天文趣味を作った人、山本一清(7)2009年08月01日 23時03分27秒

(8月2日画像追加。山本一清 『星につながる人々』‐大正15、警世社‐巻末広告より。)

1920年に結成された天文同好会は、その後、東亜天文協会(Oriental Astronomical Association)と名を改め、山本自身が著した『天文学辞典』(1933)の記述によれば、その会員数は、実に1万人近くにまでふくれ上がっていました。同時期の日本天文学会の約10倍に当たります。

「順調に発展していたOAAにとって全会員を震駭させる事件が突然起きる。それが山本の京都帝大教授辞任の事件である(1938年)。山本は花山天文台長でもあったので、OAAは当然花山天文台とも縁が切れることになろう。花山はOAAの会員にとっては心の絆のような存在であったから、花山のないOAAはどうなるのか。これは全会員が注目するところとなった。」(『日本アマチュア天文史』、317ページ、重久長生氏執筆の項)。

彼がアマチュア天文界の「教祖」として放っていたオーラのなにがしかは、「京都帝国大学」の看板に負っていたことは否定できません。その看板が突如外される!というのですから、事は穏やかではありません。

しかし、この『日本アマチュア天文史』には、どこを見ても肝心の事件の顛末が書かれていないため、何か狐につままれたような思いだったのですが、先に引用した土居客郎氏の記事を見て、ようやく事情が分かりました。

「〔…〕ペルー国王からの勲章を受けて、アメリカ発見のコロンブスのように、意気軒昂と帰ってくる船中で思わぬ電報に驚かされたのである。それは理学部教授会からの辞職勧告電報であった。/思いがけない事態の急変に、帰国してすぐ事情をたずねたところ、当時京大に起った疑獄事件に名前が出ているということであった。このことは結局は事実無根で、教授会がやや感情的に動いたものらしい。けれども博士は、文部省、京大当局、教授会などの間にはさまれて、ついに辞意を決めて、約半年の欧州の旅に出かけたのであった。」

この「疑獄事件」の詳細は不明ですが、京大の年表(http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/profile/intro/history/nenpyo.htm/)を見ると、当時、京大で<医学部教授不祥事件>というのがあって、総長が辞任するとかしないとかで大騒ぎになっていたらしいので、それを指すのかもしれません。(たぶん当時の新聞を見れば分かるでしょう。)

とはいえ、こうした勧告が出されたこと自体、それ以前から、彼が理学部内部でかなり危うい位置にいたことをうかがわせます。彼のジャーナリスティックな動きに対する批判と反発は、学内に当然あったでしょう。

ひとつ気になるのは、こうした教授会の動きに対して、「身内」の宇宙物理学教室がどう反応したかです。彼らはどこまで山本を守り抜く構えを見せたのか。何となくその辺りが、彼の後半生を覆う孤独な影―と私が感じるもの―に影響しているような気がします。(まったくの憶測ですが。)

(この項つづく)

天文趣味を作った人、山本一清(8)2009年08月03日 22時14分05秒

ガラクマさんより、また新たな資料をご紹介いただきました(ありがとうございました)。
現・小川天文台(http://www.bekkoame.ne.jp/~masa-ki/ogawa_tenmondai/index.html)の前身、<斐太彦天文処>が、昭和56年頃に発行した冊子「星と人」が、山本一清の追悼特集を組んでいて、そこには彼の講演遺稿集と、天文界の人々の追想記が掲載されています。これは非常に貴重な資料だと思います。

これを読んで新たに知ったことが沢山あります。

講演記録では、「天文学者・山本一清」の誕生する前史が、自らの言葉で語られています。
明治28年、数え年で7歳の頃に見た月食が、天文に興味を持つきっかけであったこと。次いで明治33年に見た〔しし座〕流星群が、星への興味を高めていったこと。家業を継いで医師になるのが厭さに、三高では電気工学専攻を選択したこと。そこに前述のハレー彗星騒動があって、いよいよ天文熱が高まり、京大入学後に天文学専攻に転身したこと…等々。

