日時計のおもてに春日は暮れ難し2011年02月01日 20時57分52秒

2月、如月。
梅も咲き、俳句の世界では早くも春です。

日時計というのは、特に何の季語ともなっていないようですが、私が歳時記を編むとしたら、春に配当したい気がします。陽光を待ちわびた末に訪れた季節に、いかにもふさわしいと思うからです。

うららか、日永(ひなが)、のどか、こういった単語はすべて春の季語。「ぶらんこ」や「シャボン玉」もそうですね。そして、「日時計」も何となくそういった世界の住人という気がします。

下はわが家の日時計コレクション。


といっても、フランスのフェーヴ(ガレット・デ・ロアというお菓子に入れる豆細工)なので、実用性はゼロです。2.5センチ角ぐらいの、小さな太陽への捧げもの。


日時計と懐中時計。
こんな写真を撮っている暇があるとは、まこと春の日は暮れ難い。

理科少年史序説(というか寝言)2011年02月03日 21時02分51秒

今日の通勤電車の中で、半分眠りながら、次のようなことを考えました。

  ★

各時代の理科少年には、それぞれの精神を体現するメディアがある。
たとえば…
○明治の理科少年ならば、「少年世界」とジュール・ベルヌ(の翻案物)。
○昭和戦前の理科少年ならば、「子供の科学」と海野十三。
○70年代の理科少年ならば、「学研の科学」とNHK少年ドラマシリーズ。

まあ、最後はちょっと強引ですが、要は理科少年の心には、時代を超えて、リアル・サイエンス(RS)への夢と、フィクショナル・サイエンス(FS)への夢の両方が漂っていた…というのが「寝言」の第1の論点。

ところがその後、微妙なバランスで拮抗していたRSとFSの力関係が崩れてしまった。それは、戦争と公害問題の影響で、RSの魅力が衰えたせいかもしれませんし、FSの進化の方が早かったせいかもしれません。原因はいろいろ考えられますけれど、均衡が破れた結果として、少年たちは一気にFSへと吸い寄せられた…というのが、第2の論点。

そして、少年たちの夢の新たな受け皿となったのが、TVを始めとする各種映像文化であり、結局、「理科少年文化」は「オタク文化」に回収され、消滅したのだ…というのが、第3の論点にして、今日の「寝言」の眼目です。

どうでしょう。「理科少年はなぜ消えた?」という問いは、これまでも取り上げた気がしますが、ちょっと別の角度から考えてみました。理科少年は単に消えたのではなく、オタクに転化したのだという、いわば「恐竜は鳥になった」的説なんですが…

The Restless Spring2011年02月05日 20時16分04秒

理科少年のことを書いたら、明治の元祖・理科少年のことが気になりだしました。
これは、以前、牧野植物図鑑の話から明治の図鑑史のことを話題にしたのと連動しているようです。そのさらに前には、胡蝶書坊さんの一件から蝶の図譜が気になっていたので、遡るとそこから連想の糸が続いているようでもあります。

またそれとは別に、化石や解剖学の話にも、最近関心が向いていて、もちろん天文の話をお留守にするわけにはいきませんし、そうなると結局何から手を付けていいのか分からず、関係する本だけは着実に増えて行きますが、「まとめる」という作業ができにくい状態です。あまり良くない徴候です。プチ躁転(躁のフェーズに入ること)かもしれません。ここはひとつ意識して行動をセーブする必要がありそうです

と思っているところに、こういう↓トンデモナイ人の存在を知って奮い立ったり、
 ■驚異の部屋を再現した人:Mistletoe 幻視するFlaneur遊歩者
  http://mistleto.blog.so-net.ne.jp/2011-02-03

はたまた、コーネルの話を聞けば↓コーネルと天文の話題を思い出して、無闇に焦ったり、
 ■ジョゼフ・コーネルの箱の裏側と箱の中のユートピア。:Mademoiselle Loulou*
  http://mllelou.blog10.fc2.com/blog-entry-782.html

ええ、なんだか春も近いようですね。

煉瓦造りの天文台の思い出。過去から未来へ。2011年02月06日 22時08分23秒

アメリカに特徴的な教育機関に、自由学芸大学(リベラル・アーツ・カレッジ)があります。青年子女に豊かな教養を授けることを目的とした、教養学部のみの単科大学で、小規模な全寮制学校であることが多いようです。

