風を読む幻想の宮殿2017年09月24日 07時00分43秒

今日も絵葉書の話題です。

これはわりと最近――といっても半年前――の記事ですが、西 秋生氏の『ハイカラ神戸幻視行―紀行篇』を取り上げた際、神戸の怪建築「二楽荘」にまつわる、著者・西氏の不思議な思い出話をご紹介しました。

■神戸の夢(2)
 
(画像再掲)

それは一種の桃源探訪記でもあり、神隠し体験のようでもありましたが、その際に載せた二楽荘の画像を見て、私自身チリチリと灼けるようなデジャヴを味わっていました。

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その正体は、しばらくしてから思い出しました。
以前に見た、これまた不思議な建物の絵葉書がそれです。


パリのモンスーリ公園に立つ、イスラム風宮殿建築。
私は二楽荘のことを、「西洋趣味とオリエント趣味を混ぜ込んで建てた、奇怪な建築」と書きましたが、神戸とパリの二つの建物は、いずれも「ムーア様式」と呼ぶのが適当です。すなわち、中東とはまた一味違う、北アフリカで発展した独特のイスラム様式。

(同じ建物を裏から見たところ)

以前、盛んに天文台の絵葉書を集めていた頃、この建物は「Observatoire」の名称ゆえ、頻繁に網にかかりました。でも、気にはなったものの、さすがにこれは天文台ではないだろう…と思いました。

フランス語の「オブセルヴァトワール」(あるいは英語の「オブザベイトリー」)には、「天文台/観測所」の意味のほか、「物見台」や「展望台」の意味もあるので、左右の塔屋を指してそう呼ぶのだと、常識的に解釈したわけです。

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しかし、実はその常識の方が間違っていて、これは本当に観測施設だと知って驚きました。ただし、観測対象は天体ではなく気象、すなわち測候所です。

すぐ上の絵葉書の説明文にもチラッと書かれていますが、元々この建物は、1867年のパリ万博のパビリオンとして建てられたもので、チュニジアの首都チュニスを治めた太守の宮殿をお手本に、それを縮小再現したものです。

そして、万博終了後はモンスーリ公園の高台に移され、1876年以降、気象観測施設となり、また1893年からは、大気の衛生状態を監視する施設としても使われるようになりました。

しかし、建物の老朽化は避けがたく、1974年に観測施設としての運用が終了。
さらに1991年、ついに火事で焼け落ちて、この世から永遠に姿を消したのです。

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神戸の二楽荘が失われたのも、やはり失火が原因でした。
焼失は1932年ですから、消滅に関してはパリよりも先輩です。

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かくして彼らの姿は、今やこうして絵葉書の中にとどまるのみ―。
でも、彼らの戸口の前に再び立ち、さらにその中に足を踏み入れることだって、場合によっては出来ないことではない…西氏の経験はそう教えてくれます。


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▼閑語(ブログ内ブログ)

ここ数日の報道に接するにつけ、安倍さんにしろ、麻生さんにしろ、何とも異常な政治家であり、異常な政体だなあ…と再三驚いています。

まあ異常というより、「悪の凡庸さ」というフレーズを裏書きするぐらい凡庸な人間なのかもしれませんが、その突き抜けた凡庸さにおいて、やはり彼らは異常と呼ぶ他ないのではありますまいか。

凡庸も過ぎれば邪悪です。

ハレー彗星の思い出とともに2017年09月23日 12時32分37秒



1910年から時を経て、再び1986年にハレー彗星がやってきたときも、いろいろ絵葉書が作られました。上の絵葉書もそんな1枚。


91歳のバーベナ・ウィグルスワースの思い出。
「ありゃ1910年、ハネムーンの晩のことだよ。新郎のウィルバーとあたしは灯りを消して、コトに取り掛かったのさ。すると急に空がネオンサインみたいに光り出して、風がうなりを上げてね。鶏が二羽、窓の外を飛んでくのが見えた。かと思うと、今度は地面が揺れ出したのさ。でも、そいつは始まったかと思うと、急に終わっちまった。今思えば、ありゃハレー彗星のせいだったんだね。おかしなもんさ、あたしゃずっとウィルバーのせいだと思ってたよ…」

思わずクスッとする話です。
でも、この話の可笑しみは一体どこから来るんでしょうね。
話にひねりを利かせた、そのひねった先にある、何か人生の真実みたいなものが伝わるからでしょうか。少なくとも、単なる艶笑ではないですね。

