或るパリの博物館2017年07月15日 14時31分50秒

真実とは純粋で単純なものだ…と、私なんかは単純に思ってしまいます。

でも、さっき古書を探していたら、ふと「真実が純粋であることは滅多になく、単純であることは決してない(The truth is rarely pure and never simple.)」という、文学者オスカー・ワイルドの警句が画面に表示されました。

たぶん、これは「真実」と、どれだけの距離で向き合うかにも拠るのでしょう。
すなわち、たいていの真実は遠くから見れば単純だし、近くから見れば複雑なものです。いずれにしても、ワイルドの言葉は半面の真理を含んでいます。

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さて、机上のモノがゴチャゴチャになってきたので、少しずつ片付けなければなりません。そのためには、記事を書くのがいちばんです。記事にすれば、自分の中で区切りがついて、安心して本来あるべき場所にしまえるからです。

そんなわけで、少しずつ記事を書いてみます。


「パリ天文台」で検索していたら、上のような絵葉書が売られているのを見つけました。
さすがにこれは天文台の光景ではないだろう…とは思いましたが、細かい説明が何もないので、謎のような気分を引きずりながら購入しました。


この空間の正体は、絵葉書の裏面を見て、ようやく判明しました。
(販売ページには裏面の写真がありませんでした。)

これは、パリ天文台からリュクサンブール公園へと抜ける「オブセルヴァトワール(天文台)通り」沿いにある、「パリ大学薬学部 生薬博物館」の内部の光景だったのです。

そうと分かってみれば、この謎めいた空間も何ら謎ではありません。


机上の古風な顕微鏡。
棚に収められた無数のガラス壜。


天井近くに掲げられた掛図や版画。


窓から差し込む弱い光に照らされて森閑とした室内。
――確かに謎ではないですが、でもやっぱり謎めいたものが残ります。

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ところで、絵葉書の裏面を見て、ちょっと思い出したことがあります。


説明書きの一部がインクで消されていますが、よく見ると「エミール・ペロー」の名前が見えます。この名は「天文古玩」でも過去に1回登場しています。

博物学の相貌

2年前の自分は、パリ自然史博物館を写した絵葉書の宛先に注目して、
「宛名の方は、当時パリ大学薬学部(Faculté de Pharmacie)で教鞭をとっていたエミール・ペロー教授(Emile Perrot、1867-1951)で間違いなかろうと思います」
と書きました。

そして、ペロー教授の名前の脇にある、「PARIS」というのは、地名のパリではなく、彼の後任にあたる、ルネ・パリ教授(René Paris、1907-1988)を指しています。

想像するに、この絵葉書はペロー教授の在任中に作られ(いかにも石版絵葉書っぽいですが、実際は網点印刷なので、製作は1930年頃と思います)、教授が退官後もそのデッドストックが教室に残されており、後任のパリ教授が、代わりに自分の名前をスタンプで押して、書簡用に使っていたのじゃないかと思います。

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パリ教授は、1975年、この博物館の歴史についてまとめた文章を書いています。

■Le Musée de matière médicale de la Faculté de Pharmacie de Paris

フランス語なので読み難いですが、最後に英文の要約が付いているので、そこだけ訳してみます。

「パリ大学薬学部 附属薬品博物館」

 パリ大学薬学部 附属博物館の起源は、ラルバレート街(rue de l’Arbalète)にあった薬学校(School of Pharmacy)のコレクションに由来し、それはさらに薬学カレッジ(College of Pharmacy)(1777)や、同じ街路にあった博物収蔵室(Cabinet of Natural History)(1763)から受け継いだものである。
 
 1882年以降、これらのコレクションは、G. プランション教授(G. Planchon、1866-1900 〔※年代は教授在任期間〕)の手で、現在の建物に収められたが、その中にはプランション教授の前任である、N. J. B. ギブール教授(N.-J.-B.〔Nicolas Jean Baptiste〕Guibourt、1832-1866)が収集した標本類も多い。

