5月10日、ハレー彗星迫る2017年05月10日 07時14分55秒

フランスの大統領選が終わり、ルペン候補は辛くもしりぞけられました。
別にルペン氏に個人的な恨みはないですが、極右と排外主義のドミノが食い止められたのは良かったと思っています。

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そういえば、今から100年ちょっと前の5月も、フランスの人々は落ち着かない気持ちで、日々を過ごしていました。


言わずと知れた、1910年のハレー彗星騒動です。
上は「1910年5月19日の思い出。世界の終わり」と題して、それを風刺的に描いた絵葉書。


「ルシュール教授講演会。間近に見るハレー彗星」と銘打った路上観望会。
望遠鏡を覗く男の驚愕の表情と、筒先に迫る彗星。
さらにその脇には、「今日は最後の10日」という札が掲げられています。

絵葉書のタイトルにもあるように、この年のハレー彗星は、5月19日に太陽面を通過したのですが、その際、彗星の尾に含まれる毒ガスが地球を包み込み、人類は死滅する…という怪説が事前に流れて、人々を不安と恐怖に陥れたのでした。

そして、運命の19日を控え、ひょっとしたら人類にとって「最後の10日」となるかもしれない5月10日の光景を描いたのが、この絵葉書というわけでしょう。

まあ、「不安と恐怖」といっても、それを面白がる気持ちが多分に交じっていたのは、こういうコミカルな絵葉書が作られたこと自体が物語っています。何せ高名な学者たちは、「そんなことは決してない」と太鼓判を押していたので、人々は「人類最後の日」については懐疑的でしたが、「でも、ひょっとしたら…」という思いも捨てきれずにいたのでしょう。

要は、そういう流言が広がりやすい、不安な時代だったのだと思います。
そして、その不安の正しさは、4年後の第一次世界大戦勃発によって証明されました。

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地球脱出をもくろむ人々と、それを商売のタネにする人。

「救命浮き輪。比類なき上昇力。1個60スイスフラン。
お支払いは使用済み自動車タイヤでも可!」

日本では戦後の1947年に、この彗星騒動に取材した『空気のなくなる日』という小説が出て、その中で、人々が窒息死を免れようと、当時自転車の空気チューブがバカ売れした…という挿話が描かれました。それがさらに映画やアニメを通じて伝播するうちに、今やすっかり「事実認定」された観があります。

その事の真偽を私は知りませんが、ひょっとしたら、こんな絵葉書が元になって、それに尾ひれがついて、小説のネタになったのではあるまいか…という想像も浮かびます。

(なお、文中に「スイスフラン」とあるので、この絵葉書はフランスではなく、スイス向けに出されたもののようですが、売り手はロレーヌの人でしたから、フランスでも流通したのでしょう。)

【5月11日付記】 …と、偉そうに書いたものの、この「スイスフラン」は全くの誤解で、これは普通に「フラン」である由、コメント欄でご教示いただいたので、ここに訂正します。


風船に遺書をくくり付ける人。
そして「全部失くしちまった。これで災厄が来なかったら、いったいどうするんだ?!」とうなだれる男。

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100年後のどこかの国でも、私欲のために人々の不安を煽るだけ煽って、しれっとしている人がいますが、ああいうのは本当に罪深いと思います。

空の旅(18)…新しい旅のはじまり2017年05月06日 09時22分28秒

時代が19世紀を迎えるころ、市民社会が訪れた…と、先日書きました。
そして20世紀を迎えるころ、今度は「大衆社会」がやってきたのです。

天文趣味にかこつけて言えば、それは天文趣味の面的広がりと、マスマーケットの成立を意味していました。

18世紀の末に、お手製の望遠鏡で熱心に星を眺めていたイギリスの或るアマチュア天文家は、道行く人々に不審と好奇の念を引き起こしました(後の大天文学者、ウィリアム・ハーシェルのことです)。でも、100年後の世界では、もはやそんなことはありません。望遠鏡で星を見上げることは、すでにありふれた行為となっていました。


19世紀末~20世紀はじめに発行された、望遠鏡モチーフの絵葉書類を一瞥しただけで、望遠鏡と天体観測が「大衆化」した様相を、はっきりと見て取ることができます。
それは大人も子供も、男性も女性も、富める者も貧しい者も楽しめるものとなっていましたし、ときに「おちょくり」の対象となるぐらい、日常に溶け込んでいたのです。

