ひとひらの雪2012年02月03日 21時11分41秒

雪、雪、雪。
白く、音のない世界。
昨日の朝は辺りがしんとして、その静けさに驚いて目が覚めました。


写真は、国際雪氷学会創立50周年を記念して、1986年に発行された英領南極(→ http://mononoke.asablo.jp/blog/2011/08/17/6053317)の切手。

薄く小さな画面にかっちり収まった雪の結晶が、美しく、愛らしく感じられます。

寒い時節に南極の切手とは、またえらく寒々しいですが、考えてみれば南極は今、夏。
昭和基地の気温は、この時期マイナス5度~プラス2度ぐらいだそうです。
寒いといえばやっぱり寒いですが、それでもつかの間の夏を彩る苔や地衣類が、精いっぱい鮮やかな緑を見せていることでしょう。

南氷洋に潜行せよ2011年08月17日 20時30分00秒

ことのほか暑いので、今日もふたたび南極に向かいます。


写真は、1984年に英領南極(BAT;British Antarctic Territory)が発行した、南氷洋の生物シリーズ。


寒冷な海の中にも、豊かな生物相と生態系が存在することを教えてくれる切手です。


細密な生物画と、クールな色合いが、涼やかなムードでいいですね。



奇怪な生物たちの協演。
氷の海で永く静かに続くハーモニー。

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ところで、英領南極とはそもそも何ぞや?

南極大陸は、南極条約(1959)の締結によって、いかなる国の領土でもないと決まったのではなかったっけ…と思って、改めて聞いてみると、イギリスやフランス、オーストラリアなど、以前から領有権を主張していた国々は、南極条約によって自国の主張を「放棄」したわけではなく、その主張を「凍結」しているに過ぎないのだそうです。

■南極における領有権主張の一覧:ウィキペディア
  http://tinyurl.com/yfj2cyk (URLが長いので短縮しました)

何だか分かったような、分からないような話ですが、そんなわけで、今でもせっせと独自の切手を発行したりして、自国の領土たることアピールしているのでしょう。

そんなことを考えると、この切手もあまり涼しげとは思えなくなってきますが、彼ら生物の営みは、その姿かたちの不思議な美しさとともに、人間の都合などお構いなく、これからも続くことでしょう。いや、ぜひ続いてほしいです。

空白の大陸、南極(その2)2011年08月14日 10時35分13秒

南極探検の雄、白瀬矗(しらせのぶ;1861- 1946)のことを昨日チラと書きました。
その生年を見えると、今年は生誕150周年に当たるのですね。となると、南極探検は彼が50歳のときの壮挙であり、これまたびっくりです。当時の50歳は、今の70歳にも相当すると思いますが、そんな人が大英帝国の精鋭スコット隊の向こうを張って、想像を絶する酷寒の南極大陸に挑もうというのですから、当時の人は「口あんぐり」だったでしょう。

白瀬中尉のことは、ウィキペディア↓で読んだだけなので、詳しくは知りません。
しかし、その臨終について、「次女が間借りしていた魚料理の仕出屋の一室で死去。死因は栄養失調による餓死(または腸閉塞)」とあるのに言葉を失いました。氏は最初から暖衣飽食することは念頭になかったでしょうが、豪傑の最期としてはいかにも無念。

白瀬中尉といい、50歳を過ぎてから天文暦学を学び、全国測量の旅に出た伊能忠敬といい、そんな人々の生き方が気になる年齢に私もなってきました。

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さて、南極地図の続編。

(↑斜めに射しているのブラインド越しの陽光)

上は昨日とほぼ同時期、1904年にドイツのライプツィヒで出版された地図です。
昨日の地図に比べてタテ・ヨコ倍の大型サイズですが、しかし大判だからといって、情報量はぜんぜん増えません。ブランクが空しく広がっているだけです。


 
海岸線がところどころ途切れがちに確定されていますが、あとは真っ白。


地図には、それまでの南極アプローチの記録が詳しく書き込まれています。
1950~60年代の月球儀が、米ソの人工天体の着陸・衝突地点を盛んに記載していたのを思い出します。当時の南極は、まさにミッドセンチュリー期の月に相当するような、遠く遥かな場所だったのでしょう。

