ついに解明された火星の謎2017年11月16日 07時57分27秒

エクスの謝肉祭の件もそうですが、何事も「継続は力なり」で、こんなブログでも続けていれば、以前は見えなかったものが徐々に見えてくるものです。今日も今日とて、謎が1つ解けました。

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下は以前登場した絵葉書。


女A 「あら、金星が見えるわ」
女B 「あたしの方は木星が見えるわ」
男 「おいらにゃ火星が見えるよ」

――という掛け合いの、結局何がオチになっているのか、なんで男が火星を持ち出したのかよく分からんなあ…というのが、これまで一種の「謎」でした。何だか下らない話題ですが、気になる時は気になるもので、私は過去2回までも記事にして、その「謎」を追ってきました。

■ある火星観測

■金星、木星、火星のイメージを追う

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しかし、その強固な謎も、別の絵葉書によって、ついに解明されました。

(1920年前後、ロンドンの Art & Humour Publishing 社から出たコミック絵葉書)

女 「あれは金星じゃないかしら?」
男 「ボクには火星のように見えるがね。」

そう、火星の運河論争がほぼ終結した1920年前後、当時の男性は、なぜか女性の赤い下着を見ると火星を連想し、それがまた笑いを誘うネタとして、世間に流通していたらしいのです。したがって、例の男も、女性のスカートの奥に赤い下着を発見して「火星が見える」とうそぶいたに相違なく、そうと分かってみれば、実に単純なオチです。

まあ、こんなことを100年後の現代に力説してもしょうがないのですが、いかにツマラナイなことでも、謎が解けるのはちょっと気分がいいものです。

宇宙の謝肉祭(その4)2017年11月14日 23時05分24秒

これまたエクスに登場した天文モチーフの山車。
題して、「月の恋人たち(Amoureux de la lune)」


キャプションには年次も回数も記載がありませんが、消印から1915年の出し物と分かります。


それにしても、これは何なんでしょう?
アンパンマン的な何かと、バイキンマン的な何かを、大勢の天文学者が望遠鏡で覗いている情景ですが、いったいこれは何を言わんとしているのか?

(一部拡大)

そのコスチュームとタイトルを見比べて、じっと考えた結論として、これは「太陽と月の結婚」である<日食>を表現しているのではないかと思いつきました。つまり、白いのが太陽、黒いのが月で、彼らがひたと頬を寄せ合うとき日食が起きる…という、古くからのイメージを表現した出し物という説です。

(Pinterestで見かけた出典不明の画像)

ただ、この前後にフランスで皆既日食が見られたら、話がきれいにまとまるのですが、どうもそういう事実はなくて、1912年4月17日に観測された皆既日食(+金環食のハイブリッド日食)が、ちょっとそれっぽく感じられる程度です。

(パリ天文台が行った飛行船観測による画像。

まあ、いくら100年前でも、3年前の出来事が「時事ネタ」になることはないでしょうから、これは特定の日食を表わしているというよりも、天文趣味に染まった山車の作り手の脳裏に、この年はたまたま日食のイメージが浮かんだ…ということかもしれません。

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エクスの町における「宇宙の山車」の始点と終点は不明ですが、少なくとも1910-12年と1915年に登場したのであれば、当然、中間の1913-14年にも作られたでしょうし、その前後も含め、まだまだ奇想の山車はあるはず…と睨んでいます。

今後も類例が見つかったら、随時ご報告します。(我ながら酔狂な気はしますが、まあ実際、酔い狂っているのですから仕方ありません。)

(この項いったん終わり)

宇宙の謝肉祭(その3)2017年11月13日 20時51分53秒

南仏・エクスの町の「宇宙の謝肉祭」。
ある年には、こんな幻想的な「三日月の山車」も登場していました。


このブログでは先日来おなじみの、「月にピエロ」の取り合わせ。
月の表情もいいし、星と流星の裾模様も洒落ています。

タイトルの一部が切手に隠れて見えませんが、同じ絵葉書を他でも見たので、そのタイトルは判明しています。すなわち、「ピエロの飛行家、または不可能な夢(Pierrot aviateur ou le rêve imposs)」

(一部拡大)

これまた何と文学的なタイトルでしょう。
儚くも美しい…というイメージがピッタリきます。

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些末なことながら、これまで登場した山車の登場年をここで整理しておきます。
まず、この三日月の山車の遠景には「CARNAV(AL) XXII」(第22回カーニヴァル)の看板が見えており、切手の消印は1910年です。


