宇宙の囁きを胸元に2014年03月01日 19時11分05秒

やっと自分の時間が戻ってきました。
今日は心の疲れを癒やすべく、みたびAntique Salon さんにお邪魔して、珍しい品を拝見しながら、店内をごそごそしていました。

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前回のつづき。
記念の配り物といえば、ずいぶん前に「東京天文台乗鞍コロナ観測所」の開設10周年(1959)を記念する、天文ドーム型の灰皿を紹介したことがあります(http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/08/30/504850)。
思えば、あれもずいぶん鈍重な品でした。


しかし、この濃いワインレッドのタイピンはどうでしょう。


周波数と電波強度を表す細かい波形模様が、軽やかなサイエンスの香気を放ちます。


裏面に浮かび上がる「Nobeyama」の文字。
言わずと知れた国立天文台・野辺山宇宙電波観測所。同所は八ヶ岳山麓に展開する真っ白なパラボラアンテナ群が目にまぶしい、日本の電波天文学のメッカです。
ただし、このタイピンは同天文台が自ら制作したものではなくて、野辺山に受信システムを納入した日本通信機(株)が1987年に配ったものです(写真には写ってませんが、タイピンの裏に「1987 Nihon Tsushinki Kanagawa Japan」の文字があります)。

この品、たしかにちょっと洒落てはいるんですが、さすがにタイピンとして使う勇気はないので、ふだんは小さなビンに入れて、オブジェとして眺めています。



お内裏様にもテルリオン2014年03月02日 16時39分20秒

私は昔から小さいものが好きで、以前は浅草の観音様の近くにある「助六」で、いわゆる江戸趣味小玩具をよく買っていました。服部一郎さんの極小の屋台店や、杉立命光さんの手びねりの土人形など、昔は本棚に余裕があったので、ずらりと並べて悦に入ってたんですが、今はふたたびお蔵入りになってしまい残念です。



助六には小さな雛飾りも並ぶので、自ずとそういうものも買い込むことになり、季節になれば古い豆雛と並べて飾っていましたが、これまた最近はとんとご無沙汰です(上の写真は、撮影用にパパッと引っ張り出してきました)。


昨年、小さなテルリオン(三球儀)を見て、そういう「小さいもの好き」の心が久しぶりによみがえりました。豆雛にちょうどいいサイズの、小さな小さなテルリオン(↑手前右)。


ガラスケースの幅は7.5cm。このケースは、おそらく顕微鏡用のスライドグラスを貼り合わせて作ったんじゃないかと思います。その小空間に地球と月、それにロウソクと反射板から成る「太陽」が組み込まれています。


もちろんこれは純粋な飾り物なので、本物のテルリオンからすると、いろいろ変な点もあります(そもそも地球の公転が考慮されていない)。でも、こういうのは雛道具同様、おもちゃめいた空想的な表現がかえっていいのかもしれません。


地球儀の足元には、ちゃんと12星座も並んでいますし、


側面の凝りようも、なかなかのものです。

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この品は豆本作りが本業らしい、カリフォルニアの「Bo Press Miniature Books」から買いました。

神は細部に宿り給う2014年03月03日 22時03分49秒



昨日の写真の中に、テルリオンと並んで写っていた小さな箱。
思い切り近づいて撮っているので大きく見えますが、実際の大きさは一辺が約2.5センチ。ちょうどチロルチョコを2個重ねたぐらいの大きさです。これもテルリオンと一緒にBo Pressから買いました。


上の窓から覗くと何かがボンヤリ見えます。


蓋を開けると、台座に乗った、これまた小さな天球儀が顔を出します。
(天球儀は台座に固定されてないので、自由に取り出すことができます。)


拡大すれば確かにこれは天球儀。
ゴアの貼り合わせにだいぶ苦労していますが、目をこらせば星座絵も緯線も明瞭に見て取ることができます。
直径は2cmに満たず、もちろん私が持っている中では最小の天球儀。

この小さな球が、我々の目に見える全世界を表現しているかと思うと、ちょっと不思議な気がします。

手のひらの異界2014年03月05日 22時52分34秒

「小さいもの」といえば、今週末から桑原弘明氏のスコープ作品の展示が始まります。


■ART GALLERY X at Takashimaya
 〇会期 2014年3月7日(金)~9日(日)
       7日(11:00~21:00)、8日(11:00~20:00)、9日(10:30~17:00)
 〇会場 東京国際フォーラム(ガラス棟地下2階、展示ホール1,2/出展ブースR12)
       東京都千代田区丸の内3-5-1 (最寄駅 JR有楽町)
 〇WEB http://artfairtokyo.com/gallery/8188.html