こういうのは若い頃と、齢が行ってからとでは、ちょっと受け止め方も変わるかもしれません。

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この絵葉書は、カリフォルニアに住む或る文筆家夫婦が、友人夫婦の家で歓待を受けた礼状として(一方の奥さんがもう一方の奥さん宛てに)出したものであることが、裏面の文面から読み取れます。

双方の夫婦は当時50歳前後。やっぱり男女の機微について、感じるところがあったのでしょう。書き手の女性は、「この絵葉書、気に入った?」と書き添えています。

迫りくる大怪星2017年09月17日 07時58分01秒

これもシュナイダー氏の蒐集と重なりますが、1910年のハレー彗星騒動の絵葉書を探していたら、こんな1枚が目に留まりました。


巨大な彗星を前に、地上は大混乱。


大火球のような彗星を目にして、逃げ出す者、銃で応戦する者、絶望的な表情で抱き合う者。街中が阿鼻叫喚の渦です。
(しかし中には、気球で後を追ったり、冷静にカメラを構える者も…)


慌てた旦那さんは、たらいに隠れて顔面蒼白。
奥さんや娘さんも、てんでに戸棚や樽に飛び込もうとしています。


寝所の夫婦は、何とか傘で災厄をしのごうという算段。


Weltuntergang ―― 「最後の審判の日」。
今まさに、恐るべき災厄が地球に迫っていました…

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というふうに一瞬思ったものの、ちょっと日付が合いません。
上のキャプションは「地球に向かう彗星。1899年11月14日」となっています。
あのハレー彗星騒動よりも10年以上前です。

日付けを見て、「ははーん」と思った方も多いでしょうが、これはハレー彗星ではなくて、もう一つの天体ショー、「しし座流星群」の場面を描いたものでした。

「しし群」は、ほぼ33年周期で出現し、76年周期のハレー彗星よりも、人々の生きた記憶に残りやすい出来事です (たいていの人は、生涯に2回ないし3回、それを目撃する機会を与えられています)。この1899年は、1833年の歴史的大流星雨のあと、1866年にも相当の流星群が見られたのを受けて訪れた、天文ファンにとっては、絶好の観測機会。

ただ、それを絵葉書作者が「彗星 Komet」と呼んだのは、市井の人々の意識において、流星と彗星が、いずれも空を飛ぶ星として常に混同されがちだった…という事実を裏付けるものとして、興味深いです。

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しかし、それにしても当夜のウィーン(版元はウィーンの会社です)は、実際こんな有り様だったのか?その答は、葉書の裏面にありました。


葉書の投函日は1899年11月11日。
そう、すべては実際に流星群が出現する前に想像で画かれた絵だったのです。
流星とは似ても似つかない怪星も、実景を見たことのない者が描いたからに他なりません。

それでも、11月14日という日付けを正確に予言できたのは、天文学者がそれを計算したからです。そして、学者たちは流星群の当日も、それが「天体ショー」以上のものではないことを、冷静に告げていたはずです。(既に1866年には、「しし群」の起源が、テンペル・タットル彗星であることも判明しており、絵葉書の「彗星」の呼称は、それに影響された可能性もあります。)

したがって、この絵葉書は、世紀の天体ショーを前にして、版元がジャーナリスティックな煽りを利かせて作ったものであり、きっと作り手も買い手も、それを大いに面白がっていたんじゃないでしょうか。

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1910年のハレー彗星のときも、人々の狼狽ぶりを面白おかしく描いた絵葉書が大量に作られましたが、そちらについても、かなり割り引いて解釈する必要があると思います。(本当に恐怖のどん底にあったら、絵葉書を作ったり、買ったりする余裕はないはずです。)

なお、1899年は「しし群」の外れ年で、ウィーンっ子たちはさぞガッカリしたことでしょう(逆の意味で狼狽したかもしれません)。

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台風の中、今日から小旅行に出るので、記事の方はしばらくお休みします。

月遅れの七夕に寄せて:七夕和歌集(後編)2017年07月30日 08時11分42秒

ちょっと我ながら大胆過ぎる気がしないでもないですが、古今の七夕の歌を眺めての感想は、「七夕の歌に名歌なし」というものです。

七夕の歌は様式化が著しく、「年に一度の出逢いに焦がれる心」とか、「後朝の別れの恨めしさ」とか、やれ鵲(かささぎ)の橋がどうしたとか、ごく少数のパターンの中で、延々と類歌が作られ続け、しかもほとんど机上の空想歌ですから、これでは退屈な歌ばかり出来ても止むを得ません。

