紙物未満…パリ天文台を称えて2022年09月16日 12時47分16秒

円安時代を生き延びるために、今でも気軽に買えるものを見つけました。


フランスのテレホンカードです。額面は50度数で、日本と同様、短時間ならこれで50回通話できたのでしょう。

特にプレミアがつくような品ではないので、換金価値は限りなくゼロですが、そうは言ってもタダというわけにもいくまい…と売り主は思ったのでしょう、1ユーロの値段が付いていました。

なぜそんなものを買ったかといえば、これも天文にちなむ品だからです。


背景はパリ天文台。そして「1891-1991」の文字。
下の説明文には、「パリ天文台は100年間、この国の標準時を定めてきました」とあります。

パリ天文台と報時業務については、以前ちょっと書いたことがあります。

■天文台と時刻決定

同天文台は、1891年からは1911年までパリを基準として報時を行い、その後、他国にならってイギリスのグリニッジを基準とするようになりましたが、その後もフランス標準時をつかさどり、100年休まずにチクタクチクタク、1991年にはそれを称えてテレホンカードのデザインにまでなった…というわけです。

私もパリ天文台に敬意を表して、今回1ユーロを投じました。

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ちなみに裏面のデザインはこうなっています。


そこには「3699にお掛けいただくと、音声時計が正確な時刻をお知らせします。料金は1991年3月1日現在、1回につき1度数です」とあって、「へえ、フランスにも日本の〈117〉みたいなサービスがあるんだ…」と、意外に思いました。

でもちょっと検索したら、この1933年から続くサービスも、今年ついに終了したのだそうです。

■Technologie : l’horloge parlante tire sa révérence

こうして時代は少しずつ移っていくのですね。
日本の〈117〉も一体いつまで存続するのか…?まことに思うこと多々、です。

七夕短冊考(その1)2022年07月10日 08時30分07秒

七夕にちなんでいろいろ書こうと思いましたが、書けぬまま七夕も終わってしまいました。最近は晩にビールを飲むと眠くなるし、朝は朝でやっぱり眠いので、平日に記事を書くのが難しいです。…といって、昔は夏場でも平気で書いていたわけですから、やっぱり齢は争われません。

でも、まだ旧暦の七夕というのが控えていて、今年は8月4日だそうです。それまで焦らず、旧来の季節感に素直に書いていくことにします。

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この前、七夕の短冊のことを書きました。
いかにも地味な話題ですが、何事も分からないことは調べるだけの価値があるので、戦前の七夕の実態はどうだったのか、少し史料を探してみました。そこで見つけたのが下のような紙ものです。

(大きさは38×58.5cm)

■加藤松香先生(書)
 七夕お習字手本
 昭和11年(1936)7月発行 少女倶楽部七月号第二附録

これを見ると、書かれているのはすべて七夕にちなんだ和歌や俳句ばかりで(それと「七夕」「天の川」というのも定番でした)、あたかも「紙絵馬」のように願い事を書きつらねる今の七夕とは、だいぶ趣が違います。


物理的フォーマットも、いわゆる短冊ばかりでなく、扇面あり色紙ありで様々です。


これは「少女倶楽部」の読者が、七夕を祝うことを前提とした企画ですから、そこでイメージされる七夕の担い手は、若干高年齢層に寄っています(ウィキペディア情報によれば、同誌の読者層は「小学校高学年から女学校(高等女学校)低学年の少女」の由)。少なくとも幼児専門の行事ということは全然なくて、さらさらと水茎の跡もうるわしく和歌を書きつけるのを良しとするその態度は、マジックでたどたどしく書かれた文字を見て「子供らしくほほえましい」とする現代とはかなり異質です。

(裏面には「七月特別大懸賞」の広告があり、読者の年齢層や趣味嗜好の一端がうかがえます。おそらく「良家の子女」と、それに憧れる少女たちが雑誌を支えていたのでしょう。)

とはいえ、これ1枚で何かものを言うのも根拠薄弱なので、別の史料も挙げておきます。

(この項ゆっくり続く)

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【余滴】

安倍銃撃事件があり、その事件背景として統一教会の問題が取りざたされ、そして今日は参院選の投票日。まことに慌ただしく、見ている方はポカーンとしてしまいますが、今後、年単位、あるいは10年単位で、今目の前で起きていることの意味が明らかになり、整理されていくのでしょう。ナスカの地上絵みたいなもので、その場にいる人間には見えないものも、距離をとることで見えてくることは実際多いです。