空白の大陸、南極2011年08月13日 17時09分54秒

ファディマンさんの思いに共感したからといって、極地探検記を何十冊も買い込んで読みふける気力はありません。でも、その影響で南極の古い地図を買いました。


写真は1907年、ニューヨークの出版社から出た、元は百科事典の付図として刷られたもの。幅30センチの小ぶりな紙面に、当時の南極の情報が詰め込まれています。


オセアニア↑からも、南米からも、アフリカ↓からも、ウネウネと赤い線が南極に向けて伸びています。


言うまでもなく、過去の名だたる探検家たちの遠征ルートです。


人名にまじって“Challenger”、“Belgica”とあるのは船の名前。
前者は英国海軍の軍艦チャレンジャー号で、ネアズ艦長率いる世界一周海洋観測隊が乗り込み、その途中南極にも立ち寄りました。後者はベルギー人、ド・ジェルラシュを隊長とする多国籍探検隊の乗ったベルジカ号。若き日のアムンゼンもその一行に加わっていました。

多くの探検家たちが、南極を征服しようと意気盛んでしたが、南極大陸の形すら依然あいまいなまま、広大な空白がこの地球上に広がっていたことが、この地図を見るとよく分かります。今からほんの100年前まで、地球は人類にとってまだまだドデカイ存在だったわけです。


この1907年の時点で、南極点にいちばん迫っていたのはイギリスのスコット隊で、1902年12月29日、南緯82°17'の地点まで到達していました。

スコットはその後1912年1月17日、2回目の南極探検で、ついに南極点に立ちますが、南極点初到達の栄誉をノルウェーのアムンゼンに奪われ、失意のうちに氷原で帰らぬ人となりました。その積荷にあった植物化石が、100年近く経って一人のアメリカ人女性の心をはげしく打った…というのが、昨日の記事。

そういえば、今年は人類の南極点到達100周年なんですね。
身近なところでは、スコットが南極点に立った日の前日、1912年1月16日は、白瀬中尉が日本人として初めて南極大陸に上陸した日でもあるので、今年の暮れから正月にかけて、何か南極にちなむ企画がメディアを賑わすかもしれませんね。

思いは極地へ2011年08月12日 20時20分01秒

夕べは帰路、地下鉄の階段を上がる途中から、太鼓の音が聞こえてきて、「ああ、今夜は盆踊りだったな…」と気付きました。
会場は例年に変わらず、なかなかの賑わいでしたが、今年は特に「魂祭りの踊り」という原義がしみじみと思い出されました。

   ★

特定の本の、特定の一節が気に入って、そこだけ繰り返し読むことを私はよくします。夏になると決まって開くのが、アン・ファディマンという人の読書エッセイ、『本の愉しみ、書棚の悩み』(相原真理子訳、草思社、2004)の、「趣味の棚」という文章です。


ファディマンさん曰く、だれの書庫にも、趣味の棚ともいうべきものがあるはずだとかねがね思っている。なるほど、然り。そして、わたしの趣味の棚には、極地探検に関する六十四冊の本がならんでいる。ほほう。

著者は、酷寒の地への思いを、熱く縷々と綴ります。
白一色の世界。寒々しく地味なミニマリズムの光景。
なぜという理由はない。とにかく記憶にある限り夏より冬、『シンデレラ』よりも『雪の女王』、ギリシャ神話より北欧神話のほうが好きだったのだと、著者は言い放ちます。

極地への思いとともに、ファディマンさんが愛するのは、「高潔な失敗」にたおれたイギリス人探検家の生き様です。ロス、フランクリン、ネアズ、シャクルトン、そしてアムンゼンとの競争に敗れた、かのスコット大佐。徹底的に紳士で、まじめで、不器用で、同時に楽天的だったヴィクトリア朝の男たち。

「わたしは、捜索隊が見つけたスコットのそりの積荷のことを読むたびに、さらに胸がつまる。それはグロッソプテリス(絶滅したソテツ状シダ)の葉と茎の化石が入った古生代後期の石で、重さは全部で十六キロあった。スコットは身軽に旅をするために、食料をぎりぎりまで切りつめたのに、これらの石は捨てなかった。もし捨てていたら、彼と隊員たちは最後の十二マイルを歩ききることができたかもしれない。」

「自分の趣味の棚のなかで、いちばん愛着のあるものは何かときかれたら、それらの地質学標本について書かれた部分と答えるだろう。〔…〕何かに殉じるなら、自分の命を何にささげるのかを慎重にきめなければいけないという教訓を、わたしはこれらの本から得た。人は祖国や信仰、民族などのために命を投げだすのがふつうだ。それを考えると、十六キロ分の石とそれが象徴する失われた世界のために死ぬのも、そう悪くはないと思えるのだ。」