もっとも、これは文学において独創性を重んじる、現代の目で見るからそう思えるのであって、古人は詩歌の様式美とか、本歌取りの機知なんかを、もっと重視していたでしょうし、要は「名歌」の基準そのものが、時代とともに変ってしまった…という事情もあるのでしょう。

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奈良、平安、鎌倉―。
そんな遠い昔の人が、確かにその目で見た星の輝き、夜空の色。それが眼前に迫るような歌、すなわち天の川の美しさを素直に詠んだ叙景歌が、私にとっての名歌です。

上記のとおり、七夕の歌にそういう歌は少ないのですが、そんな中で目に付いた歌を書き抜いてみます(改行と分かち書き、及び〔 〕内はいずれも引用者)。

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さよふけて 天の川をそ 出て見る
おもふさまなる くもやわたると  (拾遺和歌集/よみ人しらす)

気まぐれな雲が空にかかっていないか、夜更けにつと天の川を見に屋外に出た…というだけの歌に過ぎませんが、そのさりげなさが、むしろこの歌にリアリティを与えています。

  曇り空に対する懸念。
  それを払拭するかのように、鮮やかに光る銀河。
  それを目にした作者の驚き、安堵、喜び…

そんな心理を裡にひそませつつ、初秋の涼しい空の色と、白く煙る銀河をイメージさせる、良い歌だと感じました。

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くもまより ほし合のそらを 見わたせハ
しつ心なき 天の川なミ  (新古今和歌集/祭主輔親)

前掲歌と同じく、天の川の印象を素直に詠んだ歌。織姫・彦星の人間臭いドラマよりも、天の川そのものを主役に据えた点に特徴があります。

描かれたのは「雲間の銀河」です。大気上層の状態によるのか、星々がチラチラと「静心なく」またたき、天の川が波立つように感じられた―という叙景が美しいです。

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ひこほしの 行あふかけ〔影〕を うつしつゝ
たらひの水や あまの河なミ  (正治院御百種/藤原朝臣範光)

これは風俗史的に面白い歌です。七夕の晩、たらいに張った水に牽牛・織女を映して、二星の行き合いを見守るというのは、江戸時代の絵でよく見ますが、その起こりは江戸よりはるか昔に遡るようです。

(伊東深水画、「銀河祭り」(1946)の絵葉書)

「澄んだ水に映る星影」というのが、清らかなイメージを喚起しますが、水鏡に星が映るぐらいですから、昔はよっぽど空が暗く、星が明るかったのでしょう。

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ちょっと毛色の変わったところでは、下の歌は、その着想において光っています。

天河 これやなか〔流〕れの 末ならん
空より落る 布引の滝  (金葉和歌集/よみ人しらす)

「布引の滝」は、今の新神戸駅の近くにある名滝で、古くからの歌枕。
どうどうと音を立てるこの瀑布は、天の川の遥かな末流である…と想像の翼を広げています。

(一昨年、神戸を訪れたときに見た布引の滝)

中国には、黄河をさかのぼると銀河に達するという観念があったことを、以前書きましたが(http://mononoke.asablo.jp/blog/2011/06/16/)、あるいはそれに影響されたのかもしれません。しかし、発想は似通っていても、彼方の悠然たる大河に対し、冷たいしぶきを上げる滝を持ってきたところに、両者の風土の違いがよく出ています。

これは都人の机上の作だと思いますが、それだけにとどまらない、幻想味の濃い、鮮烈な良い歌です。

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…こんなふうに挙げていくと、「名歌なし」と言いながら、結構な数の歌を挙げることになってしまうので、最後に本当のメモを書き付けておきます。

これも以前の話題ですが(http://mononoke.asablo.jp/blog/2015/07/07/)、『銀河鉄道の夜』に登場する、銀河のほとりに群生するススキの原に関連して、そのイメージは賢治以前から、日本の文芸の世界に伝わってきたものと推測したことがあります。

そのときは、江戸時代の短冊一枚からそう思ったのですが、『七夕和歌集』に他の類例を見付けたので、ここに挙げておきます。

七夕の 行あひになひく 初おはな〔尾花〕
こよひはかりや 手枕にせん  (新続古今和哥集/前大納言為定)