とはいえ、歴史に傍観者はなく、我々は否応なく歴史を担う主体でもありますから、視界が利きにくい中でも自分なりに考え、自分なりの道を見出す努力は欠かせません。そんな思いで、今日は一票を投じてきます。(何か妙に大上段ですが、大きな事件の後でやっぱり心が波立っているのでしょう。)

グリニッジへようこそ2022年04月10日 11時41分56秒

先日、五島プラネタリウムの招待状のことを書きましたが、それで思い出したことがあります。

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以前、グリニッジ天文台について書かれた古書を買いました。


■E. Walter Maunder(著)
 The Royal Observatory Greenwich:Its History and Work.
  The Religious Tract Society(London)、1900

ご覧のとおり深緑に金彩の洒落た表紙で、背表紙以外の側面はすべて金箔押しの「三方金」という、なかなか豪華な造本です。しかし、今回話題にしたいのは、本そのものではなくて、そこにはさまっていた「おまけ」についてです。他でもない、これぞグリニッジ天文台への招待状。

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はさまっていたものは2通あって、小さいほうは1934年3月9日付けの、グリニッジ天文台の書記から届いた参観受付状です。

 「王立天文官の命により、王立天文台見学の件に関する、当月8日付けの貴信を拝受したことをお知らせいたします。見学時間は月~金曜日の、それぞれ午後2時半から4時半までとなります。もし別の日をご希望でしたら別途調整いたします。」

…というようなことが(最後の方が読み取りにくいですが、多分そのようなことが)書いてあります。

大きい方は文字通り招待状で、文面から察するに、当時は年1回、客を招待して天文台を見学してもらう日が設けられていたようです。本にはさまっていたのは、1939年6月3日に予定された公開日への招待状で、王立協会会長(兼・王立天文台見学担当局長)名義で、「E.W.バーロウ大佐並びに令夫人のご来駕を乞う」と、仰々しい感じで告げています。

招待客のバーロウ大佐(あるいは大尉)について、正確なことは分かりませんが、ネットを参照すると、1919年の王立天文学会会員録に、「Captain Edward William Barlow」という名前があって、この人のことじゃないかと思います。理学士にして王立気象学会会員でもあった人です。

招待状の裏面には、見学順路が印刷されています。


招待客はまず(1)新棟(New Buildings)で写真撮影用望遠鏡を見学し、その後(2)玉ねぎ型ドーム内の大赤道儀望遠鏡、(3)恒星の南中を観測するための子午環、(4)風速風向計等の気象測器類、(5)グリニッジで最も由緒あるオクタゴンルーム、と順々に見て回り、最後に少し離れた場所に置かれた36インチ反射望遠鏡その他を見て回る…というコースでした。

カードの表には、見学の受付開始が午後3時半と書かれていますが、6月のロンドンの日没は午後9時過ぎですから、これだけ見て回っても全然大丈夫だったのでしょう。

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グリニッジ天文台についての本を買ったら、そこへの招待状がついていたという、これはかなり嬉しいサプライズでした。五島のときも思いましたが、こういう古い招待状を手にすると、何となくそれが今でも通用する「過去の世界への招待状」のように思えて、いろいろドラマを想像してしまいます。

夢のプラネタリウムにようこそ2022年04月06日 06時00分51秒

東京渋谷にあった五島プラネタリウム
同館は1957年4月にオープンし、2001年3月に閉館しました。
人になぞらえれば、享年45(数え年)。

五島プラネタリウムは、運営に関わった人も多いし、熱心なファンはそれ以上に多いので、軽々に何かものを言うのは憚られますが、ただ懐かしさという点では、私も一票を投じる資格があります。私が人の子として生まれたときも、その後、人の親となったときも、あの半球ドームは常に街を見下ろし、1970年代には私自身そこに親しく通ったのですから。

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今は亡きドームから届いた1枚のチケット。


「御一名 一回限り有効」


3つの願いを聞いてくれる魔法のランプのように、このチケットも「1回限り」なら永遠に有効のような気がします。これを持って渋谷に行けば、どこかにひっそりと入口があって、あのドームへと通じているんじゃないか…?