 この作業は、その後もE.ペロー教授(E. Perrot、1900-1937)や、M. マスクレ教授(M. Mascré、1937-1947)、そして1947年以降はR. パリ教授によって続けられてきた。

 現在、同博物館が所蔵する生薬標本は2万2千種類に及び、その多くが植物由来のものである。  〔※以下、コレクションの概説がありますが省略〕

これを読むと、パリ教授がペローら歴代の教授に深い敬意を払い、王朝期から続くそのコレクションをめぐる歴史に、自分も名を刻んだことを、とても誇りに思っていたことが感じられます。

学芸は一朝一夕に成らず。
学問とはこうあらねばならない…と、改めて思います。

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1枚の絵葉書でも、仔細に見れば、いろいろな物語が見えてきます。
まさに「The truth is never simple.」なのですが、しかしこんなふうにこだわっていては、机の上は一向に片付かないので、もう少しサラサラと行くことにします。

夜明けのプラネタリウム2017年06月07日 06時58分02秒

暗い夜が明け、鳥たちのさえずりが静かに聞こえます。
美しい朝焼け空を背景にしたブール・プラネタリウム。


プラネタリウムが目覚めると同時に、星たちは眠りにつき、今度は星々の見る夢が、はなやかに円天井に投影される番です。もうすぐ「夜の幻」の上演が始まり、子どもたちの歓声が、にぎやかに聞こえてくることでしょう。

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…というふうに書いたら、一連の記事がきれいにまとまりそうですね。

でも、さっき方位を確認したら、ブール・プラネタリウム(現・ピッツバーグ子どもミュージアム別館)の建物は、南側が正面で、絵葉書に描かれている彩雲は、北の空に浮かんでいる格好になります。したがって「朝焼け空」と見なすのは一寸きびしいかも。

それに、上の絵葉書は過去記事(http://mononoke.asablo.jp/blog/2009/10/27/)の単なる使い回しに過ぎません。現実はなかなか思い通りには御しがたいです。


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▼閑語(ブログ内ブログ)

 織田がつき 羽柴がこねし 天下餅
  座りしままに 食うは徳川

安倍政権がいよいよ泥船化し、おそらく党内には「我こそ徳川たらん」と、情勢の見定めに余念のない御仁もチラホラいることでしょう(すでに観測気球らしきものも見受けられます)。しかし、「あっさり明智となって終わるのは御免だ…」ということで、さまざまな駆け引きが、水面下で必死に行われているように想像します。

こういうとき、世間が「安倍さん以外なら誰でもいい」という倦み疲れた気分に覆われていると、思わぬ奸雄・梟雄(かんゆう・きょうゆう)にしてやられる可能性があります。
「いざ!」と名乗りを上げた人を英雄視する前に、その心底をよくよく見定める必要があると、これは強い自戒を込めて思います。

真夜中のプラネタリウム2017年06月05日 22時37分29秒

ブール・プラネタリウムの第2弾。
昨日とほぼ同じ構図ですが、これまたガラッと雰囲気が変わって、こちらはモノトーンの闇が支配する光景です。


今宵は星の光も地に届かず、空に雲がうねっているのが見えるのみ。
楽しいはずのプラネタリウムを、なぜこれほどまでにダークな存在として描いたのか?
その真の意図は不明ですが、この背景を描いた画家は、おそらくプラネタリウムを「夜の世界の住人」としてイメージし、そのようなものとして視覚化したかったのでしょう。

たしかにプラネタリウムは、「人工の夜」を作り出す装置ですが、だからこそ本来は、「昼の世界の住人」であるべきで、その辺のイメージの混乱がプラネタリウム草創期にはあったのかなあ…と、そんなことをチラと思いました。


裏面の解説を見ると、このプラネタリウムが、当時全米に5館しかなかったうちの1つであること、そしてその建設には110万ドルの巨費が投じられたことを、誇らしげに書いています。

ブール・プラネタリウムの建設は、大富豪ヘンリー・ブール氏の篤志に加えて、多くのピッツバーグ市民の協力があってこその壮挙であり、ここにもまた希望に満ちた「アメリカの夢」を見てとることができます。

