七夕のふみ2019年07月07日 09時17分57秒

七夕にちなむ艶な品。
絵葉書サイズですが、裏面は白紙なので、絵葉書ではありません。おそらく明治か大正の頃に版木で刷った、一種の挨拶状です。


メッセージが、笹竹にぶらさげた七夕飾りの体になっているのが洒落ています。


赤い色紙をめくると、さらに浅黄の色紙へとメッセージは続きます。

この崩し字は、流麗すぎて、にわかに判読しがたいですが、要は「七夕の頃には、せめて年に一度の逢瀬と思うてお出かけくださいまし」と、粋筋が得意客に配ったものでしょう。(左上に見える「そがのや」という屋号は、待合か何かでしょうか。)

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天上の星が出会えば、地上の人もまた出会う。
まあ、上の挨拶状は若干慾まじりかもしれませんが、そういうのを抜きにして、七夕が懐かしい人と交流する機会となるなら、それに便乗しない手はありません。

そういえば、昔の七夕は盆の行事と一部混淆していたので、そうなると七夕は文字通り懐かしい人(故人)と再会する機会でもあったわけです。

銀河は煙り、鳥は天に集う2019年07月06日 11時31分44秒



戦前の「銀河」ブランドの煙草パッケージ。
明るい星々の間を縫って、滔々と流れる天の川のデザインが素敵です。


深みのある萌葱(もえぎ)色の空に銀刷りが美しい。
銀河の星々は明るいパステルグリーンです。


折り曲げて箱状にすると、元はこんな表情。


パッケージの裏面に目をこらすと、そこには「朝鮮総督府専売局」の文字が。
この可憐な品にも、やっぱり歴史の影は差していて、いろいろ考えないわけにはいきません。なお、京城(ソウル)の朝鮮総督府に専売局が置かれたのは、大正10年(1921)~昭和18年(1943)までのことだそうです。

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ところで、七夕習俗は中国から朝鮮半島を経て日本に伝わったものですから、現在も対馬海峡をはさんで、似たような季節行事が両国に残っています。せっかくの伝統行事ですから、ここはネットに頼らず、任東権(著)『朝鮮の民俗』(岩崎美術、1969)を紐解いてみます。

それによると、牽牛・織女の説話は同様で、若い女性が針仕事の手並みが上達するよう祈るのも日本と同じですが、それと対となるように、若い男性が二つの星を題して詩を作り、勉強に励むことを誓う日だった…というのは、微妙に違いますね。日本でも、星に和歌や書の向上を願うという風習はありますが、特に男性限定でもないような。

それと、七夕の夜に雨が降ると、牽牛と織女が出会えた喜びの雨だとするというのも、日本とは逆転しています。

ちょっと面白いと思ったのは、七夕になると、地上からカラスやカササギが一羽もいなくなるという言い伝えです。それは彼らが銀河に橋をかけるために昇ってしまうからで、もし地上にカラスやカササギがいても、それは病弱で飛べないものばかりで、元気なものはみな烏鵲橋を架けるのに参加するのだ…という話。

日本にも「烏鵲(うじゃく)の橋」という言葉があって、七夕の晩にはカササギが銀河に橋をかけることになっていますが、日本では「烏鵲」全体で「カササギ」の意とするのに対し、半島ではこれを「烏+鵲」と解して、「カラスとカササギ」の意に取るのが変わっています。

では、本家・中国はどうなのか…というのが気になります。はたしてカラスは天に上るや、上らざるや? こういう時こそ「名物学」過去記事にリンク)の出番なのですが、例の青木正児氏の『中華名物考』にも言及がなかったので、正解は今のところ不明です。


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【付記】 上のこととは関係ありませんが、「カササギ」の語源をめぐって、かつて常連コメンテーターのS.Uさんと、コメント欄で延々と語り合ったことがあります。参考にリンクしておきます。

■かささぎの橋を越えて http://mononoke.asablo.jp/blog/2016/07/07/8126796

白瀬詣で(前編)2019年05月05日 14時17分51秒



今から約60年前、昭和35年(1960)は、日本の南極探検50周年にあたり、その記念切手が発行されました。写真はそれを貼った初日カバーです。当時はまだ昭和基地開設から4年目で、南極観測船も「宗谷」の時代です。


今日の話題の主は、記念切手のモチーフとなった探検家、白瀬矗(しらせのぶ、1861-1946)。私の耳には「白瀬中尉」の称が親しいので、以下そう呼ぶことにします。

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白瀬中尉のことを知ろうと思ったら、多くの人はまずウィキペディアの彼の項目を見に行き、その晩年の記述を読んで言葉を失うでしょう。

