暦のはなし(1)2009年01月01日 15時35分15秒

明けましておめでとうございます。
改めて本年もよろしくお願いいたします。

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さて、正月なので「和」の雰囲気…かどうかは分かりませんが、古い暦を載せます。
写真は、以前、古本屋の隅で見つけた幕末~明治の暦各種。

暦と天文―。もちろん今でも深い関係があるのですが、昔の日本では、今以上に密接な関係がありました。当時は、むしろ暦学が主で、天文学はそれに隷属していたと言っていい状態でしょう。

江戸時代の途中から西洋の学問が入ってきて、宇宙それ自体が研究の対象となり得るのだ!という観念が強烈な知的刺激となり、近世天文学の発展を(一部で)促しましたが、世間的には、より正確な暦を作ることこそ大切で、それ以上は余技…というのが大方の見方ではなかったでしょうか。

(いやいや江戸時代どころか、日本の天文台の編暦尊重の思想は、実に第2次大戦の頃まで続いた…と、内田正男氏の『暦と日本人』(雄山閣)には書かれています。内田氏は戦中・戦後を長く東京天文台で勤務された方なので、たぶんその通りなのでしょう。)

暦をじっくり見ていると、近世から近代にかけて、日本の天文学が経験した激動の歴史を感じます。その辺のことは、三が日のうちにまた書こうと思います。

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ところで、今日1月1日は、3年ぶりにうるう秒が入り、1日が1秒長いそうですね。
こういうことを取りしきっているのは、国立天文台の<暦計算室>や<天文保時室>という部署らしく、この辺にも暦と天文学の結びつきが伺えます。

暦のはなし(2)2009年01月03日 00時02分53秒

話がちょっと枝葉に入りますが…。

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暦を作るのは簡単ですね。
1月は31日、2月は28日…と日付を並べて、あとはクレヨンで絵でも書けばいいんですから。5歳の子どもでも作れます。(私も作ったことがあります。)

「でもな、4年に1回うるう年っていうのがあるんだぜ」と、小学生のお兄ちゃんなら、得意げに教えてくれるでしょう。

「そう。でもね、西暦が100で割り切れる年は、うるう年にはならないのよ。でも400で割り切れる年は、やっぱりうるう年なの。難しいでしょ?」と、高校生のお姉さんは優しく諭してくれるかもしれません。

でも、これだけ知ってれば、何の迷いもなしにカレンダーが作れるのですから、そう大層な知識が必要なわけではありません。昔はなぜ暦学それほど大層なものだったのか?

昨日布団の中で、「もし自分が無人島に無一物で漂着したら、どうやって暦を作るか?」を考えていました。しかも遭難のショックで、1年は365日と4分の1という記憶を失っていたら?という前提で。

いろいろ頭の中で作業をシミュレートして見ると、太陽の動きを測定して暦を作るのは、かなり大変な作業だということが分かりました(というか、分かった気になりました)。結局、最も観測しやすい現象は太陽ではなく、<月の満ち欠け>であり、太陰暦というのは一定の技術水準のもとでは、最も合理的な選択肢である、というのが布団の中での結論でした。

ただ、太陽を基準にした1年は、月の満ち欠けの周期の倍数になってないので、使っているうちに、だんだん両者のずれが大きくなってきます。暦が季節の変化を反映しないのは、農業をベースにした生活では、やっぱり不便なので、ところどころ「うるう月」を入れたりして、太陽と月相の変化を何とか調和しようとしたのが、いわゆる「旧暦」、つまり太陰太陽暦ですね。

この矛盾が最小限になるよう暦日を調整すること―。考えただけでも、ややこしい作業です。その上「月食や日食を正確に予測せよ」というタスクまで課せられたのですから、暦学家が観測と計算に日々明け暮れたのも当然です。して見ると、やっぱり暦学とは大層なものだったのです。

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そんなことを考えつつ、古暦に目をこらしてみます。(この項つづく)

暦のはなし(3)…伊勢暦2009年01月04日 20時14分14秒

なぜか正月早々だというのに、家の模様替えの話が持ち上がって、いろいろ画策中です。この分だと、今年もずっとバタバタしそうな予感。。。

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暦の話を続けます。
地味というか、あまり話としては面白くはないんですが、せっかくなので、この機会に書いておきます。

写真は幕末の伊勢暦。文久2年(1862)と元治2年(1865)のものです。元治2年の方は、「五月より慶応元年と改元」と欄外に注記されていて、風雲急を告げる時代がしのばれます。新撰組やら篤姫の時代ですね。

