太陽の王冠(前編)2020年05月10日 11時10分03秒

地にコロナあれば、天にもコロナあり。
以前、かんむり座のことを書きましたが、太陽のコロナのことはまだでした。

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皆既日食の折り、太陽を包むように神秘の輝きを放つコロナ。


上の画像、右は1851年6月28日、バルト海沿いのリクスヘフト(現ポーランド領ロジェビエ)で観測された皆既日食の図。ヨハン・メドラーが1861年に出版した、『皆既日食、特に1861年6月18日の日食について(Über Totale Sonnenfinsternisse mit besonderer berücksichtigung der finsternis vom 18. Juli 1861)』所載の図で、原図は Dr. C. Fearnley によるものです。

また、左の幻灯スライドは、スコットランドの伯爵天文家のジェームズ・リンゼイが、1870年12月22日、スペインに日食遠征して撮影した像。太陽研究の記録手段も、スケッチから写真へと、急速に変わりつつあったことが分かって、興味深いです。

ところで、この「コロナ」という言葉。
太陽本体からパーッと王冠のように広がっているから、コロナと言うのだな…ということは分かりますが、でも、いつから天文用語として使われるようになったのでしょうか?

そんな些末なことを、自粛ムードのつれづれに考えてみます。

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まず、ウィキペディアで「コロナ」の項を見ると、そこにはこう記されています。

 「1809年、スペインの天文学者ホセ・ホアキン・デ・フェレールは「コロナ」という言葉を生み出した。デ・フェレールはまた、ニューヨーク州キンダーフックでの1806年の日食の観測に基づいて、コロナは月ではなく太陽の一部であると提唱した。」


 「1806年に、ニューヨーク州キンダーフックから観測した日食に関する記述の中で、彼は皆既日食中に観測される明るいリングを指すものとして、『コロナ』という語を作り出した」

…と書かれているので、たぶんこれが定説なのでしょう。でも、これで納得せずに、もうちょっとこだわってみます。

【2020.5.11付記】
 太陽コロナの初出について、HN「パリの暇人」さんから本記事「中編」へのコメント欄でご教示いただきました。それによると、コロナの初出は、1809年どころか、さらに100年あまり前の1706年の由。一部を引用させていただくと、「南仏モンペリエで、Plantade と Clapiès の二人は、1706年の5月12日の皆既日食を観測し論文を書いていますが、その中で、≪"コロナ"(仏語でcouronne)の様な光≫と記述しています」。こうなると、以下に論ずることは抜本的に見直しが必要となりますが、その余力がないので、そのままとしておきます。

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ウィキペディアは、デ・フェレールのオリジナル論文を典拠に挙げています。

■de Ferrer, Jose Joaquin (1809). “Observations of the Eclipse of the Sun, June 16th, 1806, Made at Kinderhook, in the State of New-York”. Transactions of the American Philosophical Society 6: 264. 【LINK

リンク先の264ページ以下が、件の論文になります。
この中に以下のような形で「corona」という言葉が出てきます。

 The disk had round it a ring or illuminated atmosphere, which was of a pearl colour, and projected 6' from the limb, the diameter of the ring was estimated at 45'. The darkness was not so great as was expected, and without doubt the light was greater than that of the full moon. From the extremity of the ring, many luminous rays were projected to more than 3 degrees distance. ― The lunar disk was ill defined, very dark, forming a contrast with the luminous corona; with the telescope I distinguished some very slender columns of smoke, which issued from the western part of the moon. The ring appeared concentric with the sun, but the greatest light was in the very edge of the moon, and terminated confusedly at 6' distance. (pp.266-7)

 (太陽面は一種のリングないし輝く大気に囲まれていた。それは真珠色をして、辺縁部から角度6分のところまで広がり、リングの直径は45分と推定された。暗闇は思ったほどではなく、間違いなく満月のときよりも明るかった。リングの端からは、多くの光線が3度以上の距離まで伸びていた。一方、月面はぼんやりとして非常に暗く、明るいコロナとは対照的だった。望遠鏡を使って、私は月の西側から放出された非常に細い煙の柱を識別した。リングは太陽と同心円状に見えたが、最も明るいのはちょうど月の端の部分で、角度6分の距離でぼんやりと終っていた。)

デ・フェレールの言いたいことは、同誌の巻末に載っている以下の挿図を見ると、よく分かります。

(Transactions of the American Philosophical Society 6(1809)巻末に収録)

