古の神戸を歩く… Landschapboek 新装開店記念2012年03月28日 21時14分38秒

貧窮スターゲイザーの件は、慎重を期して少し寝かせておきます。

さて、神戸のランスハップブックさんが移転し、3月24日にリニューアルオープンされました。新店舗は、生田街道を越えた、以前よりもちょっと北寄りの場所。

http://www.tit-rollo.com/lands.html
 〒650-0004 神戸市中央区中山手通3-4-1

下のオンラインショップのページで、店内風景のスライドショーを見ることができます。喜ばしいことに、ヴンダーな味わいは依然健在。

http://landschapboek.muse.bindsite.jp/

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春を迎え、神戸散歩を楽しまれる方も多いと思いますが、こだわりのそぞろ歩きのお供に、古い神戸地図を一挙掲載します(一部は以前も掲載しましたが、今回はより広域を、より精細な画像で載せます)。以下は大正12年(1923)に駸々堂が出した地図のスキャン画像。

まずは神戸東部エリア。現在の三ノ宮駅(=地図の左端に見える「(阪神)三宮駅」の位置がそれ)から東一帯の地区です。東の端っこ(欄外)には、稲垣足穂が通った、昔の「関西学院」も見えます。


次いで旧三ノ宮駅(現元町駅)を中心とした神戸中央エリア。トアロード、旧居留地を含む、最もハイカラな地区です。


最後は神戸西部エリア。神戸駅周辺およびその西側の地区です。


おまけに記号凡例。


春の深更、足穂の霊気を感じながら、神戸の街をコツコツ徘徊するのもいいかもしれませんね。

2011 足穂忌2011年10月25日 07時17分11秒

今日は稲垣足穂(1900-1977)の命日。
京都ヴンダー散歩の連載は1回お休みして、故人を偲ぶ一日とします。

「天文古玩」では、この日、彼にちなむ品を仏前に供えるのが例ですが、今年はまた至極好適な品を見つけました。
↓は1870年代の古いシガーラベル、すなわち箱詰め葉巻に貼られた商標ラベルです。
アメリカ製のリトグラフで、サイズは約15×23cm。


タルホ氏も今年で111歳の川寿(せんじゅ)を迎えられます。
そろそろシガレットばかりでなく、三日月相手にシガーでも嗜んでいただいてはいかがかと、僭越ながら思いました。

(自らに焼香。あるいはシガーで乾杯。)

それにしても何とニクイ絵柄ではありませんか。

【おまけ/10月26日記】
上の絵から連想する足穂作品は、「月とシガレット」(『一千一秒物語』 所収)

ある晩 ムーヴィから帰りに石を投げた
その石が 煙突の上で唄をうたっていたお月様に当たった お月様の端がかけてしまった お月様は赤くなって怒った
「さあ元にかえせ!」
「どうもすみません」
「すまないよ」
「後生ですから」
「いや元にかえせ」
お月様は許しそうになかった けれどもとうとう巻タバコ一本でかんにんして貰った

上の絵ではご両人とも、妙に和気あいあいとしています。
まあ、折れた巻タバコよりは、「葉巻をどうぞ…」とやった方が、相手も悪い気はしないでしょう(たぶん)。

足穂の里へ(10)2011年09月19日 19時28分16秒

さて、しょうもない話はおいといて、明石紀行の完結編です。
考えてみれば、明石を訪問してからもう1ヶ月も経っているので、時候遅れもいいところですが、この一文を終える前に、どうしても訪ねておかねばならない場所があります。
浄土宗・無量光寺です。

ここは明石川の河口に近く、足穂の祖父の家の近所でもあるので、今回の明石探訪では最初に立ち寄った場所ですが、話の順序として、記事にするのはいちばん最後に回しました。

(左に無量光寺、右寄りに連載の初めの方で登場した浄行寺や岩屋神社が見えます。足穂にとっては馴染み深い一角。)

30過ぎで明石に戻った足穂の生活は、ある意味、この寺を中心に回っていました。
当時の住職は、足穂の友人である小川龍彦。彼は東京遊学中にトルストイの翻訳を手がけるなど文学志向の人で、明石では当時流行の民芸運動に関心を持ち、境内に窯を築き、自ら作陶にふけるほどの入れ込みようでした。足穂は彼の善良な資質を好ましく思い、その好意にかなり甘えていたと思います。彼は一時ここの庫裏に寄寓し、そこから実家に通うような生活を続けていました。

(南を向いた山門はなかなか立派です。)

