世界に驚異を取り戻すために2022年01月03日 13時42分54秒

実感をこめて言いますが、人間は齢とともに必ず変化するものです。
その変化が「円熟」と呼びうるものなら大いに結構ですが、単なる老耄や劣化という場合も少なくありません。この「天文古玩」と、その書き手である私にしても、全く例外ではありません。それはある意味避けがたいことでしょうけれど、せめて新年ぐらいは初心に帰って、昔の新鮮な気持ちを思い出したいと思います。

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下は、時計の針を捲き戻して、自分が子どもだったときの気分が鮮やかによみがえる品。


1932年に発行された、『Wunder aus Technik und Natur(テクノロジーと自然界の驚異)』と題された冊子です。時の流れの中で大分くすんでしまっていますが、その表紙絵がまず心に刺さります。


峡谷をひた走る弾丸列車が何とも素敵ですし、その周囲にも夢いっぱいの景色が広がっています。


空には巨大な星々。その光に白く、また赤く浮かび上がる断崖絶壁と山脈。
その間を縫って自在に舞い飛ぶプロペラ機。


そして大地の下に眠る太古の生物。

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ページをめくると、さらに鮮やかな世界が広がっています。


冒頭は「第1集・自然界の怖ろしい力」と題されたページ。そこに流星、稲妻、火の玉(球電)、雪崩、竜巻、トルネードという、6枚の絵カードが貼付されています。(ちなみにドイツ語では、海上の竜巻(Wasserhose)と地上のトルネード(Tornado)を区別して表現するようです。)


この冊子はシガレットカードのコレクションアルバムで、発行元はドレスデンの煙草メーカー、エックシュタイン・ハルパウス社(Eckstein-Halpaus)

シガレットカードは、煙草を買うとおまけに付いてくるカードで、そのコレクションは昔の子供たち(と物好きな大人たち)を夢中にさせました。そしてカードがたまってくると、こうした別売のアルバムブックに貼り込んで、コレクションの充実ぶりを自ら誇ったわけです。

この「テクノロジーと自然界の驚異」は、第1集から第48集まであって、各集が6枚セットなので、全部で288枚から成ります。手元のアルバムは、そのコンプリート版。
その内容は実に多彩で、




カラフルな世界の動・植物もあれば、


子どもたちが憧れる乗り物もあり、


神秘的な古代遺跡の脇には、


ピカピカの現代建築物がそびえ、


あまたの巨大なマシンが、目覚ましい科学の発展を告げています。

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ここに展開しているのは、90年前の子どもたちの心を満たしていた夢です。
もちろん、煙草メーカーは純粋無垢な心でこのカードを作ったわけではなく、もっぱら商売上の理由でそうしたのでしょうが、それは当時の少年少女が求めたものを知っていたからこそできたことであり、その夢は50年前の子どもである私にも、少なからず共有されています。

このアルバムブックを開くと、私の内なる子どもの目が徐々に開かれるのを感じます。
そして、世界がふたたび驚異を取り戻す気がするのです。

A Ticket to the Crescent Station2020年10月04日 18時42分21秒

アルバムの隅に、こんな切符がはさまっていました。
「三日月駅」の入場券です。


銀色に光る三日月にはポツンと駅舎が立っていて、この切符があれば、いつでもそこに行けるんだ…。いくぶん幼い夢想ですけれど、そう悪くないイメージです。

それに、夢想といっても、現実に「三日月駅」は存在するのです。
そして、三日月駅を訪れ、この古風な硬券入場券をかつて手にした人がいるのです。

もし夢想の要素があるとすれば、「発売当日限り1回有効」の券を、いつでも使えると思ったことことぐらいでしょう。

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三日月駅は、兵庫県にあります。
姫路と岡山県の新見を結ぶ「姫新線」(きしんせん)に乗り、列車が岡山との県境に近づくと、その手前が佐用(さよう)の町で、その町域に三日月駅は立っています。

