『天体議会』と神戸・補遺2010年03月02日 10時32分46秒

「やあ、久しぶり。神戸に行ってたんだってね。」
「うん、一昨日、脳内新幹線で帰ってきたところさ。」
「キミのブログ、読ませてもらったよ。面白い記述もあったけど、だいぶ粘着してたね。」
「うん、僕はめったに出歩かないからね。見るもの聞くものがすべて珍しくて…。」
「ははは、キミらしいね。ところで、1つ教えてほしいんだが。『天体議会』云々の話があったろう。舞台のモデルは神戸に違いないという。あれ、キミはどこまで本気で信じてるんだい。」
「あれ?君、あまり真剣にブログを読まなかったな。本気も何も、100%正しいと確信しているよ。」
「こりゃ失礼。でも、キミにしては…というと褒めすぎだけど、少し論が飛躍しているように思えたから。」
「なるほど。確かにそうかもね。実は、あの推理のソースはもう1つあってね。」
「ほう。」

   ★

神戸を発ったばかりで、すぐにまた舞い戻るのは気がとがめたので、会話体でごまかそうと思いましたが、まどろっこしいので、普通に書きます。
この件についてもう1つ補足しておきます。

作者である長野氏には、神戸を冠した本が管見の限り1冊あります。
『都づくし旅物語―京都・大阪・神戸の旅』という本で、1994年に河出書房新社から出ています。私は、最初これは随筆のようなもので、ここに天体議会のモデル地のヒントが書かれていると思ったのですが、実は純然たるフィクション作品で、内容は完全に「長野節」。ですから、『天体議会』の誕生秘話が、直接ここで語られているわけではありません。

ただし、いくつかのヒントはあります。
この掌編集は、1990~93年にJR西日本が出した情報誌『三都物語』と、同社が同じ時期(91~93年)に、雑誌『Hanako』で行ったキャンペーン「三都物語」のシリーズ広告に掲載された文章が元になっています。つまり、これは『天体議会』(91年発表)の執筆と同時並行的に行われた仕事で、作者は当時かなり関西づいていたことがうかがえます。

長野氏のリアルな関西体験がどんなものかは分かりません(氏は東京西郊出身です)。
しかし、この一連の関西モノにおいて、神戸の街は「近代的な硝子とジェラルミンの高層建築に混って、ローマ風の柱や拱門〔アーチ〕のある古めかしい建物が見える」町として描かれ、埠頭では、理科の野外授業を受けている少年たちが、シトロン・プレッセを飲みかわしています。あるいは、大阪の梅田では、地下鉄のプラットフォームが学校帰りの少年たちの社交場と化し、時計草や、蛍石や、新しい切手について盛んに情報交換が行われています。さらに万博記念公園では、少年たちが固形燃料でソオダ壜のロケットを打ち上げたり、ビルの電光掲示板に流れる天気情報を見ながら、「南の島へ行きたくなった」とつぶやく人物が登場したり…。

『天体議会』を読まれた方は、「ははーん」と思われるでしょう。
『都づくし旅物語』には、『天体議会』に登場するエピソードやキーワードが頻繁に顔を出しており、前者は後者のスケッチ的な意味合いがあったんじゃないでしょうか。(単純に時系列でいうと、『天体議会』のほうが先行しているパートも多いので、習作というには当たらないかもしれませんが。)

上のことを考え合わせると、『天体議会』の世界は、神戸をベースにして(これは地形の描写から動かないでしょう)、そこに京阪神の風物を混ぜ込んで生れたのではないか…というのが、現時点における私の推測です。

ですから、神戸の実景とちょっとずれて感じられるイメージ、たとえば古風な「天象儀館」の発想源は、神戸のプラネタリウムではなくて、大阪中之島にある日本最古のプラネタリウム(大阪市立電気科学館、1937年オープン)ではないか…とか、「鉱石倶楽部」は、ひょっとしたら京都の益富地学会館がモデルかもしれないぞ…といった想像も浮かびます。

   ★

というわけで、最後に屋上屋を架す考証を加えてみました。

驚異の部屋を持つ2010年03月05日 21時58分54秒

例年のことですが、3月はバタバタする月で、今年もやっぱりバタバタしています。
そんな中で、あえて暇そうなことを書いて、暇な気分を味わおうと思います。

  ★

驚異の部屋というのは、見て良し、作って良し。
何にせよ、身近にあれば云うことなしです。

そんな今様ヴンダーカンマー作りを志す人は、海外にも少なからずいるようで、そういう人の部屋を拝見すると、そこに嗜好の違いはあれども、なんだかとても親近感を覚えます。