 「昭和21年(1946年)9月4日、愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)の、白瀬の次女が間借りしていた魚料理の仕出屋の一室で死去。享年85。死因は腸閉塞であった。 床の間にみかん箱が置かれ、その上にカボチャ二つとナス数個、乾きうどん一把が添えられた祭壇を、弔問するものは少なかった。近隣住民のほとんどが、白瀬矗が住んでいるということを知らなかった。」

敗戦後の混乱期であることを割り引いても、一代の英雄の最期としては、あまりにも寂しい状景です。

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唐突ですが、家でごろごろしていてもしょうがないので、白瀬中尉のお墓参りにいくことにしました。家で彼の話が出て、ふとその臨終シーンが浮かび、ぜひ弔わねばいけないような気がしたからです。中尉にとっては甚だ迷惑な、余計な感傷だったかもしれませんが、でもこれは行ってよかったです。

その場所は、逝去の地である豊田市ではなくて、同じ愛知県内の西尾市です。平成の大合併前は、幡豆郡吉良町といいました。西尾市吉良町瀬戸にある「瀬門(せと)神社」がその場所です。


昨日は天気も良くて、中世の吉良荘以来の里の光景がくっきりと眺められました。


行ってみたら、私の感傷は的外れで、白瀬中尉のお墓は地域で大事にされていることが分かって、安堵しました。

(参道から鳥居を振り返ったところ)

深いお宮の森を通っていくと、そこにちょっとした広場が整備されていて、白瀬中尉を記念するスペースになっていました。


画面左手に見える自然石の碑が墓標です。正面の楕円形は、南極観測船「(初代)しらせ」のスクリュー翼で、さらに右手には白い説明板が立っています(その前の竹箒は、ここがよく手入れされている証拠です)。

ちょっと白飛びして見にくいですが、いちばん手前に大きな石(セメント)の円盤が横たわっています。


これは全体が南極大陸の地図になっていて、中心に南極点、脇には白瀬中尉が命名した「大和雪原」のプレートがはまっています。


(以下、後編につづく)

彗星燃ゆ2019年03月09日 08時14分36秒

「こまい」話といえば、私はこまいモノの収集家だったのを思い出しました。


それは「彗星のマッチラベル」という、こまいと言えば相当こまいもので、最近はちょっとご無沙汰していますが、一時はずいぶん熱心に探したものです。私はたぶん世界でも五指に入る「彗星マッチラベルのコレクター」でしょう。というか、ひょっとしたら、他にはいないかもしれません。(これまでネットオークションで競り合った記憶がないので。)


ただ、これらも単に集めたばかりで、個々の素性は調べてないので、コレクションとして中途半端な感はあります。おおざっぱに言えば、いずれも戦前~戦後しばらくにかけてのもので、同じデザインでも多言語で印刷されているのは、それが輸出仕様だからでしょう。

まあ、この辺はあまり色を成して調べるのも興ざめかも。
というのも、彗星マッチのラベル収集は、足穂趣味から派生しており、ここで追求されているのは、実在の彗星というよりも、「非在の彗星」「想念の彗星」であり、肝心のマッチにしても、多分に想念の世界に属するからです。


異国の夜空に壮麗な尾を曳く彗星。


昔はマッチ大国だった日本の製品も頑張っています。
右は足穂のホームグラウンド、兵庫の小林燐寸製コメットマッチ。左はどこかのカフェー、あるいはバーの広告マッチでしょう。いずれも大正~昭和初期のもの。

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マッチのデザインに彗星が取り入れられたという事実は、かつて忌むべき凶星だったものが、20世紀に入って、すっかり「カッコいい」存在になったことを示しています。でも、ハレー彗星騒動やら何やらで、妖しく危ないイメージも一方には依然あって、だからこそいっそう謎めいた魅力を感じたのでしょう。足穂氏が魅かれたのも、まさにそこでしょう。

多彩な彗星マッチの世界。
こまいながらも、なかなか心憎い連中です。
彗星シガーにシュッと火を点すのにも好いですね。

(画像再掲。元記事:http://mononoke.asablo.jp/blog/2017/09/16/

切手の中の宇宙旅行2019年03月06日 22時05分27秒

1963年にポーランドで発行された人工天体シリーズ。


1903年に「宇宙旅行の父」、ツィオルコフスキーが構想したロケットを前史とし、1957年のスプートニク1号から、1962年の火星探査機マルス1号や金星探査機マリナー2号に至るまで、ソ連に限らずアメリカのものも含めて、各種の人工天体をモチーフにしたものです。


