やっぱりトロートン望遠鏡のことなど…東京天文台初期の歴史2007年09月01日 23時11分36秒

(今日は文字ばかりです。このくだくだしい話題もやっと完結です。)

あんまり強迫的に1つのことにこだわるのもどうかと思いますが、何かすっきりしない感じがあって、今一度、東京天文台の初期の歴史と、機材の整備状況を整理してみました。

幸い、手元の同天文台100年誌に関連事項がまとめられていたので、90年誌と併せて表にしてみました(まさに灯台下暗し。ネットばかり見ててもダメですね。この間(8月30日)の記事は、重要な情報が落ちてたことも発見。下述。)
http://www.ne.jp/asahi/mononoke/ttnd/tokyo_observatory/table

薄緑になっているのが、天文台と機材整備に関係する事項です。

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さて、20センチ・トロートン望遠鏡の購入時期と、鮫島外交官に送られた「5千両+6千ドル」の使途をめぐる謎を考えてみます。

1872年に6千ドルの追加送金をしたということは、当然それ以前に5千両の使途は既に決定していたはずです。

このときに購入された機材(予定では6千ドルの赤道儀が含まれていました)は、編暦業務とともに、その後1874年、いったん内務省に移管されたと考えられます(そもそも編暦作業のために購入したのですから)。

1876年に内務省の雇外国人、シャボーは「20センチ赤道儀」の必要性を建議しています。トロートン望遠鏡はこれを受けて購入されたと、先日の記事では考えましたが、実はトロートン望遠鏡は既に天文局によって購入済みだったのに、何らかの理由で内務省に移管されずにいたのを、移管を促す目的でこのような建議をした可能性もあります(ただの憶測ですが)。

いずれにしても、1880年以前に内務省地理局はトロートン望遠鏡を使って天体観測を行っており、この1880年というのが、トロートン望遠鏡購入の下限になります(前の記事ではこれが落ちていました)。

で、あやふやなところを敢えて言葉にすれば、トロートン望遠鏡はやはり1870~72年に天文局(旧星学局)が大枚をはたいて購入したものであり、それが1874年ないし77年頃に内務省に移管され、さらに1888年に東京天文台に再移管されたのではないでしょうか。そう考えれば、2つの謎はいっぺんに解けるのですが…。

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参考までに、明治21年(1881)の東京天文台創設時の主要機材と、その現状をまとめておきます。

★口径15センチ赤道儀
 (1878年、文部省より交付。現在は?)
★口径6センチ子午儀
 (同上。1875年トロートン&シムズ社製とすれば三鷹に現存)
★口径20センチ・トロートン赤道儀
 (1888年、内務省地理局より移管。1880年以前に購入。国立科学博物館に現存。)
★口径16センチ・メルツ赤道儀
 (1888年、海軍水路部より移管。1880年購入?太平洋戦争で焼失)
★口径13.5センチ・レプソルド子午儀
 (同上。1880年購入?三鷹に現存)
★口径14センチ・レプソルド子午環
 (同上。1880年購入。関東大震災で大破)

ビューイング・ジャー(観察壜)2007年09月02日 19時59分03秒

上部にレンズがはめ込まれていて、覗き込むとビンの中のものが拡大されて見えるという、まあ仕組は単純なんですが、ひょうたん型の壜がデザイン的にちょっと面白い品。

「19世紀を迎える頃、イギリスにおいてビューイング・ジャーは非常な人気を博しました。多くの家庭がこれを備え、老いも若きもそこからちっぽけな世界をのぞき込んでは、喜悦を味わったのです。」(付属の説明書より)

19世紀の博物趣味が生んだ一種の家庭玩具。これはその復刻品で、商品名は The Victorian Viewing Jar, 高さは約8.5センチほどです。

作ったのは、Van Court Instruments というマサチューセッツにある会社で、ここは他にも真鍮製の望遠鏡や、いろいろアンティークな雰囲気のアイテムを復刻・販売していましたが、現在は休業中なのか、ホームページを見ても表紙しか見られません。(私は7年前に東急ハンズで買いました。)