そこに併設されている天文台も、高度な研究というよりは、もっぱら教育目的の施設で、よく絵葉書の被写体にもなっていますが、大天文台とは一味違った、こぢんまりとした風情はなかなか良いものです。

そうしたリベラル・アーツ・カレッジとその天文台について、「ちょっといい話」を目にしたので、ここに書いておきます。

(↑手元の絵葉書から。マサチューセッツの名門女子大、スミス大学の天文台。1905年頃、手彩色)

   ★

元記事はこちら。
■Return to the Observatory(Jeffrey Ross氏)
  http://www.insidehighered.com/views/2010/09/14/ross

書き手のジェフリー・ロス氏は、ネブラスカ州にあるリベラル・アーツ・カレッジ<ドエイン大学 Doane College>を1976年に卒業し、現在は別の大学で教鞭をとっている先生です。昨年の7月、ロス氏はある意図を持って、9歳になる息子さんを連れて母校を訪ねることにしました。

建物も、木々も、石橋も、昔そのままの姿。懐かしい風景。池にはかつての白鳥の遠い子孫が、昔と同じように遊泳しています。(以下意訳まじりの適当訳)

    ★

 「クインテンは、ニンテンドーDSで遊ぶ手を休め、吹雪のこと、教授たちのこと、以前の世間の有り様など、今では遠い昔語りとなった話に耳を傾けた。21世紀の典型的な9歳の少年である彼の目には、このキャンパスは古い建物と美しい芝生、花壇、そして舗道の集合体に過ぎないし、この昔の思い出の地に私が抱く感傷とは、もちろん無縁だった。それでも、彼はこの訪問を楽しんでくれたし、私が1、2回ドエイン湖に落っこちた話を聞いて大笑いした。

 彼は今、時間と空間を越えた、おそらくドエイン卒業生だけが持ちうる、貴重なドエイン体験を私と共有しているのだ。

 私はボズウェル天文台の脇に息子を立たせて写真を撮った。この天文台は1883年にできた愛らしい小さな煉瓦造りの施設で、運用中の望遠鏡を今でも備えている。

 さて、話はさかのぼって1959年前後、私がまだ5歳の頃だ。ネブラスカ州オーロラに住んでいた私の祖父母は、私を連れてドエインまで旅をした。当時ドエイン大学で学んでいた、叔母のディアンナを訪ねようというわけだ。私は今でも、ボズウェル天文台のそばに立って、そのザラザラした煉瓦に触れ、絡まる蔦を眺めたのを、はっきり覚えている。後年、自分がドエインに行こうと決めたのは、あの訪問が大きく関係しているに違いない。あの霧のかかった朝、私はほとんど畏敬の念に近い思いを抱き、あの古い天文台のそばに立ち、その迫力、感情的訴求力、存在感 ― 当時の私の理解を超えた、いわく言い難い象徴性 ― そうしたものに、言いようのない魅力を感じたのだ。
天文台の建物、鈍く光るドーム、子ども心に浮んだ、大学をめぐる神秘の謎…。19世紀の科学の建物の前に、ほんのちょっと立っただけで、どれほど大きな感情的・認知的衝撃が私を襲ったことか。

 ドエインで経験した教育的な旅は、今でも私の人生と価値観、それに私の将来にも大きな影響を及ぼしている。〔…〕

 私はクインテンが、我が母校と魔術的関係を取り結んだと考えているのだろうか?息子がボズウェル天文台のそばに立った時、私の感情ははげしく揺さぶられた。まさに私の巡礼行が成功したかのように。私は、息子を人生のリトマス紙ともいうべき空間上の一点、すなわり私の性格、私という存在、私自身を最終的に形作った場所に連れて来たのだ。

 たしかに、私は彼がいつかドエインに入るのを望んでいる。私はぜひとも、もう一度息子の写真を撮りたいと思う。2023年頃、角帽とガウンを身に着け、ボズウェル天文台のそばに立つ息子の写真を。

 小さなリベラル・アーツ・カレッジは(その美しいキャンパスや、大事な使命とも相まって)、多くの人々に、満足のいく素晴らしい人生を用意してきた。

 古い天文台は、新しい覚醒と新しい知識、そして最も純粋な学習を、人類が絶えず追い求めてきたことを力強く象徴している。喜びのために学ぶことを重視するのは、社会にとっても重要だと思う。〔…〕リベラル・アーツ教育は、我々をより慈愛に満ちた存在としてくれるし、過去から学ぶのに必要な力を与えてくれると同時に、遠い将来を見通すのに必要な力も与えてくれる。

