図鑑史逍遥(3)2013年10月07日 19時02分12秒

俵浩三氏の『牧野植物図鑑の謎』は、図鑑史を考える上で非常に示唆に富んだ本なので、自分なりにその知見を要約しておきます。

1)村越三千男という人について
 村越は埼玉の師範学校を卒業し、県内の高等女学校や旧制中学校の教諭(植物学、絵画担当)を務めたあと、東京に出て「東京博物学研究会」という団体を設立し、植物関連本の出版を企てた人物。
 明治39年(1906)に同研究会名義で『普通植物図譜』を刊行したのを皮切りに、以後、村越の個人名で出したものも含め、数多くの植物図鑑を世に送り出したものの、現在はほぼ完全に忘却されている人でもあります。

(『普通植物図譜』第1巻第12集表紙。同書は5年間に全60集が刊行されました)

2)村越と牧野富太郎の協働と離反
 村越と牧野は、当初、協力関係にありました。それは村越の処女出版『普通植物図譜』の校訂を牧野(当時は東大の助手)に依頼したことに始まり、明治41年(1908)に牧野富太郎校訂・東京博物学研究会編の『植物図鑑』(参文舎、後に北隆館)が刊行された辺りまで続きましたが、その後両者は距離を置くようになりました(その原因は不明)。

3)村越と牧野の図鑑競争勃発
 以後、別個に植物学の世界を歩んでいた二人ですが、大正14年(1925)9月に、牧野が『日本植物図鑑』(北隆館)を、村越の方は『大植物図鑑』(大植物図鑑刊行会)を、同時に上梓。このとき村越の図鑑を応援して、序文を寄せた1人に、牧野の仇敵である東大名誉教授の松村任三がいたため、牧野と村越の関係も、以後、明らかに敵対的なものとなりました。(松村と牧野は、東大では教授と助手という関係にありましたが、学問的にも人間的にも激しく反目し合っていました。)

4)「図鑑の元祖は牧野植物図鑑」という<伝説>
 2)に記したように、明治41年発行の『植物図鑑』は、実質的には村越の著作ですが、後に校訂者である牧野の名が高まり、この『植物図鑑』は牧野の著作であるという誤った言説が広まりました。そして、タイトルに「図鑑」と付く著作はこの本を最初とするという(これまた誤った)言説と合体して、「図鑑の元祖は牧野植物図鑑だ」という<伝説>が生まれました。

5)明治40年代の図鑑ブーム
 村越の初期の出版物を含め、明治40年頃は植物図鑑(たとえ「図鑑」と銘打っていないにしろ)の出版が盛んでしたが、大正時代に入ると、その勢いは失われてしまいます。これは植物学以外に博物学全般がそうでした。
 その背景にあったのは、理科教育の変化です。明治37年(1904)、文部省は小学校における理科の教科書の使用を禁止し、理科の学習は身近な自然観察によるべしと通達しました。これによって、教える側の教師を中心に、身近な植物名を知りたいというニーズが高まり、また同じ時期に西洋植物の園芸熱の高まりもあって(小学校における学校園の普及はその余波)、植物図鑑は大いにもてはやされました。しかし、明治44年(1911)に、改めて理科の国定教科書が作られると、植物図鑑の出版ブームは沈静化していきました。

6)再度の図鑑ブームと村越と牧野の到達点
 その後、牧野と村越による「図鑑競争」が始まった大正14年以降、再び植物図鑑の新刊が続きました。その最高峰が、昭和15年(1940)に出た『牧野日本植物図鑑』(北隆館)であり、他方、村越も昭和8年(1933)から3年かけて、「印刷、装丁ともに昭和戦前のよき時代を反映した豪華版」(俵氏)である『内外植物原色大図鑑』(全13巻、植物原色大図鑑刊行会)を完成させました。


引用めいた内容が長くなりましたが、ここには図鑑史を考える上でカギとなる指摘がいくつもなされています。特に(2)の<伝説>の真相解明と、(5)の図鑑ブームの時代的限定は重要でしょう。

   ★

日露戦争の後、日本の社会は本格的な工業化社会に突入し、社会のあり様がかなり変わった気がします。この後さらに第1次大戦期から昭和戦前にかけて、列島の重化学工業化は着実に進展していきますが、そうした「ホップ・ステップ・ジャンプ」の、いわば「ホップ」の時期に際して、時代の変化に応えるかのようにして、新たな図鑑文化が誕生した…というのが、ここではポイントでしょう。

前回、昔の本草学の本が自然に進化発展して図鑑文化を生み出したわけではなく、両者の間には断絶がある…と書きましたが、上のことを考えると、その断絶には二重の意味があるわけです(江戸と明治の断絶、および日露戦争の前と後の断絶)。

当時、産業発展の礎として「科学立国」を呼号する声はいよいよ喧しく、私はその流れの中に「理科少年」の誕生と発展を位置付けたいと考えているのですが、それと図鑑ブームの発生が軌を一にしているのは、もちろん偶然ではなく、必然であると思います。

   ★

さて、抽象的な話はひとまずおいて、日本における近代の図鑑文化のスタートラインともいえる、村越・牧野合作の『普通植物図譜』の実物を見てみます。

(この項つづく)

コメント

_ L4RI_JP ― 2017年11月18日 13時28分30秒

村越三千男の図鑑以前にも例えば、文部省掛図の造られた明治7、8年頃から、その選者である田中芳男+小野職愨と老絵師服部雪斎とのタッグによって10年あまりもかけて編まれた『有用植物圖説』という書物があります。
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美麗詳密な博物画が主体で種名と学名とが併記されていて解説文もあり、一定の決まりに従って分類排列されていて索引検索もでき、わたしにとっては図鑑そのものに思えます。

こうしたものがすっ飛ばされて論じられているのは、少々もの足りない感じがいたしますが、如何でしょうか。

_ 玉青 ― 2017年11月19日 07時10分22秒

『有用植物圖説』は私の手元にも何冊か端本がありますが、あれはまことに愛すべき佳品。和綴じの外観は近世の本草図譜との連続性を強く感じさせる一方、内容的には西洋伝来の植物学の知識を表現した出版物ですから、まさに近世と近代が交錯するところに成立した存在と感じます。文明開化、和洋折衷、そんな言葉が似合う、ランプの灯下で読むのがふさわしい著述ですね。
(図鑑のルーツをどこに置くかは、「図鑑」の定義にもよりますけれど、『有用植物圖説』や、さらに遡って近世の本草書の一部を、そこに含めることは全然問題なさそうですね。)

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