手枕は共寝の謂い。いかにも艶なる歌です。

入道雲と水の塔2017年07月23日 16時54分44秒

入道雲は力強いと同時に、言い知れぬ寂しさを感じさせます。
それは夏そのものの寂しさにも通じます。

夏の盛りを寂しく感じるのは、盛りの果ての終末の気配をそこに感じ、さらに自分や他者の人生をも重ねて見るからでしょう。

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入道雲の湧く夏空をバックに立つ、不思議な塔。
無人の広場にたたずむ躯体の凹凸を、くっきりとした影が強調し、明るい中にも「孤愁」という言葉が似合う光景です。

この印象的な建物は、ドイツのハンブルグ・プラネタリウム
オープンは1930年で、上の絵葉書も当時のものでしょう。

なぜこのような不思議な形のプラネタリウムが出来たかといえば、元々ここはプラネタリウムではなくて、1912~1915年にかけて建設された、ハンブルグ市の給水塔を改装して作られたからです。

(この建物の出自を示す「Wasserturm」の語。英語にすれば「Water Tower」)

とはいえ、このハンブルグ・プラネタリウム。
絵葉書を眺める私の個人的な思い入れとは別に、その後もリノベーションを繰り返し、今も大いに頑張っているようです。

ハンブルグ・プラネタリウム公式サイト(独)

(サイトのトップページには、「あなたの目標天体の座標は?」の文字が浮かび、宇宙空間を高速で飛翔する動画が流れます。)

現在の投影機は、ツァイスの最新鋭機、「Univerarium Model IX」。
ニューヨークのヘイデンや、ロサンゼルスのグリフィス、国内だと名古屋市科学館と同型機になります。

(玄関ホール天井を飾る星座のフレスコ画。独語版Wikipedia「Planetarium Hamburg」の項より。https://de.wikipedia.org/wiki/Planetarium_Hamburg

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水の惑星に立つ「水の塔」。
水気(すいき)は母なる恒星の熱によって高空へと導かれて巨大な白雲と化し、水気を慕って塔に集った人々の意識と思念は、さらに白雲をも超えて、無限遠の世界へと旅立つのです。



或るパリの博物館2017年07月15日 14時31分50秒

真実とは純粋で単純なものだ…と、私なんかは単純に思ってしまいます。

でも、さっき古書を探していたら、ふと「真実が純粋であることは滅多になく、単純であることは決してない(The truth is rarely pure and never simple.)」という、文学者オスカー・ワイルドの警句が画面に表示されました。

たぶん、これは「真実」と、どれだけの距離で向き合うかにも拠るのでしょう。
すなわち、たいていの真実は遠くから見れば単純だし、近くから見れば複雑なものです。いずれにしても、ワイルドの言葉は半面の真理を含んでいます。

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さて、机上のモノがゴチャゴチャになってきたので、少しずつ片付けなければなりません。そのためには、記事を書くのがいちばんです。記事にすれば、自分の中で区切りがついて、安心して本来あるべき場所にしまえるからです。

そんなわけで、少しずつ記事を書いてみます。


「パリ天文台」で検索していたら、上のような絵葉書が売られているのを見つけました。
さすがにこれは天文台の光景ではないだろう…とは思いましたが、細かい説明が何もないので、謎のような気分を引きずりながら購入しました。


この空間の正体は、絵葉書の裏面を見て、ようやく判明しました。
(販売ページには裏面の写真がありませんでした。)

これは、パリ天文台からリュクサンブール公園へと抜ける「オブセルヴァトワール(天文台)通り」沿いにある、「パリ大学薬学部 生薬博物館」の内部の光景だったのです。

そうと分かってみれば、この謎めいた空間も何ら謎ではありません。


机上の古風な顕微鏡。
棚に収められた無数のガラス壜。


天井近くに掲げられた掛図や版画。


窓から差し込む弱い光に照らされて森閑とした室内。
――確かに謎ではないですが、でもやっぱり謎めいたものが残ります。

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ところで、絵葉書の裏面を見て、ちょっと思い出したことがあります。


説明書きの一部がインクで消されていますが、よく見ると「エミール・ペロー」の名前が見えます。この名は「天文古玩」でも過去に1回登場しています。

博物学の相貌

2年前の自分は、パリ自然史博物館を写した絵葉書の宛先に注目して、
「宛名の方は、当時パリ大学薬学部(Faculté de Pharmacie)で教鞭をとっていたエミール・ペロー教授(Emile Perrot、1867-1951)で間違いなかろうと思います」
と書きました。

そして、ペロー教授の名前の脇にある、「PARIS」というのは、地名のパリではなく、彼の後任にあたる、ルネ・パリ教授(René Paris、1907-1988)を指しています。