その夫人が、作中では「奥さん」あるいは「O夫人」として登場する小川繁子です。
彼女はプロレタリア演劇からスタートした俳優・薄田研二の実妹で、才気煥発なハツラツとした女性でした。足穂と彼女の関係は、地方新聞のゴシップとなりましたが、足穂にとって彼女は恋着の対象というよりも、精神的マドンナのような存在だったでしょう。

(山門の向かって左、土塀沿いに明石川の方へと続く「蔦の細道」。その昔、光源氏が想いを寄せる明石上のもとへと通った道だとされます。もちろん後世付会したフィクショナルな旧跡です。)

足穂は繁子の励ましによって、自選集「ヰタ・マキニカリス」の編纂に着手し、繁子はそのための特製原稿用紙を彼にプレゼントしました(心憎い配慮!)。また足穂が古着屋を始めたとき、貴重な時間を割いて熱心に手伝ってくれたのも彼女でした。足穂にとっては、実に頼もしい異性の友人です。

(本堂前の灯籠は大正時代に作られたものなので、足穂も親しく見たでしょう。)

また、無量光寺で暮らしていたころ、彼の精神生活において重要な位置を占めたのが、当時まだ中学生(今なら高校生)だった年若い友人の存在で、足穂は彼と非ユークリッド幾何学やら三体問題やらを語らって、心を慰めました。まあ、実際には、この天才肌の中学生の方が、足穂よりも一層進んだ数学趣味を持っており、足穂の方が少々受け太刀になっていた気配もあります。この友人はやがて肺を病んで帰らぬ客となりましたが、彼の思い出は、その後「菟(うさぎ)」という短編にまとめられました(作中では、彼は少女として描かれています)。

(本堂から山門をふり返る。左手が庫裏。右手は今も続く窯場。)

(庫裏。足穂当時と同じ建物かどうかは不明。)

足穂の第2期明石時代は、外面的にはどうしようもない、酒びたりで、その日暮らしの、野放図な生活でしたが、これら浮世離れのした人間模様の中で、足穂が本格的な天文趣味にのめりこんでいったのは見逃せません。小川住職夫人・繁子に星座の手ほどきをすることに始まり、お手製の天球儀を作ったり、小形望遠鏡を買いこんで物干し場で筒先を振り回したり、最新の宇宙論を読みふけったり…。
彼がイメージ先行の宇宙的郷愁の徒で終わらなかったのは、この時代の経験が下地になっているからで、彼の作家的成長にとっては重要な時代だったと言えます。

(この項おわり。とりあえずこれで明石を後にして、神戸へと引き返します。)

足穂の里へ(9)…番外編・天文科学館(後編)2011年09月16日 05時48分24秒



子どもたちに人気の手回しオーラリー…と書きたいところですが、たいていの子どもはグルグルとハンドルを2、3回まわしただけで、ダーッと次の展示に走っていきます。惑星の公転は、あまり子どもたちの興味を引く対象ではないようです。

(「オーラリーについて講じる哲学者」 ジョゼフ・ライト画 油彩 1766年頃.
出典:http://en.wikipedia.org/wiki/File:Wright_of_Derby,_The_Orrery.jpg

かつては、大人も子どももオーラリーに夢中という時代もあったのに、現代人には、当時の人々の心境を想像するだけでも一苦労。まあ、人間の視野の広がりを喜ぶべきかもしれませんが、現代の科学館の担当者の苦労も多とせねばなりません。


昔の北京天文台に置かれた(今もあるはず)渾天儀のミニチュア。
(以前、コメント欄で渾天儀の模型があったら欲しいという声があったのを思い出しました。たぶん、中国現地に行けば、類似の品が土産物として売られているのではないでしょうか。)


かつて記事(http://mononoke.asablo.jp/blog/2009/11/18/4703549)にしてから、2年目にしてついに対面した、カール・ツァイス・イエナ製のプラネタリウム。
現役としては国内最古、世界でも5本の指に入るという古参兵の雄姿と、「にっぽんの伝統話芸」とも呼ぶべき生解説の魅力を、心ゆくまで堪能してきました。

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以下、おまけ。


天文科学館のお土産のポップアップカード。(100円也)


天文科学館のリーフレットより。これぞ日本のローズライン。明石には東経135度を示すモニュメントがいろいろあります。


天文科学館に行く前に、付近をぶらぶらしている時に見つけた、国道沿いの標柱(昭和8年=1933年建立)。現在は鞘状の覆いですっぽり覆われて、ちょっと窮屈そうです。

(天文町のバス停)

この辺は前述のように寺社も天文尽くしですし、おまけに「天文町」という町名までできています。天文趣味の徒にとっては端倪すべからざるエリアです。


天文町1丁目1番地に暮らすなんて、なんだか素敵じゃないでしょうか?