この「corona」という語は、同じ「luminous corona」という形で、p.275にもう1回出てきます。でも、上では「明るいコロナ」と一応訳したんですが、思うにこれは文字通り「光の王冠」という、一種の比喩的修辞に過ぎず、そのように訳すべきではないか?…という疑念が、私の中にくすぶっています。

というのも、文章の前後を見ても、彼が「コロナ」を、天文学上の新語として特に意味づけている箇所はありませんし、上図の説明にあたる箇所(p.274)には、次のような簡単な記述があるだけで、「コロナ」に全く言及されていないからです。

 「図版6第1図は、皆既日食を描いたものである。ここで月の周りの輝くリング(luminous ring)は、日食の最中に見えたままを正確に描いたもので、また月面中に見える光は、太陽光線が最初に出現するよりも、6.8秒だけ先行していたと述べるにとどめよう。」(p.274)


(長くなったので、ここで記事を割ります。この項続く)

昼と夜2020年01月09日 21時03分58秒

こんな玩具を買いました。

(棚から出すのが面倒なので、今日の写真はすべて商品写真の流用です)

戦後の東ドイツ製で、おそらく1950~60年代ものでしょう。タイトルの「Sonne-Mond-schießen」は、英語でいうと「Sun-Moon-shooting」の意。



吸盤のついたおもちゃの弓矢で、太陽と月の的を狙う室内ゲームです。
的に矢が当たると、太陽と月がくるくる入れ替わるのを面白がるという、至極他愛ない遊びですが、そこには昼と夜、光と闇の闘争という原始神話めいた構造がほの見えます。

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ここで気になるのは、昼間の太陽はいいとして、「夜の顔」が月でいいのかどうか。

地球から見る月は、星座の間を縫うようにして、天球上を1年間に約12周回ります。もちろん、月が地球の周りを、1年で約12回まわっているからです。

太陽も含めて考えると、その過程で<太陽―月―地球>の位置関係になることもあるし、<太陽―地球―月>の順になることもあります。前者は太陽と共にある月、言うなれば「昼間の月」です。そして後者が、太陽とは反対に位置する「夜の月」。(月相でいえば、前者は新月の前後半月、後者は満月の前後半月です。)

結局のところ、月が顔を見せるのは昼も夜も半々で、特に夜の存在とするには当たらないのですが、どうしても夜の月のほうが目立つし、月相から言っても明るいフェーズなので、夜の顔っぽく思えるのでしょう。この月と夜の結びつきは、古今東西共通するもので、きわめて強固に人類の脳裏に刻み込まれた観念のようです。

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ところで、月は昼間に出たり、夜に出たりするのに、なぜ太陽は昼間にしか出ないのか分かりますか? これは小さい子供に訊いても良いし、ボーッとしている大人に訊いても面白いかもしれませんね。

答はもちろん「太陽が出ている時間帯を昼間と呼ぶから」です。
でも、これは見かけほど馬鹿々々しい問いでもなくて、こういうところから、人はふと「我思う、故に我あり」の理を悟ったりするものです。

太陽シミュレーター2020年01月08日 21時12分34秒

先日来、星が空をぐるっと一周する時間は23時間56分だという話をしています。
では、改めて24時間は何を意味してるのか…といえば、こちらは太陽が空を一周する時間です。そもそも太陽の日周運動を基準に、昔の人が編み出したのが、24時間制です。

ただ、これも厳密に言うと、太陽の日周運動にも季節による遅速があって、常に24時間というわけではありません。平均すると24時間ということです(地球の楕円軌道や地軸の傾きのせいです)。

そうした太陽の動きを、いちばん単純に模した時計を見つけました。


24時間表示の1本足の時計。時針のみで分針はありません。
これ以上ないというぐらいシンプルな構造ですが、これを見ていると、いろいろ考えさせられます。


真ん中を水平に区切る境界は大地です。
大地より上に太陽があれば昼、地面の下に沈めば夜で、それが太陽と月の絵でシンボライズされています。

そして、太陽の動きを表現するのは、この針の動きそのものです。
この時計の中の世界では、毎日朝6時に日が昇り、12時に南中し、18時に日没を迎えます。

実際、赤道付近や、日本でも春分や秋分の頃は、こんな風に太陽が動くわけで、太陽は天然の巨大な時針であり、太陽の動きを模して時計が生まれたことが、これを見ると素直に納得できます。