同展は「アートフェア東京2014」の参加企画。
「アートフェア東京」というのは、数多の画廊・ギャラリーが集い、あらゆるジャンルの美術品を展示・販売する、日本最大のアートフェアだそうで、そういう世界に縁が薄いので想像するしかありませんが、おそらくファインアート界のコミケのような催しではないでしょうか。

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(『スコープ 桑原弘明作品集』、平凡社、2009)

手のひら大の箱をそっと覗くと、その筒先の向こうにどこまでも広がる異世界。
上の本の帯には「ミクロのシュルレアリスム」とありますが、ある意味、桑原氏の作品はこれ以上ないというぐらい徹底したリアリズムに貫かれています。古びた室内、壮麗な礼拝堂、あるいは無人の天文台。いずれも作り物などではなく、現実にある光景を垣間見ているのだとしか思えません。確かにその空間全体は隠喩に満ち、謎めいたシュールさを漂わせています。が、ここで何よりもシュールなのは、そうした世界を生み出す桑原氏の魔術めいた手業そのものでしょう。

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私が桑原氏の作品を拝見して興味深く思うのは、モチーフに顕微鏡や双眼鏡、望遠鏡が繰り返し登場することです。スコープ作品そのものが「覗き見る」ものであるわけですが、その向こうに更に「覗き見る」道具が存在する…というのが、実に不思議な感じがします。さらに光学機器とともに、鏡や窓も頻出するモチーフで、桑原氏にとって「見る」とは、すなわち「覗き見る」ことであり、これは氏の体験様式に深く根ざしているのではないかという気がします。ただ、こういうことは簡単に分かった気になってはいけないので、これからも作品と向き合うたびに考えていきたいと思います。

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今回の展示にも望遠鏡をモチーフにした作品が2点登場する由。

(桑原弘明氏提供)

宇宙をじかに覗き込む不思議な小部屋に置かれた望遠鏡。
その外観からグレゴリー式反射望遠鏡だと即座に分かりますが、この真鍮を削り込んで作った精巧な望遠鏡が、わずか指先ほどのサイズだと信じられますか?

その作品が美しければ美しいほど、いっそう魔術的造形の感を深くします。

Wandering Parcel2014年03月06日 22時39分59秒



 フープ博士が月へ向けて故郷の街を出発してから、二年の歳月が流れた。その間、何の知らせも届かなかった。人々は探検が失敗したものと思い、偉大な科学者の死を悲しんだ。

 そんなある日、もはや解散寸前となった科学探検倶楽部のもとに、一通の手紙が届けられた。どこをどのようにして配送されて来たかは不明だが、様々な異国のスタンプがびっしりと押され、まっ黒になった手紙の差し出し人の名を見ると、Doctor Hoop on the Moon, と、ペン書きされていた。

   (たむらしげる「月からの手紙」、『フープ博士の月への旅』、青林堂、1980所収)


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先月の初め、ドイツから荷物(星座に関する本)を送ってもらいました。
それが待てど暮らせど来ないので、先方にトラッキングナンバーを確認しました(3度聞いて、3度目にやっと教えてくれました)。

さっそく追跡してみたところ、ドイツからは難なく飛び立ったものの、なぜか降り立った先はカナダ。そのままカナダの税関を通って(それも解せない話)、ひと月たった今もカナダの郵便局にあると知って、ちょっとやるせない思いです。

しかし、最初はカナダの大西洋岸にあった荷物が、今は太平洋岸の都市までにじり寄って来ていることを、トラッキング情報は告げています。このまま太平洋を越えて、日本まで送り届けるつもりかもしれません。あるいは結局ドイツに返送されるのか?はたまた「彼」は、更に多くの国を経て、たくさんの土産話を携えて日本にやって来るのか?

何だかやけに長くなったトラッキング情報を見て、フープ博士のことを思い出しました。

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今回の配送業者はDHLですが、DHLは以前も同じようなミスで、到着が大幅に遅れたことがあります。ネット上でもあまりいい評判を聞きませんし、DHLはちょっと鬼門です。とりあえずフープ博士の手紙を待つつもりで、もう少し待ってみます。

種はまかれた2014年03月09日 10時06分17秒

すっかり調子を崩してしまいました。
身体の調子ではなく、精神の調子をです。

事の起こりは些細なことでした。

かつて東大総合研究博物館・小石川分館で異彩を放っていた、生薬標本コレクション(今のインターメディアテクにも、生薬標本の展示はあったと思いますが、内容は違うものだったような…)。

