不思議の国の宇宙ロケット2012年04月01日 07時13分36秒

今日から4月。新しい年度の始まりです。
9月入学が始まると、また感慨も違ってくるのかもしれませんが、
まだ当分は、清新な気分と春の情緒の結びつきは続くでしょう。

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さて、イギリスの某理系アンティークショップで、こんな品を見かけました。
説明を読んでも何だかよく分かりませんが、相当な珍品のようで、猛烈に欲しかったのですが、価格的に断念。

■Apparatus for demonstration of ‘URASHIMA-Effect’ by Tompkins.
◆Price: 1,250.00 GBP
◆Circa: 1945
◆Country of Origin: U.K.
◆Description:
 A mid 20th century small rocket to prove the theory of relativity signed 'George Tompkins, Cambridge'. The rocket measures 2.5" high. The rocket is in very good condition and perfect working order.
 
 


うーん…それにしても惜しい。
毎年、4月1日になるとこの逸品を思い出して、歯噛みしそうです。

キミは本物の月ロケットを持っているか?2012年04月02日 21時03分26秒

昨日は他愛ない話題でしたが、今日は本物の月ロケットの話題です。
そう、正真正銘の月ロケット。


…やっぱり今日も他愛ない話ですみません(しかもダジャレ)。
でもこのロケット、ちょっと良くはないですか?
(ちなみに、空を飛ぶのはrocket、首から下げるのはlocket。)


本体の直径は約27mmで、パカッとふたが開きます。


以前載せた、足穂好み(?)の三日月タイピンと好一対。
こちらは乙女が持つのにふさわしいアイテムですね。
ちなみに、足穂氏によれば月は両性具有の存在だそうです。

これがロケットだ!2012年04月03日 21時09分42秒



出るべくして出た、「ロケットのロケット」。
もはや多くを語りますまい。


高さ1.7センチという、ちっこいピーナッツぐらいのサイズですが、ちゃんと底部にふたがあって、中にものを入れることができます。


月へ!2012年04月05日 21時41分50秒

ここまで来たら勢いに乗って、ロケットシリーズ第3弾


このドラえもんの鈴のような金色の球(直径18ミリ)を、真ん中からパカッと割ると…


中には鮮やかな月ロケットが。
そう、これは「月ロケットのロケット」なのです。
アメリカのミニアチュール作家の作品で、作者によるタイトルは「Fly Me to the Moon」。

小指の爪ほどの画面に封じ込められた宇宙空間。
そこに浮かぶ月。
炎を噴き上げるロケット。

果たして、このロケットには誰が乗り込んでいるのか、
そして、その背後にはどんなドラマがあるのか、
この小さな絵を見ていると、そんなことがボンヤリと思われてきます。

ねじれた時間感覚…恐竜懐古談2012年04月06日 20時05分46秒


(↑朝日新聞=2012年4月5日=の紙面より)

「大型恐竜にも羽毛」 「全長9メートル、中国で新種化石発見」

「…国立科学博物館の真鍋真研究主幹は『大型恐竜にも羽毛があったという証拠がついに出た。羽は雌雄を見分けたり、求愛のディスプレーに使ったりした可能性がある』と話した。」

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縁側で爪を切りながら新聞を見ていたおじいさんが、誰に言うともなくつぶやきました。

なんだぁ、中国で羽毛をまとった大型恐竜だって?
…いってえ世の中、どうなっちまったんだ。

昔は恐竜といやあ、みんなどっしり腰を落としてなあ、ノッシノッシと歩いたもんさ。肌だってザラザラのうろこ肌でよ。まあ、見るからに堂々としてたな。子供心にも、そりゃあ、ほれぼれとしたもんだ。

それに比べて、何だあ、近ごろの恐竜どもは。どいつもこいつも尻尾を持ち上げてスタスタ歩きやがって。尻が軽いったらありゃしねえ。しかもボサボサ毛なんぞ生やしやがって。まったくなっちゃいねえ。

ああ、昔はよかったなあ…

恐竜クラシック2012年04月07日 19時01分28秒

昔の恐竜、今の恐竜。
その変化から類推して、さらに「未来の恐竜」というのを思い浮かべました。
で、「将来、恐竜はこうなる!」という予言記事を書いてみたらどうかとか、あるいは「2013、これが恐竜のニュートレンドだ!!」と煽りを効かせてみたらどうかと夢想してみました。