江戸時代には、代々森家が治めた「三日月藩」1万5千石の土地ですが、ご多分に漏れず過疎化が著しく、現在は無人駅です。1日平均の乗車人員は140人だと、ウィキペディアには書かれていました。

(グーグルマップより)

とはいえ、駅舎の風情はなかなか素敵ですね。
この駅がある限り、夢のような「三日月への旅」が、いつでも可能なのですから、ぜひ今後も末永く存続してほしいです。

(左下は三日月駅への始発駅…のような風情を見せる、今はなきアポロ劇場(デュッセルドルフ)の建物)

気球に乗って(後編)2020年08月09日 12時38分10秒

今日も気球の旅を続けます。


第14図 「エーベニフルーとグレチャーホルン」

我々はスイスのベルン州を出発し、その南のヴァレー州に入ろうとしています。エーベニフルー(3962m)とグレチャーホルン(3983m)は、その州境にそびえる峰々。
山々を覆うのは白雲ばかりではありません。不気味な黒雲も飛来して、気球に迫ります。


第18図 「ユングフラウから見たメンヒとアイガー」
「オーバーラント三山」と呼ばれる、ユングフラウ(4158m)、アイガー(3970m)、メンヒ(4107m)を一望しながらの空の旅。写真に写っているのは、アイガーとメンヒで、ユングフラウは、今我々の真下にあります。現在の高度は4300m。(オーバーラント三山の名を意訳すれば、「乙女岳」、「剱岳」、「坊主岳」ですから、こうして見ると、山の名前というのは東西よく似ていますね。)


第21図 「フィンシュターアールホルン」

高度は4500mに上がりました。どちらを向いても万年雪をいただく山また山です。中央の峰は4274mのフィンシュターアールホルン。気球の位置からは、おそらく7~8km東に位置するはずですが、ここまで広い視野を獲得すると、すぐ間近に感じられます。

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ひょっとしたら、山岳写真を見慣れている人には、上の写真もあまりインパクトがないかもしれません。テレビの山番組を見ても、似たような画像には事欠きませんから。

しかし、ここで想像力を働かせてください。我々は今、グイヤーのカメラの目を借りて、114年前の気球に乗ってるんですよ。あたりは身も凍る冷気に包まれ、風の音だけがヒューヒューと鳴り、頭上には青黒い空が広がり、目の前には巨大な入道雲が見え、眼下には雪をいただく高山が果てしもなく連なっているのです。

しかも、我が身を託す「かご」はフラフラと覚束ないし、ちょっと歩けばギシギシいうし、何か突発事態が生じたら一巻の終わりだし、想像力を発揮しすぎると、即座に恐怖で縮み上がってしまいます。こんなに避暑にふさわしい場所も他にちょっとありません。

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第22図 「北東から見たアレーチュホルン」

これまた4193mの高峰です。山もすごいが、雲もすごいですね。凄絶といおうか、凄涼といおうか、間近で見たらかなり怖いでしょう。


第26図 「アレッチ氷河とメルイェレン湖」

毎年高山に供給される雪が氷となって流れ下るのが氷河です。ヴァレー州――その南はもうイタリア――にあるアレッチ氷河は、ヨーロッパ・アルプス最大の氷河。写真の手前が氷河で、そこから直角に切れ込んだ谷筋に、小湖が連なっているのがメルイェレン湖。氷河を間近で見るために、降下しながらの撮影。


第27図 「牽引してアレッチ氷河を縦走」

一行は、南北に延びるアレッチ氷河に沿って、地面すれすれの高さを飛び、一部は地上から気球を牽引して進みました(単純に、より近くから氷河を見たかったからです)。


第28図 「アレッチ氷河」
地上から見た光景。


第29図 「アレッチ氷河を振り返ったところ」

一行は氷河をあとにし、ふたたび気球に乗って上昇します。
昼過ぎに出発した旅は、現在午後6時を回ったところです。6月のスイスの日の入りは、午後9時過ぎですから、まだ辺りは明るいです。