(この項つづく。次回は明石最後の目的地、無量光寺を目指します)

足穂の里へ(8)…番外編・天文科学館(前編)2011年09月14日 21時37分25秒

さて、記事の間隔が開きましたが、おもむろに天文科学館へと向かいます。


天文科学館は昭和35年(1960)にできた施設で、昨年50周年を迎えたところです。
同館の公式サイト(http://www.am12.jp/)によれば、当初はここに国立天文博物館を誘致する計画があったそうですが、宇宙開発ブームの追い風を受けて、市民もだいぶ盛り上がったらしく、結果的に市単独の施設としてオープンすることになりました。

そんなわけで、ここは明石時代の足穂とは直接関係ありませんが、明石に来た以上、ここを素通りするわけにはいきません。ここは足穂を離れて、自由に見学させてもらうことにします。

訪問する前は、なんとなく昭和3~40年代の匂いのする施設を想像していたのですが、50周年を期に全面リニューアルをしたばかりということで、予想とは違って平成の匂いがしました。子どもたちを中心にお客さんも多く、まだまだ元気いっぱいの科学館の姿を見ることができました。

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これは!! 忘れていた友にふと出会った気分。
昨年、神戸の金星台を訪問した記事の中で、この子午儀については触れました。



運のいいことに、臨時の展示で、その際の一件記録も見られました。

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明石は「日本標準時のまち」が売り物ですから、天文学の展示に加えて、「時(とき)」に関する展示に力を入れているようです。



(↑時刻の決定とは切っても切れぬ関係の、星の南中を観測するクラシカルな機器類。)

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天文学史のコーナーには、ハーシェルの業績を示すキャビネットが置かれていました。


(↑ハーシェル作、40フィート大望遠鏡の精巧な模型。)


ハーシェルの扱いが大きいのは、個人的に嬉しかったです。

(なんとなくダラダラ続く)

足穂の里へ(7)…タルホ・スコラ学2011年09月10日 09時29分39秒

足穂の旧居をピンポイントで探す…。なんだか、ものすごく瑣末なことにエネルギーを注いでいる気がします。まことに弾みとは恐ろしいものです。あまり世の中の役には立ちそうにありませんが、参考までにその「成果」を記します。

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足穂の家が、明石の駅前通り(通称「明石銀座」)、町名でいえば昔の錦江町にあったことは、すでに述べたとおりです。では、この街路のどこに彼の家はあったのか?

その答は、意外なことに『明石市史 下巻』(昭和45)に書かれていました。(公の出版物が足穂に言及していること自体驚きです。足穂は郷里でまったく無視されているわけでもない…というのは、一寸心温まる事実。)

『明石市史』の「明石と文学」という節(p.412)には、稲垣足穂は幼少期を駅前の神明国道の交差点、いまの三和銀行のある辺りで過ごした。昭和十年ごろ、再びその家に帰ってきて、一年ほど古着屋を経営したとあります(『明石市史』、p.412)。

三和銀行は今の三菱東京UFJ銀行で、明石支店の場所は昔と変わっていません。
したがって、足穂の家は、明石銀座と神明国道(国道2号)の交差点の西南角付近だったことが判明しました。

 
足穂の「父と子」には、左隣の安玩具と駄菓子を並べている小店の主人は〔…〕更に隣二軒目家具商の老婆は〔…〕更に先の一杯飲み屋のおやじは」云々とあるので、その家は角から2、3軒南に寄った場所らしく思えます。私が入ったお寿司屋さんは、UFJからちょうど3軒南なので、かなりいい線行ってたことになります。メデタシメデタシ。

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さて、ここまではわりと単純な話。ここから話は少し難しくなります。
常連コメンテーターのS.U氏は、9月4日の記事へのコメントとして、次のような問題を提起されました。一部引用させていただきます。

「『彼等(they)』収録の(河出文庫版、初出本も同じ)「菫とヘルメット」の冒頭から以下の記述があります(以下引用)。

 私は、納屋のうしろに小さな菜園を持っていた。
 その正面には、お城の外濠を埋めた名残の小流れがあって、向こうから水はやってきて、私の小園芸場の前で左折し、ちょうど向こう岸に立っている石榴の木を、(後略、引用終)

 別の作品に出てくるように「石榴の木」のある家は、足穂邸の「裏」の家ですから、「その正面」というのは西の方向になります。従って、足穂の屋敷の西の境界が外濠の向きが変わって南北になっていた部分であることになります。」

