デロールの鉱物掛図2010年08月01日 17時02分26秒

ついに8月。酷暑の中にも、秋の気配が忍び寄ります。
スイカ、かき氷、蝉しぐれ、戦争の記憶、甲子園。
地面にも、心にも、濃い影が落ちる季節。

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さて、もったいぶったモノの正体は、デロールの鉱物掛図でした。


光量の関係で、ちょっと写真がぼてっとしていますが、実物も保存状態が悪いので、そう見栄えはしません。しかし、あのデロールが制作した鉱物画というのは、それ自体貴重だと思います。

↑下の余白には、デロールファンにはおなじみの「バック街46番地」の住所と社名。

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デロールは、今のような剥製・標本商になる前は、学校教材全般を扱っていて、この種の博物掛図はデロールのドル箱(死語?)でした。大袈裟でなしに、フランスでは19世紀の末以来、ほとんど全ての初等・中等学校がデロールの掛図を備えていたので、デロールが作った掛図の総量は膨大なものになるはずです。

今、手元に1924年版のデロールの商品カタログがあります。
そこには一体いくつの掛図が載っているのか、参考までに書き出してみます。

○第1集 一般編(20種)
○第2集 産業技術編(86種)
○第3集 比較標本編(96種)
○第4集 人体解剖編(59種)

総計261種。これだけでも大したものですが、しかしこれが全てではありません。
上記掛図は、全体で「デロールの学校博物館:諸事学習用(Musée Scolaire Deyrolle pour Leçons de Choses)」というシリーズを構成しているのですが、他にも「幼児教育シリーズ」やら、「農業教育シリーズ」やら、その他もろもろのシリーズがあって、結局どれだけ品目があったのかはっきりしませんが、とにかく大変な量です。掛図が当時どれほど教育現場で使われたか、それは現代のビデオやDVD以上のものだったでしょう。

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さて、今回取り上げた鉱物掛図は、上のカタログでいうと、「第3集 比較標本編」に含まれているNo.235 鉱物 ― 46種、色刷りという品だと思います。ちなみに当時の価格は、7フラン50サンチーム。全体の傷み具合から考えても、おそらく20世紀の第1四半期を下るものではないでしょう。【付記:記事を書き上げてから見直したら、掛図の右肩に、たしかに 235 と書かれていました。】

前述のように、デロールの掛図でいちばんポピュラーなのは動・植物学関係のもので、鉱物関係のものはかなり珍しい部類に属します。

1枚刷りではなく、鉱物図を別刷り(多色石版)にして、それを9枚台紙に貼りつけてあるのも、他の掛図にはない特徴です。鉱物画は、動植物以上に微妙な色合いを表現する必要があったためでしょうか。


残念ながら保存状態が悪いため、あちこちに染みが浮き出て、全体に退色も進んでいるようですが、元はさぞきれいな絵だったでしょうね。

(この項つづく)

「見えないものでもあるんだよ」…簡単に赤外線を捕捉する方法とは?2010年08月02日 20時16分52秒

(↑ハーシェル赤外線宇宙望遠鏡。ヨーロッパ宇宙機関のサイトより)

今日の記事は番外編です。

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「見えない光」というのは、昔の人にとっては完全な形容矛盾であり、何か特殊な比喩としか感じられなかったでしょう。しかし、18世紀の末に、天文学者のウィリアム・ハーシェルは、ふとしたきっかけで赤外線を発見し、文字通り「見えない光」が存在することを実証しました。

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ここで話はぐんと飛躍しますが、ヒトの心を急速に進化させたのは、何か目に見えないモノなり、力なりが、この世に満ちているという観念ではなかったでしょうか。

その先駆けは「空気」だったと思います。
空気の存在を知ったヒトは、ただちに呼吸と生命活動の関連に気付き、そこから「生気」という観念が生まれ、さらに複雑な宗教思想や哲学が次々と発展して…という塩梅ではなかったかなあと想像します。幼い子どもが、風車や風船を喜ぶのは、そういう祖先の心の歩みをなぞっているのかもしれませんね。

あるいは、重力や磁力の概念なんかもそうでしょう。これらは人間の心に深刻な葛藤を引き起こしましたが、同時に、それに正面から立ち向かったことで、科学は長足の進歩を遂げました。もちろん、エーテルや動物磁気のように、途中で捨て去られた観念もあるわけですが、それらも全く無駄だったわけではなく、別の観念へと止揚されたと見るべきでしょう。

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さて、胡散臭い駄法螺はこれぐらいにして、赤外線の話にもどります。

不思議な、目には見えない光の存在を、ハーシェルにならって実証するには、どうすればよいのでしょうか?それも、身近な道具を使って、小学生でも簡単にできるようなデモンストレーションを工夫するとしたら、どんな方法が一番簡単でしょう?