しかし―。
その後のブール・プラネタリウムのたどった足取りを記したのが以下の記事で、読み返すと、やっぱり「夢」を見続けるのは、なかなか難しいことだなあ…と感じます。


■ブール・プラネタリウム…アメリカの夢、理科少年の夢。(前編・後編)

夜のプラネタリウム2017年06月04日 10時08分48秒

1939年、ニューヨーク万博でプラネタリウムを開設する計画が頓挫したこの年、無事開館にこぎつけたプラネタリウムがあります。

それがピッツバーグのブール・プラネタリウム


昨日の絵葉書同様、これも開館と同時期に作られたリネンタイプの絵葉書ですが、そこに漂うムードはまったく異なります。昨日のにぎやかさに比べて、こちらは人っ子一人いない、無人のプラネタリウム。何だか静かすぎて怖いぐらいです。


森閑とした夜のしじま。
この無音の世界で活動するのは、青くまたたく星たちのみ。

昨日のニューヨーク万博のプラネタリウムは、現実のようでいながら、はかない幻に過ぎませんでした。ブールの方は確かな現実のはずなのに、やっぱりどこか夢で見る光景めいて、いっそ超現実的な感じすらします。

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プラネタリウムが寝静まる頃、空には星が輝き出します。
夜空の星こそ、プラネタリウムが見る夢なのかもしれません。


ニューヨーク、夢のプラネタリウム2017年06月03日 16時45分57秒

勢いでプラネタリウムの絵葉書をさらに載せます。


1939年のニューヨーク万博(New York World's Fair of 1939)のパビリオンとして作られた巨大なプラネタリウム。
なんだかヒロ・ヤマガタの絵のような、カラフルな祝祭ムードにあふれています。

(絵葉書の地紙は、当時流行ったリネン(布目)調)

円天井は夜空を欺く星々をちりばめ、ドームの外では巨大な星条旗がはためく、これぞ世界に冠たる「星たちが輝くところ(WHERE STARS WILL SHINE)」。

アメリカの古いプラネタリウムといえば、まずはシカゴのアドラー(1930)、次いでロサンゼルスのグリフィス(1935)、そしてニューヨークのヘイデン(1935)が御三家で、それらに続くのが、このプラネタリウムということになります。
まことに壮大な、夢のような星の殿堂。

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…と最初は思ったものの、調べてみると、どうも勝手が違います。
いくら検索しても、このプラネタリウムに関する情報が見つからないのです。

さらによくよく話を聞いてみると、この絵は計画段階のイメージ図に類するもので、実際に開設されたパビリオンは、直径55メートルの球体建築「ペリスフィアPerisphere」と、高さ186メートルの高塔「トライロンTrylon」から成る、ひどくモダンな姿に変身していたのでした。


そして展示内容も、夜空を鑑賞するプラネタリウムから、夢の未来都市のジオラマへと変更され、まあそれはそれで楽しかったでしょうが、結局、この絵葉書に描かれたプラネタリウムは、文字通り「夢のプラネタリウム」として終わった…というのが、この話のオチです。

ちなみに、現在、世界最大のプラネタリウムである名古屋市科学館の球形ドームが直径35メートルですから、かつてのペリスフィアがいかに大きかったか想像できます。こんなプラネタリウムが本当に作られたら、すごいでしょうね。

(撮影・名古屋太郎。Wikipediaより)

A Dreamy Blue Night2017年06月02日 21時19分27秒



机の上に置かれた絵葉書の向うに広がる青い夜景。
白亜のドームと見渡す限りの光の海。


ドームの前を行き交う車が残した光曳。

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1935年にオープンした、ロサンゼルスのグリフィス天文台
ご覧のように都市の真ん中にある天文台ですから、星を眺めるには不適で、「天文台」とは名乗っていても、ここはプラネタリウムがメインの観光天文台です。