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この頃、並行してアカデミックな天文学の世界では、革命的な進展が続いていました。銀河系の正体をめぐる論争は、最終的に「無数の銀河の存在」を結論付けるに至り、宇宙の大きさは、人々の脳内で急速に拡大しました。また、この宇宙を形作っている時間と空間の不思議な性質が、物理学者によって説かれ、人々を大いに眩惑しました。そして、高名な学者たちが厳かに認めた「火星人」の存在。

まあ、最後のは後に否定されてしまいましたが、そうしたイメージは、見上げる夜空を、昔の星座神話とは異なる新たなロマンで彩ったのです。

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宇宙への憧れの高まり、新たな科学の時代に人々が抱いた万能感、そして実際にそれを裏付ける技術的進歩―。その先にあったのは、宇宙を眺めるだけではなく、自ら宇宙に乗り出そうという大望です。


銀色に光るロケットと、「ロケット工学の父」ツィオルコフスキーの像。
(この像は既出です。http://mononoke.asablo.jp/blog/2014/08/27/)。

(像の台座部分拡大)

ツィオルコフスキー自身は、自ら「宇宙時代」を目にすることはありませんでしたが、新しい時代の象徴として、これをぜひ会場に並べたいと思いました。

(ふと気づきましたが、今年はツィオルコフスキー生誕160周年であり、スプートニク打ち上げ60周年なんですね。「宇宙時代」もようやく還暦を迎えたわけです。)

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こうして旅人は、現在、我々が立っているところまでたどり着きました。
長い長い空の旅。

ここで、この連載の第1回で書いたことを、再度そのまま引用します。

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1920~30年代に、ギリシャの学校で使われた天文掛図。
その傍らには、私の思い入れが、こんなキャプションになって添えられていました。

 「古代ギリシャで発達した天文学が、様々な時代、多くの国を経て、ふたたびギリシャに帰ってきたことを象徴する品です。天文学の長い歴史の中で、惑星の名前はラテン語化されて、木星は「ジュピター」、土星は「サターン」と呼ばれるようになりましたが、この掛図ではジュピター(木星)は「ゼウス」、サターン(土星)は「クロノス」と、ギリシャ神話の神様が健在です。」

この掛図を眺めているうちに、ふと上の事実に気づいたとき、私の心の中でどれほどの長い時が一瞬にして流れ去ったか。「やっぱり、これは旅だ。長い長い旅なんだ…」と、これは私の個人的感懐に過ぎませんが、その思いの丈を、しばしご想像願えればと思います。

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こうして連載の最後に読み返すと、我ながら感慨深いものがあります。

(画像再掲)

会場のあの展示の前に、10秒以上とどまった方は、ほとんどいらっしゃらないでしょうが、私の単なる自己満足にとどまらず、あのモノたちの向うに広がる旅の光景は、やはりそれなりに大したものだと思います。


ともあれ、ご来場いただいた方々と、冗長な連載にお付き合いいただいた方々に、改めてお礼を申し上げます。

(この項おわり)

パドヴァ天文台2017年02月19日 11時46分25秒

長靴型のイタリア半島の付け根、東のアドリア海に面する町がベネチアで、ベネチアの西隣に位置するのがパドヴァの町です。

ガリレオは1592年にパドヴァ大学に赴任し、1610年にフィレンツェに移るまで、この町で研究に励みました。彼の最大の功績である望遠鏡による星の観測や、『星界の報告』の公刊も、パドヴァ時代のことです。


上は、そのパドヴァの町にそびえる天文台。
1910年前後の石版刷りの絵葉書。緑のインキで刷られているところがちょっと珍しい。
左側にミシン目が入っていて、使うときは切り取って使ったものらしいです。

(一部拡大)

この塔こそ、ガリレオが星の観測に励んだ場所だ…というのは、ずいぶん昔からある伝承で、「そりゃ嘘だ。第一、時代が合わない」という声を尻目に、そう信じている地元の人も少なくないそうです。

その辺の事情を、INAF(Istituto Nazionale di Astrofisica、イタリア国立天体物理学研究所)のサイトでは、こう説明しています(以下、適当訳)。