…書いていて、我ながら素敵にバカバカしいですが、でも、恐竜たちが、今も人々の想念の中で進化を続けていると考えるのは、ちょっと悪くない気がします。

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さて、昨日のおじいさんが憧れた恐竜は、きっと↑こんな姿をしているに違いありません。

ノッシ、ノッシ。
(斜めから写したので、ちょっと歪んでいます)

とぼけた表情に味わいがあるような…。

遠くの方でもノッシ、ノッシ。

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上の品は、「白亜紀の動物」と題された、ドイツの教育掛図で、1960年代頃のもの。
ドイツ中央教具研究所(Deutschen zentralinstitut fur Lehrmittel)監修、ベルリンのVolk und Wissen Verlag 社発行。Heinz Dost という画工の名前が欄外に見えますが、どうもこの絵は素人目にも下手ですねえ。

東西冷戦下の東ドイツ(略称DDR)では、教育用の掛図が大量に作られたらしく、それらは今や古物市場で二束三文の捨て値で売られています。私は勝手に「DDRもの」と呼んでいますが、全体に粗製乱造の気味があるので、買う時にはいささか用心が必要です。

近日公開2012年04月08日 21時29分16秒

現在、「貧窮スターゲイザー伝」のまとめに力を注いでいます。
もうじき、目鼻が付きそうです。

貧窮スターゲイザー、草場修(1)2012年04月09日 20時12分25秒

さて、1930年代の日本に、極貧のスターゲイザーがいたらしいという話題。
極貧の中で星空を眺めた人…というと、一時期の足穂氏もそうですが、ここで取り上げるのは、また別の人です。その名は、草場修(くさばおさむ)。

草場氏の名は、実は以前、下の記事にチラッと出てきました。

ジョバンニが見た世界…天文掛図の話(その4)(その5)
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2008/05/22/3536517
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2008/05/23/3536640

これは、草場氏が原図を描き、神田茂博士が校訂した『新撰全天恒星図』(恒星社厚生閣)の紹介記事です(よく見たら、元記事では草場氏の姓を「草葉」と間違えていたので、訂正しておきました。また、初版出版年を「×昭和12年→○昭和21年」に訂正します)。
 
(『新撰全天恒星図』外袋)

そのときは、私自身、草場氏のことを何も知らずにいたのですが、最近、以下の記事に行き当たり、それを読んで仰天しました。それが今回の記事を書くきっかけともなったのです。(草場氏も故人と思われるので、以下敬称を略させていただきます。)

隕石亭夜這星:星を観ること
 http://www9.ocn.ne.jp/~tunguska/25.html

この記事によれば、草場はまったくのルンペンであり、橋の下や、土管の中から夜毎星を眺めながら星図を描いた…とあります。それがやがて東亜天文協会(現在の東亜天文学会)の創設者・山本一清の目にとまり、改めてその指導を受けた末に、彼の星図は公刊されることになったのだという話(※)。

事実とすれば、ものすごい話です。しかし、にわかには信じがたい気がしました。

私が真っ先に疑問に思ったのは、星図を作るには、まず星表を作らねばならないはずで、そこのところは一体どうしたのだろうか?ということです。つまり、星図というのは、上質の機材で厳密に星の位置を測定し、しかる後にそのデータを図面に落とすわけですから、土管の中からいくら熱心に星空を見上げたとて、それだけで星図を作れるはずがありません。これはひょっとしてガセネタでは?という疑念を捨てることができませんでした。

「ここはとにかくソースに当たることだ」と思い、ぶしつけながら、筆者の上村敏夫氏に直接教えを乞うことにしました。

(この項つづく。全6回で完結予定)


(※)「草場星図」の書誌情報について、以下のページにまとめました。
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/04/21/6420955
 なお、神田茂校閲の『新撰全天恒星図』には、刊年記載がありませんが、国会図書館の目録では1946年発行となっています。また改めて星図をよくみたら、1946年の新星(かんむり座T)が記載されているので、やはりこれは国会図書館のデータが正しいのでしょう。

【4月12日付記】 草場星図の書誌を修正しました。
【4月21日付記】 草場星図の書誌を全面修正し、上記ページに掲載しました。

貧窮スターゲイザー、草場修(2)2012年04月10日 20時12分04秒

(昨日のつづき)