問題は、上の推定とこの文章の記述がうまく整合するかどうかです。これは難問。
小川・菜園・住居・街路の位置関係をいろいろ考えてみたのですが、何だか頭がごちゃごちゃになって、よく分かりません。よし、ここは考えるより行動だ!と思って、昔の地図に当たってみることにしました。

まず外堀の位置を確認します。明石城の古地図は、これまたS.Uさんにご紹介いただいた、下記のページで見ることができます。

■探って探って明石城(3) (by 若葉マークの都市建築研究所様)
 http://blogs.yahoo.co.jp/momonakai/16052420.html

この図と、明治の陸測図を比較すると、旧外堀の位置がはっきりします。
下は明治19年測図(明治20年製版)の「仮製地形図」です。


まだ外堀の大半が残っており、がらーんとした郭内(外堀の内)と城下の密集した町場の対照が鮮やかです。

次は明治29年測図/明治45年改版の「正式地形図」。ちょうど足穂が幼い菜園作りに励んでいた頃の明石の様子です。


外堀は大部分埋め立てられましたが、なんとなくその跡をたどることができます。一部には土居も残っています。鉄道が開通し、郭内にも人家が増えてきた様子が分かります。

さて、問題は足穂の言う「小流れ」の位置ですが、明治45年改版の「正式地形図」にじっと眼を凝らすと………あった!!
一部を拡大します。


お分かりになるでしょうか。分かりやすいように、小流れを青、緑地(注)を緑、足穂宅周辺の家並みを赤で塗ってみます。ついでに「石榴の木の家」と思われる位置も記入してみました。

(注:符号凡例にも見当たらないので、この斜線網掛け部分の意味が今ひとつ分かりません。後の地図記号だと建物と組み合わせて「樹木に囲まれた居住地」を表します。おそらく、耕作地でもなければ樹林でもない、かといって荒地でもない「雑緑地」や「空閑地」の意味だと思います。)


私は最初、「菫とヘルメット」を読んだとき、足穂の家は町の真ん中のはずなのに、何だか妙に郊外めいた風景描写が続くので、少なからず違和感を覚えました。でも、この地図を見ながら下の描写(一部再掲)を読むと、その光景が納得できるような気がします。

 「私は、納屋のうしろに小さな菜園を持っていた。

 その正面には、お城の外濠を埋めた名残の小流れがあって、向こうから水がやってきて、私の小園芸場の前で左折し、ちょうど向う岸に立っている石榴(ざくろ)の木を、無数の銀色リボンのように縒(ねじ)れ動く表面に映していた。私の園には樫が二本ならんで立っている。ここは最初は踏み慣らしたような固い地面だった。表側にわれわれの住いが建って以来、暇があるたびに手入れをすると、こんどは、うっかりしていたら忽ち雑草だらけになってしまうような場所に一変したのである。
 〔…〕
 幾つかの春、また同じ数の秋々を通して、私の園には、プリムラやポピーや、スヰートピーや、アネモネや、更に蝕んだ薔薇だの、いじけたような胡瓜だの南瓜だのが出来た。この空地の右側には無花果の樹が数株ならんで、その先には、何人が作っているのかやや正式な菜畑があって、シーズンにはしょっちゅうひらひらしている白い蝶がいた。納屋の前には撥釣瓶(はねつるべい)のついた井戸があり、この傍らでは、少女達が、松葉牡丹や朝顔や鳳仙花やコスモスなどを作っていた。そこにはカナリヤの墓もあった。」 (「菫とヘルメット」)

幼い足穂には、この小さく細長い緑地帯が、とても大きく感じられたのでしょう。それに足穂の家はぎりぎりで旧郭内になるので、その少年期には、一歩裏手に入れば空き地もあるし田んぼもあるといった環境で、記述が妙に郊外めく理由も分かります。

S.Uさんの設問に戻って、1つ疑問として残るのは、「向こうから水はやってきて、私の小園芸場の前で左折」という記述です。普通、川の左右は下流の方を向いたとき左か右かで表現するので、図が正しければ、ここは本来「右折」と書くべきところです。しかし、足穂は「自分から見て左方向に(向かって左手に)曲がる」という意味で、こう書いたのでしょう。

   ★

ついでですから、この足穂旧居が正確に現在のどの地点になるのか、確認します。
補助図として、昭和9(1933)年の地図(「明石市街全図」、赤西萬有堂)を示します。


これは足穂が父を亡くし、古着屋を始めたころの町の様子です。
足穂の家の北側には、前年に開通したばかりの国道2号の大動脈が東西に走っています。足穂の家の北側に元からあった道路もその一部となりましたが、幅員は主に北に向かって広げられたので、足穂の家の正面から東に伸びる通り(桜町筋)はそのまま残っています。