(上の写真は小石川ではなく、安田講堂で行われた東大創立120周年記念展の光景。黒いキャップをかぶった大型の壜はドイツのメルク社製、上段に並ぶ小型の壜は津村研究所製。「芸術新潮」1997年12月号より)

(出典同上)

ダークで怪しげな壜の行列は、小石川のヴンダーな空間にあっても、抜きんでた存在感を示していましたが、私の中の理科趣味イメージからすると、医学・薬学系の品は、常に周辺的な存在だったので、単にその場で圧倒されるにとどまっていました。

しかし、最近、小さな生薬標本のセットを見つけました。菓子箱ぐらいの大きさの紙箱に、生薬の入った小壜が何十本も並んでいるという、東大コレクションのミニチュアのような品です。上に述べたようなわけで、自分のこれまでの買い物の傾向からすると、一寸異質な品なのですが、今はなき小石川の光景を懐かしむ気持ちもあって、あまり深い考えもなしに、それを買い入れました。

(購入時の商品写真を流用。こういうのが他にもいくつかあって、全体で1セットになっています。)

すると、そもそも生薬とは何であるのかが気になりだしました。
私の浅はかな認識では、漢方薬の別名ぐらいに思っていたのですが、東大のコレクションがドイツ製であることからも分かるように、生薬とは漢方薬に限りません。19世紀以降、工場で化学的に薬品が合成されるようになるまで、洋の東西を問わず、薬品はすべて天然の産物(大半は植物)から作られており、薬はおしなべて生薬であったわけです。

で、私の思考パターンからして、その関心は現代における生薬学の発展に向かうことなく、ひたすら過去に向かうことになります。明治の生薬学の本を読み、そこから更に古い薬学書、本草書まで気になりだし、それが呼び水となって、しばらく休眠していた博物学全般への関心が鬱勃としてみなぎったとしたら…。まあ、そんなわけで精神のバランスをすっかり崩してしまったのです。と同時に収支のバランスも。

木の芽時にはちょっと早いですが、季節を先取りした感があります。

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ところで、今日の朝日新聞の書評欄に、こんな本が紹介されていました。


こういうところから、博物学にまたポッと光が当たるといいですね。
(ちょっと読んでみようかな)

ひとやすみ2014年03月10日 17時39分12秒

精神の調子のみならず、身体の調子もやっぱり崩してたみたいです。
昨夜から胃腸風邪のような症状で、不快なことこの上なし。
こういう時こそ生薬ですかね。
とりあえず一服します。

弥生三月2014年03月15日 22時08分01秒

水仙が咲き、梅が咲き、桃が咲き、菜の花が咲き、まことに好い時節ですが、惜しむらくは年度末。

年度末だからと云って、特に身の回りに変化のない方もいらっしゃるでしょうし、3月以外の月が年度末だという方もおられるでしょうが、私の場合、毎年3月はバタバタする月で、特に今年は職場の異動があるかもしれず、いつにも増してバタバタしています。

そんなわけで記事を書くことはおろか、コメントにお返事することもできないような仕儀に陥っており、我ながらまことに驚き呆れはてています。もうしばらく無音状態が続きますが、どうぞ諸事情ご賢察ください。

博物図譜のデジタル化について2014年03月16日 17時15分19秒

忙しくて記事も書けぬ…と言ったそばから何ですが、記事の書き方を忘れそうなので、やっぱり書いてみます。

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最近、興味の赴くところに従って、再び博物学関係の本を買うことが多いです。
その多くはネット上でも読めるのに、なぜ自分はかさばる古書を、しかも少なからぬお金を出して買うのだろうと改めて自問してみました。

なぜ買うか?と問われれば、即座に「そりゃあんさん、感動が違いますがな」と答えたいところですが、それだと主観的に過ぎるので、もうちょっと理屈を述べてみると、まず一つには画像の鮮明さの問題があります。

実例を挙げてみます。
ここに甲虫類の博物誌(The natural history of beetles、1835)』という本があります。


James Duncun が著し、William Jardine が編んだ「ナチュラリスト叢書」の一冊として刊行された小ぶりの本です。その内容は現在複数のサイトで公開されていて、例えばBiodiversity Heritage Libraryで公開されているデータは、後の1852年に出た版から取ったものですが、画像もきれいで、めくり心地もなかなか良いです。

The natural history of beetles : illustrated by thirty-two plates,
 numerous wood-cuts, with memoir and portrait of Ray (1852)

 https://archive.org/details/naturalhistoryof01dunc

これは現在オンラインで読める書籍の平均的な姿よりも、むしろ鮮麗な部類だと思いますけれど、それでもちょっと目を凝らすと、やはりアラが目に付きます。
たとえばクワガタ類を描いた第18図。銅版(鋼版かもしれません)手彩色の美しい図です。