パドヴァ天文台博物館 「ラ・スぺコラ」
 パドヴァ天文台1000年の歴史と250年の観測史

 多くのパドヴァ市民(や市外の人)に伝わる誤った伝承によれば、この天文台の塔こそガリレオの塔であり、高名な科学者は、この場所から素晴らしい天文学の発見の数々を成し遂げ、人類史上初めて、天空の裡に隠された星々の特異な性質を解き明かしたとされる。これらの発見によって、彼は天文学のみならず、科学全体に革命を起こしたのだ。

 このように広く信じられてはいるものの、パドヴァ天文台を、あの有名な科学者が訪れたことはない。なぜなら、この研究機関が設置されたのは(したがって、以前から存在したパドヴァの古城の主塔上に天文台が建設されたのは)ようやく1767年のことで、ガリレオがパドヴァを離れ、メディチ家の宮廷があったフィレンツェに移ってから、約150年も経ってからのことだからである。

 ガリレオ云々は「神話」に過ぎないとはいえ、スぺコラを訪ねる人は、決して失望することはないだろう。この場所は、多くの魅力に富み、歴史・芸術・科学にまつわる濃厚な雰囲気に満たされた場所だからだ。実際、パドヴァ天文台では1776年〔原文のまま〕以来、高い水準の研究が行われてきたし、1994年からは、その最古の部分を市民に公開し、塔屋部分は天文博物館に改装されている。現在では、過去何世紀にも及ぶパドヴァの天文学者たちの仕事部屋を縫うようにして、塔屋全体が博物館となり、昔の天文機器が展示されている。

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その「スぺコラ博物館」の内部の様子は、同じINAFの以下のページで少し覗き見ることができます。

■SPECOLA, THE ASTRONOMICAL OBSERVATORY OF PADUA

展示の主力は18世紀後半~19世紀の天文機材で、ガリレオ時代のものは仮にあったとしても、他所から持ってきたものでしょう。それでも、13世紀にさかのぼる中世の塔に、古い天文機材が鈍く光っているのは、なかなか心を揺さぶられる光景です。

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以下、おまけ。ちょっと角度を変えて撮った絵葉書も載せておきます。


こちらはリアルフォトタイプなので、1920年代ぐらいの光景だと思います。




天文台とは関係ないですが、添景として写っている少年たちの姿がいいですね。
こんな塔のある古い町で子供時代を送ってみたかったな…と、ちょっと思います。



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閑語(ブログ内ブログ)

沖縄のこと、福島のこと。
そしてまた南スーダン、共謀罪、森友学園の土地取得疑惑…と、政権周辺波高し。
にもかかわらず、またぞろ強行採決をもくろむとすれば、やっぱり現政権は●っているとしか思えません。でも、今日はちょっと違うことを書きます。

今朝、ふと菅元総理の「最小不幸社会」というスローガンを思い出しました。
あれは2010年のことで、その言葉がニュースで報じられるや、「なんで『最大幸福社会』と言わないんだ」と大ブーイングでした。

当時の言説をネットで読み返すと、「考えが後ろ向きだ」、「希望がない」、「覇気がない」、「敗北主義だ」とか、あまりにも感情的な言葉が並んでいるのに、ちょっと驚かされます。菅さんへの個人的好悪をさておき、私自身は、当時も今も「最小不幸社会」の実現は、政治家として至極真っ当な主張だと思っています。

金持ちがいっそう金持ちになるべく、欲望をぎらつかせることは勝手ですが、何も政府がその後押しをする必要はありません。お上は、もっと弱い立場の人に目配りしてほしい。幸福の総量が増すことと、その分配が真っ当に行われるかは別の問題ですし、仮に一部の者の幸福が、他の者の不幸の上に築かれるとしたら、それは不道徳というものです。

理科室少年の面差し2017年01月12日 21時14分31秒

前回登場した「理科室少年」という言葉。
この言葉は、いろいろな思いを誘いますが、彼はきっと下のような面持で教場に座っているに違いありません。


彼は普段は「ふーん」と、先生の話を聞いています。
彼は実に頭の回転が速いので、「ふーん」レベルでも、そこそこ理解できてしまうのですが、彼が本領を発揮するのは、何か心の琴線に触れる話題に出会ったときです。