また、先に登場した「流れ星の天文学」は「第23回」を謳っており、


昨日の「火星と地球の交感」は「第24回」で、開催は1912年でした。


以上のことから、エクスの町のカーニヴァルは――その起源自体は非常に古いかもしれませんが――こういう山車行列でにぎにぎしく祝うようになったのは意外と新しいことで、おそらく1889年が第1回だと推測できます。

したがって、1910年のハレー彗星騒動に引っ掛けた出し物と思った「流れ星の天文学」は、実際には翌1911年に登場したもので、これが想像通りハレー彗星をモチーフにしたものだとしても、少なくとも、その騒動の渦中に、リアルタイムで登場したものではありませんでした。その点は、ちょっと訂正と注釈が必要です。


(この項さらに続く)

宇宙の謝肉祭(その2)2017年11月12日 10時51分17秒



昨日登場した、「Mars communiquant avec la Terre(火星と地球の交感)」と題されたカーニヴァルの山車。別テイクの絵葉書も購入したので、そちらも貼っておきます。

(一部拡大)

まあるい地球に覆いかぶさるように、巨大な星が接近しています。
この星が火星なのでしょう。作り物の星の中央やギザギザの先っぽには穴が開いていて、子供たちが顔をのぞかせています。そして、とんがり帽子の可愛い天文学者が、望遠鏡でそれを眺めているという趣向。

昨日も書いたように、この火星の山車が町を練り歩いたのは1912年のことです。日本でいえば、ちょうど大正元年。それにしても、この年になぜ火星の演目が登場したのでしょう?

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火星の公転周期は2年弱。いっぽう地球の公転周期は1年ですから、火星がゆっくり公転している脇を、地球が2年2か月にいっぺんの割合で、シュッと追い抜く格好になります。この追い抜く瞬間が、地球が火星に最も接近する時で、天文学用語でいうところの「衝(しょう)」です。

地球や火星の軌道がまん丸なら、地球と火星が最接近する距離はいつも同一のはずですが、実際には楕円ですから、衝の際の距離も、そのタイミングによってずいぶん伸び縮みします。両者が目立って接近するのが、いわゆる「火星の大接近」で、近年の大接近の例は、あすとろけいさんの以下のページに載っています。


リンク先の表によれば、1909年にかなり目立つ大接近があったことが分かります。ただ、それにしても「歴史に残る超大接近」というほどではありませんでした。

それでも、この時期に、火星がお祭りに登場するぐらい世間の注目を集めたのは、この1909年に行われた観測が、くすぶり続ける火星の運河論争に改めて火をつけて、いよいよ1870年代末から続く「火星の運河をめぐる三十年戦争」の最終決戦が幕を開け、学界における論争が、新聞報道を通じて市民に伝わったからだ…と想像します。

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そもそも火星の運河論争は、1877年に勃発しました。
この年も火星大接近のときで、火付け役はイタリアのジョヴァンニ・スキャパレリ(1835-1910)です。このときスキャパレリは、口径20cmの望遠鏡で火星を観測し、翌1878年に、彼がそこで見たとする「運河」について、大部な報告を行ないました。

続く1880年代、このスキャパレリと、その説に惚れ込んだフランスのカミーユ・フラマリオン(1842-1925)が、運河説を大いに唱道しました。さらに下って1890年代には、視力の衰えたスキャパレリに代わって、アメリカのパーシヴァル・ローエル(1855-1916)が参戦し、運河派は大いに気勢を挙げたのです。

(スキャパレリの火星図。http://mononoke.asablo.jp/blog/2013/10/21/

それに対して、イギリスのナサニエル・E.グリーン(1823-1899)エドワード・モーンダー(1851-1928)といった天文学者は、「それは目の錯覚に過ぎない」という論陣を張りました。(といっても、これは国別対抗で争ったわけではなく、各国で運河派と錯覚派が入り乱れていたのです。)

この論争は、結局のところ「見える」「見えない」の水掛け論になりがちです。

錯覚派の「もし運河があるなら、運河派の観測者が互いに独立にスケッチをした時、そこに共通した図が描かれるはずなのに、あまりにも結果が食い違うじゃないか」という主張は、大いに筋が通っていましたが、「火星の知的生命」に対する憧れは、あまりにも強く、また運河派領袖の世間的名声は大したものでしたから、錯覚派が運河派を圧倒することは、なかなか困難だったのです。

