賢治の抽斗(第4夜)…セロとオルゴール(前編)2013年06月22日 19時12分49秒

鉱物、天体ときて、次のテーマは「音楽」です。

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今回の企画を始めるにあたって、賢治と足穂を対照的に述べました。
足穂のオブジェ好きに対して、賢治はそういう志向がスパッと欠落しているのではないかというふうに。

しかし、今回思いつきで取り上げたテーマを振り返ると、両者はやっぱり似た心根の持ち主のように思えます。たとえば、「鉱物」と「天体」が、両者に共通する趣味であることは言うまでもありません。そしてこの後で取り上げる「宗教」も、まあ「趣味」とは言いませんが、この2人が生涯かけて取り組んだテーマだとも言えるでしょう。

では「音楽」はどうか?ここで、足穂の「ムーヴィとフィルム」好きが、実は賢治の場合は「音楽とレコード」好きに対応するのだとすれば、結局両者の違いは驚くほど小さいとも言えます(※)

イーハトーヴをトアロードに、動物たちを一癖ある人間に、軽便鉄道をヒコーキに置き換えれば、結局両者の“ファンタジー”は、ほとんど同じ構造を持っているのだ…と言ってしまうと、ちょっと強引過ぎるかもしれませんが、でも、その表層の違い以上に、両者は類似点が多いというのも、また確からしく思えます。

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ちょっと話が脱線しました。
賢治と音楽といえば、「セロ弾きのゴーシュ」の連想から、チェロを思い浮かべます。
「ゴーシュ」は、羅須地人協会時代(大正15年~昭和4年/1926~1929)に構想されたらしいですが(そして、その後晩年まで推敲を繰り返したようです)、賢治がチェロの修行に励んだのも、ちょうど同じ時期で、あの作品には彼の理想と現実が反映しているのでしょう。

(筑摩書房刊、写真集 宮澤賢治の世界より。
右下は「賢治愛用のセロ」。その他「賢治愛聴のレコードアルバム」、「クヮルテット用の譜面台」など)

下手っぴなチェロ弾きが、にわか仕込みの特訓を受けたというのは、彼の実体験です。賢治は大正15年にチェロを担いで東京まで行き、プロの楽士に3日間レッスンを受けたと伝えられますが、まあ、腕前は推して知るべし。童話のようなわけにいかないのは当然です。

彼の音楽への傾倒は、花巻農学校の教師時代からきざしていて、その背景には土を耕しつつ、芸術にも親しむような、理想的共同体づくりへの夢、農民芸術運動への強い関心がありました。科学的農法によって収量を安定させ、余暇にはレコードコンサートを開いたり、仲間と合奏したり…という夢を追っていたわけです。

それにしても、賢治の場合、なぜチェロだったのでしょう?
その点は、年譜を読んでもよく分かりませんが、ピアノやヴァイオリンは、ブルジョア的だとでも思ったのかもしれません。ただ、ひそかに思うに、マイナーな楽器の方が下手さが目立たなくて良い…という「現実的」な判断も、そこにはあったんじゃないでしょうか。

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そんなわけで、「賢治の抽斗」には、小さなチェロをしのばせることにしました。
こんな妙な関心を持つまで知らなかったのですが、世の中にはおもちゃのミニチュア楽器がたくさん売られていて、この長さ9cmほどのチェロも、それこそ子供の小遣いで買えるぐらいの値段で、すぐに手に入りました。(そんな品ですから、もちろん見かけだけで、奏でることはできません。)

これだけ小さいと、チェロだかバイオリンだか分かりませんが、床に立てるための「エンドピン」が飛び出ているのが、チェロの特徴。

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しかし、これだけで賢治と音楽の関わりを代表させるのは、あまりにも安易なので、もうひと品、オルゴールを登場させたいのですが、その件はまた次回。。。



(※)といっても、当時の最先端メディアである映画と、賢治が没交渉であったはずはなく、幼い頃に花巻の小劇場や仮設テントで見た活動写真の思い出、学生時代に出入りした盛岡の藤沢座でのエピソード、後に上京した際に、浅草で映画館をはしごした話…賢治と映画にまつわる思い出を、実弟の宮沢清六氏は後に綴っています(「映画についての断章」、筑摩書房『新修・宮沢賢治全集』別巻所収)。

コメント

_ S.U ― 2013年06月22日 21時03分24秒

以前、玉青さんの記事をきっかけに、賢治全集と抱影の関係を調べた時、賢治の友人で音楽教師であった藤原嘉藤治の伝記である「かとうじ物語」を読みました。その第4節に、嘉藤治が「ゴーシュのモデルとされた」と出ています。

(内城弘隆氏著 『かとうじ物語』)
http://www.geocities.jp/hatakeyama206/dokko/katouji.html
 合奏団の集合写真で、嘉藤治は確かにチェロを持っています。

 ひとつの可能性ですが、賢治は、嘉藤治の性格に自分の目標に近いものを見つけて、それでチェロを選んだのかもしれないと考えます。

_ 玉青 ― 2013年06月23日 17時11分19秒

「かとうじ物語」をご紹介いただき、ありがとうございました。
当時のいろいろな事情がたいへんよく分かりました。

記事を書く際、ウィキの「セロ弾きのゴーシュ」の項で、賢治と嘉藤治がチェロを交換するくだりを読んで、私は今も残っているチェロは、嘉藤治旧蔵の「穴開きセロ」だと、何故か反対に思いこんでいたのですが、おかげで誤解が解けました。あれこそ賢治旧蔵の、東京に担いでいった現物に間違いないわけですね。

それにしても、賢治はともかく、嘉藤治は音楽の先生ですから、チェロの腕前は賢治よりずっと確かだろうと思ったのですが、未亡人に言わせれば「ブーブーベーべー下手だったね、二人のセロは。」 とバッサリ(笑)。となると、嘉藤治こそゴーシュのモデルにごくふさわしいですね。

その生い立ちや生活態度を読むと、嘉藤治は本当にいい人だったみたいで、賢治が彼に惚れ込んで、「自分もチェロを」と思いついたのも、なんとなく分かるような気がします。


★P.S. こちらで恐縮ですが、ハーシェル協会の業務連絡拝受しました。いつもありがとうございます。

_ S.U ― 2013年06月24日 07時11分38秒

>チェロを交換
 これは確かにややこしい話ですね。嘉藤治の苦労がありましたが、賢治旧蔵のチェロが今も残っているのはすばらしいです。

_ 玉青 ― 2013年06月24日 21時57分41秒

>ややこしい話

とはいえ、艶やかな美しさをたたえた「出戻り娘」ではありますねぇ(笑)。

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