それにしても、このデザイン力、そして美しい色彩。
まったく大した小芸術です。

こういうのを見せられては、大人も子どもも夢中になってしまうわけで、私も以前、NEW ATLANTISの由里葉さんに教えられて、「あ、これは!」と、ネットショップに走った思い出があります。

ギザギザの額縁に入った細密画2019年03月05日 19時20分27秒

eBayの商品カテゴリーを見ると、絵葉書やら、おまけカードやら、マッチラベルやら、雑誌広告やら、その他およそ蒐集の対象となりそうな「紙モノ」は、全部ひっくるめて「Collectible」というカテゴリーに含まれます。

しかし、切手は別格で、他のもろもろの紙モノとは別に、「Stamp」という独立のカテゴリーが作られています。個人的には、切手も他の紙モノも、そう違いを感じないのですが、切手は趣味としての歴史も長いし、何せ国が発行した立派な「証紙」ですから、コレクターに言わせれば、「ほかの紙切れ風情と一緒にしないでくれよ」という気分なのかもしれません。

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だから、切手の蒐集というのは安易に踏み込んではいけない領域で、私も積極的に集めることはしてないんですが、天文モチーフだったり、理科趣味的なものは、時々手にすることがあります。そして切手に関しては、あまり時代にこだわらず、最近のものでも、いいなと思うものはパッと買ってしまいます。

そんな切手たちがストックブックに少しずつ増えていき、たまにストックブックを開くと、「ああ、切手もなかなかいいものだなあ…」と、しみじみ思います。

何といっても、あの小さな画面にきっちり絵が収まっているのがいいし、その絵柄も国がお金をかけているだけあって、秀逸なデザインが多いです(凝ったデザインには、偽造防止の意味もあるらしい)。そしてあのミシン目の美しさ。ミシン目がない切手は、只のシールみたいで、魅力半減だと思うのは、私一人にとどまらないでしょう。

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私が子供時代に経験した昭和の郵趣ブームは、多分に投機的な色彩がありました(値上がりを期待して買う人が多かったそうです)。だから、ちょっと不純なものがあったのですが、今はそういうのが(たぶん)下火になったおかげで、心静かに切手を愛でることができます。そして、やっぱり個人的に子供時代の記憶と結びついているので、そこに甘いノスタルジーが漂います。

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たとえば、以前も登場した「プラハのオルロイ(天文時計)」の切手。


そこに最近付け加わった、新顔切手の伊達者ぶりといったらどうでしょう。

(2010年発行のチェコ切手)

とにかく切手の世界は広いですから、こんな「カッコいい」切手がザクザクあって、しかも総じて安価だと聞けば――切手の実売価格の規定因は、どうも「カッコよさ」ではないらしい――、切手収集に精を出す人がいるのも、むべなるかなです。

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政情不穏の折柄、小市民的な、まことに「こまい」話で恐縮です。
でも、私のような小市民が、こういう小芸術を心おきなく愉しめる世こそあらまほしけれ…と、いつもの繰り言ですが、強く望みます。

古画発見2019年03月03日 08時15分09秒

今日は雨模様のひな祭り。
啓蟄にはまだちょっと間がありますが、ゆうべ驚いたのは、今年初めて蚊が飛んできたことです。我が家はことのほか蚊が多いので、少なからず憂鬱な気分です。

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さて、昨日の「ネットでいろんなことが分かるようになったね」という話の続きで、最近、こんな発見もありました。

以前、「ロイヤル・コメット」というイギリス生まれのボードゲームを紹介したことがあります。


■ちょっと気取った彗星ゲーム

ゲーム自体は、1996年発売のごく新しいものですが、その箱絵やボード絵が古雅で、なかなか良いなあと思って、取り上げたものです。上で言う「発見」とは、その箱絵のオリジナルを見つけたこと。


元絵は版画なので、オックスフォード科学史博物館が唯一の所蔵先とは言えませんが、とりあえず見つけたのは、同館のアーカイヴです。ざっとあらましを書いておくと、原題はずばり「Astronomy」で、形態は銅版手彩色。ロンドンのF. Bull, J. Boydell, & W. Herbertが版元となって、1766~1775年頃出版されました。これはフランス革命前ですから、相当古風は古風で、出版当時は「同時代の風俗画」という認識でしょう。