上村氏からは、さっそく丁寧なご返事とともに、貴重な資料をお送りいただきました(どうもありがとうございました)。

 「草場氏について参考にしたのは、天文ガイド1966年2月号に載った故・草下英明氏による、『星につながる人々』です。詳しい経歴などは記されていないのですが、当時中学生の私はこのコラムに衝撃を受け、ずっと忘れないでいました。〔…〕草場氏は星図を出されてから、東亜天文学会に入会しその機関誌「天界」に星座の話などを連載したようですが、戦前のことで、実物は見ていません。また写真関係の会社に勤めていたことがあると聞いたような(はっきりしませんが)。私も草場氏の経歴については知りたいと思いながら何もせずにいて詳しいことは判りません。」
 
(「天文ガイド」1996年2月号より=上村敏夫氏提供=)

以下に、草下氏のコラムから、関連部分を転載します。

 「1935年ごろのことだと思うが、草場修さんという人がいた。今どうしているか、まったく消息をきかないが、この人は本当のルンペンだった。(このごろ、ルンペンがあまりはやらないが、どういうわけだろう)。ルンペンに、にせものほんものがあるかといわれるかも知れないが、確かにそうだった。

 ゴミ箱のかげや橋の下にねころびながら、夜ごと星空をながめ、コツコツと星図をつくっていた。のちにこの星図は、神田茂先生の校閲〔引用者注:これは山本一清校閲のまちがい〕で「草場簡易星図」と名づけてたしか恒星社から発行された。当時の新聞などに、「ルンペン天文学者、星図を完成」という記事が出たこともある。この人の場合は、天文学はもちろんの副業である。本業の方はといえば、その後正業についたどうか知らないが、やはり当時はルンペンだったというよりほかはなかろう」 (「天文ガイド」1966年2月号、p.18)

草下英明氏の名は、ベテラン天文家にはおなじみでしょう。野尻抱影門下で、天文界の裏表に通じた科学評論家。その草下氏が書くのですから、やはり、これは確かなことのように思えてきます。

(左から草下英明、野尻抱影、村山定男の三氏。昭和50年、抱影卒寿の祝いの席にて。草下氏著、『星日記-私の昭和天文史 1924~84 』より)

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さらに「草場修」の名をネットで検索すると、あの偉大なアマチュア天文家、関勉氏が、新聞の連載コラムの中で、草場について触れているのを発見しました。関氏が、昭和25年の「南国高知産業大博覧会」に向けて、プラネタリウムの製作準備に追われていた頃の思い出話の中で、です。以下、関連部分を引用させていただきます。

 「ある日、プラネタリウム製作の町工場に鎮夫さんが明るい笑顔で入ってきました。私を発見するなり大きな声で、「関君、星図がとうとう見つかったよ」と言いました。「えっ、本当ですか?」と答えると、鎮夫さんは続けました。「ほら、君も知っている『草場星図』だ。例の路上生活者の描いたという星図が遂に世に出たらしい」とやや興奮気味に話しました。

 「草場星図」の話は当時の天文界で大きな話題となっていました。「プラネタリウム投影の元となる星図が無い。草場星図でもあったら何とかなるのだが…」と、鎮夫さんもさすがにこれには困って、最後には私たち二人で実際に星を観測して星図を作ろうか、と言うことになり、実は北斗七星あたりから描きかけていたのでした。しかしこれには少なくとも1年はかかります。博覧会の開催を目前にして間に合いそうにもありません。日増しに焦燥感の募るなか、「草場星図入手」の朗報が飛び込んできたのでした。

 いち路上生活者が描いたという星図の話を載せた当時の新聞記事は感動的でした。地位も名誉も財産もない路上生活の青年、草場修にとっては、夜空の星だけが財産でした。草場は何よりも星が好きで、毎晩、粗末な機材を使って肉眼で見える頭上の星座を描き続けていました。その話が、京都大学の山本一清博士の耳に入りました。草場が描いたという1枚の星図を見た博士は「見事じゃ、このような精密な肉眼星図は世界に無い!」と激賞したといいます。のちに草場は、山本博士の指導の下に1冊の立派な肉眼星図を完成させたのでした。

 こうしたことが契機となり、草場はのちに星図の研究家として世に出ることになります。」
 (毎日新聞・高知版、2011年2月16日号)

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さて、こういうふうに材料がそろってくると、草場の「ルンペン天文学者」像は、いよいよ鮮明になってきます。あとは草場のことを紹介した、当時の新聞記事を見つけ出せば万万歳。