 知識と品性があれば、大抵の状況は乗り越えられるものだ。私は、教育とはそれ自体が目標となりうるものだと確信している。〔…〕

 ひょっとしたら、これを読んでいる方の中には、私のことをアナクロな人間と考える方もいるかもしれない。日常生活にどっぷりとつかり、地下鉄の車内で、あるいは会議に出席するために離陸したばかりの機内で、この記事をスマートフォンで読んでいる方にとっては、私の意見は奇妙で時代遅れの、そして時と所を隔てた黴臭いだけの退屈なつぶやきと思えるかもしれない。

 だが、たとえそうだとしても、あの天文台は運用中の望遠鏡と共に、今もたしかに生き続けており、白鳥たちは今日もドエイン湖をゆったりと泳いでいる。」

    ★

アメリカは広いので、古き良き教養主義を是とする価値観も一部には強固に残っているということでしょうか。

それにしても、古い天文台が無言で人類の知の営みを子どもに語りかけるというのは、とてもいいシーンですね。ロス氏はいい経験をされました。が、その思いがクインテン君に伝わるかどうかは…?

理科少年強化月間なれども2011年02月08日 23時01分58秒

今日のGoogleのロゴはジュール・ヴェルヌでした。
何でも2月8日は彼の誕生日だとか。

そして、明後日・2月10日は「理科少年の日」です。

■2月10日は理科少年の日(過去記事)
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2009/02/11/4113169

そんなこんなで、いろいろ書くべき話題は多いのですが、10日までに仕上げる急ぎの仕事が入ったので、記事とコメント(←微苦笑をもって拝読)へのお返事はちょっと小休止です。

雪の宵、彗星は空をかける2011年02月11日 12時06分40秒

今日は雪。
窓から見る景色も、あっという間に白一色となりました。

   ★

絵葉書の中では、お使い帰りの子供たちが夜道を歩いています。
空気はキュンと冷え、辺り一面ペールブルーの世界。
でも丸い月のおかげで、雪原は驚くほどの明るさです。
ふと足をとめて見上げれば、青い空にはきらきら光る星、そして大きな箒星。

   ★

この愛らしい絵葉書は、20世紀初めにスロベニアで発行されました。
当時はまだオーストリア領だったので、裏面には皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の肖像切手(1908年発行)が貼られています。

ちょっと昔の化石趣味2011年02月13日 17時32分57秒

唐突に化石の話題です。
化石そのものというよりも、「化石趣味」の話。

化石趣味も、昔と今とで大きく様変わりしたものの1つだと思います。
(化石ファンの実態を知らないので、以下、想像まじりに書きます。)


今はお金さえあれば、アンモナイト↑でも、マンモスの臼歯↓でも、モロッコ産のトゲトゲした三葉虫でも、中国貴州産のナントカでも、何でも買い放題で、簡単に自分の手元に置くことができます。化石ファンの発掘フィールドは、今やミネラル・ショーの会場だ…と言っても、あながち間違いではないのでは。


でも、かつての化石趣味は、だいぶ趣が違いました。
そもそも化石は買うものではなく、自分で採集するものでした。(もちろん今でもそれが本当の化石マニアだという通念はあるのでしょうけれど、実態として、買ってコレクションする人の方が、圧倒的に多いのではないでしょうか。これまた純粋な想像ですが。)

下の本を読むと、一層その感が深いです。


井尻正二・藤田至則(共著)
  化石学習図鑑
  東洋図書、昭和32(1957)

この本の「はじめに」を読むと、当時の状況がこう綴られています。

「戦争が終わってから、理科のなかに、“地学”という課目がうまれました。そして、また、女の子も男の子と同じように勉強することができるようになったためか、地球のことを勉強するお友だちが、おおくなってきました。」

おお、民主教育の波がここにも。

「とくに、戦後には、デスモスチルス・シーラカンス・雪男などという、大むかしの生物に関係した発見がつぎつぎにあったので、みなさんは、大むかしの生物、つまり、“化石”のことに、大へん興味をひかれたことでしょう。」