そのときの彼は、まさに全身を耳にして先生の話に集中する…ということはおそらくなくて、むしろ「ふーん」レベルよりも、外界への注意力は低下するはずです。


新たな観念との出会いに興奮した彼の耳に、もはや先生の話は断片的にしか入って来ず、彼の思考は急速に内界へと沈潜し、忙しく自問自答を繰り返しながら、その新たな真理に瞳を凝らす…というような仕儀と相成るのです。

その顔は一見無表情のように見えて、目には何か不思議な光を宿しているはずです。


そんな彼らが大きくなると、その一部はこんな理科の先生になって、また次代の理科室少年を育むわけです。

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この絵葉書、キャプションがないので、具体的なことは不明ですが、おそらく時は1920年代、所はイギリスの寄宿制学校に設けられた物理実験室の光景じゃないでしょうか。


右手前に写っている筒先は、物質のスペクトルを観測する分光器のように見えます。
とすると、この少年たちはかなり高度なことを学んでいることになりますが、彼らはそれを「ふーん」で済ますのか、それとも目に不思議な光を宿すのか…?

ヤドリギのクリスマスカードと或る一家の物語2016年12月24日 15時38分35秒

テロに大火。世界も日本も惨事に見舞われています。
仕事が忙しいとか、大掃除が面倒だとかブーブー言ってられるのは、実に幸せなことだと思わないわけにはいきません。

ちょっと間が空きましたが、記事の方を続けます。

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今日はクリスマス・イヴ。そして、クリスマスといえばヤドリギ
生命、太陽、炎、雷電、天空…ヤドリギはそれら全ての象徴であり、大きな呪力を秘めたものとして、冬枯れ一色の世界の再生と、生命の復活を願って、古代から冬至の時期に祀られてきました。そのかすかな名残が、クリスマスのヤドリギです。


そのヤドリギを描いた美しいクリスマスカード。
このカードは、そこにベツレヘムの星をあしらって、クリスマスムード満点です。


文字も絵柄もすべて型押しで浮き上がっている、凝った細工。


星の脇にさらに星。


この星は、差出人のカールトン氏が自らの思いを告げるために留めたものでしょう。


受取人はペンシルベニア州マンシーの町に住む、ミス・レオラ・ヴァーミリヤ。
消印を見ると、このカードは1908年のクリスマスに、ニューヨーク州オールバニーから投函されたものです。

eBayで見つけた108年前のクリスマスカード。
その背景にある物語を私が知る由もありませんが、でも知っている人に尋ねれば、きっとこんな答が返ってくるでしょう。

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おお、懐かしい。レオラのことならよく知ってるよ。

1908年…といえば、レオラはまだ18か19の娘時分の頃だ。
何?オールバニーのカールトン?その男のことは知らんな。でも、レオラの祖父さんや祖母さんはニューヨーク州の出だからな、あっちには親戚や知り合いが大勢おったさ。

レオラの祖父さんは最初、家具職人だったが、ペンシルベニアのグローヴァーで雑貨屋を始めてな。石炭油から採った「何でも治せるヴァーミリヤ特製“命の油”」なんてのまで売り出して、なかなか繁盛したもんさ。

商売っ気が強いのは、息子のエドワードも同じでね。息子の方は、グローヴァーからさらにマンシーに出て、製粉所の権利を買い取って、それから株の取引所を開いたりして、町の議会や教会の顔役になるぐらいには羽振りが良かった。つまり、それがレオラの親父さんさ。

親父は、本当はチャールズ・エドワードという2つの名乗りがあったんだが、自分ではもっぱらエドワードと名乗ってた。1908年にはたしか41歳だったはずだよ。女房のアイダは一つ違いだから、ちょうど40か。

レオラはエドワードとアイダの惣領娘でな、下に弟が3人、妹が1人おった。
中でも末の弟のチャールズ・エドワード・ジュニアは、なかなか大した奴さ。あいつはペンシルベニアの人間としちゃ最初の飛行機乗りになって、シンシナチからシカゴまで飛ぶ郵便パイロットをやっとったんだよ。時にゃ自分ん家の近くの野原に飛行機で乗り付けて、実にさっそうとした若者だった。