これについて、ネット上の画像をいちばんズームした状態と、デジカメでの接写画像を比べてみます。





こうして比べてみると違いは明らかで、「オンラインで読めるから紙の本は要らないよ」という風には、まだまだなりそうもないことは、お分かりいただけるでしょう(ちなみに元画像はCanon 5Dを使って2009年に撮影され、画素密度は500ppiであると上記ページには記載されています)。

もちろん画素数の問題は、ファイルサイズが大きくなるのを厭わなければ、もっと細かくできるので、根本的な問題ではないのでしょう。今後も電子書籍はどんどんディテールの表現力を高めていくはずです。現に、武蔵野美術大学が進めている荒俣宏氏旧蔵書のデジタルアーカイヴ化の成果は、溜め息が出るほどです。

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しかし、デジタル画像に関しては、もう一つ気になる点があります。
それは画像の色彩表現の問題で、文字だけの本ならいざ知らず、図譜類に関しては、電子書籍化にとって、これはより大きな壁かもしれません。

RGBの階調表現(一般には各色8bit=256階調)の制約や、またそれ以上にディスプレイの性能の限界もあって、やっぱり原書と画像は違います(そもそも、既存のディスプレイで再現できるのは、人間が認識できる色彩の限られた一部に過ぎない由)。上に掲げたデジカメの写真も、できるだけ色合いを実物に近づけたつもりですが、それでも実物とは明らかに違います。また実物は灯火の下で見るのと、太陽光の下で見るのとで、ずいぶん色合いが違いますが、デジタル画像は常にひと色です。

さらに根本的なこととして、油絵同様、普通の本でも、基材と発色層の重なりは立体構造をしているので、2次元画像にする際、必ず捨象される情報が出てきます。単純な話、画像だと裏写りと表面の染みの区別がつきにくいです。さらに紙の凹凸や質感まで捉えるには、平面的な絵であっても、ステレオ写真にしないといけないのかもしれません。

それに、これは私もよく知らないのですが、かつてレコード vs. CDという形で、デジタルとアナログの音質をめぐっていろいろ議論があった気がします。あれのビジュアル版といいますか、デジタルデータは人間のリアルな視覚体験にどこまで迫れるのかという議論もあるんでしょうか。たとえば、今でもRGBそれぞれに16bit=65,536の階調を割り当てる「48bit画像」というのがあって、さすがにそれだけ細かくすれば、人間の認識の限界を超えていると思いますけれど、「いやいや、人間の視覚はそんなものじゃない」という議論があるとか…?

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ともあれ、紙の本は紙の本で大きな美質を備えていますから(もちろんデジタルにも美質はあるでしょう)、良いと思えばどんどん買えば良い、ためらってはなりませぬと、声を大にして申し上げたい。

魂は地上を離れて2014年03月20日 06時15分16秒

春は物憂い季節。
忙しい忙しいと言ういっぽうで、たとえようもなく寂しい気持ちに襲われることがあります。この感情は桜が爛漫と咲き誇る時期がピークで、それが散ってしまえば春の心ものどけからまし。

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紺の布表紙に、別刷りの土星と彗星の絵を貼り込んだ、凝ったデザイン。
表紙から一切の文字を排した、愛らしくも静謐な本。

 まりのるうにい(画・装丁)。
 稲垣足穂(著)『私の宇宙文学』 特装版(幻像社、1977)


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…と、こう書けば大抵の人は信じてしまうでしょう。
でも、上に書いたことは嘘で(4月1日には早いですね)、この本は戦前にドイツで出たものです。ドイツ語が読めないのに、自分がドイツの天文古書を買い込むのは、その「星ごころ」あふれるブックデザインに惹かれるからだ…と、以前書いた気がしますが、この本もその一例です。

(以下本当)
■Bruno Bürgel (著) 『遠い世界から―みんなの天文学』
 Aus fernen Welten: Ein volkstümliche Himmelskunde.
 Im Deutschen Verlag (Berlin), 1939.
 15×21cm、560p.


ご覧のように、相当部厚い、束(つか)のある本です。
ついでですから、中身の方も次回見てみます。

それにしても、こういう本を撫でさすりながら、窓の外をぼんやり眺めていると(今はそういう余裕が失われていますが)、やっぱり紙の本も良いものだと、しみじみ思います。

(この項、間は空くかもしれませんが続きます)