で、これを現代の地図と比べると、足穂旧居の位置は、「三菱東京UFJ銀行明石支店の付近」というよりも、「明石支店そのもの」であることがはっきりします(赤丸)。


参考として、足穂が眺めた「小流れ」の位置を青で描き込んでみました。東半分はちょっと自信がありませんが、足穂宅から西の部分は、現在の敷地割の境界線ときれいに重なっているので、ほぼ間違いないでしょう。なお、黄土色で囲ったのは、明治の地図において点描で表現されていた、旧外堀の土居に相当すると思しい区域です。

   ★

なんだか疲れましたが、とてもスッキリしました。
今の私は、ちょっと「ドヤ顔」になっているかもしれません。(馬鹿者也)

足穂は何処に2011年09月08日 22時23分14秒

記事の更新が止まっていますが、現在、足穂の旧居探しに注力中です。
かなり近くまで接近したと思うのですが、もう少し情報を整理してから記事にします。(あまり訂正ばかりだとみっともないので。)

足穂の里へ(6)2011年09月05日 20時27分06秒

さて足穂探訪は、明石銀座をさらに北上し、こんどは駅北エリアを見に行きます。

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足穂は、小学1年生の2学期に大阪から転校し、明石第一尋常小学校に通いました。
場所は明石駅のすぐ南、今ではTSUTAYAやジュンク堂が立っている一角です。第一尋常小学校は、足穂が卒業後の大正12年に、赤石尋常高等小学校(現・明石小学校)が、お城のすぐ東隣に移転した際、そこに統合されました。ですから、母校そのものは無くなってしまいましたが、強いて言えば明石小学校がその後身。
 
(明石小学校。向こうに見えるのは明石市立天文科学館の展望塔。)

   ★

ここから東の天文科学館に向けて歩きます。
それにしても、この天文科学館のロケーションはどうでしょう!
持参のポケット地図をしげしげと見て、それに気付いた時、私がどれほど感動したか。それがグーグルの地図では伝わらないと思い、版元の昭文社に詫びつつ、写真を撮らせてもらいます。赤丸で囲んだ寺社名が見えますか?
 

東経135度の子午線にちなんで科学館建設の議が起こる前から、ここには星を祀る「妙見社」があり、「月照寺」があり、「雲晴寺」がありました。そして、足穂はこの月照寺で、あの「星を売る店」を書いたのです。星と足穂を愛する人にとって、ここがただならぬ土地であることがお分かりでしょう。

まずこれらの寺社にお参りしてから、天文科学館に向かうことにします。

  ★   ☆   ★

◆妙見社◆
 

北斗ないし北極星を祀る妙見信仰は、神仏混交の最たるもので(というよりも、本来は神・仏いずれでもなく、道教系かもしれませんが)、ここも隣接する日蓮宗・本松寺と一体のものとして営まれ、現在も同寺の守護神として扱われています。

◆月照寺◆
 

正式名称は「曹洞宗人丸山月照寺」。江戸時代までは、隣の人丸社(柿本神社)と一体の存在でしたが、明治の神仏分離により寺と神社に分かれました。
 
(隣に建つ柿本神社々殿)
 
(山門の向こうには天文科学館がにょきり)

大正12年の夏、23歳の足穂は、兵役の簡閲点呼のために、東京から明石に帰省し(そのため9月の関東大震災を逃れることができました)、その間どういう事情によるのか、自宅ではなく月照寺境内の茶室を借りて過ごしました。そのとき執筆したのが、名作「星を売る店」です。

「星を売る店」は、神戸を舞台にしたキラキラとした幻想譚。
「紅いのはストローベリ、青いのはペパーミント、みどり色のは何とかで、黄色はレモンの匂いと味…。」星を鉱物に見立てたり、それをまたお菓子になぞらえたりというのは、長野まゆみ的趣向ですが、その嚆矢は足穂だと思います。

大正12年は、何といっても、彼が単行本『一千一秒物語』を刊行した記念すべき年です。さらにその勢いを駆って「黄漠奇聞」「星を売る店」「シガレット物語」を次々に発表し、足穂自身が超新星のように輝いていた時代。その光がこの人丸山からも放たれたわけです。そして、そのとき自分のお尻が東経135度の線に乗っていたことに、彼は少なからず意味を感じていたようでもあります。