医学・解剖系は、私のちょっと苦手な分野ですが、その手の世界に特化したブログに、Morbid Anatomy(http://morbidanatomy.blogspot.com/)があります。ここは以前Tizitさんに教えていただいたサイトで、前にもちらとご紹介しました。

そのブログ主である、ニューヨークのブルックリン在住のグラフィック・デザイナー、ジョアンナ・エーベンスタインさんのアトリエが、WEB上で紹介されているよ…というのが今日の話題です。

■Morbid Anatomy Library
 http://newyork.timeout.com/articles/halloween/79539/morbid-anatomy-library

ヴンダーカンマーというほどの稠密感はなくて、割とあっさりしている印象も受けますが、それでもなかなか安楽そうな雰囲気です。博物系の品はとりあえずそのままとして、ここに並んでいる解剖系の品を天文系のアイテムに置き換えたら、「天文古玩」的には言うことなしですね。

記事を読むと、珍奇コレクション作りを目指す人に向けた、エーベンスタインさんからのアドバイスが載っています(以下、適当訳)。

 ◆◇◆

1 常に目を皿のようにしてモノを探すこと。「全く何もなさそうな場所
も含めて、とにかくどんな所でもよーく見てみましょう。捨てられている
モノも怖れずに!」

2 「一般人」の意見には決して耳を貸さないこと。「どんなに他人が
気持ち悪いと思おうが、自分の感じ方に素直にふるまいましょう。」

3 自分も死ぬという事実に向き合うこと。「死について思いを巡らす
ことは、良い決断を下す助けになります。私は飛行機に乗るのが怖いん
ですが、これは私の生き方そのものにも影響を与えています。もし死に
ついて考えることいがなければ、私はたぶん下らない仕事にかかりきり
になっているでしょうね。」

4 エーベンスタインさんの力を借りることもお忘れなく。「当ライブ
ラリーの開館時間に是非お出でください。これらの高価な本は全部私が
買ったもので、ここにはよそではちょっと見られないアヤシイ世界があり
ますよ!」

 ◆◇◆

1番目と2番目の助言は、「驚異の部屋」作りにおいて大切なポイントでしょう。

というよりも、今ふと思ったんですが、3番目の助言も含めて、これは千利休が言いそうなセリフじゃないでしょうか。驚異の部屋の要諦は茶道の極意に通じたり。
そう言えば、東大の「驚異の部屋展」の企画者・西野嘉章氏が、展覧会をお茶会に譬えていたのを思い出しました(http://mononoke.asablo.jp/blog/2008/08/02/3669587)。

価値はモノに備わっているというよりも、人間が積極的に付与するものであること。そして人間の有限性が、その価値を一層豊かならしめていること。それを鋭角的に表現したのが「驚異の部屋」であり、茶の道なのではありますまいか。

海洋気象台のファンタジー2010年03月07日 10時41分49秒

先月、神戸の記事を書いているうちに、私は海洋気象台がだんだん好きになってきました。

大空と大海原。
気象学と海洋学。

何だか、そこには胸いっぱいの開放感と、爽やかな夢が詰まっているようです。
もちろん、その現実の業務はよく知らないのですが、天文台と同じく、海洋気象台も遠い少年時代の夢をはげしくかき立てる存在です。

ここで、今も活動している現実の神戸海洋気象台ではなしに、戦前の海洋気象台に過剰なファンタジーを抱くところが、子どもっぽいというか、「天文古玩」ぽい志向性なのでしょう。そして、あくまでもモノにこだわるところが。

そんなわけで、創設されて間もない大正時代に出た海洋気象台の刊行物を買いました。その話は次に回すことにして、今日は絵葉書を1枚載せます。

   ★

周囲を日本家屋に囲まれて、すっくと城館風の建物が立っています。
壁は純白、屋根は朱ですから、木々の緑に映えて、さぞ美しい眺めだったことでしょう。

高塔に張られたアンテナ線も、当時の少年にとっては憧れだったはずで、この丘は全体に魔法と科学が奇妙に混和した、お伽話めいたオーラを放っていたんではないかなあ…と想像します。

ひょっとして、これが東京にあったら、乱歩あたりが盛んに作品で取り上げて、もっと文学的にポピュラーな存在になっていたかもしれない、と思わなくもありません。いや、でもやはり神戸だからいいのか…。