想像するに、この絵葉書はペロー教授の在任中に作られ(いかにも石版絵葉書っぽいですが、実際は網点印刷なので、製作は1930年頃と思います)、教授が退官後もそのデッドストックが教室に残されており、後任のパリ教授が、代わりに自分の名前をスタンプで押して、書簡用に使っていたのじゃないかと思います。

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パリ教授は、1975年、この博物館の歴史についてまとめた文章を書いています。

■Le Musée de matière médicale de la Faculté de Pharmacie de Paris

フランス語なので読み難いですが、最後に英文の要約が付いているので、そこだけ訳してみます。

「パリ大学薬学部 附属薬品博物館」

 パリ大学薬学部 附属博物館の起源は、ラルバレート街(rue de l’Arbalète)にあった薬学校(School of Pharmacy)のコレクションに由来し、それはさらに薬学カレッジ(College of Pharmacy)(1777)や、同じ街路にあった博物収蔵室(Cabinet of Natural History)(1763)から受け継いだものである。
 
 1882年以降、これらのコレクションは、G. プランション教授(G. Planchon、1866-1900 〔※年代は教授在任期間〕)の手で、現在の建物に収められたが、その中にはプランション教授の前任である、N. J. B. ギブール教授(N.-J.-B.〔Nicolas Jean Baptiste〕Guibourt、1832-1866)が収集した標本類も多い。

 この作業は、その後もE.ペロー教授(E. Perrot、1900-1937)や、M. マスクレ教授(M. Mascré、1937-1947)、そして1947年以降はR. パリ教授によって続けられてきた。

 現在、同博物館が所蔵する生薬標本は2万2千種類に及び、その多くが植物由来のものである。  〔※以下、コレクションの概説がありますが省略〕

これを読むと、パリ教授がペローら歴代の教授に深い敬意を払い、王朝期から続くそのコレクションをめぐる歴史に、自分も名を刻んだことを、とても誇りに思っていたことが感じられます。

学芸は一朝一夕に成らず。
学問とはこうあらねばならない…と、改めて思います。

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1枚の絵葉書でも、仔細に見れば、いろいろな物語が見えてきます。
まさに「The truth is never simple.」なのですが、しかしこんなふうにこだわっていては、机の上は一向に片付かないので、もう少しサラサラと行くことにします。

夜明けのプラネタリウム2017年06月07日 06時58分02秒

暗い夜が明け、鳥たちのさえずりが静かに聞こえます。
美しい朝焼け空を背景にしたブール・プラネタリウム。


プラネタリウムが目覚めると同時に、星たちは眠りにつき、今度は星々の見る夢が、はなやかに円天井に投影される番です。もうすぐ「夜の幻」の上演が始まり、子どもたちの歓声が、にぎやかに聞こえてくることでしょう。

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…というふうに書いたら、一連の記事がきれいにまとまりそうですね。

でも、さっき方位を確認したら、ブール・プラネタリウム(現・ピッツバーグ子どもミュージアム別館)の建物は、南側が正面で、絵葉書に描かれている彩雲は、北の空に浮かんでいる格好になります。したがって「朝焼け空」と見なすのは一寸きびしいかも。

それに、上の絵葉書は過去記事(http://mononoke.asablo.jp/blog/2009/10/27/)の単なる使い回しに過ぎません。現実はなかなか思い通りには御しがたいです。


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▼閑語(ブログ内ブログ)

 織田がつき 羽柴がこねし 天下餅
  座りしままに 食うは徳川

安倍政権がいよいよ泥船化し、おそらく党内には「我こそ徳川たらん」と、情勢の見定めに余念のない御仁もチラホラいることでしょう(すでに観測気球らしきものも見受けられます)。しかし、「あっさり明智となって終わるのは御免だ…」ということで、さまざまな駆け引きが、水面下で必死に行われているように想像します。

こういうとき、世間が「安倍さん以外なら誰でもいい」という倦み疲れた気分に覆われていると、思わぬ奸雄・梟雄(かんゆう・きょうゆう)にしてやられる可能性があります。
「いざ!」と名乗りを上げた人を英雄視する前に、その心底をよくよく見定める必要があると、これは強い自戒を込めて思います。