第31図 「ブリーク上空の黄昏」

谷あいの町ブリークに差し掛かりました。日が長いとはいえ、山の端に日が沈むと、山麓は、早くも夕闇に包まれます。現在午後7時、高度は4400m。イタリアとの国境が徐々に近づいてきます。


第32図 「ベルナー・アルプス〔スイス側〕を振り返ったところ」

ブリークを過ぎ、もう一山越えればイタリアです。高度4500mから振り返ったスイスの山々。この後、本格的に夜を迎えますが、夜間も気球は休まず南下を続け、その間にイタリア入りをします。当然のことながら、夜間は写真撮影も休止です。


第33図 「アルプスの南、高度6000m」

イタリアに入り、標高1000m前後のなだらかな丘陵が続きます。夜間は低高度を保った気球ですが、夜明け前に一気に上昇し、午前8時30分には、これまでで最高の高度6000mに達しました。ちっぽけな入道雲なら、その頭頂を見下ろす高さです。これが冒険のフィナーレ。


第34図 「ジニェーゼに着陸」

その後、気球は一気に降下態勢に入り、午前9時30分、ジニェーゼの村(標高707m)に無事到着。野花の咲き乱れる下界に帰ってきました。正味21時間の空の旅でした。この後、気球もロープも一切合財をかご詰めして、陸路帰還します。

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非日常から日常に戻るのはちょっぴり寂しいような、ホッとするような、微妙な感情が交錯しますね。今年の夏は、帰省もまかりならぬという、これまた非日常の夏ですが、こちらの方は、極力早く日常に戻ってほしいです。

ともあれ、こうして文字にしたら、暑中にちょっとした涼が得られました。

(この項おわり)

気球に乗って(中編)2020年08月08日 13時26分37秒

前回、「さっそく見てみましょう」と調子のいいことを言いましたが、ドイツ語がネックになって、気球の旅はいきなり逆風を受けています。まあ、あまり深く考えず、雰囲気だけでもアルプス気分を味わうことにします。

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この本には、全部で48枚の記録写真が収められています。いずれも大判の2LないしKG判相当で、1ページにつき1枚、裏面はブランクという贅沢な造り。ですから、本書は「写真集」と呼んだ方が正確です。

そのうち第1図から34図までが、この1906年6月29日から30日にかけての冒険飛行の記録で、第35図から48図までは、著者グイヤーが別の機会に空撮した、同様の山岳写真になっています。

冒険の記録は時系列に沿って並べられています。

(上の写真を含め、以下周囲に余白がないものは、原図の一部をトリミングしたもの)

第1図「充填開始」
6月29日朝、アイガーの高峰(3974m)を背景に、いよいよ「コニャック号」にガスの充填が始まりました。場所はユングフラウ鉄道のアイガーグレッチャー駅の脇です(現在は延伸されていますが、当時はここが終着駅でした)。


第3図「出発前」
飛行直前の記念撮影です。気球のバスケットに立つのが、船長のド・ボークレア。その手前、腰に手をやった偉丈夫はファルケ。左側の男女二人が、ある意味、今回の主役であるゲプハルト・グイヤーと婚約者のマリーのカップル(マリーは恥ずかしいのか顔を伏せています)。

(使用したインクの違いによって、同じ本の中でも写真によって色合いがずいぶん違います。以下、手元のディスプレイ上で、なるべく原図に近くなるよう調整しました。)

第4図「アイガーグレッチャー駅の鳥瞰」
いよいよ気球は上昇を始めます。

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ここで改めて、今回の旅の航跡を確認しておきます。下がその地図。


といっても、これだけだと画面上では何だか分からないので、航跡を書き入れた図と、グーグルマップを並べてみます。


右側の地図で、青い三角形がユングフラウ。その右上、丸で囲ったのがスタート地点・アイガーグレッチャー。そして右下の丸がゴール地点であるジニェーゼの村。
グーグルマップの方は、両地点を今なら最速4時間で車で移動できることを示していますが、グイヤーたちは、気球に乗ってのんびり1泊2日の空の旅です。でも、結構危なっかしい場面もあって、途中風にあおられたかして、航跡がグニャグニャになっている箇所があります。そして、イタリア国境を越えた後で大きく南に迂回し、いったん地図の外に飛び出してから、再び北上してジニェーゼに到達しています。