(ちなみに「一清(かずきよ)」を、成人後「イッセイ」と読ませたのは、「ひとつ星、一星」に通じるからだ…と、上記・小川天文台のページには書かれていました。)

山本が京大を辞した顛末は、東京商船大(当時)名誉教授の渡辺敏夫氏が、次のように書かれているので、情報として追加しておきます。

「〔…〕昭和12年京都大学に起った事件で、数名の教授の辞任に伴い、先生もその中の一人として辞職されるという不幸な事件が起った。/私など末輩にはその真相を知る由もないが、先生自ら『南米へ日蝕観測に出かけた不在中に京都帝大で総長の改選期に当り、自分は図らずもその候補者の下馬評に上り、之れがために同学部中の対立者の陰謀によって、帰朝早々非常な災難に遭ったので、翌13年春断然其の職を棄て、ここに自由の身となった。この機会に、いよいよ宿望の観測室を建設するに至ったのである』と述懐されているが、このことは諺に禍を転じて福となるとあるように、考えようによっては却って先生の初志貫徹の良い機会となったのではないだろうか。」

こうして、野に下った彼は、東亜天文協会(現・東亜天文学会)の運営に心血を注ぎ、故郷に私設天文台(田上天文台、現・山本天文台)を建て、ここを拠点に活動を続けます。

前に引用した「天文月報」(59年3月号)には、「山本一清先生論文一覧」というのが載っています。彼が英文で発表した文献一覧ですが、そこには1919年から1937年までに発表した17編、そしてそれ以降に発表した2編が挙がっています。

1938年以降の寥々2編というのは、1951年にPopular Astronomy誌に載った「人を怪我させた最近の隕石落下」という論文と、没する前年の1958年に、長谷川一郎氏と連名でSmithonian Contributions to Astrophysics に発表した題名未詳の論文(天文月報の記事では題名が落ちています)。学問業績が論文だけで測れるとは思いませんが、しかしいわゆるアカデミズムの世界とは、京大退官を機にスパッと縁が切れたと見るべきでしょう。

いろいろ意見はあるでしょうが、日本のアマチュア天文学の歴史にとって、これは大いなる不幸だったと、私は思います。山本一清が京大にそのままとどまり、プロとアマの交流が太く長く続いていたら、日本の天文シーンはたぶん全く違ったものになっていたのではないでしょうか。

山本は戦後、衆院選や県知事選に出馬し、いずれも落選。
昭和28年頃には近江神宮に本部を置く日本暦学会を設立。
さらに晩年は、天文学を重視した神道系宗教団体・三五教(アナナイ教と読みます)の活動に深く関与するようになり、信徒の前で青年時代の回心体験を語ったりしました(大学生の頃、散歩中に「何とも言えぬヒラメキを感じ」、「大きな光を認めた」というのですが、これが後になって再構成された記憶でない保証はありません)。

その旺盛な活動意欲には敬服するものの、公平に見てどうでしょうか。将来を嘱望された俊才の後半生としては、寂しく、陰のあるものだったとは感じられないでしょうか。

★  ★

山本一清博士のことは、何だかうまくまとまらないまま(いつものことですが)、これでいったん終了です。ご教示により貴重な資料も見つかったので、また折を見て、取り上げたいと思います。
前にも書きましたが、今年は博士の没後50周年(そして生誕120周年)の節目です。世界天文年にあたり、この偉人の業績にもっと光が当たることを期待したいものです。

小さな泡。泡。泡。泡。泡泡泡。。。。…泡箱のはなし(1)2009年08月05日 21時50分36秒

私の住む地方でもようやく梅雨が明けました。
長いこと待たれた日射しですが、実際に降り注ぐとなかなかに暑いです。

それを見越してのことか、先日、某氏から涼しげな栞が送られてきました。
この栞の元が何だかお分かりでしょうか。
この透明感あふれる栞は、かつて尖端的な実験で使われたフィルムの断片で作られているのです。

