花祭り2017年04月08日 12時36分04秒

何だか久しぶりの休日であり、久しぶりの記事です。
せっかくなので、雨に濡れた桜でも見ながらのんびり過ごそうか…と思いましたが、気鬱なニュースが紙面と画面を埋め尽くし、何をどう言えばいいのか途方に暮れます。

でも、ふと気付けば、今日は4月8日の花祭りですね。
釈迦が世界と衆生を救うために、ゴータマ・シッダルタとしてこの世に生まれたとされる日。

幼い釈尊に対する信仰は、幼な子イエスに対するそれと同様、「無垢にして無限の可能性を秘め、曇りなき叡智を持った存在」という、幼子が持つシンボリズムに基づくものでしょう。一言でいえば、幼子は人類の「希望」の象徴です。


いつものゴチャゴチャの中に置かれた誕生仏。


その瞳は静かに閉じられていますが、透徹した金剛の智は生死の間をはるかに超え、その意識は宇宙大に及びます。


仰ぎ見る幼子の姿。
左右の手で天地を指さし、「天上天下唯我独尊」を告げる、幼き釈迦如来。

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「唯我独尊」というのは、本来厳かな意味のはずですが、世界には他者を見下す人が多いせいか、いつの間にか「独善的」と同義の、悪い意味で使われることが増えました。でも、独善が過ぎて、幼き者の前で素直に頭を垂れ、そこに一種の畏れや敬意を抱かない人がいるとすれば、その人はお釈迦様の境地から最も遠いところにいるのではないでしょうか。

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幼子に勇気をもらって、壊れかけた世界の中で「天文古玩」を再開します。

ギンヤンマの翅に宿る光と影2017年03月23日 06時58分41秒

家人の体調が思わしくなく、いろいろ不安に駆られます。
人の幸せや平安なんて、本当に薄皮1枚の上に成り立っているのだなあ…と痛感させられます。

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先日、奥本大三郎氏の昆虫アンソロジー『百蟲譜』を読みました。
さらにそこから思い出して、同氏の『虫の宇宙誌』を再読していました。

(奥本大三郎 『百蟲譜』、平凡社ライブラリ、1994/同 『虫の宇宙誌』、集英社文庫、1984)

前にも書いた気がしますが、私は後者に収められている「昆虫図鑑の文体について」という文章を、ひどく気に入っています。

「昆虫趣味」から「昆虫図鑑趣味」へ…というのも、趣味のあり方として、かなりの変格ですが、さらに図鑑に盛られた文体を論じるとなれば、これはもうスピットボール並の、超のつく変革です。でも、変格のようでいながら、奥本氏の感じ方は、やっぱり昆虫好きに共通する心根であり、正当な本格派である気もします。

そんな奥本氏が、古い昆虫図鑑の向うに見たイリュージョン。

 「当時〔小学生のころ〕、平山図譜〔平山修次郎(著)『原色千種昆蟲図譜』〕のギンヤンマの図版を見ると、きまって一つの情景が浮かんできた。夏の暑い昼下り、凛々しい丸坊主の少年が、風通しのよい二階の畳の上に腹這いになって、興文社の「小學生全集」の一冊を見ている。すると下から「お母さま」の、「まさをさーん」と呼ぶ声がする。その高い声は、雨ふり映画のサウンド・トラックから出た声のように語尾がふるえて聞こえるのである。」 (文庫版p.65。〔 〕内は引用者)

(ギンヤンマ。平山修次郎 『原色千種昆蟲図譜』、昭和8年(1933)より)

 「そういう、いつかの夢で見たような、フシギな、なつかしい情景が、ギンヤンマの図と結びあって私の頭の中に出来上ってしまっていた。まさか前世の記憶という訳でもあるまい。私が戦前の少年の生活など知っているはずはないのだ。多分うちにあった昔の本や、「少年クラブ」に載った、まだ戟前の余韻を引いている高畠華宵や山口将吾郎それに椛島勝一の挿絵その他のものが頭の中でごっちゃになっていたに違いない。ともあれ私は、平山図譜の、その本の匂いまでが好きになった。何でも戦前のものの方が秀れていて、しつかりしている……本でも、道具でも。そういう固定観念がなんとなくあったような気がする。」 (同pp.65-66)