この旅の途中で、グイヤーがバスケットの中でパチリパチリと撮ったのが、一連の雄大な山岳写真です。


第6図「ユングフラウ」
気球はスタート直後からすみやかに高度を上げ、高度4000mに達したところで、目の前の乙女の姿を捉えました。大地の峰々と、雲の峰々の壮麗な対照に心が躍ります。

ユングフラウは、アイガー、メンヒと並ぶ「オーバーラント三山」の一つで、その最高峰。高さは4158m。(…というのは知ったかぶりで、私はユングフラウがどこにあるのか、さっきまで知らずにいました。以下の説明も同様です。)


モノとしての本にも言及しておくと、この図はフォトグラビュール(グラビア印刷)で制作されています(全48枚中6枚がフォトグラビュール)。

「グラビア」と聞くと、今の日本では安っぽいイメージがありますけれど、本来の「グラビア印刷」は、それとは全く別物です。その制作は、腐食銅版画を応用した職人の手わざによるもので、そこから生まれる網点のない美しい連続諧調表現は、高級美術印刷や、芸術写真のプリントに用いられました。

ですから版画と同じく、版の周囲に印刷時の圧痕が見えます。


第7図「雲の戦い(Wolkenschlacht)」
高度はさらに4300mに達し、ユングフラウ(画面左端)を足下に見下ろす位置まで来ました。しかし、その上にさらに積み重なる入道雲の群れ。雲は絶えず形を変え、雷光を放ち、自然の恐るべき力を見せつけています。

(後編につづく)

気球に乗って(前編)2020年08月06日 19時38分19秒

この時期にふさわしい、素敵な本を見つけました。


■Gebhard A. Guyer(写真・解説)
 『Im Ballon über die Jungfrau nach Italien』
 Vereinigte Verlagsanstalten Gustav Braunbeck & Gutenbergdruckerei(Berlin)、1908


何と言っても、タイトルがいいですね。
『気球に乗って。ユングフラウを越えてイタリアへ』―
夢を誘う、涼しげな感じがあります。
本書は、文字通り気球によってアルプス越えをした冒険飛行の記録です。

本の表情も魅力的で、凝った空圧し模様や、


立体感のある「窓」に写真を貼り込んだ、実にぜいたくな造本。


内容は後で見ることにしますが、写真印刷がこれまた見事で、テーマといい、内容といい、当時としてはかなり破格な本だと思います(これは著者グイヤーが、下記のような事情から、相当お金を出したんじゃないでしょうか)。

この冒険に参加したのは、ユングフラウ鉄道支配人で、写真術に長けたゲプハルト・グイヤー(Gebhard A. Guyer、1880-1960)、有名な登山家で気球乗りのビクトール・ド・ボークレア(Victor de Beauclair、1874-1929)、スイスの著述家コンラート・ファルケ(Konrad Falke、1880-1942)、さらにグイヤーの婚約者であるマリー・レーベンベルク嬢(Marie Löbenberg、1878-1959)の総勢4名。

驚くべきは、この冒険がゲプハルトとマリーの婚約旅行を兼ねていたという事実で、なんと破天荒なカップルでしょうか。

(ボークレアとグイヤーの肖像。本書より)

彼らが気球「コニャック号」に乗ってアルプス越えをしたのは、1906年6月29日から30日にかけての2日間です。

彼らが見下ろした、峩々たる山並みと白雲の群れ。
その壮大な光景を、我々もさっそく一緒に見てみましょう。

(この項つづく)