しかしその間にも、火星の分光学的観測に基づいて、火星に水が存在することを否定する論が強まるなど、学界における運河派包囲網は、ひそかにせばまりつつありました。そんな中で迎えたのが1909年の大接近です。

以下、マイケル・J.クロウの『地球外生命論争』(邦訳2001、工作舎)から引用します(引用に当り、漢数字を算用数字に置き換え、文中の傍点部は太字で表記しました)。

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1909年のすばらしい火星の衝は、1909年にほぼ90の、そして1910年にも同数の出版物の洪水をもたらした。アントニアディは24あるいはそれ以上の論文を著した。〔…〕32.7インチのムドン屈折望遠鏡で火星を観測し、〔…〕1909年12月23日付けの論文の中で、次のように主張している。巨大望遠鏡の高解像度の下で運河が消滅したことから、次の結論が正当化される。

[火星の]真の外観は、…地球や月の外観と似ている。
②良い視界の下では、幾何学的なネットワークのいかなる痕跡も存在しない。
そして、
③惑星の「大陸部分」は、非常に不規則な外観や明暗度を持った無数の薄暗い点によって斑になっている。その散発的な集まりは、小さな望遠鏡の場合、スキアパレッリの「運河」組織に見える。


そして彼は「われわれは疑いもなく、いまだかつて一つの真正の運河をも火星に見たことはない…」という。 (上掲書、pp885-6)

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運河派に強力な一撃を加えたのが、誰あろう、かつての運河派の一人で、フラマリオンの腹心でもあったウジェーヌ・アントニアディ(1870-1944)であり、彼が拠って立ったのが、パリ近郊のムードン天文台であった…ということが、フランスの人々に一種独特の感慨をもたらしたんではないかなあ…と、これまた想像ですが、そんな気がします。そして、そういう一種独特のムードの中で、エクスの町の人は、あの火星の山車を作り、そして歓呼の中、練り歩いたわけです。

運河があればあったで、そして無ければ無いで、火星はこの間常に地球に影響を及ぼしてきました。まさに、それこそが「Mars communiquant avec la Terre(火星と地球の交感)」です。


(エクスの絵葉書の話題はまだ続きます)

宇宙の謝肉祭(その1)2017年11月11日 16時33分19秒

最近、立て続けに妙な絵葉書を目にしました。

「妙な」といっても、同じ被写体を映した絵葉書は、以前も登場済みです。
それは、南仏・エクス(エクス=アン=プロヴァンス)の町のカーニヴァルで引き回された、星の形をかたどった不思議な山車を写したものです。

(画像再掲。元記事は以下)

天の星、地の星


エクスはマルセイユのすぐ北にあり、これぐらいの縮尺だと、その名も表示されないぐらいの小都市です。でも、その歴史はローマ時代に遡り、往時の執政官の名にちなみ、古くは「アクアエ・セクスティアエ(セクスティウスの水)」と呼ばれたのが転訛して「エクス」になった…というのを、さっきウィキペディアで知りました。

その名の通り、水の豊富な土地で、今も町のあちこちに噴水が湧き出ているそうです。そして、多くの高等教育機関を擁する学園都市にして、画家・セザンヌの出身地としても名高い、なかなか魅力的な町らしいです。

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今回まず見つけたのは、上と同じ山車を写した、別の絵葉書でした。


まだ芽吹きの時期には早いですが、いかにも陽の明るい早春の街をゆく山車行列。
道化姿の男たちと、馬に乗ったとんがり帽子の天文学者に先導されて、大きな星形の山車がしずしずと進んでいく様は、上の絵葉書と変わりません。こちらも「流れ星の天文学(L'astronomie sur l'étoile filante)」と題されていますから、これがこの山車の正式な呼び名なのでしょう。

(一部拡大)

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で、何が「妙」かといえば、この絵葉書に続けて、偶然こんな絵葉書も見つけたのでした。


こちらは、「Mars communiquant avec la Terre(火星と地球の交感)」と題された、これまた星形の山車です。そして、この絵葉書には「1912年」という年号が、欄外に明記されています。

(一部拡大)

これまで、他の町でも行われた同様の催しを手がかりに、冒頭に登場した山車は、1910年のハレー彗星接近をテーマにした、一種の時事ネタ的演目だろうと推測して、これまで疑うことがありませんでした。でも、この火星の絵葉書を見つけたことで、上の推測は再考を迫られることになったのです。

要するに、エクスの町のカーニヴァルには、天文モチーフの山車が複数登場しており、その登場時期もハレー彗星騒動があった1910年に限らない…ということが、この葉書から判明したわけです。

