サプライズ・アゲイン2011年05月16日 20時16分56秒

せっかく銀河清遊への復帰を目指して舵を切ったのに、またもや横波が。
朝日の夕刊を開いて、へなへな。

 「君が代起立 小中教員も/大阪維新の会 条例案、対象拡大へ」

 「地域政党「大阪維新の会」の大阪府議団は、5月府議会に提出を目指す君が代斉唱時に教員の起立を義務化する条例案について、対象を府立学校に加え、府内の政令指定都市を除く市町村立の小中学校にも広げる方針を固めた。同会代表の橋下徹知事も支持しており、過半数を占める同会が提案すれば可決される見通し。

 〔…中略…〕維新の会は条例案に罰則を設けない方針だが、橋下知事は14日、「職務命令や条例を守らなかった場合の処分のルール化もめざす」と述べ、条例化後に起立を拒むなどした教員を地方公務員法違反で処分する可能性も示している。」


罰則はないが処分はする。
要するに、処分がしたくてたまらないのでしょう。
性質(たち)が悪いと思います。

「条例に違反したんだから、処分は当然です」と脂っこい顔で述べながら、その条例自体が条理にかなっているかどうかは知らんぷり。
そもそも最初から議論する気もないのでしょう。

敢えて言いますが、下劣だと思います。そして能天気です。
彼らが震災と復興のことなど毫も考えていないことは明白だ…と私は受け止めました。

驚いたこと2011年05月14日 15時46分42秒

震災以来の驚きのニュース。
驚きのあまり、記事の流れが完全に断ち切られました。
以下、今日の朝日の朝刊から。

    ■  □

「君が代「起立」条例案/大阪維新の会 教員に義務化/府議会提出へ」

 大阪府の橋下徹知事が率いる地域政党「大阪維新の会」の府議団は、府立学校の入学式や卒業式などで君が代を斉唱する際、教員に起立を義務づける条例案を5月府議会に提出する方針を固めた。維新の会は府議会で過半数を占めており、可決される公算が大きい。

  〔…中略…〕 維新の会の松井一郎幹事長は条例について「起立しての斉唱は公務員として当然のこと」と説明。橋下氏も府幹部にメールで「(起立しない教員は)公務員の身分保障に甘え過ぎ」と主張していた。 〔後略〕」

 
    ■  □

この人たちは一体何がしたいんですかね?
他にすることはないのでしょうか?しかも、この時期に。

君が代問題は君が代問題で、大いに議論すればいいと思いますが、この人たちがこれを目下の重要案件と考えているのであれば、ちょっと●●●ているとしか思えない。

それに、橋下氏の発言はどういう意味なんでしょう?
「首切りをちらつかせたら、あいつらもそうそう生意気なことは言わんやろ。ちっとビビらせたろか」…という意味では決してないと思いますが、もし万一そんな意味だとしたら、知事よりも●●●方面に転身された方が良くはないでしょうか。まあ、そんな意味ではないと思いますが。

原発甲論乙駁2011年04月16日 10時04分24秒

このブログの趣旨からは大きく外れますが、常ならざる状況ですから、ボンヤリ考えたことを、ここにメモしておきます。

   ★

「東電は無能で、政府は嘘つきで、学者は恥知らずで、マスコミは無知で、国民はおめでたい。」人々の意見を総合すると、そういうことになります。そう叫ぶことで、ひとまず溜飲は下がりますが、溜飲の下がったところで、次にどうするか。

大切なのは「知る」ことでしょう。
でも、これがなかなか難しい。最近つくづくそう感じます。
飛び交う情報が、玉石混交だということは常識で分かります。でも、「常に批判精神を持って情報に接しなさい!」と言われても、この場合、知識のない者が、知識を得ようと思って読むわけですから、明らかに珍妙な文章でない限り(=内的整合性が破たんしていない限り)、読む時点で、内容を批判的に見ることは原理的にできないですね。そして、外的整合性を判断するには、他にもいろいろな知識のあることが前提で、これまた一朝一夕には難しい。