でも、ここから先はどうか?
この単純なからくりを、さらに正確な太陽シミュレーターとするには、どこを改良すればよいのか?…ということになると、話は途端に難しくなります。私にも何をどうればいいのか分かりませんが、その試みは、たぶん古代の天文学の発展のあとをなぞることになるでしょう。


ちなみに、メーカーはスヴァールバル社(Svalbard Watches Ltd.)。
タックス・ヘイヴンの関係で、キプロスが会社所在地になっていますが、実際の本拠はイギリスのようです。

日食を愛でる2019年01月07日 21時55分37秒

昨日は部分日食でしたが、私は最後の寝正月を優先したので、頭上の天体ショーを楽しむことなく、寝床でグーグー寝ていました。

何はともあれ、震えるような寒さの中でも、一陽来復の春の到来。
寒期の今だからこそ、お日様を見上げて、巨大な恒星が生み出す膨大な光と熱を想像しつつ、その確かな片鱗が、いま自分の身体に降り注いでいるのだ…と、しみじみ実感することができます(夏場は、とてもそんな余裕は持てないでしょう)。

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日食といえば、最近、こんな素敵な品を見つけました。


真鍮、ピューター、銅、三色の金属素材を組み合わせて作られた「日食ブローチ」(左右の幅は6.8cm)。


(裏側の表情)

古いものではなく、マサチューセッツの「TaylorCustom」というメーカーの現行品です。


ブローチにはこんな説明書も同梱されており、これが見てくれだけでなく、正確に食現象を再現したアクセサリーであることが分かります。天文絡みのイベントに赴く際、こんなのをさりげなく身に着けたら、ちょっと気が利いているかもしれませんね。いわば胸元を飾る天体ショーです。

(綾なす半影と本影、皆既食と部分食)

宇宙の謝肉祭(その4)2017年11月14日 23時05分24秒

これまたエクスに登場した天文モチーフの山車。
題して、「月の恋人たち(Amoureux de la lune)」


キャプションには年次も回数も記載がありませんが、消印から1915年の出し物と分かります。


それにしても、これは何なんでしょう?
アンパンマン的な何かと、バイキンマン的な何かを、大勢の天文学者が望遠鏡で覗いている情景ですが、いったいこれは何を言わんとしているのか?

(一部拡大)

そのコスチュームとタイトルを見比べて、じっと考えた結論として、これは「太陽と月の結婚」である<日食>を表現しているのではないかと思いつきました。つまり、白いのが太陽、黒いのが月で、彼らがひたと頬を寄せ合うとき日食が起きる…という、古くからのイメージを表現した出し物という説です。

(Pinterestで見かけた出典不明の画像)

ただ、この前後にフランスで皆既日食が見られたら、話がきれいにまとまるのですが、どうもそういう事実はなくて、1912年4月17日に観測された皆既日食(+金環食のハイブリッド日食)が、ちょっとそれっぽく感じられる程度です。

(パリ天文台が行った飛行船観測による画像。

まあ、いくら100年前でも、3年前の出来事が「時事ネタ」になることはないでしょうから、これは特定の日食を表わしているというよりも、天文趣味に染まった山車の作り手の脳裏に、この年はたまたま日食のイメージが浮かんだ…ということかもしれません。

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エクスの町における「宇宙の山車」の始点と終点は不明ですが、少なくとも1910-12年と1915年に登場したのであれば、当然、中間の1913-14年にも作られたでしょうし、その前後も含め、まだまだ奇想の山車はあるはず…と睨んでいます。

今後も類例が見つかったら、随時ご報告します。(我ながら酔狂な気はしますが、まあ実際、酔い狂っているのですから仕方ありません。)

(この項いったん終わり)

空の旅(15)…日食地図2017年05月04日 10時23分20秒

今回の「空の旅」はレプリカも多くて、ちょっと展示に弱さがありました。
それを補う、何かアクセントになるものを入れたいと思って、19世紀初めに出た美しい「日食地図」をラインナップに加えました。

(販売時の商品写真を流用)

■Cassian  Hallaschka(著)
 『Elementa eclipsium, quas patitur tellus, luna eam inter et solem versante
  ab anno 1816 usque ad annum 1860』
 (地球と月、そしてそれらが巡る太陽との間で生じる1816年から1860年までの
 日食概説)