だが良いことは続かん。1929年の11月、その年は吹雪が早くにやってきて、奴はそれに巻き込まれて真っ逆さまさ。まだ23の若さだった。マンシーの連中は、「我が町のリンドバーグ」なぞと褒め称えたが、親父さんとお袋さんの落ち込みようときたら、まったく見ちゃおれんかった。

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…というように、会ったこともない遠い国の過去の時代の人のことも居ながらに分かってしまうネットは怖い反面、その視界の広がりには本当に幻惑されます。

今、博物趣味と旅の関わりについて考えていることがあって、時間と空間を超えた旅の物語を、モノ自身に語らせるにはどうしたらいいか?と思案しているのですが、こんなふうにモノを通して過去の1ページを覗き込むのも、ちょっとした旅かもね…と思ったりします。


【参照ページ】
レオラの一家のことは、以下のページの、それぞれ726~27頁と、1076~77頁に出てきます。


彗星が見た夢2016年11月21日 07時09分00秒

何だか辛いことが多くないですか?
ひょっとして、若い人は辛いことがデフォルトになっていて、そう感じないかもしれませんが、それはそれで辛いことです。

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古絵葉書を一枚。


タイトルに「五番街とブロードウェイ」とありますが、ニューヨークではありません。
ここはインディアナ州ゲイリーの町。

 街灯のともる、静かな夜の街角。
 窓から洩れる明かりに、人々の暮らしの確かな温もりが感じられます。
 左手には誇らしげにはためく星条旗。
 それと競い合うかのように、空一面に星がまたたき、
 ハレー彗星がスッと横切っていきます。


美しい、まるで夢の中で見る光景のようですが、これは1910年5月20日、人々の目に確かに写った光景です。

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…でも、やっぱりこれは「夢」なのかもしれません。
アメリカという国と、そこに住む人々が見た美しい夢。

以下、ウィキペディアの記述から、そのまま引用します。

 「ゲーリーは1906年、USスチール社が同地に新工場を設立したことによって誕生した。市名は同社の社長の名にちなんでいる。以来、同市はアメリカ合衆国における製鉄業の隆盛と共に隆盛を迎えた。」

ゲイリーは、当時驚くほど新しい町でした。上の絵葉書は、新しい町が生まれ、人々が最も活気と希望に満ちていた時代のものなのです。

 「しかし、ゲーリーの凋落もまた、製鉄業と運命を共にするように訪れた。その原因は、1960年代に全米の多くの都市同様、レイオフで大量の失業者が出たことであった。〔…〕今日においても、同市は失業・財政問題・犯罪といったさまざまな都市問題を抱えている。〔…〕ゲーリーは全米有数の犯罪都市として悪名が高い。モーガン・クイットノー社の調査では、同市は1997年・1998年と2年連続で『全米で最も危険な都市である』と報告された。」

ここは、アメリカのラストベルト(錆ついた地帯)のど真ん中であり、今や最も活気と希望から遠い場所です。変化を求めて、トランプ氏を熱狂的に支持したのも、この地の人々でした。

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ハレー彗星が、前々回の接近時(1910)に見た地上の光景と、前回(1986)見た光景は、驚くほど違いました。

次回(2061)は果たしてどうなっているでしょう?
夢、活気、希望…そんな言葉を、人々は口にできているでしょうか?

人間の自由意思を信じる人ならば、「どうなっているかを問うのではなく、我々がどうしたいかを問え」と言うかもしれません。私は自由意思万能論者ではないので、そこまで強い言い方はできませんが、でも、夢や活気や希望というのは、周囲に流されるときには生まれ難く、自ら決断するときに生まれることが多い…というのは、経験的に正しい気がします。

ともあれ、45年後の再開を期して、今からいろいろ夢を紡いでおきたいです。

Day and Night2016年10月15日 09時18分48秒

天文台の絵葉書は、一時期けっこう集めました。
今でもときどき買います。

でも、整理不十分でゴチャゴチャなので、ちょっと頓珍漢なこと――「発見」と言ってもいいです――が、まま起こります。

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アルバムを見ていたら、昨日のウィーン天文台の絵葉書と同じものがありました。
片方は手描きの月を加えた「夜景」、他方は明るい日差しを浴びた「昼景」という違いはありますが、元画像はまったく同じです。(版元もウィーンの「Ledermann Jr.商会」で一緒です。)