そんな夢想をするのは、ドームは消えても、招待した人の気持ちだけは、この世にずっととどまっていて、その招待に応えない限り、思いが中有(ちゅうう)に迷って成仏できないような気がしたからです。

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でも、そんな心配は無用でした。


裏面にはしっかりスタンプが押され、昭和36年(1961)7月いっぱいで、チケットの有効期限は切れていることを告げています。招待者の念はとっくの昔に消滅しており、その思いが迷って出る…なんていう心配はないのでした。

「ああ良かった」と思うと同時に、五島再訪の夢も消えて残念です(※)

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このチケットは、おそらく五島プラネタリウムと誠文堂新光社がタイアップして、両者の集客と宣伝を図るために配ったのでしょう。最初は「天文ガイド」誌の読者プレゼント、あるいは投稿掲載者への謝礼代わりに配ったのかな?と思いましたが、改めて確認したら、同誌の創刊は1965年7月で、まだ「天ガ」もない時代の品でした。それを思うと、いかにも昔という気がします。

それにしても61年間、文字通り「ただの紙切れ」がよく残ったものです。これなんかはさしずめ、紙物蒐集家が云うところの「エフェメラ(消えもの)」の代表格でしょう。

なお、チケットのデザインが、1066年のハレー彗星を描いた中世の「バイユー・タペストリー」になっているのは、野尻抱影らがそこに関わって、歴史色の濃い番組作りが行われていた同館――その正式名称は「天文博物館五島プラネタリウム」です――の特色を示しているようで、興味深く思いました。

(彗星(右上)と、それを見上げざわめく人々)


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(※)そんなに五島が恋しければ、その流れを汲む「コスモプラネタリウム渋谷」に行けば?という声もあるでしょうが、でもやっぱり五島は無二の存在です。

世界に驚異を取り戻すために2022年01月03日 13時42分54秒

実感をこめて言いますが、人間は齢とともに必ず変化するものです。
その変化が「円熟」と呼びうるものなら大いに結構ですが、単なる老耄や劣化という場合も少なくありません。この「天文古玩」と、その書き手である私にしても、全く例外ではありません。それはある意味避けがたいことでしょうけれど、せめて新年ぐらいは初心に帰って、昔の新鮮な気持ちを思い出したいと思います。

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下は、時計の針を捲き戻して、自分が子どもだったときの気分が鮮やかによみがえる品。


1932年に発行された、『Wunder aus Technik und Natur(テクノロジーと自然界の驚異)』と題された冊子です。時の流れの中で大分くすんでしまっていますが、その表紙絵がまず心に刺さります。


峡谷をひた走る弾丸列車が何とも素敵ですし、その周囲にも夢いっぱいの景色が広がっています。


空には巨大な星々。その光に白く、また赤く浮かび上がる断崖絶壁と山脈。
その間を縫って自在に舞い飛ぶプロペラ機。


そして大地の下に眠る太古の生物。

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ページをめくると、さらに鮮やかな世界が広がっています。


冒頭は「第1集・自然界の怖ろしい力」と題されたページ。そこに流星、稲妻、火の玉(球電)、雪崩、竜巻、トルネードという、6枚の絵カードが貼付されています。(ちなみにドイツ語では、海上の竜巻(Wasserhose)と地上のトルネード(Tornado)を区別して表現するようです。)


この冊子はシガレットカードのコレクションアルバムで、発行元はドレスデンの煙草メーカー、エックシュタイン・ハルパウス社(Eckstein-Halpaus)

シガレットカードは、煙草を買うとおまけに付いてくるカードで、そのコレクションは昔の子供たち(と物好きな大人たち)を夢中にさせました。そしてカードがたまってくると、こうした別売のアルバムブックに貼り込んで、コレクションの充実ぶりを自ら誇ったわけです。

この「テクノロジーと自然界の驚異」は、第1集から第48集まであって、各集が6枚セットなので、全部で288枚から成ります。手元のアルバムは、そのコンプリート版。
その内容は実に多彩で、




カラフルな世界の動・植物もあれば、


子どもたちが憧れる乗り物もあり、


神秘的な古代遺跡の脇には、


ピカピカの現代建築物がそびえ、


あまたの巨大なマシンが、目覚ましい科学の発展を告げています。

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ここに展開しているのは、90年前の子どもたちの心を満たしていた夢です。
もちろん、煙草メーカーは純粋無垢な心でこのカードを作ったわけではなく、もっぱら商売上の理由でそうしたのでしょうが、それは当時の少年少女が求めたものを知っていたからこそできたことであり、その夢は50年前の子どもである私にも、少なからず共有されています。