  ★

泡箱。
かつて霧箱と並んで、素粒子の軌跡を肉眼的に観察するために使われた物理実験装置です。

原理は比較的単純です。直径1メートルほどの装置には液体水素が満ちており、加圧減圧が自由にできるようになっています。今、圧を一気に下げると、液体水素は一触即発で気化沸騰するような不安定な状態となり、わずか1粒の荷電粒子がそこを走り抜けただけで泡立ち、粒子の軌跡が泡の列として目に見えるようになります。
その曲がり具合や反跳の仕方から、粒子の性質が分かるのだそうです。

それを解析するために、1970年代に記録されたフィルムが、すなわちこの栞の前身です。

(つづく)

泡箱のはなし(2)2009年08月05日 21時56分03秒

(前の記事のつづき)

泡箱写真の拡大。素粒子が描いたアート。

ところで、この絹糸のように細い泡の筋。細いとは言っても目に見えるのですから、元の粒子と比べれば、信じがたいほどの大きさを持っているはずで、おそらくは1千億倍以上のオーダーにはなるでしょう。

  ★☆

かつて銀の羽を持った1羽のカモメがおりました。
そのカモメは、あまりにも高く、あまりにも速く飛ぶために、その姿を実際に見た者は誰もいませんでした。
しかし、カモメが翔んだその跡には、不思議なことに大きな泡が―何と地球よりも大きな、いやそれどころか、地球の公転軌道ほども大きな泡が―無数に連なったために、遠い異世界の住人にも、はっきりとその存在が感じ取れたそうです。

  ☆★

おとぎ話めいて書けば、そんな感じでしょうか。

小さな泡とはいえ、液体水素が泡だつときにも、きっとかすかな音がするのでしょうね。
シュッ…シュワッ…シュワーッ…と。

ビールの栓を抜くと泡が立つのも、泡箱に泡の軌跡が生じるのも、煎じつめれば原理は同じだそうです。ビールを眺めながら、ぼんやり極微の世界に思いをはせるのも、この時期ならではの風流かもしれませんね。

油蝉の‘聞きなし’2009年08月08日 10時38分49秒

(↑加藤正世の昆虫図鑑。外箱にあいた穴から表紙の一部が見える凝ったデザイン)

暑いですね。
蝉の声も盛んです。
ところで、今朝布団の中で蝉の声を聞いていて思ったんですが、例の茶色いアブラゼミ。あれは一体何て鳴いてるんでしょうか。

ミンミンゼミなら 「ミーン、ミーン」、
ツクツクボウシなら 「オーシーツクツク」、
ヒグラシなら 「カナカナカナ」
と、分かりやすい“聞きなし”があるわけですが、一番身近なアブラゼミの声は、何だかやたら騒がしいばかりで、よく分からないです。

アブラゼミの声が雑音化しやすいのは、(虫の声を左脳=言語脳で処理すると言われる)日本人の脳をもってしても、あまり言語らしく聞こえないからじゃないでしょうか。

そこで、今朝はアブラゼミ氏の声を、これまでの人生において初めて最初から最後までじーっと耳を澄ませて、聞きとってみました。

鳴き始めは、
ウシウシウシウシウシ

しばらくすると、熱が入ってきて
ジュンジュンジュンジュン
ジュッジュッジュッジュジュッジュッジュッジュッ…

で、最後は、
ジジジジジジ  シー

私の耳にはこんな風に聞こえました。結構いろんな音を出していますね。
ついでなので、他の人にはどう聞こえるのか、手元にある図鑑を見てみました。

○伊藤修四郎・奥谷禎一・日浦勇(編著)、『全改訂新版・原色日本昆虫図鑑(下)』
 保育社、昭和52年
 「『ジ、ジ、ジ、……』とやかましく鳴く」
○古川晴男・中山周平(著)、『昆虫の図鑑』(小学館の学習図鑑シリーズ2)
 小学館、昭和33年〔第8版〕
 「ジージー」
○平山修二郎(著)、『原色千種昆虫図譜』
 三省堂、昭和8年
 「ぎーぎート鳴ク」
○加藤正世(著)、『分類原色日本昆虫図鑑3(同翅目)』
 厚生閣、昭和8年
 「鳴声ジー或はシュルヽヽヽヽ。」