それに気づかず買い足したのは、ちょっと注意力散漫。でも、「夜の天文台」は、天文台絵葉書を集める中でも、1つのサブテーマになっているので、これはたとえ同じと知っていても買ったでしょう。

(昼間の絵葉書に合せて色味を調整したら、夜景の方は濃い水色に。昨日の画像とかなり違って見えますが、この辺が人間の眼の不思議なところです。)

月夜のほうは、1898年の9月17日付けの投函でしたが、昼間のほうは同年10月14日付け、すなわち昨日の投函で、帝国領内のアグラム(…というのは今のクロアチアの首都・ザグレブのこと)に住む、 Adéle Laný 嬢の元に届いたのは、118年前の今日でした。これまたちょっとした偶然であり、発見です。

月下の天文台2016年10月14日 21時39分46秒

今宵は丸い月が明るく眺められます。

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月に照らされた天文ドーム。


1879年に完成した、壮麗なウィーン天文台の雄姿です。
まるでいにしえの宮殿のようですが、これぞモダニズム建築が開花する以前、歴史主義全盛期に生まれた建築様式なのでしょう。

中央の大ドームに据付けられた、英国グラブ社製68cm径屈折望遠鏡は、当時、屈折式としては世界最大を誇りました。


1898年の消印が押された切手の主は、ウィーン天文台の開所式を自ら執り行った、時のオーストリア皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世です。

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ちなみに、当時の台長はエドムント・ヴァイスで、彼は天文古書ファンにはおなじみの、あの『星界の絵地図』(1892)の著者であり、その表紙を飾ったのが、ウィーン天文台とその巨大望遠鏡です。


飛行機乗りと天文台2016年08月20日 17時56分29秒

1枚の絵葉書から、またぞろいろいろ思いを馳せることにします。


石版刷りの古ぼけた絵葉書です。おそらくは1930~40年代のものでしょう。


居館風の建物の屋上に設けられた小さなドームと、そのスリットから覗く、小型の機材。

その「程のよい小ささ」が、いかにも居心地が良さそうで、「アマチュア天文家の夢の城」の印象を生んでいます。ドーム脇の屋上を飾るチェッカーボード模様も洒落ているし、周囲の緑の丘も、のどかで気落ちの良い風景を作っています。

こんなところに住んで、のんびり望遠鏡を覗いて暮らせたら…ということを考えて、この絵葉書を手にしました。

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では、この素敵な天文台はいったいどこにあるのか?


その手がかりは、言うまでもなくキャプションで、ググってみれば、これが「短焦点の彗星捜索用望遠鏡を覆う東側ドームの光景」を意味する、チェコ語ないしスロバキア語であることが分かります。


さらに裏面を見れば、これはプラハに現存する「シュテファーニク天文台(チェコ語:Štefánikova hvězdárna)」の絵葉書なのでした。

シュテファーニク天文台 (公式サイト英語ページ)
 http://www.observatory.cz/english.html

場所はプラハの中心部、以前取り上げたプラハの天文時計とは、ブルタバ(モルダウ)川をはさんで反対側になりますが、そこに広がる広大なペトシーン公園の丘の上に、シュテファーニク天文台はあります。

(ウィキペディア掲載の現在のシュテファーニク天文台の姿。右手の緑青色のドームが、絵葉書に写っている「東側ドーム」。1970年代に改装されたせいで、屋上回りの様子が、絵葉書とはちょっと違います。)

この天文台が開設されたのは1928年だそうですから、そう古い施設ではありません。
そして、専門的な研究施設というよりは、教育プログラム主体の、市民向け公開天文台です。

しかし、その中央メインドームに据付けた機材は、ウィーンの熱心なアマチュア天文家にして、有名な月面観測者だった、ルドルフ・ケーニヒ(1865-1927)の巨大な愛機を移設したものであり、現在、西側ドームには37cm径マクストフ=カセグレンが、そして東側ドームには40cm径のミード製反射望遠鏡が設置されていて、公共天文台としては十分すぎる設備を有しています。