版元に名を連ねる3人のうち、たぶん最も有名なのは、John Boydell(1719-1804)で、その名は日本語版のウィキにも載っています[ LINK ]。

ボイデルは元々自身が版画家でしたが、後には他の版画家を起用して、芝居絵や風景画、あるいは古の名画の複製版画を作って、大いに儲けたという、なかなか商才に長けた人の由。(…となると、複製芸術の流行は19世紀に限らず、18世紀には既に大いに花開いていたことになります。この点で、昨日の記事はちょっと留保が必要かも。)

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以前は、過去と言えば「遠く霞んでいくもの」でしたが、最近は「徐々に鮮明になるもの」に変わったようです。でも、戦災の記憶も、震災の記憶も、日々霞んでいく現状を見ると、それも対象によりけりなのでしょう。

古画再見2019年03月02日 21時14分56秒

この「天文古玩」の良くないところは、一度登場したモノがそのままスッと消えてしまうところです。つまり、話題の蒸し返しはあっても、そこに登場するモノ自体は、たいてい1回きりの登場で、その扱いがいかにも粗略です。

これはブログ上のことに限りません。
実生活においても、いったんブログで記事にすると安心してしまい、そのままどこかにしまい込んで、その後まったく目にする機会がない…というのがお決りのパターンで、これでは「愛蔵」には程遠く、まさに「死蔵」でしょう。

そんな反省から、ちょっとお蔵入りの品を見直してみます。

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今さらながら、世界のデジタル化は甚だ急ですね。
検索エンジンで到達できる情報に限っても、「天文古玩」がスタートした2006年から、13年後の現在に至るまでの間に、ネット空間に新たに蓄積された情報は膨大な量でしょう。おかげで、昔は分からなかったことでも、今の目で見返すと簡単に分かるようになった事柄がたくさんあります。

例えば、以前登場した「The Astronomer」と題された一枚の版画。


似て非なるもの

あるいは、似た雰囲気の別の一枚。
こちらはAstronomer(天文学者)ならぬAstrologer(占星術師)を描いたものです。


ブログ開設半年

過去記事は、いずれもその素性に全く触れていません。
でも、これらの版画がいったい何なのか、私の中ではずっと疑問がくすぶっていました。―「いったい何なのかって、別にふつうに19世紀の版画でしょ?隅っこには、作者名もちゃんと入っているじゃない」と思われるかもしれませんが、これが19世紀当時、一個の商品としてどう流通し、どういう人が、何の目的で購入したのか…というのが、私には分かっていなかったのです。

でも、今調べれば、その素性はたちどころに分かります。

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まず「Astronomer」の方ですが、これはHenry Wyatt(1794-1840)が描いた油彩画をもとにしており、原画は現在テート・ギャラリーに所蔵されています。

現在のタイトルは「アルキメデス」。作者自身がどう呼んだかは不明ですが、モデルはガリレオかな…と、何となく思っていたので、アルキメデスと聞いてちょっとびっくりしました。)

それを版画にしたのはRobert Charles Bell(1806-1872)という人で、その目的は美術雑誌に収録するためでした。すなわち、19世紀の市民社会の到来によって、ファイン・アートが広く大衆のものとなり、その広範な需要に応えて、こうした複製画が当時盛んに作られていたのです。(さらに時代が下ると、写真術を応用したコロタイプ印刷や、さらにオフセットでカラー印刷も簡単にできるようになりますが、この時代の複製画はもっぱら版画です。)

収録誌は、ロンドンで出た当時の代表的な美術誌、「The Art Journal」
同誌は1839年から1902年まで続いたと言いますから、ヴィクトリア時代(1837-1902)とまるまる重なります(1881年にはアメリカ版も出ています)。

この版画、かの大英博物館にも収蔵されていて、データとともに画像が公開されています。


でも、見比べると細部が微妙に違うので(例えば大英博物館の品には、「The Astronomer」のタイトルがありません)、手元の品は後刷りかな?と思います。あるいはアメリカ版のために、原版に手を加えて刷り増ししたのかもしれません。

eBayで天文アンティークを渉猟していると、この版画を頻繁に目にするので、「なんでこんなにたくさん流通しているんだろう?」と不思議でしたが、雑誌の付録と聞けば納得です。そして、この版画がいったい何なのか、当初の疑問がようやく解けた気になります。

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そうと分かれば、「Astrologer」の方も、当然同じ性質のものと当たりがつきます。
Googleの書籍検索によれば、こちらは「The Art Journal」誌の1879年9月号に収録されたもので、原画の作者はJohn Seymour Lucas(1849-1923)、版画作者はJoseph Desmannez(1826-1902)