飛行機から見た星(前編)2018年01月21日 08時47分40秒

星座早見盤は、もちろん天文趣味人が星見の友に使うものですが、昔の早見盤を探していると、それとはちょっと違う性格のものに頻繁に出会います。

それは飛行機乗りのための星図盤です。
その方面にうといのですが、おそらく1950年代、朝鮮戦争のころから、飛行機の世界では電波航法が主流となり、天文航法はすたれたように思います。でも、それ以前は、夜間飛行の際、星を手掛かりに方位を見定めたので、飛行機乗りには星の知識と専用の星図盤が不可欠でした。

eBayによく出品されているのは、主要な星を印刷した円盤と、緯度に応じた方位グリッドを印刷したプラ板を重ねて用いるタイプの品です。

(eBayの商品写真を寸借)

星と飛行機に縁のあるもの…という点では、一寸気になりましたが、さすがに本来の蒐集フィールドとは遠いし、プラスチックの質感も気に入らないので、これまで手にすることはありませんでした。

でも、先日こんな素朴な紙製の星図盤を見つけました。


■Francis Chichester
 The Observer’s Planisphere of Air Navigation Stars
 George Allen & Unwill Ltd. (London), 1942.

著者のフランシス・チチェスター(1901-1972)は、手練れのパイロットにして天文航法の専門家。星図出版当時は、英国空軍志願予備軍(Royal Air Force Volunteer Reserve)に所属する空軍大尉でしたが、年齢と視力の関係で、大戦中、実戦に就くことはありませんでした。そして、戦後は空から海に転身し、ヨットマンとして後半生を送った人です。(英語版Wikipedia「Francis Chichester」の項を参照)

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で、この飛行機乗り向けの簡便な星図盤を眺めていて、大いに感ずるところがあったので、以下そのことを書きます。

(この項つづく)

足穂氏、フランスで歓喜す(3)…空へ、高く。2018年01月18日 07時09分10秒

夕べは雨上がりの町を、夜遅く歩いていました。
雨に洗われた空の透明度がすごくて、鮮やかに輝く星たちの姿に、一瞬昔の視力が戻ったような錯覚すら覚えました。そして、星の配置に春の気配を感じました。

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さて、自動車レースで、マダム・ジェンキーが優勝を決めた2日前の1928年5月15日。
この日、ステレオカメラの持ち主は、ディジョンの飛行場で、複葉機の前に立っていました(何だかやたら活動的な人ですね)。

(うっすら見える細かい縦じまは、スキャン時についたもの)

そのカメラが捉えた複葉機と関係者たちの横顔。
垂直尾翼に見える「BRE.19 No.60」の文字は、「ブレゲー(Breguet)19型 60番機」の意でしょう。ネット情報によれば、ブレゲー19は、1924年に開発され、軽爆撃機や偵察機として活躍したフランスの軍用機です。

ディジョンと軍用機の取り合わせはごく自然で、ディジョンには、フランス空軍の大規模な基地がありました(ディジョン=ロンビック空軍基地。ロンビックはディジョンの隣町の名です)。

画面右手、飛行服に身を包んだ人が、ブレゲー19を操ったパイロットでしょう。画面を引っ掻いて書いたキャプションには「Wizen」という名が見えます。ドイツ系っぽい名前ですが、当時はれっきとしたフランスの空の勇士。

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さて、この写真を撮った無名氏。飛行機をカメラに収めただけでは終わらず、何と自ら飛行機に乗り込んで、機上からステレオ写真撮影に挑戦しています。


機上から見るロンビックの町。


操縦かんを握る、精悍なウィーゼン飛行士。
では、その後ろに座って、盛んにシャッターを押していたのは誰かといえば…


ウィーゼン氏の隣で、これまた飛行服を着込んでにこやかに笑っている男性がそれに違いありません。この1枚だけは、他の人にシャッターを押してもらったのでしょう。

では、軍用機に乗り込んだ、この無名氏もまた軍人だったのか?
最初はそう思いました。でも、軍人がカメラを機内に持ち込み、遊山気分でパシャパシャやるのは不自然なので、彼は何らかの伝手で、たまたま同乗の機会を得た民間人、おそらく報道関係者では…というのが、私の推測です。