雪男はご愛敬としても、ジャーナリスティックな発見の後、メディア主導で一種のブームが作られ、それが子供たちの世界にも波及していく…というのは、その後の一貫した流れでしょうが、ただ何といっても昭和30年代なので、そこで展開するのは、健全というか、素朴というか、ある意味驚くような世界です。

たとえば、第2部「化石の採集」には「日曜巡検」という章があります。

「東京でも、大阪でも、北のはての札幌でも、日曜日になると、リュックサックを肩に、手に手にハンマー(金づち)をもった小学生・中学生・高校生があつまって、近くの山や川へ、地層や岩石や化石の見学にでかける姿がみられる。」

え、そうだったんですか。

「〔…〕このごろでは、大学の学生さんが中心になって、“日曜巡検会”というものをつくっている。日曜巡検会というのは、地学のすきな、小・中・高校生をはじめ、お父さんやお姉さんまでもふくめて、日曜日に地学の見学をする会である。
 日曜巡検は、地学科をもつ大学がある町では、日本全国、たいていのところでおこなわれているし、べつにむずかしい規則や試験があるわけではないから、だれでも自由になかまいりをすることができる。」

高校における地学の凋落ぶりを考えると、同じ国の話とはとても思えない、なんだか夢の世界を見るようです。でも、話の冒頭に戻ると、現代でも化石好きの人はおおぜいいて、せっせとコレクション作りに励んだりしているわけですが、うーん、何か根本的なところに違いがあるような気がします。

さて、こんな風にして勇み立った、当時の少年・少女たちの活動の実際を、もう少し本書に即して見てみます。 (この項つづく)

   ★

(↑おまけ。本書の巻末広告。この本が出た年(1957年)は、ちょうど第1次南極観測隊が昭和基地を設営した年で、これまた「地学ブーム」をあおる一要因だったようです。)

月、星を慕う2011年02月14日 19時45分43秒

化石の話の途中ですが、今日は2月14日。とても大切な日です。
「天文古玩」をご覧の方の幸をお祈りしつつ、古絵葉書を1枚貼っておきます。
(1910年代とおぼしい、アメリカ製)

「輝く星よ、僕だけのために光を放っておくれ!」

春の雪も舞い、寒さの厳しい晩です。
皆さま、どうかご自愛くださいませ。

ちょっと昔の化石趣味(2)2011年02月16日 19時53分20秒

半世紀余り前、多くの少年少女が楽しんだ化石採集行に、われわれも同行することにしましょう。

まずは服装から。
基本的に動きやすく、けがのないような服装を…というのは昔も今も同じでしょうが、ちょっと時代を感じるのは足元。履物は地下足袋が推奨されています。そして、しっかりゲートルを巻かねばなりません。で、リュックを背負い、帽子をかぶれば、当時の化石少年の仲間入りです。


リュックの中には何を入れるか。弁当、雨具、セーター、水筒、「そのほかに、キャラメルやリンゴのことは、みなさんのほうがくわしいから、おまかせしよう」。(←本書はこういう過剰にフレンドリーな文体が目に付きます。) それに、もちろん採集道具である、ハンマー、たがね、新聞紙、採集袋、ノート、地図、筆記用具も忘れずに。

「これで弁慶と同じように、7つ道具がそろったわけである。しかし、このほかに、物さしや三角定規や虫めがねがあれば便利だし、写真機や、地層のかたむきぐあいや地層ののびの方向をしらべる傾斜儀(クリノメーターともいう)があればすばらしい。〔…〕しかし、“弘法は筆をえらばず”ということわざもあることだし、道具をそろえることばかり考えずに、まず、化石採集にいくことにしよう。かなづち(それもなければ、つるはし)・古新聞・自分でつくったノート、それに、お母さんにつくっていただいた大きなおにぎりをふろしきにつつんで、桃太郎さんのように腰にさげて、いさんで家をでかけよう!」


いよいよ、化石を探しに出かけるわけですが、さて、どこに行けばよいのか?
今ならネットで調べたり、化石のガイドブックに頼るのが普通でしょう。もちろん、当時もそういうツールがなかったわけではありません。
この本でもあとでのべるような、地学関係の本や地図(これを地質図という)をしらべて〔…〕化石を見つけるのも1つの方法である