それにしても、この夢のような光景を見ると、「夜空の星も美しいが、地上の星もまた美しい」と、単純素朴に思います。

この絵葉書、ごく最近の景色のようにも見えますが、実際には1950年代のものですから、同時代の日本のことを振り返ると、当時のアメリカが世界に見せつけた、圧倒的な豊かさを感じないわけにはいきません。

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言うまでもなく、「アメリカの夢」には、多くの光と影がありました。
今、「夢醒めてのち」、「宴のあと」を生きる人々の心情を思いやると、そこにはまたいろいろな感慨が浮かびます。

―それでも、やっぱりこれは美しい光景に違いないと、再度絵葉書を見て思います。

スピッツ式プラネタリウム vs. 日本の中学生2017年05月31日 21時35分35秒

ニューヨークにほど近い、アメリカ北東部の都市、スタンフォード(コネチカット州)。
そこに1936年にオープンした「スタンフォード・ミュージアム&ネイチャー・センター」は、児童を対象とした理科学習の聖地として構想された施設で、天文学もその主要なテーマでした。

同館にプラネタリウムが整備されたのは1958年。
そして、天文台が完成したのは1960年(メイン機材である22インチ望遠鏡の設置は1965年)のことです。

そのプラネタリウムの絵葉書が以下。


ここで注目すべきは、見目麗しいプラネタリアンではなく、彼女が操作している投影機本体です。特徴的な正12面体のフォルムこそ、米スピッツ社が手がけた「スピッツA型」のそれ。


独・ツァイス社のいかめしい機械に比べると、ちょっと素朴な感じを受けますが、この素朴さこそ、「誰でも、どこでも買える」廉価なプラネタリウムを追求した、スピッツ式プラネタリウムの真骨頂。

アーマンド・スピッツ氏による第1号機は1947年に完成し、その後1949年には会社組織となって量産体制を整えましたが、1950年代以降、米ソの宇宙開発競争が始まると、政府の科学教育振興策を追い風に、アメリカ全土の学校や地方都市に大いに普及したのでした。

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この絵葉書を思い出したのは、先日コメントを頂戴した「ふーさん」のサイトで、驚くべき記事を拝読したからです。

そこには、中学生時代のふーさんが、卓越した技巧で完成させた自作プラネタリウムの思い出が、写真とともに紹介されていました。

ふーさんの「天文とビデオと音楽と」:自作プラネタリウム

それは昭和35年(1960)に完成し、全国学生科学賞でも賞を得た堂々たる機械なので、ぜひリンク先をご覧いただきたいですが、時代的にはまさにスタンフォード・ミュージアム(とアメリカ中の町々)に、スピッツ式プラネタリウムが設置されたのと同じ時期です。

当時は日本でも、理科教育振興の声が高まっていた頃で、もちろん日米の経済格差は大きかったですが、太平洋を挟んで登場したふたつの正12面体こそ、まさに「時代の子」と呼ぶべきもの。その余香は、私の子供時代にも及んでおり、当時の科学館の匂いや、学習百科事典の紙面レイアウトなんかに、私は手放しの郷愁を感じます。


【参考】
伊東昌市(著)『地上に星空を―プラネタリウムの歴史と技術』、裳華房、1998
(スピッツ式プラネタリウムについては同書 pp.81-97を参照)

【2017.6.1付記】
文中、「正20面体」は「正12面体」の誤記ですので、訂正しました。

偽りの月、幻の夜2017年05月30日 22時10分29秒

昨日の月齢は3.3、ちょうど三日月でした。

少しぼんやりした月が、夕闇の中に浮かんでいるのを見ると、目前に迫った「六月の夜の都会の空」(by タルホ)を意識しないわけにはいきませんし、月を追いかけるようにして、今にもポン彗星が空を飛びそうな錯覚に襲われます。

下はそんな幻想の夜にふさわしい絵葉書。


巨大な望遠鏡が宙をにらむ、ベルリンのトレプトウ天文台
本ブログにはすでに何回も登場している、おなじみの場所です。
ここは市民にも公開されている一種の観光名所なので、絵葉書もずいぶん作られましたが、上に載せたのは、まだ開所まもない、1900年頃に出た石版刷り。