(同上解説)

奥本氏は昭和19年(1944)生れですから、ご自分で言われるほど、「戦前の少年」と遠い存在でもないように思うのですが、でも、そこには終戦という鮮やかな切断面があって、やっぱり氏にとって「戦前」は遠い世界であり、遠いからこそ憧れも成立したのでしょう。

この思いは、何を隠そう私自身も共有しています。
別に、「戦前のものだからエライ」ということはないんですが、でも「これは戦前の○○なんですよ」と書くとき、私は無意識のうちに「だからスゴイんだぞ!」というニュアンスを込めているときが、たしかにあります。

この辺は、大正時代に流行った「江戸趣味」に近いかもしれません。
大正時代には、江戸の生き残りの老人がまだいましたが、「江戸趣味」にふけったのは、江戸をリアルタイムで知らない若い世代で、知らない世界に憧れるのは、いつの時代にも見られる普遍的現象でしょう。

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と言いつつも、「戦前」を手放しで称賛するわけにはいきません。
やはり「戦前」は、暗い面を持つ、無茶な時代でした。
以下、いつもなら「閑語」と称して、別立てで書くところですが、連続した話題なので、そのまま続けます。

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治安維持法よろしく共謀罪を国民支配の恰好の道具と考え、戦前のこわもて社会の再来を待ち望む人が、見落としていることがあります。

それは、戦前への回帰はもはや不可能だ…という、シンプルかつ冷厳な事実です。
なぜなら、あれほど強権的な政治が行われたのに、戦前の社会が活力を維持できたのは、為政者が潤沢な人的資源の上にあぐらをかき、人的資源の浪費が許された時代なればこそだからです。

端的に言って、明治以降の日本の発展と対外膨張策を支えたのは、近代に生じた人口爆発であり、その担い手は「農村からあふれ出た次男坊、三男坊」たちでした。

しかし、今の日本に、もはや浪費し得る人的資源はありませんし、それを前提にした社会も成り立ちようがありません。農村には次男・三男どころか、長男もおらず、農村そのものが消失してしまいました。

かといって、都市部が新たな人口の供給源になっているかといえば、まったくそんなことはなくて、今や日本中で出生率の低下が続いており、東京なんかは地方の消滅と引き換えに流入する人口によって、一見活況を呈していますけれど、遠からず都市機能の維持が不可能になることは目に見えています。

「じゃあ、それこそ『産めよ増やせよ』か」
…と言われるかもしれませんが、為政者に差し出す「壮丁」を増やすための政策なんて真っ平ごめんです。

それでも、この社会をきちんと次代に引き継ぐつもりなら、もはや「戦前ごっこ」に興じたり、弱い者いじめをして喜んだりしている暇はなくて、子どもの貧困問題にしろ、経済格差の問題にしろ、介護現場の悲鳴にしろ、もっと真面目にやれと、声を大にして言いたいです。

役人は作文が上手なので、各種の白書とかを見ると、いかにも長期的なビジョンがあるように書かれていますが、実態はその場限りのやっつけ仕事が大半で、まったく信が置けません(中には真面目なお役人もいると思いますが、そういう人ほどたくさん仕事を抱えて、じっくり考える余裕がないように見えます)。

「今こそ百年の計を」(ドン!)と机をたたいて然るべき局面だと、私は思います。
これ以上、民を委縮させ、痛めつけるようなことをして、そんな馬鹿が許されるものか(ドン!)と、ここで再度机を叩きたい。