取りあえずの処世訓としては、
○お上の言うことは、割り引いて聞く。
○利害関係者の言うことは、割り引いて聞く。
○匿名の意見は、割り引いて聞く。
○すぐにレッテルを貼る人の意見は、割り引いて聞く。
○毀誉褒貶半ばする人の意見には、一片の真実がある。
○感情論は無視する。
○分かりやすいから真実とは限らない。反対に、分かりにくいから真実とも限らない。
○声の大きい人や、多数派の声が、常に真実とは限らない。逆もまた真。
…といったところでしょうか。

それと、今は政府がきちんとした数値を出していない(らしい)ので、それとの対比効果で、きちんと数値を挙げて解説してあると、それだけでいかにも正しい論と感じられたりします。たしかにデータを挙げて論じることは、この場合、最低必要条件でしょうが、『統計でウソをつく法』といった本も出ているぐらいですから、数字があるからと言って、それだけで無条件に信用できるものでもない。さらに踏み込んで、その数字の意味を考える必要があるはず。まあ、これは上と同じ理由で、すぐには難しいですが、一応心に留めておくべき点だと思います。

天地有情2011年03月16日 21時47分07秒

ブログの更新が止まっています。
頭の中がそういう状況ではないからですが、本当はこういう時こそ動じないで、「日常」を維持することが大切なのかもしれません。

人類の歴史はざっと200万年。だとすれば、1000年に1度の大災害といえども、すでに2000回は経験しているはずで、それを乗り越えたから今があるわけです。地震も津波も、そも何するものぞ。

…と、自分が本気でそんなことを言ったら、私は自分のことを不気味に思うか、少なくとも信用できない人間だと思うことでしょう。こういうときは、迷い、うろたえ、涙を流し、それでも歯を食いしばって生きようと思ってこそ、人間なんじゃないでしょうか。

とは言え、今日ふと気づいたことがあります。
そうやって右往左往している間にも、木々の芽はふくらみ、枯れ草の間に青い物が鮮やかに見えたことです。まこと自然の営みは日々休むことがありません。

天空の巡りもそうですね。
被災地の方は、夜をいったいどんな思いで過ごされているのでしょうか。
ぐったりと疲れ、泥のように眠りたくても、寒さが足元から這い上がって、眠ることもままならない方も大勢いらっしゃることと拝察します。

寒さに耐えかねて身を起こした時、目に飛び込んできた星々が、せめていっときの慰藉を与えてくれればと、祈るような気持ちでいます。

和紙のはなし2010年12月05日 14時24分47秒

(↑明治19年発行の理科教科書。文部省旧蔵本。理科も和紙で伝えられた時代の証人。)

昨日の続きです。

「和紙と洋紙」について、我々は無条件で和紙の良さを称揚しがちですが、そこで比較されているのは、実は「伝統和紙」と「近代洋紙」であり、「伝統洋紙」と「近代和紙」が意識から抜け落ちていることを、前記『紙と本の保存科学』を読んで教えられました。

正倉院文書の存在などから、和紙の保存性が相当なものであることは確かです。
しかし、これは和紙の専売特許ではありません。500年前のグーテンベルグ時代の紙(亜麻ぼろを原料とした手漉きの紙)は、現代でも非常に健全な状態を保っており、おそらく和紙と同程度の寿命があると思われます。近代の紙になると、酸性紙で100年ちょっと、期待の中性紙でもせいぜい500年程度の寿命と考えられているので、昔の手漉きの紙は、洋の東西を問わず非常に長寿命であることが分かります。

しかし、手漉き洋紙の原料である亜麻ぼろも、それを使って紙を作れる工場も、欧米社会からは既に消えてしまったので、手漉き洋紙を採算ベースで作ることはもはや不可能です。その意味で、和紙の存在は非常に貴重であり、永続性に加えて、薄さ、しなやかさ、透明性を備えた和紙は、現在、欧米でも書画の修復材料として重宝されています。

しかし、その和紙にも不安がないわけではありません。
明治以降の和紙は、その製造の機械化にともない、原料に木材パルプを混入し、またその製造過程で多くの化学薬品を使用しています。そうした和紙は、見かけは従来の和紙と同じでも、100年も経過すると脆弱化するなど、洋紙と同じ問題を抱えています。