そういう視点で探してみたら、確かにエクスのカーニヴァルには、他にも天体を素材にした山車がたびたび登場していました。他の町はいざ知らず、少なくとも20世紀初頭のエクスの町では、天文モチーフの山車が毎年のように作られ、人気を博したようです。何だか不思議な町です。

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関連する他の絵葉書のこと、そして、この1912年に登場した火星の山車の時代背景について、次回以降考えてみます。

(この項つづく)

ピエロも消え、若者も消えた2017年10月28日 09時43分03秒

本来の天文趣味からずいぶん遠いところまで来てしまいましたが、ついでなので、『月の光に』に関して、もう1つだけ古絵葉書を載せます。

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これも「Au Clair de la lune」と題されていますが、ここにピエロの姿はなく、登場するのは少年と少女のみ。内容も、例の歌とはあまり関係なさそうなので、この「Au Clair de la lune」は、特定の歌のタイトルというより、ごく一般的なフレーズとして使われているのでしょう。

(典型的なセピアの絵葉書。周辺の銀化が進んでいます。)

さて、その内容なのですが、これまたよく分かりません。
手元にあるのは5枚ですが、これでコンプリートなのかどうかも不明です。
セリフが一切ない無言劇なので、例によって、適当に個人的解釈を施しつつ、その情景を一瞥してみます。

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月夜の出会い。目が合ってはにかむ女の子。


「さあ、おいでよ」と、頼もしく手を引く男の子。


睦言とキス。


斜に構えて煙草をふかす男の子。酒瓶を抱えて見上げる女の子。


男の子はいつの間にか姿を消し、酒瓶を抱えて独り煙草をくゆらす女の子。
その足下に「Fin de siècle(世紀末)」の文字。

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女の子が途中から眼鏡をかけていますが、これは女性が齢を重ねた記号的表現でしょう。全体として、男にたぶらかされて、すさんでしまった女性の半生を描き、「これぞ頽廃の世紀末なり!」と揶揄する内容なのかな…と想像しました。

まあ、あまりにも演者の二人があどけないので、ちょっとどうなのと思わなくもありませんが、こういう趣向が当時は受けたのかも。

(下界のドラマを見下ろす冷笑的な月)

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なお、この絵葉書はアドレス欄と通信欄を仕切る境界線があるので、絵葉書の時代判定のメルクマールからすると、1904年以降のものということになるのですが、内容的には19世紀末のものとおぼしく、ちょっと時代は曖昧です(裏面だけ後から刷り替えたかもしれません)。いずれにしても、20世紀初頭を下るものではないでしょう。

(絵葉書の裏面)

ピエロが消え、男の子も消えました。
そればかりではなく、女の子も、当時この絵葉書を売った人も買った人も、今ではみんな消えてしまいました。私だって遠からず消えるでしょう。

残るのは月ばかりです。

月に消えた若者2017年10月25日 22時14分43秒

昨日のリンク先のアニメーションでも明らかなように、『月の光に』の歌に登場するのは、若者、その友人であるピエロ、そして若者が恋する女性の3人のはずです。

でも、紙物の世界では、なぜか若者が消えて、直接ピエロが女性と接している絵柄が目につきます。


上の絵葉書も、『月の光に』に取材したものらしいですが、ピエロと少女が妙に睦まじげな様子です。いったい若者はどこに消えたのでしょう?


その秘密を知っているのは、この一見無邪気なピエロとお月様だけです。
(あるいは少女も知っているとか?)

流れる時の中で天文時計は時を刻む2017年10月19日 21時10分29秒

今日も天文時計の古絵葉書の話題を続けます。


この2枚の絵葉書は同じ天文時計を写したものです。
左は1907年の差出しで、作られたのも同時期でしょう。
右はやや下って、1929年の消印が押されています。でも、写っている人々の服装からすると、もうちょっと古い時代に撮られた写真を元にしているように見えます。

(天文時計に仕込まれたからくり人形を見物する観衆)

印刷技法に関して言うと、1907年の方は前回のリヨンの絵葉書と同じく、黒・水色・オレンジの3色石版。いっぽう1929年の方は、黒の網点(ハーフトーン)印刷に、水色とオレンジの2色の石版を刷り重ねてあります。(いずれの絵葉書も、現代のフォトクローム絵葉書のように、つやつやしていますが、これはニス引きのような表面加工が施されているせいです。)