「以前、人丸神社山門の少し西に、月照寺に属する茶室があって、ある夏、私はその狭い方形の畳の上に机をすえて、「星を売る店」を書いたのだった。この仕事のあいだじゅう、自分の首すじから体躯を貫いている鉛直線は、東経百三十五度線から東にも、西にも、おそらく十センチとはずれていなかったであろう。」 (「蘆の都」)

「帆掛舟の形に作られてた八房梅のかたわらに、下方の参詣道からの石段のかどに、以前、独立した茶室があった。私はその小室に朱塗のかきもの台を持ち込んで、「星を売る店」を書いた。その私が坐っていた所とちょうど同じ位置に、今日、星の測定にもとづく子午線標識が立っている。」 (「明石」)
 
(現在の八房梅。たぶん代替わりしているのではないかと思います。)

「私が机を据えて「星を売る店」を書き、月の位相について考えた茶室跡に立っていた子午線標示柱は、其後、夜には全体が真紅なネオンに輝いていると聴かされた。― それが今回は、高さ五七メートルの展望塔と、それに隣合ったプラネタリウムに入れ換わっている。又、四、五才の時に初めてこの海岸に立って頭に描いた淡路架橋も実現しそうになっている。」 (「明石」後の版への補注)
 
(昭和5年(1930)に立てられた子午線標識標、通称「トンボの標識」。設置当初は現在よりも11.1m西にありました。)

 
(天文科学館の展望塔から見下ろした月照寺境内。本堂のすぐ前に左右一対植わっているのが八房梅。右下隅にトンボの標識が見える。足穂が「星を売る店」を書いたのは、画面中央の階段脇あたりか。)

◆雲晴寺◆
 

山号が「月江山」というのも素敵です。曹洞宗のお寺です。
「南総里見八犬伝」のモデル・里見忠義の菩提を弔うため建立された寺で、寺号は忠義の法名「雲晴院殿心叟賢凉大居士」にちなむものだそうです。

(余談ですが、今ウィキペディアを見たら、八犬伝はもともと北斗七星をイメージした「七犬伝」として構想され、後に添え星のアルコルを入れて八犬伝になった…という説があるとか。八犬士のうち犬江親兵衛だけ童子なのはそのせいだという、なんとなく尤もらしい話。)

さて、星にちなむ寺社にお参りを済ませて、いよいよ天文科学館へ。

(この項つづく)

足穂の里へ(5)2011年09月04日 08時18分50秒

(9月10日記: 記事を改修云々といいましたが、末尾に【付記】を書くだけでお茶を濁しました。そちらもご覧ください。)

急いでいる割に、なかなか前に進まないこの企画。だんだん疲れてきました。
でも、とりあえず続けます。

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上の写真は昨日と同じものの再掲です。
実は私はここで1つのしくじりをしました。
足穂のハイカラ趣味を養った「聖地」訪問の機会を失ったのです。

前述のとおり、写真中央を南北に縦貫するのが駅前通り(明石銀座/昔の錦江町)で、信号交差点を東西にクロスするのが、もう1つのメインストリートである本町筋。

この交差点の北西角、画面左手中央の、緑のアーケードをかぶった場所がその「聖地」。ここにかつて「赤松雑貨店」という店がありました。

「赤松雑貨店は、私の家の前を海の方に下って、西に続く本町筋への曲りかどにあった。〔…〕この我が家近くの新開業の洋品店ではその二面にわたった広い窓の内部において、私は日頃近付きがたい多くのハイカラーな品々を、眼の前に教えられることになった。

 例えば、ラケット、フットボール、ピンポン、野球のグラブ、ローラースケイト、コンパスのひと組、写生箱と三脚架等々である。チューブ入りの絵具もそうであった。〔…〕
 赤松洋品雑貨店の窓には、夏が近付くとアイスクリーム製造機械が現われた。その小形の桶に貼られているアルプス風景のラベルが好きで、私は毎年待ちかまえていた。他に、二匹の犬が一箇の中折帽子を争っている彩色画が、硝子の裏側に貼り付けられたことがある。晩方になって窓の内側に灯が点ると、そのイタリア=トリノ市のボルサリノ帽子会社の広告画が、半透明になって浮き出すのだった。この犬共がパテェ会社の雄鶏のように少うし動いたならば面白かろうな、と私は思うた。〔…〕

 乾いた涎(よだれ)の匂いがする水彩画用ワットマン紙も、模型飛行機用のどうさ紙〔原文4字傍点〕や色紙も、五線紙も、この赤松で買ったものだった。駅前筋にそうて隣接した洋菓子部には、夙くから食麺麭(パン)の用意があった。そこの棚には赤レッテルを貼ったソース壜が並んでいた。こんなソースの味と香りは、能くその日一日じゅうを西洋気分に導くものだ。一箇の錫箔包みのチョコレートだってそうである。パイナップルの缶詰の風景画ですら、私を南海の酋長にまで誘うのが常であった。」 (「パテェの赤い雄鶏を求めて」)