ヤドリギのクリスマスカードと或る一家の物語2016年12月24日 15時38分35秒

テロに大火。世界も日本も惨事に見舞われています。
仕事が忙しいとか、大掃除が面倒だとかブーブー言ってられるのは、実に幸せなことだと思わないわけにはいきません。

ちょっと間が空きましたが、記事の方を続けます。

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今日はクリスマス・イヴ。そして、クリスマスといえばヤドリギ
生命、太陽、炎、雷電、天空…ヤドリギはそれら全ての象徴であり、大きな呪力を秘めたものとして、冬枯れ一色の世界の再生と、生命の復活を願って、古代から冬至の時期に祀られてきました。そのかすかな名残が、クリスマスのヤドリギです。


そのヤドリギを描いた美しいクリスマスカード。
このカードは、そこにベツレヘムの星をあしらって、クリスマスムード満点です。


文字も絵柄もすべて型押しで浮き上がっている、凝った細工。


星の脇にさらに星。


この星は、差出人のカールトン氏が自らの思いを告げるために留めたものでしょう。


受取人はペンシルベニア州マンシーの町に住む、ミス・レオラ・ヴァーミリヤ。
消印を見ると、このカードは1908年のクリスマスに、ニューヨーク州オールバニーから投函されたものです。

eBayで見つけた108年前のクリスマスカード。
その背景にある物語を私が知る由もありませんが、でも知っている人に尋ねれば、きっとこんな答が返ってくるでしょう。

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おお、懐かしい。レオラのことならよく知ってるよ。

1908年…といえば、レオラはまだ18か19の娘時分の頃だ。
何?オールバニーのカールトン?その男のことは知らんな。でも、レオラの祖父さんや祖母さんはニューヨーク州の出だからな、あっちには親戚や知り合いが大勢おったさ。

レオラの祖父さんは最初、家具職人だったが、ペンシルベニアのグローヴァーで雑貨屋を始めてな。石炭油から採った「何でも治せるヴァーミリヤ特製“命の油”」なんてのまで売り出して、なかなか繁盛したもんさ。

商売っ気が強いのは、息子のエドワードも同じでね。息子の方は、グローヴァーからさらにマンシーに出て、製粉所の権利を買い取って、それから株の取引所を開いたりして、町の議会や教会の顔役になるぐらいには羽振りが良かった。つまり、それがレオラの親父さんさ。

親父は、本当はチャールズ・エドワードという2つの名乗りがあったんだが、自分ではもっぱらエドワードと名乗ってた。1908年にはたしか41歳だったはずだよ。女房のアイダは一つ違いだから、ちょうど40か。

レオラはエドワードとアイダの惣領娘でな、下に弟が3人、妹が1人おった。
中でも末の弟のチャールズ・エドワード・ジュニアは、なかなか大した奴さ。あいつはペンシルベニアの人間としちゃ最初の飛行機乗りになって、シンシナチからシカゴまで飛ぶ郵便パイロットをやっとったんだよ。時にゃ自分ん家の近くの野原に飛行機で乗り付けて、実にさっそうとした若者だった。

だが良いことは続かん。1929年の11月、その年は吹雪が早くにやってきて、奴はそれに巻き込まれて真っ逆さまさ。まだ23の若さだった。マンシーの連中は、「我が町のリンドバーグ」なぞと褒め称えたが、親父さんとお袋さんの落ち込みようときたら、まったく見ちゃおれんかった。

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…というように、会ったこともない遠い国の過去の時代の人のことも居ながらに分かってしまうネットは怖い反面、その視界の広がりには本当に幻惑されます。

今、博物趣味と旅の関わりについて考えていることがあって、時間と空間を超えた旅の物語を、モノ自身に語らせるにはどうしたらいいか?と思案しているのですが、こんなふうにモノを通して過去の1ページを覗き込むのも、ちょっとした旅かもね…と思ったりします。


【参照ページ】
レオラの一家のことは、以下のページの、それぞれ726~27頁と、1076~77頁に出てきます。


ジョーカー登場2016年11月10日 06時49分38秒



キノコよりも何よりも、トランプ・ショック。
24時間前、誰が今の世界の到来を予想したでしょう?