このアルバムブックを開くと、私の内なる子どもの目が徐々に開かれるのを感じます。
そして、世界がふたたび驚異を取り戻す気がするのです。

季節外れの七夕のはなし(おまけ)2021年11月07日 11時49分34秒

現代日本の七夕のありようは、江戸時代のそれとは違うし、江戸時代のそれは室町時代のそれとも違います。

同様に七夕の本場・中国でも、やっぱり内的変化はあって、現代の中国で標準的に受容されている七夕説話の背後にも、各時代を通じて施された彫琢がいろいろあることでしょう。いずれにしても、日本の我々が親しんでいる七夕説話とは、いろいろ違う点が生じており、その違いが面白いと思ったので、内容を一瞥しておきます。

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中国で2010年に発行された「民間伝説―牛郎織女」という4枚セットの記念切手があります。


4枚というのは、七夕伝説を起承転結にまとめたのでしょう。ストーリーの全体は、チャイナネットの「牽牛織女の物語」【LINK】に詳しいので、そちらを参照してください。


まず1枚目。タイトルは「盗衣結縁」
設定として、牽牛(牛郎)は元から天界の住人だったのではありません。元は貧しい普通の男性で、相棒の老牛とつましく暮らしていました。一方、織女は天帝の娘、天女です。その二人が結ばれた理由は、日本の羽衣伝説と同じです。中国版が日本と少しく異なるのは、老牛の扱いの大きさで、「天女と結婚したいなら、天衣を奪え」と教えたのも老牛だし、話の後半でもヒーロー的な活躍をしますが、七夕説話が牽牛と老牛の一種の「バディもの」になっているのが面白い点です。

2枚目は「男耕女織」
日本の説話だと、結婚した二人が互いの職分を忘れてデレデレしていたため、天の神様が怒って、二人を銀河の東と西に別居させたことになっていますが、中国版だとふたりは結婚後もまじめに仕事に励み、子宝にも恵まれて幸せに暮らしていました。まずはメデタシメデタシ。


3枚目は「担子追妻」
しかし、その幸せも長くは続きません。自分の娘が地上の男と結ばれたのを知って怒った天帝が、西王母を地上につかわし、娘を糾問するため天界に召喚したからです。妻との仲を裂かれて嘆き悲しむ牽牛に、老牛が告げます。「自分の角を折って船とし、あとを追いかけよ」と。言われるまま、牽牛は牛の角の船に乗り、愛児を天秤棒で担いで、天界へと妻を追いかけます。しかし、あと一息というところで、西王母が金のかんざしをサッと一振りすると、そこに荒れ狂う銀河が現れて、二人の間を再び隔ててしまいます。

4枚目、「鵲橋相会」
銀河のほとりで二人は嘆き悲しみますが、その愛情が変わることはありません。それに感動した鳳凰は、無数のカササギを呼び集めて銀河に橋をかけ、二人の再会を手助けします。それを見た西王母も、7月7日の一晩だけは、ふたりが会うことを認めざるを得ませんでしたとさ。とっぴんぱらりのぷう。

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この話にしても、地上に残された老牛はどうなったのか、牛がいなければもはや「牽牛」とは言えないんじゃないか?とか、天帝のお裁きは結局どうなったのか、夫婦はそれで良いとしても、母子関係はどうなるのか?とか、いろいろ疑問が浮かびます。

説話というのは、そういう疑問や矛盾に答えるために細部が付加され、それがまた新たな疑問や矛盾を生み…ということを繰り返して発展していくのでしょう。

繰り返しになりますが、これが中国古来の一貫して変わらぬ七夕伝承というわけではありません。絶えず変化を続ける説話を、たまたま「今」という時点で切り取ったら、こういう姿になったということで、その点は日本も同じです。

フラマリオンの部屋を訪ねる(後編)2021年10月16日 17時24分57秒

フラマリオンの観測所にして居館でもあったジュヴィシー天文台は、これまで何度か古絵葉書を頼りに訪ねたことがあります。まあ、そんな回りくどいことをしなくても、グーグルマップに「カミーユ・フラマリオン天文台」と入力しさえすれば、その様子をただちに眺めることもできるんですが、そこにはフラマリオンの体温と時代の空気感が欠けています。絵葉書の良さはそこですね。