「1816年にプラハで出版された日食地図。1818年から1860年にかけて予測される日食の、食分(欠け具合)と観測可能地点を図示したもの。日食の予報は、天文学の歴史の中でも、最も古く、最も重要なテーマのひとつでした。」


オリジナルは107ページから成る書籍ですが、手元にあるのは、その図版のみ(全22枚ののうちの11枚)を、後からこしらえたポートフォリオ(帙)に収めたものです。
その表に貼られているのは、オリジナルから取ったタイトルページで、図版はすべて美しい手彩色が施されています(各図版のサイズは、約25.5cm×19.5cm)。

(タイトルページに描かれた天文機器)

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ここでネット情報を切り貼りして、補足しておきます。

著者のフランツ・イグナーツ・カシアン・ハラシュカ(Franz Ignatz Cassian Hallaschka、1780-1847)は、チェコ(モラヴィア)の物理学者。
ウィーンで学位を取り、母国のプラハ大学で、物理学教授を長く勤めました。今回登場した『日食概説』も、同大学在職中の仕事になります。

上記のように、日食の予報は洋の東西を問わず、天文学者に古くから求められてきたもので、その精度向上に、歴代の学者たちは大層苦心してきました。

そうした中、ハラシュカが生きた時代は、ドイツのヴィルヘルム・ベッセル(1784-1846)や、カール・ガウス(1777-1855)のような天才が光を放ち、天文計算に大きな画期が訪れた時代です。ハラシュカの代表作『日食概説』も、日食計算の新時代を告げるもので、そうした意味でも、「空の旅」に展示する意味は大いにあったのです。


さらに、この地図の売り手が強調していたのは、当時まだ未踏の北極地方の表現が、地図史の上からも興味深いということで、確かにそう言われてみれば、この極地方のブランクは、科学の進歩における領域間の非対称性を、まざまざと感じさせます。(北極以外も、このハラシュカの地図には、16世紀の地図のような古拙さがあります。)


遠くの天体の位置計算がいかに進歩しようと、足元の大地はやはり生身の人間が目と足で確認するほかないのだ…などと、無理やり教訓チックな方向に話を持って行く必要もないですが、当時はまだ広かった世界のことを思い起こし、そこから逆に今の世界を振り返ると、いろいろな感慨が湧いてきます。


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▼閑語(ブログ内ブログ)

ハラシュカの地図じゃありませんが、生活者たる身として、遠い世界と同時に身近な世界のことも当然気になります。

安倍氏とその周辺は、公然と改憲を叫び、共謀罪の成立を目指しています。
その言い分はすこぶるウロンですが、それを語る目元・口元がまたウロンです。

何せ、スモモの下では進んで冠を正し、瓜の畑を見ればずかずかと足を踏み入れ、そして袂や懐を見れば、何やらこんもり重そうに膨れている…そんな手合いですから、その言うことを信じろと言う方が無理です。

彼らは冠よりもまずもって身を正すべきです。
議論は全てそれからだと私は思います。

古暦2016年12月31日 19時43分54秒

年賀状も書き、大掃除も済ませ、さてカレンダーを掛け替えようと思ったら、「そういえば、まだカレンダーを買ってなかったな」と気づき、買いに行ってきました。

何となく買い置きがあったような気がしたのですが、よく考えたら、それは一昨年の年末のことで、自分の頭の中では2年前と今の記憶がごっちゃになっていて、そんなことがあると、自分もいよいよか…と思います。

用済みの暦はそのまま捨ててしまいましたが、一年間世話になった古暦というのは、何となく人間臭さが伴うものです。俳句では歳末・冬の季語。

  引き裂いて鰯包むや古暦   高井几董
  古暦水はくらきを流れけり  久保田万太郎

古暦は過去の象徴として、懐かしくもあり、同時に振り捨ててしまいたいものでもあり、それはちょうど新しい暦が、期待と不安を感じさせるのと対になるものでしょう。

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気前よく鰯を包むのに使われたりする一方で、暦はお上から特に許しを得た版元しか発行できない時代が長かったので、貴重なもの、有難いものという観念も伴っており、昔は古暦を大事にとっておく人が少なからずいました。今でも昔の暦がたくさん残っているのは、そのせいでしょう(和紙が貴重だったということもあるかもしれません)。


上は嘉永二年(1849)の会津暦。
会津暦は会津地方で印刷された地方暦の一種ですが、暦の日付けそのものは、江戸の幕府天文方の暦算に拠っています。(脇に書かれた「江戸暦 鈴木より至〔到〕来」というのは、その辺の事情を何か伝えているのかもしれません。)