「トランプさんて、メキシコとの国境に壁を作るって息巻いてたよね。で、他には何をしたいの?」と、思っている人も多いでしょう。私もそうです。結局、トランプ氏が何をしようとしているのか分からないので、皆途方に暮れている…そんな構図じゃないでしょうか。彼の真意は何なのか?それとも真意なんてないのか?

今朝はまだ朝刊を開いてませんが、開けば記者諸氏が眠い目をこすりながら書いた、そんな記事が並んでいることでしょう。

面白うてやがてかなしき…になることはほぼ確実ですが、当面は、トランプその人の動きに加え――あるいはそれ以上に――彼の取り巻きの動きを注視したいです。仮にロシアや中国が「トランプ御し易し」と思っているなら、彼の周囲の有象無象だってそう思っているに違いないからです。(そして、やっぱりショックを受けているらしい、我が首相周辺はどう動くのか?)

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…というような政治評論めいたことは、いったん脇に置くにしても、ドナルド・トランプは「一人の人間」であると同時に、「一個の現象」でもあることは、忘れずにいたい点です。彼が体現している、人間の「暗い想念」は、彼が来たり、そして去った後も、人間の心の中に依然淀み続けるはずで、トランプ氏の存在に、もし意味があるとすれば、我々は彼を通して、それをより明瞭に見つめ、対峙することができるという点にある気がします。

目覚め男2016年10月08日 15時44分08秒

さて、そろそろ目覚めなければなりません。
でも目覚めてみれば、世はさらに乱脈を極め、何だかすぐにまた眠りにつきたくなるありさまです。

ここでふと、「このごろ都に流行るもの 夜討 強盗 にせ綸旨…」で始まる、二条河原の落書を想起するのですが、一つの秩序が倒れんとするとき、そこに佞臣・奸賊・梟雄・無頼漢が湧いて出るのは、常に変わらぬ人の世の習いかもしれません。

現今の世相も、まさにエセ、ウソ、虚飾が大手を振ってまかり通る、浅薄にして醜怪な世となっていますが、それを嘆くばかりでなく、今こそ人間社会の「深い真」を学ぶ絶好の機会なのですから、心ある人は肉眼と心眼を見開いて、世の転変を見つめようではありませんか。

このあと、混乱を経て新たな秩序が生まれるのか、混乱がさらに大乱となるのか、いずれにしても、我々は大きな歴史の実験場に立ち会っていることは間違いありません。

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…と、ちょっと大きく出ましたが、この「天文古玩」自体は、「歴史の実験場」とは縁遠い、ごくささやかな愉しみを開陳する場に過ぎません。世間の荒っぽい動きと対照するとき、こういう小市民的な試みが、ちょっと馬鹿っぽく見えるかもしれませんが、しかし、こういう愉しみが否定されねばならないとすれば、それは世の中の方がおかしいのです。

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1903年に出たリービッヒ・カードの「星座シリーズ」、全6枚のうちの3枚。
(リービッヒ・カードというのは、リービッヒ社のスープの素に付いてきた、昔のオマケカードです)。


星空の美しさは、はるかな昔と少しも変わることがありません。


そして、それを見上げる平穏な地上の暮らしもまた無類に貴いものです。
そしてさらに、こういうチマチマしたカードを集める小市民的な愉しみだって、その貴さの1ピースなのですから、大いに大切にされなければ嘘だ…と思うのです。

Living Dead 健在2016年09月27日 21時31分16秒

その後もなかなか余裕に乏しく、部屋の掃除もままならないような仕儀に陥っています。こうなると、記事が書けないのはもちろん、部屋も、頭の中も、胸の内も散らかるばかりで、何だか混沌とした気分になります。

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その混沌とした気分で書きますが、例の拍手の件、いかにも妙だなと思います。

昼夜を分かたず、日本のために働いてくれている、自衛隊、警察、海上保安庁の各員に敬意を表そうではないか…という趣旨だそうですが、もちろん現場の各員にはそれぞれ苦労があるでしょうし、使命感に駆られて行動している人も多いと思うのですが、基本的に各自は組織の一員として職務に当っているわけで、別に篤志で活動しているわけではありません。そして、その職務を命じているのは誰かといえば、究極は行政府の長である首相なわけです。その首相自身が、「俺のいうことを忠実に実行している部下に拍手しようじゃないか」と議員に促しているのは、相当妙な構図です。