このブログをお読みの方には、理科好きの方が少なくないと思いますが、この件についてアイデアをお持ちの方、ぜひ以下の掲示板の議論を一読の上、そちらにお書き込みいただければ幸いです(匿名書き込み可)。

ちなみに、現在進行形の論点は、<CD分光が手軽だけれども、CDによる反射光では、赤外部の内外の温度差を測定するには、ちと心もとない>ということです。

■日本ハーシェル協会のTea Room http://6615.teacup.com/hsj/bbs 

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以上、いささか公私混同気味のお願いですが、各位とも何分よろしくお願いいたします。

続・デロールの鉱物掛図2010年08月04日 20時20分45秒

鉱物掛図の話の続き。
実は、このあいだの掛図には相棒がいます(2枚セットで売っていました)。こちらは更に保存状態が悪く、べこべこになっています。


デロールのカタログを見たら、相棒の方も、「No.234 鉱物 ― 50種、色刷り」として、名前が挙がっていました。「デロールの学校博物館」シリーズ全261種の中で、鉱物を描いた掛図は、これらを含めて全3種(ただし、化石は除く)ですから、やっぱり鉱物掛図はマイナーな存在です。



で、ふと思うのですが、これはフランスに限らず、日本でも、どこでもそうだったんじゃないでしょうか。

そう思う根拠は単純で、学校で習うような鉱物はレアな品よりも、ごく一般的なものがメインなので、それなら絵で見せるよりも、実物を見せたほうが手っ取り早かったのではないか、つまり、鉱物標本は流通・保管が容易なため、学校備品としての普及も早く、あまり掛図に頼る必要がなかったのではないか…というのが、私の推測です。(何せ、学校備品どころか、学童1人1人が所有する鉱物標本セットまで普及していたぐらいですから。→こちらを参照)

で、話の焦点は、鉱物趣味の普及過程と、そうした愛らしい鉱物標本セットがどのように生れたか?ということに向うのですが、それについて、最近ちょっと興味深い資料を目にしたので、そのことを近いうちに書いてみようと思います。

(後日につづく)

過去記事フォローシリーズ…史上最大の天球儀はこんな色2010年08月05日 19時46分56秒

1900年のパリ万博に登場した、途方もない大きさの天球儀(というか、天球儀の形をしたパビリオン)について、2年前に記事を書きました。

■史上最大の天球儀(たぶん)http://mononoke.asablo.jp/blog/2008/09/02/
■パリの巨大天球儀(その2)http://mononoke.asablo.jp/blog/2008/09/03/

そのクロモ絵葉書を見つけました。
もちろん、これが100%正しいカラーリングだという保証はありませんが、でも地元パリで同時代に発行されたものなので、恐らく実景に近いものでしょう。


これを見ると、想像以上にはなやかな色合いだったようですね。
下はドンと大きくスキャンしてみたので、クリックしてじっくりとご覧ください。その場の迫力がよく分かると思います。


それにしても、突拍子もない建物です。当時のフランスの天文趣味を先導していたのはカミーユ・フラマリオン(1842-1925)で、その影響力は非常に大きかったらしいのですが、彼の著作に横溢していた幻想とイマジネーションが、この建物の造形に影響したのかもしれません。

(フラマリオンについては、syna氏(ジュール・ヴェルヌ研究会)の「ヴェルヌ周辺の文学:カミーユ・フラマリオン」を参照。)

ところで、細部の表現力において、石版は網点印刷よりも、はるかにまさっていますね。針でつついたほどの人々の姿や、たなびく旗に書かれた文字なども、驚くほど鮮明です。絵師の技量も相当なもの。

地球は廻る2010年08月07日 19時50分53秒

夕有風立秋。(You are foolish .)
ひたすら暑い立秋。まことに人々の願いをあざ笑うかのようなお天気です。

それでも、今週はふっと季節の移ろいを感じることがありました。
朝の出勤時、いつものように家を出たら、見慣れた景色がどこか微妙に違う。何となく澄んだような、静かなくっきりした感じが四囲にあって、なぜかな?と思ったのですが、その原因は太陽でした。太陽の高度が低くなったために、木々や、建物や、自分の服のしわが作る影が微妙に伸びて、風景の立体感が増したことにより、そう感じたのでした。