「天気晴朗なれども波高し」…海洋気象観測のこと2010年03月09日 20時37分12秒



↑海洋気象台刊、『海洋気象観測法』(大正10年)。
緒言によれば、この本は「海員諸君」に向けて書かれた本です。

今はどうか分かりませんが、当時の船乗りたちは、船上で毎日定時に気象観測を行い、それを「海上気象報告」として海洋気象台に送っていたようです。

「本台にては之によりて報文を刊行し、弘く学者実業家の
参考に供するを得、これ偏に海員諸君の賜にして誠に感謝に
堪へざる次第なり。」(緒言より)

気象台がまだ自前の観測網を持たなかった頃だったとすれば、これはすこぶる効率的な方法ですね。

(巻末付録、「海上気象報告」見本)

通勤電車の中でこういう本を読むと、実に気宇壮大になります。
もちろん、仕事にはあまり役立ちませんが。

本書では、天候を要領よく記号化する方法、いわば「天気の見方の勘所」のようなものが説かれており、そこに強い興味をおぼえます。こういうのは、学校で系統立てて習った記憶がないんですが、でも生きる上で、これは大切な知識じゃないでしょうか。

たとえば雲量。
雲量というのは空の何割が雲で覆われているを示す数字で、雲がまったくない青空は0、空一面が雲ならば10になります。で、雲がまばらにあるときの雲量をどう測るか。

「雲量を目測するには、全天を見得る所に直立し、天空を仰ぎ、
心の中にて、各所に浮べる雲が蔽ふ天空の部分を一所に合計し、
之が全空の幾割に当るかを胸算し、七割に当ると考ふれば、
雲量を七とす」

要するに目分量なんですが、心の中で雲を空の一か所に集めて、その心の中の空で雲の占める割合を出すという作業に、言い知れぬ雅味を感じました。

天気を表現するのも、晴(青空)、雨、曇、雪だけではなくて、「空気透明」があり、「陰鬱」があり、「天候険悪」があり、あるいは雨とは別に「細雨」があるという具合で、見方が細かいです。


そして、説明が何となく文芸調というか、青空(Blue sky;記号b.)は、「天気清澄にして雲なきを云ふ」、湿潤(Wet without rain;記号e.)は、「降雨こそなけれ空気が如何にも湿り勝ちなるを云ふ」 という調子で書かれています。

海面状態については、10段階評価で次のように表現されるのだそうです(ひょっとしたら、現行の方式とは違うかも知れませんが)。皆さん、ご存知でしたか?
「穏」とは海面が「鏡の様」な状態をいい、「怒涛」となると「怒涛山の如し」だそうです。

階級
 0  穏
 1  極滑らか
 2  滑らか
 3  少々浪あり
 4  浪可なりあり
 5  浪稍々荒し
 6  浪荒し
 7  浪高し
 8  浪甚高し
 9  怒涛

さらに、この本がいかにも文学的だと感じられる理由は、ずばり「美」という表現をあちこちで使っている点にも求められます。この本の著者は、努めて客観的な観測者たらんとしながら、どうもそれに徹することのできない部分があって、それがこの本を無味乾燥な解説書となるのを防いでいるようです。

(この項つづく)

海の青さを測るには…水色番号の話2010年03月10日 22時10分59秒

(昨日のつづき)

本書の挙げる気象観測の要目は、気圧、気温、風向、風力、雲量、雲形、天気、海水温度、それに海面状態なのですが、それ以外に「雑象」として、いろいろ特記すべき現象が挙がっています。

たとえばセント・エルモの火。

「海洋上に在る船舶の帆檣、帆架等の尖端に、放電の花火に
似たる現象顕はることあり、之を聖エルモ火(St. Elmo’s Fire)
と云ふ、此花光の盛なるものにありては、全船に「イルミネー
ション」を施したる如く、頗る美観を呈す。」

かと思うと、「極光〔=オーロラのこと〕は、両極に近き地方の高空に顕はる、電気的の現象にして、頗る美観なるものなり」という風に、文中には盛んに<美観>が顔を出します。

「海光」、というのは海蛍の類と思いますが、これまた壮観で、「海光の盛なるものは、海一面に光輝を発し、恰も昼間の如く、帆檣上のものまでも明視し得ることあり」と派手に書かれています。

どうも海上には妖しく美しい光が満ち満ちている感じです。

   ★

さて、<美>という語こそ出てきませんが ― そしてこれは天然自然の描写ではありませんが ―、私自身いちばん美しいと感じた記述が、本のいちばん最後に出てきます。

それは「海色の観測」という項目です。
海の色をいったいどうやって測るのか?