雲間に浮かぶ月は、ちょうど今日あたりの四日月でしょうか。
昼間の景色に手描きの月を加えて、強引に夜景に仕立てているのですが、その不自然さが、画面に一種不穏な感じを与えており、今にも怪しいドラマが幕を開けそうです。

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そんな気分に任せて、今年もまた「タルホ的なるもの」を探してみます。
首尾よくそれらが手元に届いたら、またご一緒に夜の散歩に出かけることにしましょう。

5月10日、ハレー彗星迫る2017年05月10日 07時14分55秒

フランスの大統領選が終わり、ルペン候補は辛くもしりぞけられました。
別にルペン氏に個人的な恨みはないですが、極右と排外主義のドミノが食い止められたのは良かったと思っています。

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そういえば、今から100年ちょっと前の5月も、フランスの人々は落ち着かない気持ちで、日々を過ごしていました。


言わずと知れた、1910年のハレー彗星騒動です。
上は「1910年5月19日の思い出。世界の終わり」と題して、それを風刺的に描いた絵葉書。


「ルシュール教授講演会。間近に見るハレー彗星」と銘打った路上観望会。
望遠鏡を覗く男の驚愕の表情と、筒先に迫る彗星。
さらにその脇には、「今日は最後の10日」という札が掲げられています。

絵葉書のタイトルにもあるように、この年のハレー彗星は、5月19日に太陽面を通過したのですが、その際、彗星の尾に含まれる毒ガスが地球を包み込み、人類は死滅する…という怪説が事前に流れて、人々を不安と恐怖に陥れたのでした。

そして、運命の19日を控え、ひょっとしたら人類にとって「最後の10日」となるかもしれない5月10日の光景を描いたのが、この絵葉書というわけでしょう。

まあ、「不安と恐怖」といっても、それを面白がる気持ちが多分に交じっていたのは、こういうコミカルな絵葉書が作られたこと自体が物語っています。何せ高名な学者たちは、「そんなことは決してない」と太鼓判を押していたので、人々は「人類最後の日」については懐疑的でしたが、「でも、ひょっとしたら…」という思いも捨てきれずにいたのでしょう。

要は、そういう流言が広がりやすい、不安な時代だったのだと思います。
そして、その不安の正しさは、4年後の第一次世界大戦勃発によって証明されました。

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地球脱出をもくろむ人々と、それを商売のタネにする人。

「救命浮き輪。比類なき上昇力。1個60スイスフラン。
お支払いは使用済み自動車タイヤでも可!」

日本では戦後の1947年に、この彗星騒動に取材した『空気のなくなる日』という小説が出て、その中で、人々が窒息死を免れようと、当時自転車の空気チューブがバカ売れした…という挿話が描かれました。それがさらに映画やアニメを通じて伝播するうちに、今やすっかり「事実認定」された観があります。

その事の真偽を私は知りませんが、ひょっとしたら、こんな絵葉書が元になって、それに尾ひれがついて、小説のネタになったのではあるまいか…という想像も浮かびます。

(なお、文中に「スイスフラン」とあるので、この絵葉書はフランスではなく、スイス向けに出されたもののようですが、売り手はロレーヌの人でしたから、フランスでも流通したのでしょう。)

【5月11日付記】 …と、偉そうに書いたものの、この「スイスフラン」は全くの誤解で、これは普通に「フラン」である由、コメント欄でご教示いただいたので、ここに訂正します。


風船に遺書をくくり付ける人。
そして「全部失くしちまった。これで災厄が来なかったら、いったいどうするんだ?!」とうなだれる男。

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100年後のどこかの国でも、私欲のために人々の不安を煽るだけ煽って、しれっとしている人がいますが、ああいうのは本当に罪深いと思います。