館に灯が入る頃、ジュヴィシーは最もジュヴィシーらしい表情を見せます。
フラマリオンはここで毎日「星の夜会」を繰り広げました。


少女がたたずむ昼間のジュヴィシー。人も建物も静かに眠っているように見えます。

(同上)

そして屋上にそびえるドームで星を見つめる‘城主’フラマリオン。
フラマリオンが、1730年に建ったこの屋敷を譲られて入居したのは1883年、41歳のときです。彼はそれを天文台に改装して、1925年に83歳で亡くなるまで、ここで執筆と研究を続けました。上の写真はまだ黒髪の壮年期の姿です。


門をくぐり、庭の方から眺めたジュヴィシー。
外向きのいかつい表情とは対照的な、穏やかな面持ちです。木々が葉を落とす季節でも、庭の温室では花が咲き、果実が実ったことでしょう。フラマリオンは天文学と並行して農業も研究していたので、庭はそのための場でもありました。

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今日はさらに館の奥深く、フラマリオンの書斎に入ってみます。


この絵葉書は、いかにも1910年前後の石版絵葉書に見えますが、後に作られた復刻絵葉書です(そのためルーペで拡大すると網点が見えます)。


おそらく1956年にフラマリオンの記念切手が発行された際、そのマキシムカード【参考リンク】として制作されたのでしょう。


葉書の裏面。ここにもフラマリオンの横顔をかたどった記念の消印が押されています。パリ南郊、ジュヴィシーの町は「ジュヴィシー=シュロルジュ」が正式名称で、消印の局名もそのようになっています。
(さっきからジュヴィシー、ジュヴィシーと連呼していますが、天文台の正式名称は「カミーユ・フラマリオン天文台」で、ジュヴィシーはそれが立つ町の名です。)


書斎で過ごすフラマリオン夫妻。
夫であるフラマリオンはすっかり白髪となった晩年の姿です。フラマリオンは生涯に2度結婚しており、最初の妻シルヴィー(Sylvie Petiaux-Hugo Flammarion、1836-1919)と死別した後、天文学者としてジュヴィシーで働いていた才女、ガブリエル(Gabrielle Renaudot Flammarion、1877-1962)と再婚しました。上の写真に写っているのはガブリエルです。前妻シルヴィーは6歳年上の姉さん女房でしたが、新妻は一転して35歳年下です。男女の機微は傍からは窺い知れませんけれど、おそらく両者の間には男女の愛にとどまらない、人間的思慕の情と学問的友愛があったと想像します。


あのフラマリオンの書斎ですから、もっと天文天文しているかと思いきや、こうして眺めると、意外に普通の書斎ですね。できれば書棚に並ぶ本の背表紙を、1冊1冊眺めたいところですが、この写真では無理のようです。フラマリオンは関心の幅が広い人でしたから、きっと天文学書以外にも、いろいろな本が並んでいたことでしょう。


暖炉の上に置かれた鏡に映った景色。この部屋は四方を本で囲まれているようです。


雑然と積まれた紙束は、新聞、雑誌、論文抜き刷りの類でしょうか。

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こういう環境で営まれた天文家の生活が、かつて確かに存在しました。
生活と趣味が混然となったライフタイル、そしてそれを思いのままに展開できる物理的・経済的環境はうらやましい限りです。フラマリオンは天文学の普及と組織のオーガナイズに才を発揮しましたが、客観的に見て天文学の進展に何か重要な貢献をしたかといえば疑問です。それでも彼の人生は並外れて幸福なものだったと思います。

なお、このフラマリオンの夢の城は、夫人のガブリエルが1962年に亡くなった際、彼女の遺志によってフランス天文学協会に遺贈され、現在は同協会の所有となっています。

おらがコペルニクス2021年08月22日 11時08分58秒

ときに、昨日の写真撮影の小道具に使った絵葉書に目を向けてみます。


写っているのはもちろんコペルニクスです。
キャプションには「ニコラウス・コペルニクス 1543-1943 没後400年」とあって、これは同年(1943)発行された記念絵葉書です。そして上部には、同じ年に発行された記念切手が貼られ、彼の命日(5月24日)にちなんで、1943年5月24日の消印が押されています。こういう「葉書・切手・消印」の3点セットの記念グッズを、郵趣界隈では「マキシムカード」と呼ぶのだとか。

コペルニクスはポーランドの国民的英雄なので、その銅像は首都ワルシャワとか、トルンとか、あちこちにあるのですが、上の絵葉書は彼が学生生活を送ったクラクフの町にある銅像です。