「一般的に、また和紙使用者として文化財保存修復に
携わる我々も、とかく和紙が古法を守って造られていると
思いがちである。現実の和紙製造工程を見てみると、
予想以上に各種の工業製品や機械などが導入されて
いるのに気が付く。

現在は文化財保存に関わる和紙は、日常生活のための
和紙とは違う分野として認められてきているが、過去に
造られた和紙には、競合製品のように短期間の寿命を
想定して大量に低価格で流通することを目指して造られた
モノも多い。それらが、手漉き和紙であるという外見だけで
永続性を信用され、文化財修復材料として使われる
可能性も否定できない。」 (前掲書 p.45)

せっかく和紙を使って修復したのに、修復材の方が先にボロボロになってしまったという、笑えない話もあるらしい。

   ★

近代は個人主義の時代だからでしょうか、物事をすべて個体の時間スケール、せいぜい10年とか30年単位でしか考えないので、情報の保存の問題も、政治や経済も、何だか焦土作戦のような色合い帯びています。「それではいかん」と感じる人も少なくないのでしょうが、いかんせん衆寡敵せず、なかなか修正がききません。

現代の人間にイマジネーションが足りないわけではないでしょう。おそらくその豊かなイマジネーションを、もっぱら不安や猜疑の方向に働かせているために、刹那的になっているのだと思います。それを別の方面に向けたら、もっといろんなものが見えてくるし、いろいろやれるはずなのになあ…と思わずにはいられません。

紙の保存の問題から、そんな大仰なことをチラと考えました。

青ざめる古書たち2010年12月04日 17時26分45秒


(OVA版“R.O.D-READ OR DIE”より)

神保町のとあるビルの屋上に住む、本の虫、Yomiko(読子) Readman。
彼女には臨時教員という表の顔とは別に、紙を自在に操る能力を駆使して事件に挑む、大英図書館特殊工作員という裏の顔があった。コードネームは「ザ・ペーパー」。

そんな彼女でも手の出しようがない、紙の劣化の恐怖とは?

   ★

昨日、DryGinAさんよりコメント欄でお知らせいただいた下のページに、その惨状が載っています。「触れただけで紙がフレーク状に崩壊する」というのは、こういう状態を言います。

■酸性紙資料の脱酸性化処置:東京都立図書館
 http://www.library.metro.tokyo.jp/15/15a84.html

伝統的に本の敵と言えば虫とカビ。しかし酸性紙問題は、セルロースが分子レベルで崩壊していくミクロの脅威なので、対応がいっそう困難です。健康な紙が内部から徐々に蝕まれ、最後には粉々に崩壊してしまうという、まさに「紙の癌」ともいうべき恐るべき相手。

紙の劣化の仕組みについては、同じくDryGinAさん紹介による以下のページが要領を得ています。

■中性紙使用のおねがい:国立国会図書館
 http://www.ndl.go.jp/jp/aboutus/data/chuseishi.pdf

上のリンク先から抜き書きしてみます。

「19 世紀半ば以降、本に使われている紙は木材を機械的または化学的に処理してセルロース繊維を取り出した、パルプを原料としています。パルプを網の上ですきあげたものが紙です。製紙工程の途中で、インクのにじみ止めのためにロジン(松やに)を加えます。これをサイジングといいますが、ロジンを紙に定着させるために、硫酸アルミニウムを添加しなければなりません。硫酸アルミニウムは紙の中で加水分解して硫酸を生じ、紙を酸性にします。この硫酸が紙の繊維のセルロースを傷め、劣化を導きます。」

つまり、紙の表面処理に使われた「硫酸アルミニウム」がこの問題の主犯格。

   ★

今回、この問題を知るために、下の本を併せて読んだので、同書に依ってもう少し補足しておきます。

園田直子(編)『紙と本の保存科学』、岩田書院、2009.
(今年第2版が出ましたが、そちらは未見。)

   ★

まず私が誤解していたのは、紙の褐変の問題です。
終戦直後に出た本で、よく紙が真っ茶色になっているのがありますが、あれはセルロースの劣化ではなく、主にリグニン成分(←機械処理したパルプに多く含まれる)の劣化によるもので、基本的に酸性紙とは別の問題だそうです。
もちろん両者が重複している場合も多いのですが、見かけは新しくても触るとグズグズだったり、反対にすっかり茶色くなっていても、見た目ほど紙の強度が落ちていない場合もあるのだとか。