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前回、「古絵葉書に写った古物には、いっそう古物らしい表情がある」と書きました。
この絵葉書を見ると、一層そのことを痛切に感じます。


この天文時計は、チェコの歴史都市、オルミュッツ(Olmütz)の町にあります。
ただし、オルミュッツというのはドイツ語による名称で、現在の名乗りはチェコ語で「オロモウツ」。―この名称の変化からも、チェコという国と民族が、周辺の大国の間で絶えず揺さぶられてきた歴史を感じます。

土地の名称ばかりではありません。
実を言えば、このオロモウツの市庁舎に付属する天文時計は、今はもうありません。いや、あるにはあるのですが、この絵葉書のような姿では残っていません。

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以下、ポスト共産主義の東欧社会を研究している、クリステン・ゴッズィー氏のブログより。


「手元にモラヴィア地方のオロモウツ市で撮った写真が何枚かある。その中には、おそらく1422年に建造された、有名な天文時計の写真も幾枚か含まれている。

1945年の5月、ナチスがオロモウツから撤退する際、彼らはこの中世の時計に火を放ち、破壊した。時計は、チェコスロバキア共産主義体制下の初期に、社会主義的リアリズム様式に基づき再建され、聖人や諸王を表現した以前の聖像は、すべて労働者や農民の像に置き換えられた。

何と融合的な時計だろう!」

(現在の時計の姿。英語版Wikipedia「Olomouc」の項より。上記ゴッズィー氏のページにも、時計の細部を写した写真が載っています。)

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古い大きな時計。その足下を往来した人々。そして生活の証。


今となっては全てが幻のようです。
そして、ここで再び「物に歴史あり」と思わないわけにはいきません。

リヨンの天文時計2017年10月17日 20時30分43秒

昨日から冷たい雨が降り続いていましたが、今日はきれいな青空を眺めることができました。明るい日差しが嬉しく感じられる季節になりました。

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昨日届いた絵葉書。
フランス南部の都市リヨンに立つ、サン・ジャン大聖堂(洗礼者・聖ヨハネに捧げられたカテドラル)に置かれた天文時計です。


この角度から撮影された古絵葉書は無数にありますが、彩色されたものはわりと少ないと思います。

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まあ、ここは観光名所なので、古絵葉書に頼らなくても、ネットで画像はいくらでも見ることができます。例えば、高精細画像としてパッと目に付いたのは以下のページ。

Saint Jean Cathedral astronomical clock (by Michael A. Stecker)
あるいは動画だと、以下のものが、時計の細部や動きをよく捉えています。


Horloge astronomique de St Jean

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とはいえ、古絵葉書に写った古物には、いっそう古物らしい表情があるというか、何となく奥ゆかしさが感じられます。


この絵葉書、色彩感覚がちょっと独特ですけれど、これは手彩色ではなくて、墨版(黒一色の版)に水色とオレンジの色版を重ねた、3色刷りの石版絵葉書だからこそ生まれた効果です。

当時(1900年代初頭)は、まだカラー印刷の黎明期で、石版に合羽刷り(ステンシル)で色を載せるとか、墨版を網点で仕上げ、そこに石版を3色重ねるとか、仔細に見ると、その技法は実に多様で、これも古絵葉書の1つの鑑賞ポイントだと思います。

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さて、キャプションによれば、この時計は1572年にニコラス・リッピウス(Nicolas Lippius)という人が作ったと書かれています。

でも、この時計について検索していたら、ウィキペディアの「天文時計」の項には、「リヨンにあるサン・ジャン大聖堂にも14世紀の天文時計が設置」云々の記述があって、「あれ?」と思いました。

そこで今度は英語版を見にいくと、「この大聖堂の天文時計に関する最初の記録は1383年に遡るが、これは1562年に破壊された」とあって、なるほどと思いました。でも更に続けて、「1661年、時計はギヨーム・ヌリッソン(Guillaume Nourrisson)によって再建された」と書かれています。

いったい誰の言うことが本当なのか?
リヨンの天文時計については、この分野の基本文献である、ヘンリー・C.キングの『Geared to the Stars』(1978)にもほとんど触れられておらず、いささか途方に暮れました。

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が、さらにネット上を徘徊したら、ようやく謎が解けました。