「海洋の水色を観測するには「フオーレル」氏の標準色を便とす、
此の標準は、次の如き色素を調合したる液の色によるものなり、
乃〔すなわ〕ち硫酸銅一瓦〔グラム〕、アムモニヤ九瓦を、
水一九〇瓦に溶解したるものを青色液とし、中性クロム酸加里
一瓦を水一九九瓦に溶解し之を黄色液とし、両液を次表の割合
に混合し水色番号を定む。

水色番号  青色液  黄色液
 一号    一〇〇     〇
 二号     九八     二
 三号     九五     五
 四号     九一     九
 五号     八六    一四
 六号     八〇    二〇
 七号     七三    二七
 八号     六五    三五
 九号     五六    四四
 十号     四六    五四

此混合液を直径八粍〔ミリ〕位の硝子管に封入して保存す。尤も
此の標準液は、次第に其色に変化を生ずるを以て、三四箇月位
を経過せば新液と取換ふるを要す。」


実際に海水色を観察するときには、この標準液の入ったガラス管の下に白紙を敷き、液の色と海の色とを見比べて、いちばん近い色番号を記録すればよいわけです。

   ★

「水色番号」という言葉の響きが素敵です。
透明な青のグラデーション。
ガラス管の中に封じ込められた小さな海。
青色液と黄色液の混合比にも、何か美的なこだわりを感じます。

電子古書2010年03月11日 07時54分39秒

余談ですが、きょう小耳にはさんだ情報。
グーグルが、ローマとフィレンツェにあるイタリア国立図書館の古書100万冊を、自前でスキャンする計画がスタートするらしいです。

http://www.physorg.com/news187442405.html

上の記事によれば、これはグーグル社とイタリア文化省との正式合意によって決まったもので、ガリレオの貴重な著作を含む、19世紀以前の版権の切れた本を、とにかく何でもかんでもスキャンしまくるのだそうです。

イタリア文化相は、「1966年のフィレンツェ洪水では、何千冊もの本が失われたが、今回の計画によって、本の内容は永遠に保存されることになろう」云々と述べたとのこと。

スキャンしたものは当然グーグルブックで無償公開されるのでしょう。
グーグルの太っ腹にも驚きますし、その利便性は甚だ大きいと思いますが、いろいろ考えさせられる話でもあります。

「紙の本の終焉」を嘆くという、月並みな感想もなくはないですが、イタリア文化相が本当に上のように言ったとすれば、いささかお目出度い話ではないか…と思います。何となく「累卵」という言葉を連想します。

電子書籍の利点は、検索機能と(当面の)スペースの節約であって、データの永続性は最初から考えない方がいいのではないでしょうか。(むしろ、データを紙に打ち出して、はじめて「ああ、これで最悪の事態は回避できた」と思うのが一般人の感覚だったりするので、なんだか話がさかさまのような。)

雲をつかむような話(1)2010年03月13日 21時28分21秒

春愁、でしょうか。
今日は何となく物憂くて、無為に過ごしました。

  ★

さて、この間の『海洋気象観測法』には、姉妹編というか、補遺があります。
翌大正11年に出た、『雲級図』なる小冊子です。
海洋気象台のロゴがいいですね。

「序」には発刊の経緯が次のように書かれています。

「当台にては昨年海洋気象観測法を刊行し、船舶に於て
気象観測を為す人士の参考に供せり 而して同書中に
雲形を記述するに当り全く図画を挿まざりし為め、初めて
観測に従事せんとするものには 階梯として甚だ物足らざる
感なきにしも非ず、之を以て別に雲級図を刊行して之を
補足せんと欲し、適当の雲形の顕はるゝ毎に或は之を撮影し
或は之を写生し 漸くその資料となる可きもの数種を得たり、
依って茲に之を印刷に附し 弘く気象観測に従事する人士の
参照に便にす」

<雲級>というのは、要するに雲の種類のことで、気象学では何でも10種に区分するのが好きなのか、雲の形もやはり10種に大別されています。

いわゆる層雲とか積乱雲とかいうやつですが、この冊子の解説を読むと、この10種雲級の定まるまでには、多くの学者がいろいろ苦労してきたことが書かれています。身近な存在とはいえ、いかにも不定形な相手だけに、その苦労の程がしのばれます。

で、その記述がなかなか興味深いので、それを書き留めようと思いましたが、何せ春愁の気味合いで根気が続かないので、それはまた明日に回すことにします。

(この項つづく)