この年は酉年で、干支でいうと己酉(きゆう、つちのととり)。
干支は周知のように60年で一回りするので、1849年の次は、1909年、1969年…と来て、来年の次の酉年、すなわち2029年は再び己酉の年になります。前回の酉年のことを思うと、2029年の酉年も、きっとあっという間に訪れることでしょう、

「明治百年」の祝賀行事を記憶する者として、黒船の時代からもう180年か…というのも感慨深いですが、アポロの月着陸から数えてもう60年か…というのは、いっそう驚きです(いずれも12年後の話です)。そして、蒸気船から月ロケットまで、わずか120年で走り抜けた人類の速力にも改めてビックリです。


まあ、何にしてもそれほど遠い昔のことではないのですが、江戸の人はマゲを結って、こんな暦を使って、煤けた家に暮らしていたわけです。

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ときに、暦をめくっていたら、日食の記事があって「おや?」と思いました。
すなわち二月一日の項には、「日そく〔蝕〕九分半 五時三分右の上より欠けはじめ四時甚だしく四時八分左の上におはる」とあります。

Wikipediaを見たら、果たして「1849年2月23日(嘉永2年2月1日)江戸をわずかに外れて金環食が通った」とあって、煤けた家でマゲを結っていても、やっぱり幕末の人は、かなり正確な時の流れの中で生きていたのだなあ…と再び思い直しました。

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…と古暦を見ながら、いろいろ思いにふけっているうちに、いよいよ今年も終わりが近づいてきました。
今年一年、「天文古玩」にお付き合いいただき、ありがとうございました。
来たる年が、どうか皆さんにとって良い年でありますように!


【付記】

なお、上の暦に押された「禁出門 治三郎文庫」の朱印は、印刷業界人にして日本印刷史の研究家でもあった、故・牧治三郎氏(1900-2003)の旧蔵品であることを示し、虫喰い跡のある古暦を丁寧に補修したのも、おそらく同氏の仕事でしょう。

デ・ラ・ルーとその時代(4)2016年10月24日 06時59分20秒

さて、トランプの話題から、「天文家ウォレン・デ・ラ・ルー」の話題に移ります。

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ウォレンの父親である、トーマス・デ・ラ・ルー(デ・ラ・ルー社の初代社長)の方は、出身地ガーンジー島に同名の人気パブがあったり、また自治領発行の5ポンド紙幣に肖像画が描かれたりしたおかげで、今でも地元では有名人です。それにひきかえ息子ウォレンは、そのすばらしい科学的業績にもかかわらず、半ば忘れ去られた存在となっています。

…というのは私が言っているわけではなく、BBCのページにそう書かれていました。
まあ、BBCがそう言うのですから、ウォレンは一般には過去の人には違いないのでしょう。

(港の見えるパブ 「トーマス・デ・ラ・ルー」。
http://www.liberationgroup.com/pubs/thomas-de-la-rue

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しかし、ウォレンの名は、天文趣味の歴史において決して落とすことができません。
何と言っても、彼はアマチュア天文家として、天体写真の撮影に熱心に取り組んだ最初期の一人であり、現代の天体写真マニアにとって偉大な先達だからです。

ウォレンの名は、小暮智一氏の『現代天文学史』にも1か所だけ登場します。
それは1860年のスペイン日食の際の業績で、彼はこのとき得意の写真術を使って、太陽光球部の縁に「赤い炎」――すなわちプロミネンスを見出したのでした。
このニュースが、やはり当時はまだ一介のアマチュア天文家だった、ノーマン・ロッキャー(1836-1920)に、プロミネンスの分光観測を決意させ、やがて新元素「ヘリウム」の発見につながったのです(同書177-8頁)。

(ウォレンの写真を元にした石版画。アメデ・ギユマン『Le Ciel』より)
 

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そして、ウォレンの名をいっそう高めているのが、月面写真家としての顔です。

彼は太陽以前に、月の写真撮影に熱心に取り組み、それによって月面の地形変化を探ろうと試みました。その試みは必ずしも成功しなかったのですが、彼の手になる月写真は、19世紀人の嗜好に叶い、立体写真の形で一般にも広く流通しました。