http://www.creative-resource.com/newhomepage.htm

なお、ビンの中のカラフルな貝殻は最初から入っていたものです。

ビューイング・ジャー(観察壜)…(その2)2007年09月03日 20時50分56秒

覗くとこんな風に見えます。
小指の爪にも満たない、小さな小さな貝の世界。
倍率は2倍ぐらいだと思いますが、視野が限られている分、かなり大きく感じられます。


■□ 雑感 □■

ときに、今日は重度の眼精疲労と脳疲労に悩むと同時に、自分がネット依存者であることを、はっきり自覚しました。

物の本によると、ネット中に話しかけられるとイライラする、あるいはネット中に画面をのぞき込まれると(別にやましいサイトでもないのに)不快感を覚えるというのは、ネット依存者に典型的な症状だそうで、最近の自分を振り返ると思い当たる点が多々あります。

このブログはネット依存の原因でも結果でもないので、このまま続けようと思いますが、ネットに接続する絶対時間を減らすことが、今の私には必要です。したがって今後は予告なしに記事をお休みすることが多くなります。コメントへのレスも少し遅れるかもしれません。どうぞ事情をご賢察ください。

言わでもの自己弁護をするならば、ネタ切れなどでは全くなくて、むしろその逆というか、あれも書かねばこれも書かねばと思って、かえって疲れてしまうような状態で、その辺が我ながら重症っぽい感じです。

少しディスプレイの前を離れて、ゆっくり本でも読もうというのが、今の計画です。ネットにのめりこんで以来、ネットと読書の時間が完全に逆転していたので、これを機に旧に復そうと思います。晴耕雨読ならぬ『晴読雨網』といいますか、天気のいい日は本を読み、雨の日にはブログを書くぐらいのペース配分がいいのでは…と、ボンヤリ考えています。

台風近し2007年09月06日 21時00分16秒

「晴読雨網」を標榜した手前、今日は記事を書くべきところですが、まだリハビリ中、ないし治療中なので、もう少し記事は休みます。

この2,3日は、日本ハーシェル協会の仕事をしたり、斉田博氏の天文随筆を読んだりして日を過ごしています。

それにしても、台風が接近中なのに、四囲が静まり返っているのが不気味。

まだまだトロートン望遠鏡のことなど2007年09月09日 21時26分49秒


知は力なり―。

調べごとをするとき、参照ツールを知っているのと知らないのとでは、まったく結果が違ってきます。上野のトロートン望遠鏡の由来を考える場合も同様。

関係者にはおそらく周知のことで、今さらながら自分の無知を恥じるのですが、20年前に『東京大学百年史』というのが編纂されていて、その「部局史(三)」という巻に、東京天文台の通史が詳述されていました。

これは前に挙げた「90年誌」や「100年誌」の記述をさらに詳しく、その典拠を明示しながら(さらに随所で一次資料そのものを引用しながら)まとめたもので、すべての議論はここから始めるべきでした。

これを読んで、モヤモヤしていたものが大分すっきりしたのですが、ただこれによって謎が解けたわけではなく、肝心のところは依然ボンヤリしています。以下、『百年史』の該当部分を引用します(改行は引用者)。

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明治21年(1888)に内務、海軍、文部3省の天文観測設備を集めて東京天文台が設立されたとき、地理局より移管されたロンドンのトロートン・シムス製、口径20センチメートル赤道儀があった。

赤坂葵町の地理局構内に据え付けられていたが、前記シャボーの調査報告書に、天文台必要の器械として価格9百ポンドの口径20センチメートル赤道儀がうたわれていることは、明治9年(1876)当時、地理局はこれを所有していないことを示していよう。また次に述べるように、明治13年には、地理局の観測所を江戸城本丸跡に移しているので、トロートン赤道儀が葵町に置かれていたことは、この望遠鏡が明治13年以前に地理局の備品になっていたことを示していよう。

この赤道儀は明治3年10月に文部省が鮫島少弁務使への購入依頼品リスト中にある赤道測角器価格約3万フランと同等の品であるが、こんなものが明治10年頃日本へ到着している様子はないから、鮫島氏へ依託した資金によって購入された望遠鏡は、明治10年から13年の間に、日本へ到着し星学局よりの編暦を引き受けた内務省が手に入れることになったのではなかろうか。