雲をつかむような話(2)2010年03月14日 16時24分29秒



冊子の冒頭、まず「雲級図の沿革」というのがあります。
時系列に沿って述べると、

1)雲の科学的分類というのは、1803年、英国のLuke Howard という学者が、巻雲、積雲、層雲の3区分を考案し、さらにそれらの中間形態である巻積雲、積層雲、乱雲を入れて、都合6種の雲級を定めたのが始まりだそうです。

2)その後、このハワードの区分を基本として、各国で独自の分類や名称を用いて観測を行っていた時代が長く続きます。

3)しかし、気象観測というのは国際協力がなければ成果が上がらないので、雲の分類を統一しなければ不便だということで、1891年にミュンヘンで行われた国際気象委員会で<国際雲級図>を制定しようという提案がなされました。そのための委員として、スウェーデンのヒルデブランドソン、フランスのティスラン・ド・ボール、スイスのリーゲンバッハといった人々が推挙され、協議を重ねた末に、1895年にチューリッヒで『国際雲級図』がめでたく刊行されました。

4)しかし、これは発行部数も少なく、すぐ絶版になってしまったので、1910年、こんどはパリで『国際雲級図第2版』が出版されることになりました。これは上記のヒルデブランドソン、ティスラン・ド・ボールの2氏共編という形をとっています。

5)しかし、これまたすぐに絶版となってしまい、入手困難となったため、1921年にロンドンで開かれた国際気象委員会において、再び専門の調査委員を設け、雲級を根本的に研究することが決まった…というのが、この『雲級図』が出た1922年(大正11年)までのあらましです。

なんだか雲級図というのは、雲散霧消しやすいようで、出ては消えということを繰り返しているのが興味深いです。

ところで、日本における雲級の取り扱いですが、日本では『国際雲級図』が出た後も、1890年にヒルデブランドソンが個人名で出した『菲氏雲級図』というのを使い続けて、『国際雲級図』の第2版が出た後で、ようやくこれを採用したようです。

しかし、1922年の段階でも、雲の名称にはちょっとした混乱がありました。
『雲級図』の解説には、

「本邦気象界に於て現に使用する雲級の名称は其拠るところ
明らかならず〔…〕而して国際気象委員会にて決議し、欧米
各国の気象界にて採用せるものとは異なるもの二、三あり、
又之を略記する記号の如きも大部分異なれり」

とあります。例えば、「層巻雲」は国際標準だと Alto-stratus と呼称し、略号 A-St を用いたのに、日本では Strato-Cirrus、略号 SC を用いたりしたのが、その例です。おそらく、近代気象学を導入する過程であれこれあって、それが歴史的残滓として用語にも影響したのでしょう。

さて、以下に海洋気象台スタッフの力作である雲の図を見ていきます。
彼らの<美>へのこだわりは、そこにも遺憾なく発揮されているのですが、それはまた次回。

(この項つづく)

【付記】
ルーク・ハワードはその筋では有名な人のようで、英語版Wikipediaでも扱いが大きいです(http://en.wikipedia.org/wiki/Luke_Howard)。なおこの記事によれば、ハワードよりも先に、進化論者のラマルクが雲の分類名を提唱したそうですが、ハワードのようなラテン名ではなく、フランス語名を用いたために、一般に普及しなかったとのこと。


(おまけ。裏表紙には海洋気象台のマークが拡大して載っていました。太陽だったんですね。しかもリアルな。単なる「お天気」のシンボルかもしれませんが、ひょっとしたら太陽観測へのこだわりの表れかも。このマークは、現在の神戸海洋気象台のHPには出てこないようです。)

『雲級図』に見る<雲のある風景>2010年03月15日 19時12分01秒

以下、海洋気象台の『雲級図』(大正11)より、図版をいくつか見てみます。
なお、雲の名称の後のカギカッコ内は、同書からとった雲の解説です。

 ●

層雲の図です。
「霧に似たる雲層なり、只地面より余程高き所に敷くを以て異なれり」


穏やかな川面を、艪を漕ぎながら進む船。
川辺の景観も静けさをたたえ、薄曇りの日に特有の憂いと落ち着きがよく表現されています。
これは雲の絵というよりも、明らかに風景画ですね。
海洋気象台スタッフ(名前不詳氏)の絵心が爆発している感じです。

