プロキシマ2016年06月10日 06時39分05秒



銀の小口を持った本。
先日の砂時計の記事の中で、「ケンタウルス座α星」という単語を書き付けたら、この美しい本のことを思い出しました。

(『PROXIMA』、銀河通信社、2001)

西暦2000年に、三菱地所アルティアム(福岡)で、小林健二氏の展覧会「プロキシマ:見えない婚礼」が開催され、それを記念して出版された本です。内容は、小林氏の過去の作品や文章、インタビューを再構成し、そこに上記展覧会の内容を添えた写真文集。

「プロキシマとは星の名です。

 ケンタウルス座のα星の伴星の1つで、主星が明るいため見つけにくい星であります。またこの星はNearest Star(最近星)と言われ、地球に最も近い恒星として人間に知られていて、地球からの距離は約4.27光年で、27万天文単位、つまり地球から太陽までの距離のおよそ27万倍という事になります。この少し想像を超えてしまうような遠方の星が、地球人にとって最もプロキシマ(すぐそばの意)な星なのです。そしてこのプロキシマのあたりは、地球型の生命系の存在が最も期待されている場所でもあるのです。
 
 ある日、宇宙から見ればそんなに近くの、そしてそれほど遠い方向から、ぼくは1通の幻をもらった気がしたとしてください。」   
(『PROXIMA』 序文より)

太陽系の隣人である「ケンタウルス座α星
この三重連星の中で、地球に最も近い恒星「プロキシマ」。
プロキシマは、主星の回りを100万年かけて、ゆっくり公転しています。
さらにプロキシマの周囲を回る六番目の惑星、「ナプティアエ」(「婚礼」の意)。

ナプティアエの地殻は、厚さ60kmに及ぶ無色の無水珪酸から構成されています。
その内部に形成された晶洞は、透明な天井を複雑に屈折しながら届く、プロキシマの緑の光、さらに茜色と水色に輝くもう2つの太陽の光が満ち、そこに鉱物質の生命「亜酸性鉱質膠朧体」が息づいています。

彼らは7つの性を持ち、27種の核酸基によって生き、1プロキシマ年(2740地球年)に、2度花を咲かせます。まさに我々の想像を超えた、「侵しがたく、また静かなる神秘の都」。

   ★

(『PROXIMA』の1ページ)

小林氏の作品は、こうした不思議で美しい「幻」から生まれました。
そして、ナプティアエは小林氏が創出した多くのイマジナリーな世界の1つに過ぎないのでしょうが、氏にとっては、確かに大きな意味を担った世界のようでもあります。

以下、本書のあとがき(「PROXIMA/奇蹟の場所/Miracle place」)より。

 「ぼくは子供の頃から、鉱物や恐竜などが展示してある自然科学の博物館に行くのが好きでした。そしてまたぼくが思い出せないところまで自分の記憶を辿ってみても、そうしたものを物心がつく頃より好きだったと思うのです。その他にもぼくのお気に入りは、クラゲやゼリーのように、あるいは硝子や石英のように透明なもの、また鳥や飛行機のように空を飛ぶものや電気などによって発光する淡い光、蛍や夜光するものたち、星や宇宙の話、そして闇に潜む目に見えない霊と言われるものたちの事。また、ときにひどく醜いかも知れない悲しみを背負った怪物と言われるものたちすべて、等々です。」

 「プロキシマという天体に興味を持ったのは、子供の頃プラネタリウムに行っていた時「ケンダウルス座のα星辺りに生命がある兆しが発見されそうだ」といったようなことを聞いたからだと思います。もちろん聞き違いだったかも知れません。でも、今でさえどこかの星の上で、地球とはまた異なる世界があることを考えると、何か言い知れずわくわくしてくるのです。」

プロキシマは、氏の幼時の思い出と深く結びついています。
透明なもの、空飛ぶもの、光るもの、妖しいもの、そしてその全てであるところの星の世界。それは我々から遠い存在のようでもあり、すぐそばの存在のようでもあります。
小林氏の作品は、そうした間(あわい)から零れ出たものたちです。

鉱物もまたそうです。
それは透明で、光を放ち、妖しく、我々から遠く、近い存在です。
そして当然の如く、鉱物は氏の子供時代から関心の対象であり、後に人工結晶という形で、氏の「作品」ともなりました。

 「このプロキシマの世界についてまず思ったのは、結晶の世界のことでした。それはここ数年、結晶を作ることにとりわけ興味があることと関係していると思います。」

 「地球上のいたるところで今まで数多くの鉱物結晶が発見発掘されてきました。しかし他の見知らぬ天体では、いったいどのような結晶世界が繰り広げられていることでしょう。生命現象の確認が困難でも、地球型の惑星であるなら必ず鉱物は存在するからです。地球とは異なった組成や地学的運命によって創成される出来事は、どのようなものなのでしょう。」

鉱物はさすがに空を飛ばないだろう…と思われるかもしれません。
でも、それは溶液中を無数のイオンとして飛び交い、互いに引かれ合い、ついには想像を絶する巨大な(イオンの目からすれば、です)幾何学的構造物をつくるに至るのです。