空の旅(18)…新しい旅のはじまり2017年05月06日 09時22分28秒

時代が19世紀を迎えるころ、市民社会が訪れた…と、先日書きました。
そして20世紀を迎えるころ、今度は「大衆社会」がやってきたのです。

天文趣味にかこつけて言えば、それは天文趣味の面的広がりと、マスマーケットの成立を意味していました。

18世紀の末に、お手製の望遠鏡で熱心に星を眺めていたイギリスの或るアマチュア天文家は、道行く人々に不審と好奇の念を引き起こしました(後の大天文学者、ウィリアム・ハーシェルのことです)。でも、100年後の世界では、もはやそんなことはありません。望遠鏡で星を見上げることは、すでにありふれた行為となっていました。


19世紀末~20世紀はじめに発行された、望遠鏡モチーフの絵葉書類を一瞥しただけで、望遠鏡と天体観測が「大衆化」した様相を、はっきりと見て取ることができます。
それは大人も子供も、男性も女性も、富める者も貧しい者も楽しめるものとなっていましたし、ときに「おちょくり」の対象となるぐらい、日常に溶け込んでいたのです。

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この頃、並行してアカデミックな天文学の世界では、革命的な進展が続いていました。銀河系の正体をめぐる論争は、最終的に「無数の銀河の存在」を結論付けるに至り、宇宙の大きさは、人々の脳内で急速に拡大しました。また、この宇宙を形作っている時間と空間の不思議な性質が、物理学者によって説かれ、人々を大いに眩惑しました。そして、高名な学者たちが厳かに認めた「火星人」の存在。

まあ、最後のは後に否定されてしまいましたが、そうしたイメージは、見上げる夜空を、昔の星座神話とは異なる新たなロマンで彩ったのです。

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宇宙への憧れの高まり、新たな科学の時代に人々が抱いた万能感、そして実際にそれを裏付ける技術的進歩―。その先にあったのは、宇宙を眺めるだけではなく、自ら宇宙に乗り出そうという大望です。


銀色に光るロケットと、「ロケット工学の父」ツィオルコフスキーの像。
(この像は既出です。http://mononoke.asablo.jp/blog/2014/08/27/)。

(像の台座部分拡大)

ツィオルコフスキー自身は、自ら「宇宙時代」を目にすることはありませんでしたが、新しい時代の象徴として、これをぜひ会場に並べたいと思いました。

(ふと気づきましたが、今年はツィオルコフスキー生誕160周年であり、スプートニク打ち上げ60周年なんですね。「宇宙時代」もようやく還暦を迎えたわけです。)

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こうして旅人は、現在、我々が立っているところまでたどり着きました。
長い長い空の旅。

ここで、この連載の第1回で書いたことを、再度そのまま引用します。

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1920~30年代に、ギリシャの学校で使われた天文掛図。
その傍らには、私の思い入れが、こんなキャプションになって添えられていました。

 「古代ギリシャで発達した天文学が、様々な時代、多くの国を経て、ふたたびギリシャに帰ってきたことを象徴する品です。天文学の長い歴史の中で、惑星の名前はラテン語化されて、木星は「ジュピター」、土星は「サターン」と呼ばれるようになりましたが、この掛図ではジュピター(木星)は「ゼウス」、サターン(土星)は「クロノス」と、ギリシャ神話の神様が健在です。」

この掛図を眺めているうちに、ふと上の事実に気づいたとき、私の心の中でどれほどの長い時が一瞬にして流れ去ったか。「やっぱり、これは旅だ。長い長い旅なんだ…」と、これは私の個人的感懐に過ぎませんが、その思いの丈を、しばしご想像願えればと思います。

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こうして連載の最後に読み返すと、我ながら感慨深いものがあります。

(画像再掲)

会場のあの展示の前に、10秒以上とどまった方は、ほとんどいらっしゃらないでしょうが、私の単なる自己満足にとどまらず、あのモノたちの向うに広がる旅の光景は、やはりそれなりに大したものだと思います。


ともあれ、ご来場いただいた方々と、冗長な連載にお付き合いいただいた方々に、改めてお礼を申し上げます。

(この項おわり)