」という1つのカテゴリーに入っていたことです。

これだと過去の記事をたどりづらいし、この二つのスコープは、そもそも活躍の場がだいぶ違うので、この際思い切って「望遠鏡」「顕微鏡」に分離することにしました。カテゴリーを変更すると、過去記事へのリンクが一部切れてしまう恐れがありますが、そこは目をつぶります。この点は、気づいたらその都度修正することにします。

カテゴリーの並び順も、「望遠鏡」の方は天文用具の並びに、「顕微鏡」の方は「動・植物」や「昆虫」の次に置いてみました。