しかし…と文は続きます。
しかし、みなさんは、まず先生や大学のお兄さんや村の人に産地を聞いて、そこで化石をとることからはじめるのがよいと思う

そう、何でも分からないことは人に聞くというのが当時のセオリーでした。
そのつぎには、その地方の人たち、とくに岩や土をよくあつかっている、土木工事の労働者・農家の人たちなど〔…〕また、町や村の老人・物しり・学校の先生に教えていただくことも大切である

この“何でも聞いてみよう”という姿勢は、驚くほど徹底していて、
石垣や墓石にも注意すること。石垣や墓石を注意して見ると、化石がはいっていることがある。もし、そのようなものがあったら、石垣の家やお墓のもち主の家をたずねて、その石をどこからとってきたかをききだしてしらべればよい
というのですが、今ではちょっと考えにくい行動ですね。

何だか余分な引用ばかりで、なかなか化石にたどり着けませんが、面白いので、もう少し続けます。

(この項つづく)

ちょっと昔の化石趣味(3)2011年02月17日 21時48分33秒

さて、どうにかこうにか目指す場所に近づいたら、次にやるべきことは水成岩を見つけることです。(「水成岩」という言い方も懐かしい。今なら「堆積岩」ですね。)そのためには、川筋で岩石の露出した露頭を探すとよい…というアドバイスがあります。


しかし、うまい具合に化石の産出場所を見つけても、化石はとりっぱなしではいけない。化石をしまうまえに、ポケットからノート(野帳)をとりだして、いろいろ観察したことをかきつけておこう」

野帳(フィールドノート)。
これは化石少年だけでなく、昆虫少年でも、植物少年でも、野外派の理科少年は必ず付けるよう、どの理科本も推奨していたので、付けた方は多いでしょう。もちろん私も付けました。懐かしいですね。でも、続きませんでした。ああいうのは、たくさんの情報の中から何を取捨選択するかが分かってないとダメなので、「何でも気づいたことはメモしよう」と言われても、子どもにはちょっと難しい作業じゃなかったかなあ…と、今にして思います。


本書には、もちろん具体的な化石採集の手順や心得も書かれています。曰く層理に沿って岩石を割れ、なるべく周りの岩石も一緒に採れ、化石の上下に気を配れ…etc。


こんなふうに、夢中になって化石をとっているうちに、だいぶ日がおちてきた。山の中で日が暮れたのでは、帰ることができなくなるから、早めに帰りじたくをはじめよう。目のまえにある化石の山は、どうしてもち帰ったらよいだろうか。〔…〕小さな化石や、こわれやすいものは、わたでくるんで、あきばこにいれる。とくに大切なものや、珍しいものがでたら、もう、なりふりにはかまっていられない。お母さんにおめだまをちょうだいするのをかくごで、ハンカチーフでも、手ぬぐいでもなんでもあてる。あまり大きくてりっぱな化石がとれたので、こわれるのを心配して、上衣をぬいであててきた人があるくらいである

「朝、家をでるときもってきた、大きなおにぎり、水とうの水、リンゴやキャラメルがなくなったと思ったら、帰りは朝よりも、2倍も3倍もおもいお土産ができた。帰りの荷物がうんとおもくなるところが、ハイキングと化石採集のちがいである」

こういう文章を読んで、出かける前から期待で胸をグッとふくらませた子供たちも多かったでしょう。これを皮算用と言ってはかわいそうです。子供たちは、あくまでも意気軒昂なのです。

このお土産は、家にかえって、お父さん・お母さん・弟・妹にみせてから、あすは学校へもっていって研究しよう。〔…〕帰りの駅までは、まだかなりの道のりだ。おなかはすいたし、リックは重い。みんなで元気に歌でもうたっていこう」

   ★

こうして楽しい化石採集行は終りました。このあとは、さらに楽しい標本整理の作業が待っています。

「今朝は、遠足でもないのに、リックサックをかついで家をでる。途中で友だちに会うと、“おい、リックをかついでどこへいくんだ”“それはなんだ”“なにがはいっているんだ”と、いろいろたずねられるであろう。“化石だよ”といってしまってはたのしみがなくなるので、“いいものさ、放課後に理科室へきたら、見せてやるよ”と答えておこう

ああ、いいですね。少年たちの口吻が、ちょっと長野まゆみ風です。
この後は、いよいよ理科少年の本領を発揮する章節に突入するのですが、それはまた次回。

(この項さらにつづく。でもこんな風に書いていると、いつまでも終らないので、次回むりやり完結の予定。