L' Horloge Astronomique de la Cathédrale Saint-Jean de Lyon

上のページに、この天文時計に関する年表が載っています。

それによれば、時計は1562年に破壊された後、1598年にユーグ・レヴェ(Hugues Levet)とニコラス・リッピウスの2人が再建を成し遂げました(絵葉書の1572年と合致しませんが、これは再建着手の年と、完成年の違いかもしれません)。
ただし、当時の部品で現存するのはごくわずかだ…とも書かれています。 

この最初の修復の後、1660年にギヨーム・ヌリッソンが再度修復を行ない、時計はほぼ現在と同様の姿となりました。(英語版ウィキペディアの記述(1661年)とは、ここでまた1年のずれがありますが、物自体が完成した年と、正式にお披露目した年がずれているとか、何かしら理由はあるのでしょう。)

…というわけで、誰が正しいというよりも、それぞれに根拠と言い分があったわけです。要はどこに注目するか、の違いですね。

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まこと物に歴史あり――。
物だって、人間と同じく、その生い立ちを一言で語ることはできません。そのことを1枚の絵葉書に改めて教えてもらいました。

リヨンの天文時計は、ヌリッソンの修繕後も、18世紀、19世紀、20世紀の3回にわたって工人の手が入り、今に至っている由。やっぱり「物に歴史あり」です。

風を読む幻想の宮殿2017年09月24日 07時00分43秒

今日も絵葉書の話題です。

これはわりと最近――といっても半年前――の記事ですが、西 秋生氏の『ハイカラ神戸幻視行―紀行篇』を取り上げた際、神戸の怪建築「二楽荘」にまつわる、著者・西氏の不思議な思い出話をご紹介しました。

■神戸の夢(2)
 
(画像再掲)

それは一種の桃源探訪記でもあり、神隠し体験のようでもありましたが、その際に載せた二楽荘の画像を見て、私自身チリチリと灼けるようなデジャヴを味わっていました。

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その正体は、しばらくしてから思い出しました。
以前に見た、これまた不思議な建物の絵葉書がそれです。


パリのモンスーリ公園に立つ、イスラム風宮殿建築。
私は二楽荘のことを、「西洋趣味とオリエント趣味を混ぜ込んで建てた、奇怪な建築」と書きましたが、神戸とパリの二つの建物は、いずれも「ムーア様式」と呼ぶのが適当です。すなわち、中東とはまた一味違う、北アフリカで発展した独特のイスラム様式。

(同じ建物を裏から見たところ)

以前、盛んに天文台の絵葉書を集めていた頃、この建物は「Observatoire」の名称ゆえ、頻繁に網にかかりました。でも、気にはなったものの、さすがにこれは天文台ではないだろう…と思いました。

フランス語の「オブセルヴァトワール」(あるいは英語の「オブザベイトリー」)には、「天文台/観測所」の意味のほか、「物見台」や「展望台」の意味もあるので、左右の塔屋を指してそう呼ぶのだと、常識的に解釈したわけです。

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しかし、実はその常識の方が間違っていて、これは本当に観測施設だと知って驚きました。ただし、観測対象は天体ではなく気象、すなわち測候所です。

すぐ上の絵葉書の説明文にもチラッと書かれていますが、元々この建物は、1867年のパリ万博のパビリオンとして建てられたもので、チュニジアの首都チュニスを治めた太守の宮殿をお手本に、それを縮小再現したものです。

そして、万博終了後はモンスーリ公園の高台に移され、1876年以降、気象観測施設となり、また1893年からは、大気の衛生状態を監視する施設としても使われるようになりました。

しかし、建物の老朽化は避けがたく、1974年に観測施設としての運用が終了。
さらに1991年、ついに火事で焼け落ちて、この世から永遠に姿を消したのです。

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神戸の二楽荘が失われたのも、やはり失火が原因でした。
焼失は1932年ですから、消滅に関してはパリよりも先輩です。

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かくして彼らの姿は、今やこうして絵葉書の中にとどまるのみ―。
でも、彼らの戸口の前に再び立ち、さらにその中に足を踏み入れることだって、場合によっては出来ないことではない…西氏の経験はそう教えてくれます。


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▼閑語(ブログ内ブログ)

ここ数日の報道に接するにつけ、安倍さんにしろ、麻生さんにしろ、何とも異常な政治家であり、異常な政体だなあ…と再三驚いています。

まあ異常というより、「悪の凡庸さ」というフレーズを裏書きするぐらい凡庸な人間なのかもしれませんが、その突き抜けた凡庸さにおいて、やはり彼らは異常と呼ぶ他ないのではありますまいか。

凡庸も過ぎれば邪悪です。