 「結晶が成長していく様を眺めていると、そこはかとなく不思議な世界へといざなわれてゆくのです。一日のうちに0.5ミリでもその成長が見える程なら、実はその物質のイオンは1秒あたり数百の層を結成していることになるというのです。観察者にとっては何千何万年の時間の流れを見るかのようです。いかなる天然の摂理が導くのか、それぞれの成分はその姿を顕わなものとしてゆきます。どのような力が、あるいはまたどのような想いが促すのか、人間には計り知れないと思える世界を、ただ只、まのあたりにするだけです。そんなときにぼくの中に浮かんできた言葉が「見えない婚礼」というものでした。1つ1つ光量子やイオンの世界から極大な宇宙に至るまで、何か人間の目には見えにくい方法があって、それらが知らず知らず了解し合うような、まるで聖なる婚礼のような…。」

(プロキシマ展に並んだ、小林氏の人工結晶「プロキシマ系鉱物」)

   ★

プロキシマ、近くて遠いもの。
人は小林氏の目と耳と口を借りて、その世界を覗き見ることができます。
でも、小林氏の手わざは持たないにしろ、もしそれを望むならば、誰もが自分だけのプロキシマを自分の内に持ち得るのだ…とも思います。

コメント

_ S.U ― 2016年06月10日 18時04分56秒

遠くの恒星世界にある鉱物というのは興味深いですね。

 私は、小さい頃、遠くの星はどんな物でできているかまったくわからない、地球上にある原子と同じ種類の物でできているかは自明でないと思っていました。これは、もちろん星のスペクトルの暗線について学び、原子や原子核の理論を学ぶと、原子は宇宙のあちこちで共通であるはずだということが知れるのですが、とにかく、そんなことわかるものか、と思っていたように思います。おそらく、それはアポロが月に降りた頃でしたから、小学校高学年から中学校くらいの間に考えたことでしょう。玉青さんはいかがでしたか。
 ひょっとすると、この宇宙に存在する物質の普遍性についての感覚は、一神教の信者である西洋人と、多神教の信者である東洋人で大勢の違うことかも知れません。

 遠くの恒星の周りを回る惑星には、そこ独特のまったく違った原子やイオン基からなる鉱物があると考えるのは、夢のような世界だと思います。一方で、また、遠くの星にも地球と同じような鉱物が転がっているというのも親しめる話ではあります。

 それから、関連する別の話ですが、地下に銅の鉱脈があってそれが一度も光を受けたことが無い場合、それでもその銅は銅色(あかがねいろ)をしていると言えるのか、という禅問答みたような話に感激したことを覚えています。これは、今、身近な例、例えば、青銅でできている手元の十円玉の内部ですら、すべての部分がまともな白色光を浴びた経験があるかというと、世の中の十円玉の内部のほとんどは、実際には銅色を呈したことは一度もないのではないかと思います。十円玉を切ってみれば銅色が見えることは明らかですが、これなども面白いと思います。わけのわからん話ですみません。

_ 玉青 ― 2016年06月11日 09時18分15秒

星の組成について思いを凝らした記憶はないですねえ。
たぶん昔も今も、「遠かろうが近かろうが、物の在り様は大して変わらん」というのが基本的なスタンスというか、感じ方だった気がします。(座右の銘は「来てみれば然程でもなし富士の山」です・笑)

といって、日の下に新しきものなし…という醒めた見方ではなくて、「遠くのものが不思議で神秘に満ちているなら、近くのものだって同じぐらいそうに違いない」と思っていたのでしょう。だからこそ、夏休みに遠くの山に昆虫採集に連れて行ってもらう友人をしり目に、近所の公園や空き地で熱心に昆虫の観察を続けられたのだと思います。

銅の色の話とはちょっと違うかもしれませんが、幼い頃、身の回りの物は人間が見ていない時は全く違う姿形をしているんじゃないかと思って、そっと薄目を開けて「物の真の姿」を見極めようとしたのを覚えています。子供というのは不思議な考え方をするものです。でも、一笑に付す気には全くなれません。その可能性は常にあると思っています。

_ S.U ― 2016年06月11日 10時50分54秒

>「遠かろうが近かろうが、物の在り様は大して変わらん」
ご幼少の記憶を呼び起こしていただきありがとうございます。いずれにしても達観の子どもでいらしたようですね(笑)。
 以前にも書いたことがあると思いますが、私は自分の故郷が日本でいちばんつまらない何の特徴もないところだと思っていました。玉青さんのように日常性の中に非日常を探す努力がもっと出来れば良かったのですが、無為に日を送ってしまったかもしれません。いずれにしても、頭上にどんな元素があるかわからぬ天空が広がっていることにほどなく気づいたことは好運でした。
 
>身の回りの物は人間が見ていない時は全く違う姿形をしているんじゃないかと思って
 こういう素朴な物の見方というか感覚的科学というのは、しばしば本質を穿っているようで面白いです。少年が目を閉じているときは、身の回りの物から出る光はまぶたで吸収・遮断されてそこで熱振動のランダムなパターンになり、単に連続的な境界条件を作りますが、まぶたが開いてると網膜、視神経、脳髄から全身の神経・血流にいたるまで一体となって情報の伝達系が構成され、離散的な状態の発展を導く拘束条件が生じ物体の取り得る状態も変わることになります。
 まあ上の説明には誇張や省略があって真に受けてはいけませんが、量子力学的な状態の説明としては大きく間違ってはいないはずで、そういう理論が作れるという可能性を子どもが体感しているということであれば本当に面白いと思います。

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