最後の加藤正世氏は「セミ博士」と呼ばれた人なので、さすがに観察が細やかです。あとの人はちょっと投げやりな感じですね。

  ★

さて、これでアブラゼミの大合唱も、改めてしみじみ聞けるようになるでしょう(多分)。

【付記】
先入観を捨てて聞いてみると、おお、確かに「シュルルル」と軽やかに聞こえるときがあります。セミ博士恐るべし。

整理三昧…モノと暮らす日常2009年08月09日 21時49分59秒

さて、休日と言えば片づけ。
昨日今日は、またぞろ部屋の整理に追われ、汗みずくになって働いていました。
物が届くたびに狂気のように部屋を片づけねばならず、このままでは本当に狂いそうです。

今回はいつもの片づけに加えて、気になっていた地震対策にも少し取り組みました。
地震の恐怖は、潜在的にずっと心のどこかにあります。
「今地震が来たら、あれとあれは完全に大破。あれが上から落ちてきたら自分は即死」というような懸念が絶えず心をさいなみ、腹の底から部屋でくつろぐことができなかったので、今日は少し家具やモノを固定しました。
万全にはほど遠いですが、ちょっとホッとできました。

まあ、わが家の場合、家具やモノ以前に、家屋そのものが大破する気配もあります。
あまり考えたくはないですが、でも考えねばならない問題です。心底悩ましいです。

甲虫五色経2009年08月11日 06時19分48秒


■著者不明
 Petit Atlas des Coléoptères(全2巻)
 (『甲虫類小アトラス』)
 N. Boubée et Cie, Paris, 1950頃?
 約19×13㎝

フランスで出た可愛い甲虫図鑑。
お経のような折本仕立てになっていて、広げるとなかなか壮観。

毎年夏になると、各地で虫供養というのをやりますが、昆虫採集趣味の人も、こういう本を大般若転読(http://www.youtube.com/watch?v=RR2d42fWMrg)よろしくパラパラやりながら、虫たちの菩提を弔うと良いやもしれませぬ。

図鑑細見…カラー図版のはなし(1)2009年08月12日 21時36分18秒

** コメントの制限を試行的に外します。**

昨日の昆虫図鑑ですが、著者不明の上、出版年がどこにも書かれていません。古書業者によっては、1940~50年の本と見る人もいるし、1960年代と見る人もいるしで、まあ20世紀中葉と言えば間違いないと思いますが、書痴に憧れる者としては、何となく落ち着かない気分です。

ここは本をして語らしめよう―。そう思って、図版を拡大して凝視。
「ウーム…これは…」と思ったので、そのことを書きます。

  ★

以下、画像の横幅はいずれも約2センチ、800dpiでのスキャン画像です。

上の画像は、はおなじみの網点印刷。
1955年に出た日本の理科教科書からとりました。
「網点」の名前そのままに、トンボの細い翅脈も、色の濃淡も、すべて点で表現されています。

(次項につづく)

図鑑細見…カラー図版のはなし(2)2009年08月12日 21時42分47秒

(前のつづき)

こちらは、多色石版画(クロモリトグラフ)の図版例。
1908年にイギリスで出た甲虫ハンドブックの挿絵拡大です。

当時はクロモと網点印刷の端境期ですが、当時の網点は肉眼でもすぐに分かるぐらい、かなり目が粗かったので、今見ると非常に粗悪な印象を受けます。その分、クロモの優秀さが目立った時期です。

印刷は基本的に「線」と「色」の2本立てです。
微妙な濃淡や色合いには点刻表現(ドット)が用いられており、これが前代の手彩色とは異なる点。これこそ機械による大量のカラー印刷を可能にした要因でもあります。ある意味、クロモは網点印刷の露払い的な立ち位置にあると云えるかもしれません。

(さらにつづく)