眼下に見下ろす遥かな大地
ゆっくりと蛇行する河
機械的なプロペラ音
冷たい風を切る翼の音――

それにしても、これらの写真乾板は、いずれも世界に1枚きりの原板ですから、まさに無名氏とともに空を飛び、その光景を目にした「生き証人」に他なりません。そのことを思いつつビュアーを覗いていると、「自分は今まさに90年前の空を飛んでいるのだ…」という奇妙な感覚に襲われます。

(レンズの向こうに見えるのは、昨日見たレースの光景)

「空中飛行はたしかに人生最高のほまれにぞくするもの」とまで語った足穂氏とともに、今しばらくその余韻を味わうことにします。

足穂氏、フランスで歓喜す(2)…オートレース観戦2018年01月17日 07時11分06秒

タルホといえば何といっても飛行機ですが、自動車との関わりも、古くかつ深いものがあります。

彼の「パテェの赤い雄鶏を求めて」(『タルホ大阪・明石年代記』、人間と歴史社、1991所収)を読むと、特に「オートモービル」の章が設けてあって、幼時に刷り込まれた自動車の思い出が懐かしく綴られています。

それは、物心ついたころに見た、乗合自動車のコバルトブルーの車体に描かれた金の星であったり、西洋人の自動車から聞こえるラッパの音階であったり、車の正面にある「蜂の巣」(ラジエーター)の奥から噴き出す、生暖かい風であったりするのですが、足穂はその最後をこんなふうに結んでいます。(原文傍点は太字で表記)

 「フランシス=ピカビア編集の“Cannibale”第二号に、『自動車濫用に中毒した二人の露出狂』と題して、ピカビアとツアーラ御両所のフォートコラージュが載っている。私はこれを見て、昔の自動車の世紀末的なエグゾーストの匂いを思い合わした。もはや今日では自動車は(オートバイ、飛行機も合わして)香りなきものに成り果てているが、曾ての日の排気ガスは自分には「ベルグソンの薔薇」であった。バラの匂いが幼年時代を喚び起すわけではない。人には常に薔薇そのものの上に彼の「取戻せない日々」を嗅ぐのである。私もまた雨降る秋の夕べの自動車のエグゾーストに、我が失われし時を嗅いでいる。」

足穂にとっては自動車のエグゾーストの匂いこそ、プルーストの「紅茶とマドレーヌ」であり、甘美な魂の故郷を象徴するものだったのです。

派手にエグゾーストを振りまきながら、颯爽と駆ける自動車の群れ―。
足穂氏とともに、ステレオ写真で「あの日、あの場所」に立ち返ってみます。

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ときは1928年5月17日。ところはフランス、パリ南東に位置するディジョンの町。
この日開催されたレースのことは、以下のページに詳細が出ています。

the BUGATTI revue
それによると、ディジョンの町では、前年の1927年にモーターレースが始まり、この1928年には、レーシングカー部門とスポーツカー部門に分かれて、4時間耐久レース(と2時間耐久のオートバイレース)が開催されたそうです。


固唾をのんで見守る町の人々。警官らしき人も、もはや警備そっちのけです。


町の外周にも人が群れ、未舗装の道路を疾走する車に声援を送っています。


三脚を据える暇もなかったのでしょう。猛スピードで走る車を追って手ぶれした画面に、リアルな臨場感が漂います。


上と同じ場面を写した写真。こちらはマシントラブルでしょうか。車を降りたドライバーが、渋い顔をして歩いています。


白いエグゾーストを残し、古風なレーシングカーは次々に街路を走り抜け、熱戦はまだまだ続きます。

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ときに、上にリンクしたページで、このレースには女性ドライバーも参加していたと知って、無性にカッコいいなあ…と思いました。しかも驚くべきことに、レースを制したのも女性でした。優勝したマダム・ジェンキーことジャニーヌ・ジェンキー(Jannine Jennky)は、愛車ブガッティを駆って、平均時速137キロオーバーを叩き出した…というのですから、これにはさすがの足穂氏も口あんぐりでしょう。