月のステレオ写真というと、ヤーキス天文台の写真を元にしたキーストーン社のものがポピュラーで、ほかにも19世紀末から20世紀にかけて、いろいろなメーカーから出ていますが、1850年代(江戸時代!)にさかのぼるデ・ラ・ルーの月写真は、その嚆矢と言えるもので、歴史的に大きな意味があります。

(1910~20年代に出たらしい、キーストーン社のステレオ写真)

(長くなったのでここで記事を割ります。この項つづく)

1878年、パリでのある試み2016年06月26日 10時17分17秒

無線通信技術の歴史は、1872年、アメリカのマーロン・ルーミス(1826-1886)が、無線通信に関する特許を取得したことに始まります。その後、エジソンやマルコーニらの技術開発競争があって、無線通信は急速に実用化されていきました。

ちょうど同じ頃、1877年に、イタリアのスキャパレリが火星の「運河」を報告し、高度な文明を持った「火星人」の存在が、急速に実証科学の研究対象として俎上に乗ることになりました(火星人の存在そのものは、それ以前から多くの人の好奇と思弁の対象となっていましたが、それが改めて「観測」の対象となったわけです)。

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こうした科学と技術の大変革期に開催された、1878年のパリ万博では、数々の奇想科学の成果が花開きました。

フランスのオーギュスタン・ムショー(Augustin Mouchot、1825-1911)による、火星人――あるいはさらに遠くの異星人――と、電波を使って会話するという試みは、その最大のものといってよく、ムショーの天才が生み出した銀色のパラボラアンテナは、夕闇迫るパリの公園から天空を睨み、火星人や金星人との対話という、前代未聞のデモンストレーションを繰り広げて、人々を大いに驚かせたのです。

(A. Mouchot, La Chaleur Solaire et ses Application Industrielles. Gauthier-Villars (Paris), 1879. 挿図より)

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…というのは、まったくのウソです。

19世紀のパリに、本当にパラボラアンテナが登場していたら、オーパーツ的で面白いのですが、もちろんそんなはずはありません。上の品の正体は「太陽光集熱器」です。

先日、antique Salonさんを訪ねたとき、オーナーの市さんが「そういえば、こんなのを送ってきましたよ」と言って、フランスの某古書店のカタログを貸してくださり、パラパラ見ていたら、上の図が目に留まり、瞬時に上のような空想が浮かんだので、出来心でウソをつきました。すみません。

ときに、私はぜんぜん知らなかったのですが、ムショーは太陽エネルギーの利用史では有名な人だそうで、「Augustin Mouchot」で検索すると、上の図も含め、その発明品の数々が、ずらずら出てきます。

まあ、通信はウソにしても、天体から放出された電磁波を受け止めて、それを人間の役に立てた…という意味で、ムショーが偉大な先人であったことはウソではありません。

疾走する太陽の光2016年06月06日 07時01分38秒



いつもの棚から窓辺に移された砂時計。


モノ自体は、木枠に収められた、何の変哲もない砂時計です。
しかし、この砂時計はある「事実」を表現しており、それ自体シンボリックな存在です。


木枠に刻された文字。
In this time: sunlight reaches Earth

太陽から地球までの距離は、光の速さで約8分20秒。
すなわち、我々が目にする太陽は、8分20秒前の姿です。
その8分20秒という時間を、砂時計で表現したのが、この「太陽の光の砂時計」なのでした。

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この品は、有)リビングワールドhttp://www.livingworld.net/)から2008年に発売され、今も売られている現行商品です。

太陽の光の砂時計(木枠版)
 http://www.livingworld.net/shop/sol_frame/


サラサラと落ちる白い砂。


二つの世界を結ぶ通路を滑り抜け、砂は「こちら」と「向う」を行き来します。

これは時を測る実用品ではなしに、それを見て何かを感じるための品です。
それは太陽の存在であったり、宇宙の大きさであったり、長大な空間を越えて光が走る姿であったり、人によって様々でしょうが、たしかに人はそれを見て何かを感じます。

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私がこれを購入したのは2009年11月、今から6年6か月前のことです。
あの日太陽を出発した光は、今やケンタウルス座α星やバーナード星といった、太陽に最も近い恒星たちを越えて、さらに遠い旅を続けているはずです。

そして、それは太陽の光だから、そんな壮大な旅をしているわけではなくて、部屋の窓から洩れる微かな灯りも、やっぱりそんな途方もないスピードで、宇宙空間を駆けているに違いなく、そんなことを思いながら、この砂時計を眺めると、たしかに何かを感じます。