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推測の多い文章です。『百年史』の編者もまた、文部省が購入を計画した望遠鏡が、後に内務省の手に渡ったという筋書きを想定していますが、なぜ望遠鏡の到着が当初の予定より5年ないし10年も遅れたのか、すっきりとした説明がありません。

私は前に、“望遠鏡は1872年頃には既に到着しており、それが数年後に内務省に移管されたのだ”…と考えましたが、しかしそれは考えすぎで、日本に届いた時期は、やっぱり『百年史』が正しいという資料を見つけました。 (次回につづく)


★☆ つぶやき ☆★

それにしても何か散文的というか、つまらない話題ですね。トロートン望遠鏡到来の時期がたとえ数年前後しても、天文学史の大勢に影響はないので、そんなトリビアルなことにエネルギーを注ぐのは無駄、という内心の声もあるのですが、実に行きがかりとは恐ろしいものです。

ともあれ、現時点において、私は日本でいちばんトロートン望遠鏡のことを気にかけている人かもしれません(苦)。

近況…トロートン望遠鏡ほか2007年09月11日 21時41分58秒

ネットから離れたら、どういうわけか毎日とても眠いです。1日9時間ぐらいグッスリ寝ています。知らぬ間に疲労がたまっていたのかもしれません。

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さて、現在、『東京大学百年史』にもとづき、この前作成した明治初期の東京天文台の歴史年表に加筆修正を行っています。まとまったら、前回予告した情報と合わせて掲載します。

日本の天文学史は、明治維新はさんで、切断と連続の両面があると思いますが、こと観測機器に関しては、切断の様相が濃厚です。その象徴がトロートン望遠鏡であり、その到来時期を探ることは、日本の本格的な観測天文学の元年を定めることに他ならないのではないか…とすれば、それをトリビアルな話題と切って捨てるのも乱暴ではないか…そんなことをふと思いました。

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この件が片付いたら、次は理科室ネタで書きたいと思っています。この8月から9月にかけては、あたかも理科室強化月間であるかのように、いろいろモノや本が届いたので、部屋の中はなかなかいい感じです。

トロートン望遠鏡始末2007年09月16日 22時26分48秒

東京天文台の年表をリニューアルしました(http://www.ne.jp/asahi/mononoke/ttnd/tokyo_observatory/table)。新しい情報も入れ込んであります。

トロートン望遠鏡の来日をめぐるストーリーを、状況証拠から大胆に推測してみます。もちろん、これが正しいという確証はありませんが、矛盾のない形で各イベントをつなぐと、こんなふうではなかったかな…という、一種のノベライズです。

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1870年(明治3)と72年(明治5)の2回にわたって鮫島外交官に託された、合計1万ドルもの天文機材購入資金。あとは予定の機材を買い上げるばかりとなっていたのですが、ここで問題が起ります。すなわち組織の急速な改変と、その性格の変質です。

そもそも機材の購入を計画したのは、大学の星学局だったわけですが、1872年8月に星学局は天文局と名称を変え、大学から文部省直属の組織となります。一応この時点で5,000ドル(天文関係以外の費用も含めれば6,000ドル)の追加支出が認められたわけですが、文部省に移った天文局は、太陽暦への移行や、頒暦に伴う事務に忙殺され、天文台建設を担うことが事実上不可能となっていました(『東京大学百年史/部局史3』816頁参照)。

したがって、いったん購入が決まった機材も、おそらく1872年末の時点で発注がペンディングされ、いったん計画は凍結されたのだと思います。さらにその後、1875年(明治8)には、現地責任者だった鮫島外交官も体調を崩して帰国してしまいます。

事態が再度動き始めたのは、編暦事務が内務省に移管された1876年(明治9)2月のことです。内務省は本格的な天文台の建設に意欲を見せ、旧星学局の計画を下敷きにして、20センチ屈折赤道儀を主力とする機材購入計画を改めて提出します。この処置は何ら新たな支出を伴うものではなく、以前からの経緯を考えれば、ごく自然な成り行きでもあったので、速やかに現地に発注がなされたのでしょう。

ところがここで事態は再び妙な動きを見せます。
天文台建設で競合する関係にあった海軍水路部から強硬な反対意見が出されたために、翌年(1877年、明治10)内務省自ら天文台建設計画を撤回してしまったのです。内務省は「本格的な天文台建設は3、4年棚上げにして、まずは量地課のスタッフを増員し、機材は同課の既存機材を流用する」という方針を打ち出しました。