極地は白く、冷たく、何もない。
何もないゆえにドラマが生まれ、はげしく心惹かれる人が絶えないのでしょう。
しかし、あくまでもそれは少数派です。
多くの人にとって、極地はやっぱり白く、冷たく、何もないところであり、それ以上のものではありません。

「わたしの趣味は孤独なものだ。カクテルパーティーで話題にするわけにはいかない。ときどき、人生の大半をついやして、もはやだれも話すことのできない死語を学んできたような気がする。」

「天文古玩」という死物を相手にする身として、こんな一節にも深い共感を覚えるのでした。

暑い!!!2011年08月10日 22時14分00秒


白クマもイラついています。

本気で怒ってますよ。

フランスのポピュラーサイエンス誌『フランスの科学 La Science Française』(1892年11月24日号)より。

― 残暑お見舞い申し上げます。―

江戸の人は望遠鏡で南極大陸を見た…か?2011年01月02日 09時41分16秒

(↑Moon eclipse 1999 in Belgium (c) Luc Viatour:ウィキメディアコモンズより)


正月なので、記事の方はのんびり進めることにして、『星恋』の続きは明日に回します。

以下、ごく渋い記事ですが、常連コメンテーターのS.U氏から複数の記事にお寄せいただいたコメントを整理しておきます。自分自身へのメモとしてはもちろん、他にも興味を持っていただける方がいらっしゃると思いますので。

内容は、江戸時代の半ばに西洋天文学を咀嚼し、独自の論も加えて大いに気を吐いた鬼才・麻田剛立(あさだごうりゅう;1734-1799)が、月食のときに月に落ちる地球の影を見て、南極大陸の存在を察知したと言うのは本当か?という話題。

なお、当然ながらS.U氏の文章の著作権は同氏にありますので、引用・参照にあたってはご留意願います。もちろんブログの管理人といえども、寄せられたコメントを恣意的に転載・流用することは許されないと思いますが、そこはS.Uさんとの信頼関係がありますので…(あるはず・笑)。


   ■   □   ■

※以下、〔 〕内は引用にあたって、管理人が注記したものです。また明らかな誤字は訂正しました。

■2010年12月28日付の記事に対するS.U氏コメントと管理人のレス
http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/12/28/5613840

◆S.U氏◆
〔前略〕 麻田剛立にも、月食中の月面に落ちた地球の影のかたちから南極大陸の存在を確認した、というエピソードがあり、現在でも、これをポジティブな観測結果として賞賛したものが多々あります。〔後略〕

◆管理人◆
〔前略〕 麻田剛立と南極大陸のエピソードは寡聞にして知りませんでした。
万里の波頭を越えずとも、居ながらにして南極の山谷を知る。
その発想は素敵ですね。〔三浦〕梅園が驚倒したのも分かります。

でも、それが不可能なことは、頭で考えても、実際に月食の際の地球の影を観察しても容易に分かりそうなものですが、なぜ剛立はそれができる(できた)と思ったのでしょうか、その点がいかにも不思議です。

〔三浦梅園の〕『帰山録』に引用された剛立の書簡〔注〕を読むと(文意の取れない所もありますが)、月食の時刻を観測すると、地球を真円と仮定した場合に比べて数秒の増減があることから、地形の凹凸が窺い知れるのだ…という理屈でしょうか。でも、月食の接触時刻や食甚時刻の決定は、当時にあっては(今でも)難中の難で、剛立もそのことは熟知していたはずですが、実は熟知していなかったとか…? 〔後略〕

〔注: 中村学園大学図書館の以下のサイトで閲覧できます。剛立の書簡は、ページ左欄に付けられたしおりから、「帰山録 下」の「麻田剛立の手紙(南極その他)」という箇所を見て下さい。http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/kizan/kizan.pdf

◆S.U氏◆
>麻田剛立と南極大陸のエピソード
 お調べありがとうございます。梅園がこの説を知ったのは長崎旅行の時(1778年)だったわけですね。

 私は、この件の剛立の観測記録を見た記憶はないので、実際の状況はわかりませんが、剛立は若い頃から月食観測をして暦算の実証の研究をしていましたから、ご指摘の通り、その時刻測定が難しかしいことは熟知していたはずです。確かに、剛立にしては?という印象です。