真夜中のプラネタリウム2017年06月05日 22時37分29秒

ブール・プラネタリウムの第2弾。
昨日とほぼ同じ構図ですが、これまたガラッと雰囲気が変わって、こちらはモノトーンの闇が支配する光景です。


今宵は星の光も地に届かず、空に雲がうねっているのが見えるのみ。
楽しいはずのプラネタリウムを、なぜこれほどまでにダークな存在として描いたのか?
その真の意図は不明ですが、この背景を描いた画家は、おそらくプラネタリウムを「夜の世界の住人」としてイメージし、そのようなものとして視覚化したかったのでしょう。

たしかにプラネタリウムは、「人工の夜」を作り出す装置ですが、だからこそ本来は、「昼の世界の住人」であるべきで、その辺のイメージの混乱がプラネタリウム草創期にはあったのかなあ…と、そんなことをチラと思いました。


裏面の解説を見ると、このプラネタリウムが、当時全米に5館しかなかったうちの1つであること、そしてその建設には110万ドルの巨費が投じられたことを、誇らしげに書いています。

ブール・プラネタリウムの建設は、大富豪ヘンリー・ブール氏の篤志に加えて、多くのピッツバーグ市民の協力があってこその壮挙であり、ここにもまた希望に満ちた「アメリカの夢」を見てとることができます。

しかし―。
その後のブール・プラネタリウムのたどった足取りを記したのが以下の記事で、読み返すと、やっぱり「夢」を見続けるのは、なかなか難しいことだなあ…と感じます。


■ブール・プラネタリウム…アメリカの夢、理科少年の夢。(前編・後編)

夜のプラネタリウム2017年06月04日 10時08分48秒

1939年、ニューヨーク万博でプラネタリウムを開設する計画が頓挫したこの年、無事開館にこぎつけたプラネタリウムがあります。

それがピッツバーグのブール・プラネタリウム


昨日の絵葉書同様、これも開館と同時期に作られたリネンタイプの絵葉書ですが、そこに漂うムードはまったく異なります。昨日のにぎやかさに比べて、こちらは人っ子一人いない、無人のプラネタリウム。何だか静かすぎて怖いぐらいです。


森閑とした夜のしじま。
この無音の世界で活動するのは、青くまたたく星たちのみ。

昨日のニューヨーク万博のプラネタリウムは、現実のようでいながら、はかない幻に過ぎませんでした。ブールの方は確かな現実のはずなのに、やっぱりどこか夢で見る光景めいて、いっそ超現実的な感じすらします。

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プラネタリウムが寝静まる頃、空には星が輝き出します。
夜空の星こそ、プラネタリウムが見る夢なのかもしれません。


ニューヨーク、夢のプラネタリウム2017年06月03日 16時45分57秒

勢いでプラネタリウムの絵葉書をさらに載せます。


1939年のニューヨーク万博(New York World's Fair of 1939)のパビリオンとして作られた巨大なプラネタリウム。
なんだかヒロ・ヤマガタの絵のような、カラフルな祝祭ムードにあふれています。

(絵葉書の地紙は、当時流行ったリネン(布目)調)

円天井は夜空を欺く星々をちりばめ、ドームの外では巨大な星条旗がはためく、これぞ世界に冠たる「星たちが輝くところ(WHERE STARS WILL SHINE)」。

アメリカの古いプラネタリウムといえば、まずはシカゴのアドラー(1930)、次いでロサンゼルスのグリフィス(1935)、そしてニューヨークのヘイデン(1935)が御三家で、それらに続くのが、このプラネタリウムということになります。
まことに壮大な、夢のような星の殿堂。

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…と最初は思ったものの、調べてみると、どうも勝手が違います。
いくら検索しても、このプラネタリウムに関する情報が見つからないのです。

さらによくよく話を聞いてみると、この絵は計画段階のイメージ図に類するもので、実際に開設されたパビリオンは、直径55メートルの球体建築「ペリスフィアPerisphere」と、高さ186メートルの高塔「トライロンTrylon」から成る、ひどくモダンな姿に変身していたのでした。


そして展示内容も、夜空を鑑賞するプラネタリウムから、夢の未来都市のジオラマへと変更され、まあそれはそれで楽しかったでしょうが、結局、この絵葉書に描かれたプラネタリウムは、文字通り「夢のプラネタリウム」として終わった…というのが、この話のオチです。

ちなみに、現在、世界最大のプラネタリウムである名古屋市科学館の球形ドームが直径35メートルですから、かつてのペリスフィアがいかに大きかったか想像できます。こんなプラネタリウムが本当に作られたら、すごいでしょうね。

(撮影・名古屋太郎。Wikipediaより)