伊勢暦は江戸時代に最も出回った暦で、伊勢のお札といっしょに土産物として地方に配られました(伊勢暦は、暦だけを単独で販売するのは禁止されていました)。

伊勢にも内宮と外宮とがありますが、ポピュラーなのは外宮の方で、たくさんの暦師が乱立していましたが、一方、内宮の方は版元が一軒しかなく、この「佐藤伊織」というのがそれに当るのでしょう。

お経のような、折本仕立てになっているのが、伊勢暦の特徴。高さは文久が約23センチ、元治が約26センチあります。

内容は、言ってみれば現代の高島暦の親分のようなもので、びっしりと暦注があり、その日の吉凶が記されています。まあ、江戸時代の人は相当開明的になっていたので、平安貴族のように物忌みや方違えをした訳ではないでしょうが、今の目からすれば相当仰々しい感じがします。当時の人々の精神生活がうかがわれます。

肝心の天文史のことを言っておくと、当時の暦は、天保暦(天保壬寅元暦)と呼ばれたもので、日本における最後の、そして最もすぐれた太陰太陽暦であり、近世天文学の総決算の意味を持つものでした。
(今の高島暦とか、天気予報で言う「今日は旧暦の○月○日…」というのも、すべてこの天保暦を踏襲しているので、ある意味では現代でも生きている暦法です。)

この偉業を成し遂げたのは、渋川景佑(カゲスケ、1787~1856。近世天文学界の鬼才、高橋至時 ヨシトキ の次男)、足立信頭(ノブアキ、1769~1845。師は麻田剛立 ゴウリュウ。高橋至時とは兄弟弟子の関係)の二人です。

ただし、実質はこの2人の学者の努力で完成した暦とは言え、建前上は、「陰陽頭」の安倍晴親が校正し、「暦道本家」の土御門春雄が帝に奏上して布告された…というのが、前近代社会の限界であったとも言えます。

暦のはなし(4)…京暦2009年01月05日 22時13分30秒

こちらは京都で刊行された京暦(経師暦)。
慶応2年(1866)といいますから、もうあと2年で明治時代です。

朝廷のお膝元で作られた京暦は、最も歴史が古く、格式も高いものとされていました。冒頭に「大経師降屋内匠(だいきょうじふりやたくみ)」と、麗々しく書かれていますが、ここが全国の暦を版行する総元締めに当たります。

内容は昨日の伊勢暦とほぼ同じですが(というか、大経師暦を元にして各地の暦は作られた)、こちらは巻物仕立ての巻暦になっているのが特徴。写真ではぺらぺらの紙ですが、本当の巻物形式に表装されることもあったようです。

【付記】なお、昨日~今日の記事はすべて、内田正男著『暦と日本人』(雄山閣)と、渡辺敏夫著『近世日本天文学史』(恒星社厚生閣)からの受け売りです。

暦のはなし(5)…文明開化の世なれども2009年01月07日 07時10分08秒

さて、徳川幕府が瓦解し、時代は明治。
写真は明治4年(1871)の暦です。(一瞬「‘未頒暦’って何じゃ」と思いますが、これは「明治4年、辛未の年」に頒布された暦ですね。)

お伊勢さんも大経師も消えて、「大学暦局」と大書されています。さすがは開化の世…とは、しかし、全然思えません。暦自体は江戸時代と全く変わりません。恵方や吉凶の情報がびっしりと書かれています。かつては、官が自らこんな暦を作ってたんですねえ。

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そういえば、以前、上野の博物館にある「トロートン望遠鏡」の来歴を調べる過程で、こんな↓表を作ったことがありました。

■東京天文台:明治前期の歩み
 http://www.ne.jp/asahi/mononoke/ttnd/tokyo_observatory/table

これによると、明治3年(1870)2月に、天文暦道局の大学(現在の東大)所属が決まり、同年8月には天文暦道局が「星学局」と改称されたとあります。

写真では見にくいのですが、「大学暦局」の左下の朱印には、確かに「八月二十五日/改称星学局」と刻されています。これは明治4年の暦ですから、作られたのは当然明治3年で、ちょうど編暦業務をどうするか、新政府がバタバタしていた頃の品ですね。8月以前から来年の暦作りを始め、急に局名が変更となったので、慌てて訂正印をポンポン押した…のでしょう、きっと。

そして同年閏10月には、本格的な新天文台建設のために、巨費を投じてトロートン望遠鏡を購入する計画がスタートしました。

それまでと全く次元の異なる新技術の導入を計画するいっぽうで、足元は旧時代をそのまま引きずっているという、その落差がすさまじく感じられます。

暦のはなし(6)…星学生まれ旧暦逝く2009年01月08日 20時26分02秒

暦の話でだいぶひっぱりますが、今日は明治5年(1872)の暦。

これは記念すべき暦です。
何となれば、これこそ最後の旧暦だからです。
飛鳥時代に、日本で暦が使われるようになってから、千二百有余年。この明治5年は、日本で太陰太陽暦が使われた最後の年にあたります。