 ○●

層巻雲。
「灰色又は青色を帯びたる雲の幕にして一面に天空を被う〔…〕之を透かして日や月を見るを得可きも恰も磨り硝子を通じて之を望むが如し」


図版は白黒以外に、このような青の一色刷りも使って、変化を出しています。
これもスケッチですが、写真と見まごうばかりの、確かな描写力を見せています。薄日のさす空の陰影の具合や、逆光に浮かぶ船のシルエットを見ると、相当デッサン修行を重ねた人のように思います。素直に巧い絵ですね。

 ○○●

層積雲。
「暗黒色の雲の大団塊又は大長塊の集合せるものなり。〔…〕此雲は時には多数の大長塊が平行に併列し 互に相接触するが如きことあり、此長塊の中央は皆暗黒色を為す、而し塊と塊との間隙を通して青空を望み得べし」


こちらは写真です。でも、これまた明らかに「名画意識」というか、画面構成の妙を狙っているようです。
たなびく雲と黒々とした岬が横に長く並行し、それを断ち切る灯台の垂直線がアクセントになっています。灯台を黄金比の位置に入れた構図取りにも、美的感覚の横溢を感じます。

 ○○○●

巻雲。
「巻雲は典雅なる外観を有し、其組織は繊維状にして羽毛の如き形状を為し分裂する白色の雲なり」


これは雲の写真としては「まとも」というか、雲がちゃんと主役になっています。
でも、解説を読むと「典雅」というような、価値判断を含む語を使ってしまうところが、いかにも…という感じです。

  ★

以上、海洋気象台の刊行物に垣間見える<美意識>に注目してみました。
しかし、これは気象台スタッフの個人的資質というよりは、雲や雨や風を五感で感じながら大空と向き合うとき、誰の内にも等しく湧きあがってくる想いなのかもしれません。

  ★

気象学という学問が、そもそも美的なものなのか?
はたして学問には美的な分野と、そうでない分野があるのだろうか?
サイエンスとアートとの関係は?
…という風に考えると、なかなか大きく、込み入った問題になってきますが、これはまたいろいろな機会に、ゆっくり考えたいと思います。

彼女は機上で忽然と消えた2010年03月17日 07時16分10秒

人は苦しみを乗り越え、失敗に学びながら成長していくものです。
そして、荷物が届かないこともまた、そうした苦しみの1つ。
成長の糧とは思えども、それにしても辛いです。

フランクフルトを発った荷物が空中で忽然と消えた…
まさにミステリーです。

トラッキングナンバー付きの荷物が途中で消えたのは、初めての経験なので、
確かに私はここから何かを学ぶことができるはずです。

しかし、本当はそんなことは学びたくないのです。
成長なんかしなくてもいいので、ふつうにスンナリ届いてほしいのです。
当たり前のことです。
当り前ではあるけれども、かといって、今さら嘆いてもどうにもならない。
嘆いてもどうにもならないということを経験によって知ることが、やはり成長であり、学習なのでしょう。

すでに届けは済ませて、郵便の方でも調査してくれるそうです。
果たしてどんなふうに決着がつくのか、ちょっぴり好奇心を抱いている自分がいます。

(中身はですね、これがまた興味深いものでして、もし無事に身柄を確保できたら、このページでご紹介することになるでしょう。)

【付記】

今日、郵便局から連絡がありました。
判明した驚愕の事実。
彼女は機上から忽然と消えたのではありませんでした。
彼女は何と、船に乗っていた!
道理で届かない筈です。
しかし、これではEMS扱いにした意味がない。
さらに状況を調査中。。。。

【付記の付記】

さらに驚くべき事実。
彼女は船に乗ったと見せかけて、やはり飛行機に乗り、忽然と日本に現われた!

喜ばしいニュースですが、一面、大いに不安になりました。
日本郵便の職員は、昨日それが確かにフランクフルトから船の乗ったことを確認したといいました。

しかし、考えてみれば内陸のフランクフルトに港はないし、ドイツに照会したとしたら、向こうがそんなことを言う筈がない。(事実、昨日、売り手の業者からドイツのDHLに聞いてもらったら、フランクフルトから飛行機に乗ったことは間違いないという返事でした。)

結局、日本郵便は何も調査をしていなかったのだと思います。
しかも、彼は「EMS扱いでも船便になることがある」と言いましたが、今日、再度確認したらそれも事実ではありませんでした。

今日対応してくれたスタッフは、「昨日対応した職員が分からないので…すみませんとしか言いようがないですね…不慣れなものですから…」とおっしゃいましたが、いや、そんな問題じゃないでしょうと、さすがに内心ムッとしました。

奮起せよ、日本郵便。

私は小泉郵政改革には大いに反対だったので、このことは臆することなく嘆く資格があると思っています。