この件、ちょっとジブリっぽいエピソードですけど、この1928年は、アドリア海でポルコ・ロッソが、空賊相手に派手な空中戦を演じていた頃(正確な時代設定は1929年)と聞けば、なるほどと深くうなずけるものがあります。そして、極東の島国では、若き日の足穂氏が、『天体嗜好症』を上梓した年でもあります。

むせ返るようなハイカラさに酔いつつ、次は複葉機の雄姿を眺めに行きます。

(この項つづく)

足穂氏、フランスで歓喜す(1)2018年01月16日 06時44分27秒

引き続き天文の話から逸れますが、「タルホチックなもの」として、ここでどうしても紹介しておきたい品があります。それは、1928年にフランスで撮影された、ステレオ写真のガラス乾板です。


ガラス乾板は、銀塩フィルムと同様、そこで得られるのは多くの場合ネガ像ですが、ここでは「白黒リバーサル現像」を行うことで、直接ポジ像を得ています(…ということらしいんですが、例によって聞きかじりです)。


乾板の判型は、ステレオ写真用の4.5×10.7cm判。
それぞれT字型の金属フレームで補強されています。

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さて、これらのステレオ写真のどこがタルホチックなのか?
それは、ずばり被写体です。

これらは、フランス中部の町・ディジョンで開催されたモーターレースと、同市から飛び立つ複葉機を撮影したもので、自動車と飛行機とくれば、これは文句なしにタルホチックな存在。

今やすっかりセピアに沈む、90年前の晴れやかな光景。
手元には自動車レースのステレオ写真が6点、飛行機のそれが5点あります。
その画面の向こうに、足穂氏の気配を感じ取ってみます。


(この項つづく)

さて、例の首尾は?2017年08月16日 11時09分32秒

8月も後半に入りました。

いかに呑気な子供でも、そろそろ名状しがたい不安と圧迫感で、心がザワザワしだす頃ではないでしょうか。もちろん宿題の話です。まあ、今から始めれば十分間に合うでしょうが、まだ間に合うと思ううちは取り掛からないもので、私の場合、そうした習性が大人になっても治らないどころか、ますます甚だしくなってきているので、子供たちにものを言う資格は全くありません。

でも、せめてものエールに、ちょっと素敵な賞状を載せておきます。

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バカンスには何もしないはずのフランスでも、子供たちはせっせと自由研究や自由工作の類に取り組んだらしく、そのコンテストもありました。下は教育書の版元、マグナール出版(Editions Magnard)主催の、「夏休みの宿題コンクール」の受賞者に贈られた賞状です。


堂々「最優秀賞」に輝いたのは、フランス東部の小さな町、カンシエ(Quincié-en-Beaujolais)に住む、ミッシェル・ピエール君。賞状の日付が、1937年4月20日になっているので、審査にはかなり時間をかけたようです。



浅緑と紺の涼し気な色合いもいいし、空を飛ぶ飛行機や飛行船のシルエットも素敵です。そして、左右に並ぶモノたちのオブジェ感―。いかにも少年の夢を誘う絵柄です。
こんな賞状がもらえるなら、子供たちも、ちょっとは宿題に力が入るんじゃないでしょうか。(ちなみに賞状のサイズは、A4よりもちょっと小さい21×27cm)

(1935年の賞状はちょっと暑苦しいデザイン。こちらは9×14cm の葉書大)

ピエール君は、その2年前(1935)にもコンテストに応募しており、そのときは4等賞の小さな賞状をもらっています。彼はその後も黙々と努力を続け、今回の金星に結びついたのでした。相当な努力家であり、聡明な少年でもあったのでしょう。

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ピエール君のことを思うと、「とにかく出せばいいだろう」と、毎年やっつけ仕事だった自分が恥ずかしくなりますが、なに、それでもちゃんとこうして生きているよ…と、あんまり慰めにもならないでしょうけど、子どもたちに語りかけたい気も一方ではします。

まあ、明けない夜はない。とにかく頑張りましょう。