地球の運行は確かなもので、太陽との位置関係はじりじりと本物の秋に向いつつあるようです。

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さて、下は明治末~大正初めに出た絵葉書。
当時の葉書で、天文を主題にしたものは珍しい。地球・月・太陽の関係を描いた、たぶん元絵は、その頃の教育用掛図ではないかと思います。


しかし、裏面↓を見ても、まったく説明がないので、誰がどういう目的で作ったかは不明。この絵葉書を出す人も、受け取る人も、何をどんなニュアンスでやりとりしたのか、考えるとちょっとシュールな感じがします。(ひょっとしたら、1908年に創設された日本天文学会と関係があるのでは…という想像もしています。)


【付記】 絵葉書の時代判定は、絵葉書資料館を参照しました。


ある学校天文台のものがたり2010年08月10日 23時31分41秒

そこは小高い丘の上。
息を切らして丘を上ると、藪の中に埋もれるようにして、丸いドームがひっそりと立っています。もはや鉄板葺きのドームはすっかり朽ち果て、ところどころに大穴が口を開けています。

穴から中を覗くと、おや、何か鬼気迫るものがすっくと立っているではありませんか。
よく見れば、巨大な望遠鏡と、その架台です。誰にも看取られることなく、ドームとともに果てた望遠鏡が、シルエットだけは昔のままに立っているのです。鏡筒にはツタが巻き付き、朽ち錆びた湿った金属の匂いが鼻をうちます。

ここにあるのは、一種の廃墟美です。

しかし、かつては― 今から60年前には、ここにも活気と笑顔と嘆声があふれていました。
この天文台は、高校生が自ら図面を引き、資材を運び上げ、みんなで力を合わせて作った天文台なのです。望遠鏡の鏡筒には、戦争で使われた、巨大な砲弾の薬莢が再利用された…というのも、時代を象徴しています。戦後民主教育の旗が、高らかに翻っていたあの頃。世の中は貧しくとも、漆黒の空にはざらざらと星が輝き、少年少女たちの遠い夢と憧れを誘いました。

当時のにぎわいを記憶にとどめるのは、今では少数の老人と、朽ち果てた天文台のみです。

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…というふうに感情移入しながら、昨日届いた雑誌『天界』の記事を読みました。

興譲館高校(岡山)の学校天文台の今昔を綴った、大野智久氏の「還暦迎える興譲館天文台」という文章です。主鏡を提供した鏡面研磨の第一人者・木辺成麿氏や、建設を指揮した同校教諭の三須佳木氏、当時の在校生の池田襄氏などのエピソードを交えつつ、往時の天文界の一断面を記した、たいへん興味深い内容でした。


■大野智久「還暦迎える興譲館天文台」
 『天界』(東亜天文学会機関誌)、91巻、第1023号、pp.254-257.


【8月11日付記】 言うまでもないことですが、★印より上は、私の私的解釈がまじった記述で、大野氏の文章の直接の引用ではありません。

多情多恨2010年08月11日 20時42分47秒

どうも頭の中が散らかっている感じがします。
それはなぜか。

俗にマイブームというのがありますね。
この天文古玩にも、ちょっとしたブームがあって、そのときどきで興味の対象が少しずつ移っていきます。

ところが最近は、そのブームが一時に複数発生するので、二兎どころか、三兎も四兎も追うような感じで、いたずらに心が焦るばかりで、ちっとも対象が像を結びません。徒労感が強いです。

最近のブームを言葉にすると、

 「かたち」
 「遠い世界へ」
 「明治の天文学」
 「古き時代の鉱物趣味」

といったところですが、これだけだと、ただの寝言ですね。
もう少し精神の澱が沈んで、すっきりと向こうが見通せるようになるまで寝かせておくことにします。

記事の方は、当面場つなぎ的な内容で行く予定です。

古いビン…棚の奥から(6)2010年08月13日 09時35分17秒

そういえば、つい忘れていましたが、まだ棚の奥への旅は続いていたのでした。
今日の道程は標本を入れた古いビンです。


これは明治に創設された女学校からの放出品ですが、中に入っているものはバラバラです。元は何か一貫した収集方針があったのかもしれませんが、一種の無作為抽出によって私の手元に届いたので、これだけ見ても、本来の収集意図がさっぱり分かりません。