しかし、その手がかりを求めて、さらにネット検索を続けているうちに、今度は次のような意外な記事を見つけました。

いるか書房別館:西星 第4号 昭和18年11月(その2)
 http://irukaboshi.exblog.jp/12429679/

いるか書房は、天文古書の世界では有名なお店で、上の記事は、店主の上門卓弘氏が書かれたものです。

それによると、草場は「西星会(さいせいかい;関西を中心としたアマチュアの天文同好会)」の主要メンバーであり、フィルムメーカーの乳剤研究部に在職した経験をもとに、会誌に「写真化学」という記事を執筆していたと書かれています。

さらに、会誌上には、草場を指すとおぼしい「K氏」が、「星図や黄道光の研究に精進せられて、又優秀なる写真家でもあり」、「御勤務中の多忙にも拘らず、西星会を指導して下さって居」るという文章が載っていることも紹介されています。

先に、草下英明氏のコラムをご教示いただいた上村氏も、草場が写真関係の会社に勤務していたらしいと述べておられました。となると、「ルンペン天文学者」というのは、やっぱりガセで、草場はメーカー勤務の技術者だったのか?

たしかに、話としてはあまり面白くありませんが、その業績を見る限り、堅気の技術者と考えた方が、素直に理解できそうです。

うーむむむむ…

(この項、謎をはらみつつ続く)

貧窮スターゲイザー、草場修(3)2012年04月11日 20時15分00秒

(昨日のつづき)

一瞬たじろいだものの、鉄面皮の私は、さっそく一面識もない上門氏にメールを送り、ルンペン説についてどう思われるか、またメーカー勤務のソースは何か、率直にお聞きしてみました。

上門氏からは、その後数回にわたって、多くの資料とご意見をいただきました。
その中ではっきりした事実を、以下に箇条書きしてみます。

○「草場恒星図」は、「天界」昭和12年2月号で、「近日発刊 予約注文の受付開始」と広告され、その後、同年6月号の新刊紹介欄で取り上げられていることから、この間に刊行されたと考えられること。

(「天界」 昭和12年2月号より=小川誠治氏提供(上門卓弘氏のご手配による)=)
 
(「天界」 昭和12年6月号より=同上=。 記載星数が、広告では6133、新刊紹介では5133となっていますが、どちらが正しいかは不明。)

○「天界」昭和13年12月号の「東亜天文協会 地方委員」の住所録には、「広島県沼隈郡瀬戸村観測所」(黄道光観測所)の住人として草場の名が挙がっており、少なくともこの時点では路上生活者とは考えられないこと。(なお、この前年、昭和12年11月号では、同観測所の住人は本田實氏と荒木健児氏になっている。)

○草場は、「西星 第4号」(昭和18年11月)への寄稿論文の中で、自ら「某写真会社の乳剤研究部在職中の浅い経験であるため」云々と書いており、一時期メーカーに勤務していたのは事実らしいこと。

○「東星〔=関東を中心とした天文同好会の会誌〕第1号」(昭和17年3月)の裏表紙に「草場写真化学研究所」の広告があり、草場は当時、京都市左京区一乗寺に居を構え自営していたらしいこと。

(各種星図の複写をうたう広告。「東星 昭和17年3月号」より=上門卓弘氏提供=)

○「西星 第1号」(昭和18年3月)の編集後記によれば、草場はこの直前に、北海道へ日食観測に赴いたとおぼしく、当時それだけ生活に余裕があったと推定されること。

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以上の点を踏まえて、上門氏は、「一時期、経済的に困窮したことがあるのかもわかりませんが、ルンペン云々はにわかに信じがたい気がします。…が、もしそうであるならば、路上生活を送りながら星図を作ったというのではなく〔…〕山本氏からの金銭的援助を受けながら完成させた、というのではないでしょうか」というご意見でした。

なるほど、これは後の回想ではなく、同時代資料に基づく推論ですから、非常に説得力があります(上門氏の挙げられた資料には、草場がルンペンであったことを匂わせる記述は一切ありません)。ルンペン云々の話は、ささいな事実にいろいろ尾ひれがついて広まった「神話」ではないか?…というところに、話は落ち着きそうでした。

さらに、草場星図の発刊準備が進んでいたとおぼしい、昭和11年暮れから12年夏にかけての新聞記事を丹念に読んでも、「ルンペン天文学者」の記事はまったく見つからず、このことも上の推測を裏付けているようでした。

が、しかし。

(緊迫しつつ、この項つづく)

【4月12日付記】 記事中に画像を追加しました。