20世紀以降は、戦争前後の一時期を除き、リグニンの少ない化学パルプが主流となったため、褐変の問題は以前ほど目立たなくなりました。しかし酸性紙の方は、近年、中性紙が一般化するまで延々と作られ続けてきたので、この問題は本当に深刻です。

大量の資料を保管している図書館などでは、アルカリの液にボチャンと漬ける液相処理や、アルカリのガスを吹き付ける気相処理など、本の脱酸処理をいろいろ試行錯誤していますが、まだ理想的な方法は見つかっていません。それに、そもそも脱酸処理は、それ以上酸化が進行するのを抑えるだけで、紙力を回復する効果はありません。つまり、脆くなった紙がシャンとするわけではないのです。(メチルセルロース溶液の浸潤による強化処理など、そちらの研究も徐々に進んではいるようですが。)

  ★

「よし、酸性紙の問題はわかった。図書館での取組も承知した。で、一般の家庭ではどうすればいいんだ?」…というのが、個人蔵書家にとっては、いちばんの関心事でしょう。でも、上の本を読んでも、これがよく分かりません。たぶん根本的な解決法はないんじゃないでしょうか。せいぜい温湿度の管理に気を使ったり、酸性紙同士の接触をなるべく減らすぐらいでしょうか。

うーむ、座して死を待つしかないのか…。
しかし、ここで過度に悲観的にならなくてもよい理由は、紙の劣化が深刻なのは、特定の年代に集中しているからです。即ち、「機械パルプの使用」と「酸性紙問題」が重なった時期がそれです。(そして1800年以前の古書は、酸性紙問題とは最初から無縁です。)

日本では必ずしも刊行年の古い図書の劣化が著しいわけではなく、第2次世界大戦中から戦後にかけて刊行された図書の劣化が激しくなっている。これは刊行当時の社会的状況から、原料パルプの質的低下と抄紙時のpHなどが原因と考えられる。ちなみに、欧米では木材パルプ、特に機械パルプの使用、さらには酸性ロジンサイズ処理の普及による抄紙pHの低下から、19世紀後半に刊行された図書の劣化が最も著しい。」(上掲書p.140)

「19世紀の後半」というのは、より具体的には、1880年代を中心とする前後20年間がそれに当たります。購書段階からこの点を念頭に置いて、オリジナルの古書を買う理由を自問しながら行動すれば、精神衛生はかなり向上するのでは。

  ★

さて、ブログの趣旨からは脱線しますが、紙の話題の続きとして、DryGinAさんやS.Uさんが触れられていた、和紙の特性についても書いておきます。

(この項つづく)

【付記】 R.O.Dについては、以前、麻理さんの「スチームパンク大百科」で教えていただきました[LINK]。

「天文古玩」の裏ブログとは?2010年11月27日 20時57分17秒

アストロラーベ・カードの話の途中ですが、日ごろ思うことを少々。

この「天文古玩」の裏ブログともいうべきものが、当サイトのコメント欄で、実は記事本編よりも質・量ともに充実してるんじゃないか…と感じることがよくあります。

最近の足穂と月ロケットの話題(http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/11/19/5521069)なんかは、ひとえに常連コメンテーターであるS.U氏の熱意によって可能となったもので、なんでまた古星図の話題からそこまで発展していったのか、改めて読み返すと可笑しくもあり、不思議でもありますが、拙ブログにおけるコメント欄の性格がよく出ています。

S.U氏に限らず、コメント欄というのはどなたか相手がいなければ成り立たないわけですから、重量級の話題からライトなつぶやきまで、何なりと、いつでも気軽にお寄せ下さい(もちろんスパムは例外です)。そこからまた新たな記事が生まれることも多いので、拙ブログ延命のためにも、どちら様も是非よろしくお願いします。

とはいえ、ブログのコメントというのは、常連の方がいて流れができている(ように見える)と、なんだか発言しにくいと感じる方もいらっしゃると思います。しかし、少なくとも拙ブログに関しては、そうした気遣いは全く無用ですし、むしろ流れを擾乱するようなコメントの方が活気づいて良いので、この点もよろしくお願いいたします。

