標本箱の美学(3)2007年11月28日 06時51分14秒

(前掲書口絵より。塵埃にまみれた19世紀前半ヨーロッパ産貝類標本)


(昨日の続き)

 台座や枠が黒く塗ってある標本は、一般に古いものだと考えてよさそうです。この貝類の標本セットも、やはり黒塗りの箱に入っています。〔…中略…〕中身はともかく、すがたのよい標本セットですよね。なんとなく、貝類を取り上げた博物図譜の一頁を見るような感じがしなくもない。

〔…中略…〕

 博物図譜というのは、そもそもが本の形式を借りた「博物館」であり、自然の驚異を机上で眺めることのできる「劇場」であったということを、それらの〔‘musaeum’や‘teatro’という…引用者〕表題は物語っています。自然界の多様性を、一定の分類学的秩序と視覚的形式にのっとりながら見る、あるいは見せるために作られた書物の空間、それが博物図譜だったのです。

 おもしろいのは、博物図譜を構成する図版とじっさいの標本が、視覚形式的にパラレルな関係にあるということです。すなわち、昆虫標本を作る人は、図譜の絵柄にならって標本をならべ、鳥類の剥製を作る人は図譜と同じ構成で鳥を枝にとまらせる。植物図譜の画工もまた、押し葉標本を忠実になぞるようにして、原画を起こす。だから、保存箱の昆虫標本が、昆虫図譜の図版通りに構成されるのです。

 そうしたことを考えるなら、たいせつなのは標本そのものだからといって、オリジナルの保存箱から取りだし、それだけを保存しようとすることが、いかに愚かなことであるか、すぐにもわかりそうなものですよね。〔…中略…〕

 博物図譜の長い伝統を有するヨーロッパからもたらされたものだからでしょうが、みなさんの見ている、この貝類の標本セットでは、自然科学的な知識、標本製作的な技術、審美的な質がほどよく調和しています。これは、まぎれもない自然史の標本であり、しかもホコリまみれなのですが、わたしの眼には、すばらしい宝石箱のように見えます。標本というのは美しくなければならない、そういう自覚を、製作者自身が持っていたのだろうと思います。

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長文の引用となりましたが、まさに我が意を得たり、の思いです。
標本に美意識を持ち得ないというのは、一寸淋しい(「貧しい」とは敢えて言いませんが)精神のあり方だという気がします。