 ところで、梅園の言う「分秒」は角度の単位だと考えます。地球の凹凸が数秒角ならば、地球影の視直径約2度に対して1/1000のオーダーになります。現代からみると多少の過大評価ですがケタ違いではないです。このへんは地理好きの梅園が計算をチェックできたのだと思います。

 これに加えて、剛立は、南極部分の地球の影のヘリが、影に向かって進行する月に対して斜めの角度でかかるなら時刻測定による観測精度が上がるという効果を考えたのかもしれません。幾何学的な状況によっては時刻で30秒、あるいは1分以上の違いが出ることも原理的にはありえます。梅園は数学の計算を理解しなかったので、ここまでの記述を彼に求めることは無理ですが、剛立ならそれなりの計算はしたものと思います。(ほんとうは、いずれにしても影の縁がぼやけているので、最終的に有効な精度はほとんど改善しないでしょうが)

 以上はまったくもって私の想像ですから、ご参考程度にお願いします。 〔後略〕

◆管理人◆
〔前略〕
>梅園の言う「分秒」は角度の単位だと考えます。
あ、なるほど。

>幾何学的な状況によっては時刻で30秒、あるいは1分以上の違いが出ることも原理的にはありえます。
それぐらいの時間オーダーならば、検出できてもおかしくない、と剛立が考えたとすれば、理屈は通りますね。でも、実際に試みてどうだったんでしょう。〔後略〕

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■2011年1月1日付の記事に対するS.U氏のコメント
http://mononoke.asablo.jp/blog/2011/01/01/5619328

〔前略〕 渡辺敏夫氏の『近世日本科学史と麻田剛立』によると『帰山録』以外の情報として、三浦梅園の孫弟子の帆足万里のそのまた弟子の勝田之徳の『窮理小言』に具体的な数値がでているということです。それには、

「麻田剛立曰、地球亜細亜〔アジア〕墨瓦蝋泥加〔メガラニカ〕二洲最大其洲中央値最高、故月食時、二洲中央所映処微凸不円、今按亜細亜唐氷山等地最高、若高於海面二十里許、相当十二三秒、此以正映時而言、斜即減少也」

とあり、剛立の数値として、地球の高山(唐氷山はヒマラヤか)は海抜20里もあってよいと考えるならば、月食で観測にかかっても良いかもしれません。80kmの出っ張りなら地球影で30秒角くらいにはなりますので「相当十二三秒」は多少数値があいません。

 次にこの月食がいつの月食かですが、剛立の観測記録「麻田家両食実測」を見るに、1778年以前で、剛立と片岡直次郎の実測が載っている月食で該当しそうなものは、1775年閏12月15日(新暦では1776年2月4日)だけです。これは地球影のほぼ中央を通った皆既食で、特に南極部分が月に斜めかかった現象ではなかったようです。剛立の観測記録はおもに観測数値しか書かれていないので、彼の考えたことはわかりません。

 「墨瓦蝋泥加洲」というのは、現在のオーストラリア大陸を含む仮想的なかなり広い大陸だったので、けっこう南半球の低緯度まで伸びていると思っていたのかもしれません。

   ■   □   ■

どうでしょう、語り出すとどんどんディープになって行きますが、天文学史の周辺には十分語られざる話題がまだまだ多いのです。そして、いずれも滋味豊かです。

上で記したように、実際には無理だとしても、「望遠鏡で月食を観測すれば、そこに遥か異国の高山が見えるはずだ!」というのは理論的には筋が通っています。そのことを思い付いたときの剛立翁の胸の高鳴りやいかに。その興奮がこちらにも伝わって来るようです。

天文学史とは、一面では人間の想像力の歴史でもありますね。
星と人との関わりは本当に興味深いと改めて思います。

(なお、この話題、今後追加情報があれば、随時この記事に追記していきます。)

涼は南にあり2010年09月01日 19時02分37秒

今日も画像なしです。

9月になっても暑いですね。
今年は、いろいろな暑さ記録を更新した、規格外れの夏だったようです。
私は夏は好きですが、暑さはそれほど好きでもないので、なんとかならんものかと思うのですが、なんともなりません。

では、なんともならない私は、9月を迎えていったいどうしたか?

 (答) 南極の地図を買いました。

買ったのは、南極点がまだ未征服だった頃の、古い南極大陸の絵図。
それが届くころには、日本もちょっとは涼しくなっていることを期待します。

南半球は、これから春。
昭和基地は現在マイナス20度ぐらいだそうです。