足穂がここまで書いた赤松雑貨店!
ここには後年親しむことになる、神戸のトアロードの空気を先取りする情緒が感じられます。足穂少年にとって、赤松雑貨店こそ「リトル神戸」。足穂が足穂たりえたのも、この店の存在によるところが大きいのではないでしょうか。

そして、何を隠そう、今でもここには「(有)赤松商店/アカマツメンズショップ」というお店があります。これぞ赤松雑貨店の後身に違いありません。ここは是非立ち寄るべきでした。たぶん今は普通の洋品店でしょうけれど、何かハイカラなものを探し出して、足穂に手向けたかったです。しかし、その場で気づかなかったのは一生の不覚。まさに後悔先に立たず…。

   ★

足穂の旧居は所番地まではっきり分かっています。すなわち全集所載の年譜には、関西学院の名簿から引いた「明石郡明石町大明石村西郭1204-1」という住所が出ています。この地名について、足穂自身はこう書いています。

「私の本籍の錦江町とは新規の町名で、以前は大明石村西廓というのだった。これが私は厭だった。自分の住まいは二の丸、ステーション、淡路島燈台の三点を結ぶ直線上にあって、明石のまんなかなのに拘らず、これを大明石村とは郊外のように受取られる惧れがあったからだ。それが大正八年の市制と共に錦江町に変わると、こんどは取ってつけたような感じがした。」 (「明石」)

で、私は最初、番地まで分かっていれば、それが現在のどこかすぐにも分かるだろうと思いました。でも、市役所に聞き、県立図書館に聞き、そして地方法務局にも聞きましたが、結局分からずじまい。中でも法務局は地番管理の総元締めですから、明快な答を期待したのですが、係の人の話によると、地番というのは、現在から過去に遡ることはできても、過去から現在へと辿るのは非常に難しいのだそうです。

いろいろな記述を総合すると、足穂の家は赤松雑貨店から少し北に寄った「魚の棚」横丁を越えた辺りだと想像していますが、正確な場所は不明です。ご存知の方はぜひご教示ください。
 
(足穂の旧居は赤丸の辺りか?奇しくも向かいは歯医者。緑の丸は赤松雑貨店の位置。)

(この日は、足穂旧居とおぼしい位置の寿司屋で昼食をとりました。大正創業で、戦後現在地に移ったという店の大将も、「この辺はみんな空襲で焼けたから。昔のことはさっぱり…」と、足穂一家の痕跡は、今ではまったく消えていました。)


【9月10日付記】

足穂旧居の位置は、9月10日の記事 [LINK]で、より詳細に検討しました。上図の赤丸の位置より、さらに1ブロック北の、三菱東京UFJ銀行の場所がそこだと考えています。また、私が入ったお寿司屋さんも、赤丸の位置ではなくて、UFJ銀行のすぐ南側でした。訂正します。

なお、赤松雑貨店は、昭和7年(1932)発行の明石市の商工地図(『昭和前期日本商工地図集成 第2期』、柏書房 所収)を見ると、呉服太物商の部に「赤松呉服雑貨店」として出てきます。位置は上に記した通りの場所で、現在のアカマツメンズショップさんがその後身であることは、いよいよ確かだと思います。



この商工地図で足穂の家の場所は、錦江町沿いの「シンガーミシン会社」の北側になります。彼の父親は、翌昭和8年に亡くなるのですが、この頃にはほぼ歯科医を廃業していたためか、その場所は空白になっています。

(この項つづく)

足穂の里へ(4)2011年09月03日 17時15分48秒

「評伝・足穂」を編んでいるわけではないので、先を急ぎます。

漁師町から駅の方に戻る途中、祖父・利吉の家から東寄りに「岩屋神社」という立派なお社があります。利吉は香具師の顔役として、この神社の出店の差配を任されていました。この神社で、足穂は不本意な経験をしています。

「私が当初住んだ戎町は、この拝殿わきから西へ続く通りであるが、ちょうど修築があって、正遷宮の当日に、私は特別注文の衣装に鉢巻をして岩屋神社にお詣りした。神事(行列)にも加わった。これは前後ただ一回強制された甚だ自分らしくない、いやな経験であった。」 (「明石」)

足穂はいやな経験と言っていますが、稚児姿の足穂少年はなかなか可愛かったでしょうね。

(脇を通っただけなので、おざなりな写真で恐縮です。「明石市 岩屋神社」で検索すると、境内の写真はたくさん見ることができます。)