発行元はちゃんと「大学星学局」に直ってますね。
でも、その側には「文部省天文局」の改め印。

明治3年に「大学暦局」から「大学星学局」へと改称されたばかりの編暦担当部署ですが、その後さらに「南校天文局」、そして「文部省天文局」へと、短期間のうちに組織は猫の目のように変遷を遂げます。

「天文学」というのは、古代中国にまで遡る古い言葉ですが、外来のAstronomyを指すにはふさわしくない…と思った人がきっといたのでしょう。明治時代には、天文学と並んで「星学」という言葉がよく使われました。

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「星学局」。なくなったのが惜しい、実にいい名前ですね。

丘の上のハイカラな建物に「星学局」の看板がかかり、そこでは夜毎、筒先を天空に向けて、大勢の博士たちが星界の声を聞き取ろうとしている…そんな子どもっぽい想像を浮かべたりします。

【付記】別に子どもっぽくはないか。これは普通に天文台ですね。

消耗する日2009年01月10日 21時09分28秒

今朝から突然、デジカメのCFカードがPCで読めなくなりました。
挿したとたん、ブルースクリーン(エラー: 0E: 0028云々)が出ます。
これまで同じ現象は何度もあって、そのつど何とかなってたんですが、今度ばかりは何をやってもダメ。ひょっとして物理的な要因?と思って、カードアダプターを替えたり、スロットを掃除したりしたんですが、効果なし。こういう実りのない作業は、本当に消耗しますね。

でも、コーヒーを飲みながら、もう少しやってみます。

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つらつら思うに、根本的な原因は、依然OSとしてMeを使い続けているせいかもしれません。OS古玩趣味が凶と出ましたな。。。

フンボルトの書斎2009年01月11日 20時24分38秒


うっそりと寒い日。ちらちらと白いものも見えました。

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さて、暦の話が地味に続いているので、ちょっと気分転換にカラフルな絵を1枚載せます。

ドイツの偉大な博物学者、アレクサンダー・フォン・フンボルト(1769-1859)の書斎。彼が87歳のときの情景です。(元絵は、エドワルト・ヒルデブラントが1856年に描いた水彩画で、上の画像はそれをカラーリトグラフにしたもの。)

無駄な装飾を排した簡素な書棚やテーブルに、この老学者の趣味がうかがえます。天井まで届く書棚は程よく整理が行き届き、作業テーブルには、地球儀や、読みさしの本、それに何やかんやの資料が山積みです。そして、眼光鋭い主人の足元には、今届いたばかりとおぼしい荷が開けられており、これは老いてなお盛んな、フンボルトの知的活動を表現しているのでしょう。

奥の部屋には、真鍮製の望遠鏡や、鳥の剥製が置かれているのが見えます。大判の書籍は博物図譜の類でしょうか。

うーむ、これは羨ましいですねえ。これもまた理科室風書斎の一つの理想形でしょうか。

■出典:
 Elly Dekker & Peter van der Krogt
 GLOBES FROM THE WESTERN WORLD
 Zwemmer, 1993

鴨沢忌2009年01月13日 22時48分25秒

昨日は漫画家・イラストレーターの鴨沢祐仁氏の一周忌。
ただし、12日というのは死亡推定日で、氏は自宅で孤独死の果てに、数日して冷たくなっているのが発見されたのでした。

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今朝はあたりの景色が見えなくなるくらいの猛烈な雪でした。どこまでも続く白い街。昼過ぎには一転して快晴。仕事帰りには、あんなに降った雪は影も形もなく、いつもの乾いた冬の街の上に、オリオンが無言で浮かんでいました。

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クシー君が走り回った夢の街、プラトン・シティを少し思い出しました。

暦のはなし(7)…新暦誕生(その1)2009年01月14日 21時51分38秒

暦のはなしが中途半端なところで止まっていましたが、時計の針を少し先に進めます。

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明治5年(1872)暮れ、突如として改暦の布告があり、すでに出版済みの明治6年暦を回収して、新たに太陽暦を出すという騒動が持ち上がりました。

ですから、世間には「幻の明治6年版旧暦」というものが残っているらしいのですが、残念ながら手元にはありません(内田・前掲書には写真が載っています)。

写真は明治11年(1878)用の暦。高さ15.5センチほどの、冊子体です。
発行元として、「東京/大阪 頒暦商社」「伊勢国弘暦者/宇治 佐藤正三」という名前が並べて書かれています。

制度的なことでいうと、明治14年までは、各地の伝統的な暦問屋が許可を得て、暦を出版することが認められており、写真の品はそうした形で発行されたものでしょう。