職務に忠実に、自分の仕事に誇りをもって精励している人は、官民を問わず大勢いるし、さらには純粋に個人の善意に基づいて、利益などハナから度外視して、時には身の危険を顧みず活動しているNGOの人なども多いわけですから、そういう人たちも含め、等しく感謝の念を捧げようという趣旨なら分かるのですが、安倍さんの意図はおそらくそこにはないでしょう。

8月15日に寄せて2016年08月15日 22時26分43秒


いつものブログは夏休み中なので、今日は大いに「閑語」します。

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「もはや戦後ではない」と言われて久しいです。
「もはや戦後ではない。―もはや戦前だ」…というのが、ちっとも冗談に聞こえないのが、恐ろしくもあり、いきどおろしくもある昨今です。

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「決して鼎立しない三つ組み」というのがあります。

古くはヤスパースが挙げた、「ナチス的である、知的である、誠実である」という3つの性質などが、その代表です。すなわち、この3つの性質は同時に満たされることが決してなく、ナチス的で知的であれば、その者は不誠実(うそつき)であり、知的で誠実な者はナチス的であることはできず、誠実でナチス的な者は知性を持たない…ということで、これはたしかに真理をついています。

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平和憲法と軍隊と日米安保も、ちょっとそれに似たところがあります。

平和憲法と軍隊があれば、他国との軍事同盟は解消すべきであり(スイス型国家)、平和憲法と日米安保があれば、軍隊は不要であり(戦後のある時期までは、それが日本のスタンダードでした)、日米安保と軍隊があれば、平和憲法は矛盾した存在として抹殺されるべきだ…というわけです。もちろん、現在の政権は3番目の道を選ぼうとしています。

実際には、3つの内から必ずしも2つを選ぶ必要はなく、1つだけ選ぶこともできます。
すなわち、軍隊を採って、平和憲法と日米安保を捨てる(孤立的軍事国家)、日米安保を採って、平和憲法と軍隊を捨てる(被植民地化)、平和憲法を採って、日米安保と軍隊を捨てる(理想主義的平和国家)…というイメージです。

結局、平和憲法と軍隊と日米安保という3つのものから、1つ乃至2つを選ぶという単純な状況に限定しても、選択肢は6つあり、今の政府の方針に反対するのでも、5つの立場があるわけです。その辺を曖昧にしたまま、かみ合わない議論をしている例が少なからず見受けられます。

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個人的には理想主義的平和国家を推したいところですが(私は理想と平和が好きです)、その実現が困難であることは認めざるを得ません。

それは「他国は信用ならないから」という外的要因よりも、それを実現・維持するだけの強靭な政治力が、今の日本には欠けていることを懸念するからです。そして、こうした政治力の衰微は、他のどの選択肢を採るにしても、大きな危険要素であり、国を破る元だと思います。

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為政者は愚民政策を推し進めることで、国民を御しやすくなったと喜んでいるかもしれませんが、それは一方で一国の政治力の弱体化をもたらし、国を危うくしているのだ…という事実に、もっと意識を向けるべきだと思います。

雨上がり2016年07月27日 07時10分14秒

ブログの趣旨とはずれますが、もう1回、思いを書き付けます。

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私なりに被害者の気持ちを推し量って、あの犯人に向って何か言うとすれば、「馬鹿野郎、勝手な理屈をこねるな。こっちだって、別に好きで障害者やってるわけじゃねえんだよ」と真っ先に言いたいです。

ハンデと、ハンデを負わされている人を同一視することは、彼(犯人)自身の過ちであり、彼に関する議論を歪ませることにもなると思います。端的に言って、彼は「袈裟が憎いから坊主まで憎む」愚を犯しています。