(バルーンの位置がクラクフ)

背景は彼の母校、ヤギェウォ大学(クラクフ大学)のコレギウム・マイウスの中庭。ただし現在、像はそこにはなくて、戦後の1953年に、同大学のコレギウム・ウィトコフ正面にあるプランティー公園に移設されました(LINK)。

(現在のコレギウム・マイウス中庭。中央下の水盤?みたいな所に、かつて像が立っていました。ウィキペディアより)

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コペルニクスは後世に、もめ事の種を2つ残しました。

1つは言うまでもなく地動説です。これで世界中は大揉めに揉めました。
もう1つはコペルニクス自身のあずかり知らぬことで、揉めた範囲も局地的ですが、「コペルニクスはドイツ人かポーランド人か」という問題です。

上の絵葉書の消印を見て、その論争を思い出しました。


そこにははっきりと、「ドイツ人天文家(des Deutschen Astronomen)没後400年」と書かれています。消印の地は地元クラクフ(Krakau)なのに何故?…というのは愚問で、1943年当時、ここはドイツ軍の占領地域でした。しかも、ナチスのポーランド総督は、ここクラクフを拠点にして、領内に目を光らせていたのです(Krakauはクラクフのドイツ語表記です)。

ですから、ポーランドの人にしてみたら、このマキシムカードは忌むべき記憶に触れるものかもしれません。

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民族意識というのはなかなか厄介です。

日本語版ウィキペディアのコペルニクスの項(LINK)は、

 「19世紀後半から第二次世界大戦までのナショナリズムの時代には、コペルニクスがドイツ人かポーランド人かについて激しい論争がおこなわれたが、国民国家の概念を15世紀に適用するのは無理があり、現在ではドイツ系ポーランド人と思われている。」

とあっさり書いていますが、そう簡単に割り切れないものがあって、実際ドイツとポーランドのWikipediaを見ると、その書きぶりから、この問題が今でもセンシティブであることがうかがえます。

 「ニコラウス・コペルニクス〔…〕はプロイセンのヴァルミア公国の聖堂参事会員であり天文学者」

 「ニコラウス・コペルニク〔…〕ポーランドの碩学。弁護士、書記官、外交官、医師および下級カトリック司祭、教会法博士」

(※ポーランド語版はさらに、「この『ポーランド人天文家(Polish astronomer)』という語は、『大英百科事典』も『ケンブリッジ伝記大百科』も採用している」…という趣旨の注を付けていて、相当こだわりを見せています。)

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広大な宇宙を相手に、普遍的真理を求める天文学にとって、こういうのは些事といえば些事です。でも人間は一面では卑小な存在なので、なかなかこういうのを超克しがたいです。むしろそういう卑小な存在でありながら、ここまで歩んできたことを褒めるべきかもしれません。

時計の版画集(後編)2021年02月01日 06時58分34秒

堀田良平氏の『自鳴鐘書票廿四時』の内容を見てみます。
ちなみに書名の「自鳴鐘」とは、昔のボンボン時計のように、報時機能の付いた時計のことですが、いかにも語感が古めかしいですね。何でも、戦国時代には南蛮より渡来していたそうですから、まあ古いのも道理です。


時計がきざむ時刻の数にちなんで、ここに集められたのは22作家、24枚の蔵書票です。


巻頭の一枚。京都の徳力富吉郎(1902-2000)による板目木版画。
以下に登場する蔵書票は大小さまざまですが、それらが1枚ずつ和紙に貼付されています。この徳力氏の作品は大きい方で、紙片全体のサイズは13.5×8cmあります。


関根寿雄作の板目木版画。
アーミラリースフィア型の日時計を描いた作品。関根氏については、以前『星宿海』という星座の版画集を紹介したことがありますが(LINK)、天文モチーフに関して一家言ありそうな方です。


栗田政裕作、木口木版画。
栗田氏は、黒々とした木口木版によって、夜の世界や宇宙をテーマにした作品を多く手掛けている方らしく、この作品も星空を背景に、幻想的な時計が造形されています。


清水敦作、銅版画。
壁面日時計を描いた優しい雰囲気の作品。鶏はもちろん「時を告げる者」の寓意でしょう。隅にエディションナンバーが「4/100」と入っていて、この蔵書票は100枚刷られたようです。この『自鳴鐘書票廿四時』は、全部で15部刊行されただけなので、残りの85枚が本来の蔵書票用という計算です(たぶん)。