科学・魔術・芸術…光と闇の画家、ジョゼフ・ライト2010年11月23日 21時13分15秒

「ハリポタの映画のセット」の話題からもう1つ連想したのが、以下の作品。

ジョゼフ・ライト作『錬金術師』(1771)

「賢者の石」を探す過程で、偶然燐(リン)を発見した錬金術師を描いた絵です。画題はドイツのへリング・ブラントによる燐の発見(1669)に想を得ており、ブラントは商売の傍ら、本当に錬金術の研究に没頭していた怪人物らしい。

   ★

啓蒙主義と産業革命の時代、18世紀。
自ずと「科学」というものに、自覚的にならざるを得なかった時代でもあるのでしょう。そんな時代を背景に、科学をテーマにした異色の作品群を発表したのが、イギリスの画家ジョゼフ・ライトです。以下、新潮社版『新潮世界美術辞典』より。

ライト、ジョゼフ Joseph Wright
(通称ライト・オブ・ダービー、Wright of Derby)
1734.9.3-97.8.29 イギリスの風景画家、風俗画家、肖像画家。
ダービーに生れ、同地で没。
生涯を通じて光の効果を追求し、月明の風景、蝋燭の光による
人物や情景を多く描いた。これはアールト・ファン・デル・ネールや
ヘリット・ファン・ホントホルストの影響と思われる。また科学実験の
光景という新しい主題を見出した。『空気ポンプの実験』(1768、
ロンドン、テート・ギャラリー)はその好例。

この人の作品では、私はオーラリーの実演を描いた絵(1766)がいちばん印象に残っています。それと上の引用文中にも出てきた空気ポンプの実験の絵。(下のリンク先で画像をクリックすると、大きめの画像を見ることができます。)

■Maureen Byko,
 Shedding a Light on 18th Century Science: The Works of Joseph Wright of Derby
 http://www.tms.org/pubs/journals/jom/0706/byko-0706.html

いずれも、科学が生み出したマシン、それを厳かに操る科学者、そして両者を好奇と不安の目で見守る人々の表情が、陰影豊かに描かれています。こうした光景は、たぶん実景でもあり、同時に科学(新時代の魔術!)をめぐる当時の社会状況そのものをも象徴しているのでしょう。真空ポンプの中で息絶える小鳥は、科学の冷徹さと、それが孕む危険性に警告を発したものだとも思えます(ライト自身がどこまで自覚的であったかは分かりませんが)。

天文Bar?2010年08月22日 07時08分37秒

当地では、毎年、甲子園の準々決勝あたりからツクツクボウシが鳴き出すのですが、今年はまだ全然です。アブラゼミの声も、いつの間にか聞こえなくなり、町は今奇妙に静かです。(今年は全体にセミが少ないようです。)
 【付記 …と涼しい顔で書いたら、とたんに油蝉がジャジャジャと鳴き出し、なーんだと思いました。】

   ★

さて、この前<鉱物Bar>ならぬ<天文Bar>はないかなぁ…ということを書きましたが、「でも、ひょっとしたら、もうあるのかもしれないぞ」と思いついて、検索してみました。

するとトップに表示されたのが、六本木にあるダイニング・バー、「天体観測 Diner アフィリア・スターズ」。ん?これは何だろう…と思って、サイト(特にリンクは張りませんので、関心のある方は検索してください)を見に行ったら、店のコンセプトは以下の如し。

   □ ◆

  当店は「魔法学院」という一つのキーワードに合わせ、
  コスプレはもちろん店舗内装に至るまでトータルにこだわった
  「テーマカフェ」と呼ばれる新しいスタイルのお店です。

  公開中のキャスト(ウェイトレス)用コスプレ衣装も
  ゴスロリ+魔法遣い+女子高生+セクシーをミックスした
  完全オリジナルデザインです。

  〔…〕美少女ゲーム音楽の世界で非常に高い評価を受けている
  音楽制作会社が造る、萌えコスプレカフェテリアとは!?
  どうぞお楽しみに。

   ◆ □

うむむむ…
より正確に言うと、上の説明は、東京・名古屋・大阪に5店舗展開している「アフィリアグループ」の共通テーマであり、六本木の店は、アフィリア王国の王立天体観測所にして、アフィリア魔法学院が運営する施設、という設定らしいです。