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この天文台で見るべきものは、その機材ばかりではありません。
それが秘めている物語は、何よりもそのネーミングにあります。
「シュテファーニク」とは人の名前です。といって、この天文台を作った人ではありません。

(天文台の正面に立つ、ミラン・シュテファーニクの像。ウィキペディアより)

何でこんな飛行機乗りの格好をした人が、天文台と関係あるのかといえば、この人は飛行機乗りであると同時に、天文学者であり、そしてチェコスロバキア独立のヒーローだからです。そういう傑物を偲んで、この天文台は作られました。

さして長文ではないので、以下、ウィキペディアからそっくり引用します。

 「ミラン・ラスティスラフ・シュテファーニク(Milan Rastislav Štefánik、1880年7月21日―1919年5月4日)は、スロバキアの軍人、政治家、天文学者。第一次世界大戦中にトマーシュ・マサリクやエドヴァルド・ベネシュとともにチェコスロバキアの独立運動を率いた中心的人物。

 オーストリア・ハンガリー帝国領内(現在のスロバキア北西部)のコシャリスカーで生まれる。1900年に入学したカレル大学では、哲学の講義でトマーシュ・マサリクと知遇を得て、チェコ人とスロバキア人が協力する重要性を強く認識するようになった。カレル大学では、哲学のほか、物理学や天文学について知識を深めた。1904年にパリに移り、ピエール・ジャンサンに才能を見出され、パリ天文台に職を得る。主に太陽(とくにコロナ)の観測・研究に従事した。1912年フランス市民権を取得。

 第一次世界大戦が始まると、フランス軍のパイロットとして参加するとともに、パリを拠点にマサリクやベネシュとともにチェコスロバキア国民委員会を設立して、独立に向けた外交活動を展開した。またチェコスロバキア軍団を組織し、その指導に当たった。このような外交努力によって、協商国側からチェコスロバキアの独立に対する支持を取り付けることに成功した。

 1919年、イタリアからスロバキアへ飛行機で帰国する途中、墜落事故のため死去。」

(軍服姿のシュテファーニク。出典:http://www.tfsimon.com/stefanik-note.htm

こういうのを、単純に「カッコイイ」と形容するのは軽薄でしょう。
しかし、学問を愛し、空を愛し、そして歴史の壮図に自分を賭けた、一人の人間の生き様は、心に強く響きます。少なくとも、安逸な生活に憧れ、静かな場所で望遠鏡をのんびり眺めて過ごしたい…と願うような男(私)に、彼の生き方は強く省察を迫るものがあります。

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私はシュテファーニクのことも、チェコスロバキアの独立運動のことも、ついさっきまで知らずにいました。私だけでなく、東欧の近代史に関心のある人を除けば、この辺は知識の空白になっている方が多いのではないでしょうか。

世界は有名無名のドラマに満ちています。
まあ、ちっともドラマチックではない、平凡な日常こそ貴いというのも真実でしょうが、ときにはドラマに触れることも、日常を振り返る上で大切なことと思います。

(シュテファーニクが勤務したパリ天文台ムードン観測所の上を飛ぶ複葉機。この絵葉書は、かつてタルホ氏に捧げましたが、今一度シュテファーニク氏にも捧げます。)

再びレーニン号2016年07月22日 06時16分39秒

ついでに、レーニン号の絵葉書も載せておきます。


星のまたたく暁の空(それとも夕暮れ?)。
砕氷船レーニン号と、軍艦のシルエットから照射されたサーチライトが、ソ連のロケットを真一文字に照らしています。
何か政治的プロパガンダなのだろうと想像はつくものの、こういうのは背景が分からないと、何を表現しているか、さっぱり分からないですね。


絵葉書の下に書かれたロシア語をグーグルに尋ねたら、「Glory to the October!」の意味だと教えてくれました。すなわち、1917年に勃発した十月革命を讃える言葉だそうです。そうは分かっても、依然謎めいた感じは残りますが、おそらくソ連の技術力と軍事力が新しい時代を照らし、かつ切り拓く…みたいなイメージなのでしょう。


裏面には1961年の消印が押されており、これまた「熱くて冷たい」冷戦期の空気を今に伝えています。

まあ、強権政治の暗い記憶はそれとして、この砕氷船と青い星空の取り合わせには、たしかに涼味を感じます。