神崎温順(かみさきすなお)作、染色作品。
これは染物を応用した「型絵染」で、型紙と顔料で和紙を染めて作るので、版木を使った版画とは工程が異なります。

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時計の話題は、何よりも太陽と地球の動きとの関連で取り上げているわけですが、そればかりでなく、時計はそれ自体興味深いものです。

人間の作った品で、最も複雑なものが機械式時計…という時代が長かったので、時計は見る者の空想をいろいろ誘いました。金属ケースの中で、絶えず部品がカチカチ、クルクル動いているのを見ると、いろいろな事物――たとえば人体――をそこに重ねて見たくなるし、さらに「この世界には、人間には窺い知れないけれども、確かに見えざる機構があるはずだ」という観念を誘発し、時計は宇宙の比喩にも使われました。

果たして“究極のウォッチメーカー”である<神>はいるのか、いないのか。
まあ、いないのかもしれませんが、作り手なしに、これほど複雑な「時計」が自ずと出来上がったとしたら、それはそれで驚くべきことです。

時計の版画集(前編)2021年01月31日 07時31分53秒

そういえば時計の話をするつもりでした。

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堀田良平(1913-1989)という人名について聞かれたことはあるでしょうか。
名古屋で創業し、後に東京銀座に移った堀田時計店(現・ホッタ)の4代目で、時計に関する文献蒐集家として知られた人です。

以前も書きましたが、国会図書館のサイトには「日本の暦」という特設ページがあって、その中に同館が所蔵する暦関係資料の概略が説明されています。

国立国会図書館の暦コレクション

そこに名前が挙がっているのは、天文学者・新城新蔵(しんじょうしんぞう、1873-1938)の「新城文庫」、占術家・尾島碩宥(おじませきゆう、1876―1948)の「尾島碩宥旧蔵古暦」、近世天文学・暦学研究者の渡辺敏夫(1905-1998)氏の「渡辺敏夫コレクション」、そして堀田氏の「堀田両平コレクション」です(良平が本名で、両平は筆名)。

この顔触れからも、天文学、暦学、時計製作術の近しい関係がうかがえるのですが、その一角を占めるのが堀田氏のコレクションです。以下、上記ページから引用させていただきます。

 「堀田両平は、明治12年(1879)に名古屋下長者町で創業された堀田時計店(現株式会社ホッタ)の4代目。堀田の蔵書は『とけいとこよみの錦絵目録』(堀田両平 昭和46)に収録されているが、当館にはその後の収集と併せて約6,000種が寄贈された。そのうちの3分の1は洋書で、世界で50部出版されたと云うモルガンの『時計の目録』の豪華本など入手困難な稀覯書が少なくない。

 古暦類は伊勢暦をはじめとし、彩々な広告暦、時と時計を象どる錦絵の可能な限りが収集されて、その質と量は抜きんでている。また、時計史・宝石関係の業界出版物なども含まれており、時計への執心は、単なる趣味の域を脱し事業に対する旺盛な研究心の表われとして資料的にも見事な構成を保っている。

 再び収集することが恐らく不可能と思われる資料を寄贈へと踏み切ったことは、堀田の彗眼と度量によるものであろう。」 (「寄贈二話」国立国会図書館月報319号〈1987.10〉より)

…というわけで、時間とコストを惜しまず築き上げた、堂々たるコレクションです。

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例によって知ったかぶりして書いていますが、私が堀田氏のことを知ったのは、わりと最近のことで、きっかけは氏の美しい蔵書票集を手にしたことでした。


(上:帙(外カバー)、下:帙にくるまれた和本仕立ての本)

■今村秀太郎・河野英一(編)
 『自鳴鐘書票廿四時』
 平成2年(1990)、私家版

堀田氏は自らの蔵書を飾る「蔵書票」にも凝っていたようで、著名な版画家にたびたび制作を依頼しました。それらを集めて、氏は生前に2冊の書票集を編み、さらに第3の書票集を企図したものの、実現を見ずに亡くなられました。そこで知友が遺志を継ぎ、氏の一周忌を前に、残された蔵書票を集めて刊行したのが本書です。

私は本好きではあっても、いわゆる愛書趣味は薄いので、蔵書票とも縁がありませんが、これは時計をテーマにした愛らしい小版画集として眺めることができますから、その意味で嬉しい出会いでした。

(この項続く)