標本箱の美学(2)2007年11月27日 21時03分52秒

(下記の本の口絵より。経木に入ったまま廃棄されていた明治初期貝類標本)


西野嘉章氏は、著書『ミクロコスモグラフィア ― マーク・ダイオンの驚異の部屋 講義録』(平凡社、2004)の中で、標本美についてこう記しています。(93-100頁、適宜改行を入れて引用)

 ◆  ◆  ◆

 注目してほしいのは標本を収めてある小箱です。〔…中略…〕これらの小箱は伝統的な経木(きょうぎ)細工に和紙の反故(ほご)紙を貼り、その上に黒の透き漆を塗るという、当時としてはあたりまえの、しかし、現代のわれわれの眼にはかなり手の込んだやり方とも映る方法で作られています。

〔…中略…〕

 黒色のペイントというのは、比較的初期に欧米から国内へもたらされた標本類に共通しており、博物学標本の年代を見る目安になります。いま、われわれが見ている貝類の標本の小箱は、そうした欧米直輸入の標本を前にして、モース、あるいはその後任の教師ホイットマンの指導のもとで、新進の日本人学生と職人が作りだしたものなのではないか、わたしはそのように見ています。

 こうした可愛らしい標本を見るにつけ、むかしの学者は、なにか「標本の美学」とでも呼ぶべきものを持っていたように思います。今日のミュージアムでは、そんなことを言っても笑われるだけで、だれも相手にしてくれません。まことに残念というか、これでよいのだろうか、とあらためて思います。

現在のサイエンティストは、たとえば貝類の標本であれば、シールドの付いたビニール袋に収めて保存します。そうすれば、ほかの標本とまぎれることはないし、保存面でもよいというのが、時代のニーズに応えようとする研究者の考えなのです。しかし、自分の作った標本ならいざしらず、標本の整理を口実にして、先人たちの作った古い標本にまで、その、およそ美的でない標本整理術を押しつけようという姿勢に、わたしは賛成できないのです。

(長文なので、明日に続きます)