既に発注がなされた機材は、1877年(明治10)以降、順次到着したはずですが、その受け入れ先が問題です。もちろん一部は内務省がそのまま保有し、それを基礎として1880年(明治13)に、「縮小天文台計画」が立案・実行されます。

しかし、そこに収まりきらなかった機材をどうするか。その一部は、内務省から文部省に再度管理替えされた形跡があります。1878年(明治11)2月に、文部省が東京大学理学部観象台の設立を計画した背景には、そのことが追い風として吹いていたのでしょう。同年9月には、文部省から大学に対して15センチ赤道儀と6センチ子午儀が交付されています。この件は前後の記事からすると唐突な感じがするのですが(文部省がなぜそんなものを持っていたのか)、上のように考えれば整合します。

さらに内務省の機材が大学に渡ったことを直接示す証拠もあります。それは年表の1880年(明治13)末尾の記事で、「この年、内務省から大学に対して録時筒〔クロノグラフの類か〕と大型の赤道儀が送られたが、結局内務省に返還した」旨記載されています。15センチ赤道儀のほかに「新たに送られた大型赤道儀」とは、すなわちトロートン望遠鏡に他ならず、トロートン望遠鏡は着荷後いったん大学の手に渡ったものの、当時の大学の観測施設では十分な運用ができなかったために、内務省に返還されたことが窺い知れます。

ちなみに1878年に文部省が交付した6センチ子午儀とは、現在も三鷹にあるトロートン・シムズ製の1875年の刻印のあるものでしょう。(http://mononoke.asablo.jp/blog/2007/07/11/1645489
同じメーカーのものなので、この子午儀はトロートン望遠鏡と同時に発注されたものではないでしょうか。ただし、子午儀の方は小型の機材なので当然既製品、20センチ赤道儀の方は受注生産だったでしょうから、発送の時期にずれがあっても何ら不思議ではありません。いずれにしても発注の時期は1876年~77年(明治9~10)頃と思われ、上記の推測と矛盾しません。

大学に送られる前か、大学から返還された後かは不明ですが、まだ据付前のトロートン望遠鏡の姿を目撃したのが、同じく1880年に東京を訪れたイギリス人、ヘンリー・パーマーです(年表にある10月6日というのは、彼が駐留先のホンコンに戻ってから覚書を書き上げた日付であり、その実況を見たのは多分春~夏ごろでしょう)。文中「新着の8インチ赤道儀」とわざわざ書いているので、トロートン望遠鏡の到着は1879年(明治12)後半から80年(明治13)前半頃、即ち上のトロートン子午儀よりも1~2年後だったろうと思います。

なお、トロートン望遠鏡をいったんは大学に引き渡したことからすると、1880年の時点では、内務省に大型天文台を建設する腹積もりはまだなかったことが明らかです。内務省が海軍観象台と同規模の天文台設立を再度公言するのは翌1881年(明治14)のことです。


■■まとめ■■

トロートン望遠鏡は1870年(明治3)に購入が計画されたものの、受け入れ側の都合により、実際の発注は1876~77年(明治9~10)頃にずれこみ、日本に到着したのは1879~80年(明治12~13)であった。来日当初、内務省からいったん大学に引き渡されたものの、間もなく内務省に返却され、その後は赤坂葵町の内務省地理局構内に据えつけられて観測に用いられた。1888年(明治21)9月、東京天文台の設立に伴い、内務省から東京天文台に移管。1893年(明治26)7月に赤坂から麻布に移設。さらに1924年(大正13)、東京天文台の三鷹移転にともない同所に移設された。現役を引退後、1967年(昭和42)に国立科学博物館に移管され、1999年(平成11)、国の重要文化財に指定され現在にいたる。

■付記■

さて、前に書いた「資料」というのは、佐藤利男氏の『星慕群像―近代日本天文学史の周辺』(星の手帖社、1993)に引用紹介されていたものです。

年表中でも記事としてあげましたが、改めて書き出せば、1つは「青山墓地に眠るイギリスの天文学者、パーマー」の章に出てくるもので、外交史料館所蔵の「天文台及測量部設置ニ関スル在香港パルーメル氏ノ意見書」という綴りに綴じ込まれた覚書。ヘンリー・スペンサー・パーマー(1838~1893)はイギリス陸地測量部所属で、当時イギリス陸軍の工兵少佐として香港に駐在していた人物です。