現在位置を確認しておきます。


左下が祖父の家のあった浄行寺前、そのそばに岩屋神社が見えます。
私はその脇を通って港にそって歩き、明石警察署本町交番のわきにある錦江橋に向かいました。

(港から瀬戸内へ出て行く船)

(錦江橋)

錦江(きんこう)とは、明石城下に広がる海の美称。
明石城は別名「錦江城」ともいい、駅からまっすぐ海に向かうメインストリート(明石銀座)沿いの街区には、以前「錦江町」の名がありました。足穂の明石での第2の住居があったのもここです。その南端に架かるのが「錦江橋」です。

錦江橋の架橋は明治44年6月で、足穂が10歳のときです。
足穂の一家は、その渡り初めをつとめる「三代夫婦」に選ばれました。すなわち、祖父・利吉と父・忠蔵の両夫婦、それと大阪に住む姉夫婦です(姉も養子婿を迎えたので稲垣姓)。木の香もゆかしい新橋の上を、一族が仲むつまじく渡った…のであればいいのですが、一家の行く手には徐々に暗雲がただよい始めていました。

「互いに不和であったがともかく三夫婦揃った一族は、橋の渡初式に引張り出されたことがあって、利助〔註:利吉の作中での名〕は味を覚えて四夫婦拡張を目論んでいた。けれども同じ調子で行くものでもあるまい。そろそろ何物かが…人々がそれを惧れて世のおきてを遵奉しているのだと思われるような…根元的な何物かが迫って来ているようであった。」 (「父と子」)

足穂が祖父の家から、錦江町に転居したのが正確にいつかは分かりません。たぶん小学2、3年生の頃でしょう。父・忠蔵が、駅前通りに家を新築し、独立開業するために転居したのです。

(錦江橋のたもとから明石駅を見たところ。突き当りが明石駅。この通りに沿って足穂の父の歯科医院がありました。今でも歯医者が妙に多いのは偶然か?)

この新居で過ごした当座の時期が、怪人・足穂の人生において最も甘美で、人間として整った時期だったようです。その後の凋落との対照が鮮やかなだけに、いっそう彼の心には美しく感じられた時代でもあります。
(下の引用で「董生(ただお)」は足穂、「周蔵」は忠蔵を指します。)

「こうして董生らは、折鶴が天井一面に吊るされている新居に起臥することになった。デトロイトから届いた大嵩な荷物が解かれて、階上の広いリノリウムの上には治療椅子が三台並んだ。接続した薬局や技工室と合わせて、総ては活動に便利なようにとの周蔵の建前に生れ、従業員は何処でも立ちづめである。然し此処に人影が忙しく動いて、患者待合室に仏手柑だの山芋だの粉がふいた紫色の木の実だのを盛った籠が置かれ、正月毎に表に馬蹄形の緑門が設けられたのは、僅か四、五年に過ぎない。董生に取っても、喩えば庭のアヤメに柔らかい雨脚が降り注いでいるような、甘美な、核心的幼年期は、いまの期間中に於ける正味二年に限られている。」 (「父と子」)

「あらゆる家族、風景等には、その最も良き時期というものがある。それはキリストの活動期間のように、二年以上は続かないものだ。董生の場合、それは三色菫がまだ異質な人工花の魅力を保っていたあいだで、小学三、四年生間の束の間であった。」 (同)

父はその養父とも、娘夫婦とも不仲でした。そして家業に熱意を失い、謡道楽にのめりこむのと並行して、固定客も次第に離れていき、一家の経済は徐々に左前になっていきます。足穂は足穂で、学業も二の次に、芸術やら、ヒコーキ乗りやらに入れあげて、家に寄り付かず…というような、世間の物差しに従えば悲劇的な展開をたどることになります。

足穂が東京での文士崩れの生活の果てに、30過ぎで戻ってきたのもこの家で、父の死後は、素人商売の古着屋をやったりしたものの、結局破産。

「父の三周忌がやってきた。その夏の初めに、董生の家の目立たぬ隅に仮執行の札が貼られた。老母と息子は、横丁の履物職の離れ六畳に、わずかに残った調度と炊事道具を運ばねばならなかった。」 (「地球」)

さらにひと月後には、借金の催促に耐えかね、母は大阪の孫娘のもとへと移り、足穂は東京に遁走。後に何も残さぬ一家離散です。足穂と明石の縁はついに絶えたのでした。昭和11年(1936)のことです。

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先を急ぎ過ぎたので、話を足穂の少年時代に戻します。

(この項つづく)