ただし、用紙の下部を見ると、こちらはアプルトン社の発行になっていて、ここは同誌のアメリカ版・版元ですから、これまた1881年以降、アメリカ版のために作られた後刷りなのでしょう。

いささか残念なのは、ネットの力を借りても原画の所在が依然不明なことです。
できれば元絵の色彩を見たかったのですが、これはしばらくお預け。まあ、これも遠からず分かる日が来るでしょう。

メンデレーエフ切手(その2)2019年01月12日 08時16分38秒

昨日のおまけ。
メンデレーエフは何せ国民的偉人ですから、ロシア(旧ソ連)では記念切手が繰り返し出ています。下は生誕150年を祝って、1984年に出た切手を使った初日カバー。

【訂正】 見直したら、これはソ連ではなく、ブルガリアの切手でした。したがって、オレンジ刷りの「CT13」の文字は、「額面13ストティンキ」の意味。たぶん同じ共産圏のよしみで、ソ連に迎合したのでしょう。


封筒の左下は、昨日も登場したメンデレーエフのオリジナル周期表です。


色も図柄もグラフィックで、カッコいい切手ですね。

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こうしてメンデレーエフを偲びつつ、1969年、1984年を経て、今や2019年に。
歴史というのは、こんなふうに一人の人間が生きている間にも、容赦なく歩を進め、変化していくものなのですね。

思えば、往時の帝政ロシアはソ連によって倒され、そのソ連もあっけなく倒れて、今や共和制ロシアの時代なのですから、泉下のメンデレーエフも、その転変に目を白黒させていることでしょう。(でも非凡な彼のことですから、ひょっとしたら、この複雑な歴史のパズルを解き終わって、今ごろ「歴史の周期性」をあの世で喧伝しているかもしれません。)

元素のクロスワードの150年2019年01月11日 19時31分38秒

この前新聞を見ていたら、今年は「国際周期表年」だという記事が載っていました。ドミトリ・メンデレーエフ(1834~1907)が周期表を発表したのが1869年で、今年は「周期表誕生150周年」に当たるのを記念して、ユネスコが決めたのだそうです。

ここで、手っ取り早くウィキペディアの周期表の説明を見てみます。

一読して、これを理解できる人は幸せです。
残念ながら、私は三読しても十分に理解できませんでした。

これはいったいどうしたわけか? 文系出身であるにしても、私だって高校で「化学Ⅰ」を習ったし、理科趣味を標榜するぐらいには、科学に親しんでいるのです。それなのに、生まれてから150年も経つ周期表のことが、さっぱり分からないというのは、人類の知の進化に、いささか疑念を抱かせる事態ではありますまいか?

(ウィキペディア掲載の周期表)

…と、手前勝手な愚痴が出かかりましたが、そんなことはありません。

こんな愚昧な私の目にも、周期表は十分に美しく映ります。何せ、このシンプルな表の中に、物質のふるまいの法則性――いわば化学のエッセンス――が凝縮されているのですから。これは「E=mc2」なんかと並んで、少数のことばで宇宙の成り立ちを表現することに成功した、人類にとって記念碑的業績であり、やっぱり人類の知の進化は偉大です。

そして、周期表の面白さは、それがアインシュタインのような異能者の卓越した才ではなく、どちらかといえば、日曜クロスワードパズル的な頓智の才によって導かれたということです(こう言ったからといって、メンデレーエフの才覚を貶めることにはならないでしょう)。「ひょっとしてオレにも…」と、人を前向きな気持ちにさせるところが、周期表の良さでもあります。

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上は1969年、周期表の誕生100周年を記念して、メンデレーエフの故国ロシア(旧ソ連)で発行された初日カバー(…というのは、記念切手の発行を祝して、記念切手と記念封筒、それに発行初日の記念消印をセットにした郵趣アイテムです)。


パズルを解こうと呻吟するメンデレーエフ。


こちらはメンデレーエフによるオリジナルの周期表手稿を取り入れた渋いデザイン。

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それにしても150年というのは、長いような短いような。
上の切手が出た当時、私は幼いながらも、世の中のことを記憶に残せる年齢になっていました。あれからあっという間に50年が経ったのですね。実に感無量です。

この先、さらに200周年を迎えることも、可能性として無くもないですが、まあ元素に還って、天地を自在に往還している可能性の方が高いでしょう。これ以上、個人的な知の進化も望めませんから(むしろ退化ですね)、それもまた良し、です。