「当観測施設は4つの天体拡大鏡からなり、その中でも施設中央にそびえ立つ「猫ノ目からヒントを得て開発された」と言われる超大型の天体拡大鏡『グレゴリアス』の存在感は圧巻です!」…とのこと。

グレゴリアスの何たるかはハッキリしませんが、でも、ちょっと勝手が違いました。

どうやら、私が思うような天文Barは、まだないらしいことを認識。
当分は「ひとり天文Bar」の片隅で、賢治や足穂、あるいはフープ博士やクシー君と一緒に(彼らは来店しても空間を要さない至極便利な客です)彗星カクテルをチビチビ舐めながら、土星の噂や、銀河鉄道に支線ができた話などをして、宵を過ごそうと思います。

精神の物理学の果てに2010年08月14日 20時35分37秒

心が落ち着くまで、記事の方は場つなぎ的な内容で…云々と書いたので、ちょっと毛色の変わったことを書こうと思います。
それはおそらく人類が挑戦する、最後の秘境となるであろう場所、すなわち人の心についてです。

最初に言い訳をしておきますが、これはあくまでも場つなぎなので、精密な議論ではありません。お盆休みの最中に、ぼんやりと思い浮かべたことです。

   ★

昔、心理学は科学でした。
いや、今でも科学なのですが、昔はさらにカギカッコ付きの「科学」でした。
分かりやすいエピソードを上げると、昔の心理学専攻の学生は、文学部の中で唯一白衣を着る存在だった…と言えば、何となくイメージしていただけるでしょうか。つまり自ら「自然科学」の一分科たらんと志していたわけです。

現代の心理学は、19世紀に「精神物理学」として始まり、その<開祖>がグスタフ・フェヒナー(1801-1887)です。くだんの白衣の学徒たちは、フェヒナー博士から100年ちょっと下った後裔であり、厳密な実験によって人間精神のふるまいを解明しようと奮闘していたのです。

ただ、形だけ自然科学的手法を取り入れても、人間精神が容易に陥落しないのは当然の話で、<開祖>フェヒナー博士自身が、晩年はオカルトに接近していったというのは、心理学の教科書があまり深入りしない点ですけれども、しかし、これは心理学という学問の性格を考える上で、むしろ積極的に載せるべきエピソードだと思います。

敢えて言えば、フェヒナー博士は「途中で道を誤った」わけではなく、心にアプローチする以上、どの道をたどったにしても、そのまま進み続ければ必然的に「そっちの世界」に行ってしまうのだと思います。

たとえば物理学なんかでも、結局最後に認識論の問題が出てきて、それ以上先に進めなくなる局面があるような気がします。ましてや、認識そのものを対象にする心理学においては、あっという間に壁にぶつかるのは理の当然で、頭のいい人たちは、なるべくその壁を見ないように、壁に沿って歩き続けることで、自分たちがずいぶんと進歩を遂げたような気分を味わおうとしましたが、そういう無理は長続きしないものです。

(心理学の対象は「心」ではない、心理学は行動の科学であって、その扱う対象は外部から観察できる行動だけだ…と、学生の頃に聞かされましたが、素直に考えれば無理な話で、「心」に対して無力な心理学なんて最初から要らないよと、そのとき思った記憶があります。)

   ◆

…うーん、ちょっとお酒が入ったので、うまく文章がまとまりません。お盆なので、「そっち系」の話を書こうと思ったのですが、手に余りました。

事前構想では、ここで明治時代の珍奇な知能測定法の本を紹介しつつ、当時の超心理学ブームのことを書き、さらにフェヒナー博士の怪説(= 唯物論的思考法である「闇夜見」を超えた、スピリチュアルな思考法「白昼見」の称揚 )にいたく感心し、自ら「白昼見」という作品を書いた稲垣足穂のことを取り上げようと思ったのですが、どうもあんまり面白く書けそうにないので、この話はここまでです。