もし障害を憎むのだったら、障害に立ち向かう医療や教育の道を志したり、障害が障害とならないよう社会の仕組みを改めたり、世間の意識を変えていく方向に力を傾けるのが、より正義にかなった行いです。障害を憎むあまり、障害を負った人自身を攻撃するのは、どう言葉を尽くしても、不正義のそしりを免れません。

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もちろん、障害はアプリオリに「憎むべきもの」ではありません。
「障害も個性であり、その人の切り離せない一部だ」という、大切な論もあります。

ただし、それは、「私は障害者以前に『人』である。何よりも障害を持った『人』として尊重してほしい」という意見と、何の矛盾も無く両立します。「その上で、この障害も私の個性として認めてほしい」という意見を、私は尊重します。そして、「障害を受容している人」や、さらに「自らの障害を愛している人」を、私は無条件で尊重します。そして、その人とともに、彼(彼女)の障害を大切にしたいと思います。

そのことを認めつつも、私はあの犯人に立ち向かうために、最初の論に立ち返る必要を感じています。

雨の音2016年07月26日 21時36分04秒

いたましい出来事が多いです。
こういうときは下手でも何でも沈思せねばなりません。

雨の音の何と慕わしい夜であることか。

新しい朝2016年07月11日 06時46分21秒

切に忍びないです。
EU残留を志向したイギリスの人の気持ちがよく分かります。
しかし、歴史の転換点に立ち会うというのは、愉快かどうかは別にして、とても興味深いことです。

悪者さがし…というのとは、ちょっと違うんですが、今回の選挙の「立役者」は何といってもマスコミで、ネットの普及でマスコミの衰退が言われて久しいですが、まだまだマスメディアの影響力は健在なことを知りました。そして、マスコミを掌握するとは、これほど効果があることなのか…ということを実地に学び、「ナチスの手口に学べ」と言った麻生氏の先見の明に、改めて感服しました。

これから先、我々は(というか私は)さらに多くのことを学ぶでしょうが、その授業料はずいぶん高いものにつくでしょう。

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呑気が取り柄の「天文古玩」も、この先どうなることでしょう。
ここで、10年前に自分が書いた記事(http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/11/05/)から、天文趣味が持つ或る可能性について、先人の言葉を引いておきます。


 「およそ知性ある者、美しい光景に心を動かす者であれば、たとえ貧弱きわまりない望遠鏡であれ、起伏に富んだ白銀の三日月が、紺色の空でうち震える様をひと覗きすれば、すばらしい喜びに感極まり、今や地上の俗生活を離れて、宇宙旅行の最初の停泊地を訪れているのだと感じるのではあるまいか?

 およそ思慮深い魂ならば、4つの衛星を従えた壮麗な木星を、神秘の環で囲まれた土星を、はたまた緋色とサファイアブルーに輝く二重星を無限の夜空に眺め、しかも驚異の念で心が満たされぬということがあろうか? まさに然り!

 もし人類が――野良仕事のつましい農夫や、都市で苦役につく労働者、教師や自立できるだけの資産を持ち、今や富と名声の絶頂にある人々、果ては浮薄この上ない社交界の女性に到るまで――どんなに深い内的な喜びが、宇宙を眺める人々を待ち受けているかを知ったなら、そのときこそフランスは、いや全ヨーロッパは、銃剣ではなく望遠鏡で覆い尽くされ、世界の幸福と平和は大いに増進するに違いない。」


フランスにおける天文趣味の偉大な指導者、カミーユ・フラマリオン(1842-1925)が、1880年に自著に記した言葉です。

たしかに、現実の歴史はフラマリオンの期待を裏切ったことを、我々は知っています。
しかしそれでもなお、時々首をぐっと反らせて、自分の頭上に広がる無限の空を眺めることには深い意味があり、自分を豊かにすることだと思います。

このブログでは、そのことを倦まず語っていきます。
心を無限の空で満たして、また歩き出すとしましょう。
そして、「銃剣ではなく、望遠鏡を!」と、何度でも口にするのです。