もう1つは、「草創期の東京天文台で活躍した團琢磨」という章に出てくる『東京大学第三年報』中の「星学教師ポール申報」です。ヘンリー・マーティン・ポール(1851~1931)は、1880年に東大に赴任した星学専任教授です。

賢治の岩石コレクション2007年09月17日 14時24分17秒

(朝日新聞・2007年9月17日朝刊より)

今朝、朝日新聞を見ていたら、「お宝発見 賢治が集めた石16点(岩手大)」という記事が目にとまりました。「お宝発見」といっても、別に「新発見」を報じる記事ではなくて、各大学秘蔵の「お宝」を順繰りに紹介していくという連載記事で、今日がたまたま岩手大学にあたっていたのです。

記事によると、これらの岩石標本はふとしたきっかけで発見されたものだそうです。

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16点の石は長い間、土壌学の研究者らが物置として使っていた構内の一室に埋もれていた。90年、ある助教授がたまたま、珍しい赤いラベルがはられた箱入りの岩石標本を見つけた。調べると、ラベルやメモの筆跡が賢治のものと一致した。

「石としての価値はまったくない」が、賢治が集めたと分かるや一躍、大学随一の秘蔵品に。3年ほど前に資料館〔農学部付属農業教育資料館〕の展示品を整理した際、メーンに据えた。(朝日新聞)

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私はこのニュースをまったく知らずにいて、石の存在も初めて知ったのですが、発見のエピソードがなかなかドラマチックですね。賢治が盛岡高等農林(現・岩手大学農学部)に在学したのは、大正4年から9年(1915~20)のことですから、70年間誰にも知られることなく埃をかぶっていたことになります。

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さて、賢治忌(9月21日)も近づきました。賢治が彼岸へと旅立ったのは、ちょうど秋彼岸の時期。今年もまた爽やかな秋空に賢治をしのぼうと思います。

「銀河鉄道の夜」の夜2007年09月21日 21時38分27秒


さて今宵は賢治忌です。
今日に間に合うように注文した品がちょうど届きました。

「銀河鉄道の夜」の肉筆原稿です。

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まあ、本物ならいいんですが、もちろん印刷による複製です。
版元は(財)宮沢賢治記念会。
花巻にある賢治グッズの店「林風舎」が販売しているもので、オンラインショッピングモールの「イーハショップ」からも購入可能です。

http://www.i-hatov.com/genkou.html

同封の説明書によると

「反故原稿の裏を使用。後期形の加筆稿の冒頭。巨大な宇宙銀河の中に世界観死生観をくりひろげる作品。推敲を重ねなお未完の作品。2005年7月26日からスペースシャトル『ディスカバリー』で宇宙空間を飛行したものと同じ複製」

とのこと。上記ページによると、野口聡一さんがこの複製原稿を持って、地球を周回したのだそうです。

画像はちょっと雰囲気が出るよういじってありますが、こうして見るとなかなかいい感じですね。

「銀河鉄道の夜」…現代のおとぎ話2007年09月22日 09時49分54秒


「銀河鉄道の夜」は、賢治の死後、関係者がその遺稿を整理・推敲して出版されました。

初出は、没後すぐに出た文圃堂版の全集(昭和9年)で、単行本(これを表題とした童話集)は、新潮社が『銀河鉄道の夜』(昭和16年)を出したのが最初のようです。(違っていたらごめんなさい。)

で、この新潮社版の初版本。現在古書価は15万円ぐらいになっていて、ため息しか出ませんが、これが最近某オークションに出品されて、5,550円で落札された…というのを偶然知りました。

函なしの裸本なので、15万は無理にしろ、たいそうな掘り出し物であったことは間違いありません。スタート価格は3,000円。3人の方が入札していましたが、お互いあまり競り合った形跡もなく、出品者も落札者も何をどこまで認識されていたのか…???

こういうのを現代のおとぎ話というのではありますまいか。
(おとぎ話にしては金銭の話題ばかりですが。。。)

(写真はオークション時のもの。無断転載ひらにご容赦)