三椏(みつまた)と雁皮(がんぴ)は、和紙の原料(ともにジンチョウゲ科)。
黄連(おうれん)は、薬草(キンポウゲ科)。
そして台湾産の愛玉子(あいぎょくし、オーギョーチ)は、果物(クワ科)。

うーん…ひょっとしたら、これらは「有用植物」という、非常に大雑把なくくりで棚に並んでいたのかもしれません。


それにしても、戦前の愛玉子を身辺に置いている人は少ないでしょう。
(自慢にならない自慢)

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ときに、ビンという字には、「瓶」と「壜」の2つがあります。

手元の字書によれば、「瓶」とは「かめ。口の小さいつぼ型の容器」または「とっくり型の容器のこと」とあります。いっぽう、「壜」の方は、本来の音は“タン”または“ドン”で、“ビン”と読むのは「瓶」と誤って混用したためだとあります。意味は、「かめ。胴が太くて、容量の大きい酒がめ」、あるいは「とっくり型の、ガラスや陶器の大きいびん」だそうで、要するに小さいものが「瓶」、大きいものが「壜」だという説明です。

でも、私は大小を問わず、何となく「壜」のほうが好きです。
字面から、ガラスの肌に水滴が付き、うっすらと曇っている様子を連想するせいかもしれません。

精神の物理学の果てに2010年08月14日 20時35分37秒

心が落ち着くまで、記事の方は場つなぎ的な内容で…云々と書いたので、ちょっと毛色の変わったことを書こうと思います。
それはおそらく人類が挑戦する、最後の秘境となるであろう場所、すなわち人の心についてです。

最初に言い訳をしておきますが、これはあくまでも場つなぎなので、精密な議論ではありません。お盆休みの最中に、ぼんやりと思い浮かべたことです。

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昔、心理学は科学でした。
いや、今でも科学なのですが、昔はさらにカギカッコ付きの「科学」でした。
分かりやすいエピソードを上げると、昔の心理学専攻の学生は、文学部の中で唯一白衣を着る存在だった…と言えば、何となくイメージしていただけるでしょうか。つまり自ら「自然科学」の一分科たらんと志していたわけです。

現代の心理学は、19世紀に「精神物理学」として始まり、その<開祖>がグスタフ・フェヒナー(1801-1887)です。くだんの白衣の学徒たちは、フェヒナー博士から100年ちょっと下った後裔であり、厳密な実験によって人間精神のふるまいを解明しようと奮闘していたのです。

ただ、形だけ自然科学的手法を取り入れても、人間精神が容易に陥落しないのは当然の話で、<開祖>フェヒナー博士自身が、晩年はオカルトに接近していったというのは、心理学の教科書があまり深入りしない点ですけれども、しかし、これは心理学という学問の性格を考える上で、むしろ積極的に載せるべきエピソードだと思います。

敢えて言えば、フェヒナー博士は「途中で道を誤った」わけではなく、心にアプローチする以上、どの道をたどったにしても、そのまま進み続ければ必然的に「そっちの世界」に行ってしまうのだと思います。

たとえば物理学なんかでも、結局最後に認識論の問題が出てきて、それ以上先に進めなくなる局面があるような気がします。ましてや、認識そのものを対象にする心理学においては、あっという間に壁にぶつかるのは理の当然で、頭のいい人たちは、なるべくその壁を見ないように、壁に沿って歩き続けることで、自分たちがずいぶんと進歩を遂げたような気分を味わおうとしましたが、そういう無理は長続きしないものです。

(心理学の対象は「心」ではない、心理学は行動の科学であって、その扱う対象は外部から観察できる行動だけだ…と、学生の頃に聞かされましたが、素直に考えれば無理な話で、「心」に対して無力な心理学なんて最初から要らないよと、そのとき思った記憶があります。)

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…うーん、ちょっとお酒が入ったので、うまく文章がまとまりません。お盆なので、「そっち系」の話を書こうと思ったのですが、手に余りました。

事前構想では、ここで明治時代の珍奇な知能測定法の本を紹介しつつ、当時の超心理学ブームのことを書き、さらにフェヒナー博士の怪説(= 唯物論的思考法である「闇夜見」を超えた、スピリチュアルな思考法「白昼見」の称揚 )にいたく感心し、自ら「白昼見」という作品を書いた稲垣足穂のことを取り上げようと思ったのですが、どうもあんまり面白く書けそうにないので、この話はここまでです。