月遅れの七夕に寄せて:七夕和歌集(後編)2017年07月30日 08時11分42秒

ちょっと我ながら大胆過ぎる気がしないでもないですが、古今の七夕の歌を眺めての感想は、「七夕の歌に名歌なし」というものです。

七夕の歌は様式化が著しく、「年に一度の出逢いに焦がれる心」とか、「後朝の別れの恨めしさ」とか、やれ鵲(かささぎ)の橋がどうしたとか、ごく少数のパターンの中で、延々と類歌が作られ続け、しかもほとんど机上の空想歌ですから、これでは退屈な歌ばかり出来ても止むを得ません。

もっとも、これは文学において独創性を重んじる、現代の目で見るからそう思えるのであって、古人は詩歌の様式美とか、本歌取りの機知なんかを、もっと重視していたでしょうし、要は「名歌」の基準そのものが、時代とともに変ってしまった…という事情もあるのでしょう。

   ★

奈良、平安、鎌倉―。
そんな遠い昔の人が、確かにその目で見た星の輝き、夜空の色。それが眼前に迫るような歌、すなわち天の川の美しさを素直に詠んだ叙景歌が、私にとっての名歌です。

上記のとおり、七夕の歌にそういう歌は少ないのですが、そんな中で目に付いた歌を書き抜いてみます(改行と分かち書き、及び〔 〕内はいずれも引用者)。

   ★

さよふけて 天の川をそ 出て見る
おもふさまなる くもやわたると  (拾遺和歌集/よみ人しらす)

気まぐれな雲が空にかかっていないか、夜更けにつと天の川を見に屋外に出た…というだけの歌に過ぎませんが、そのさりげなさが、むしろこの歌にリアリティを与えています。

  曇り空に対する懸念。
  それを払拭するかのように、鮮やかに光る銀河。
  それを目にした作者の驚き、安堵、喜び…

そんな心理を裡にひそませつつ、初秋の涼しい空の色と、白く煙る銀河をイメージさせる、良い歌だと感じました。

   ★

くもまより ほし合のそらを 見わたせハ
しつ心なき 天の川なミ  (新古今和歌集/祭主輔親)

前掲歌と同じく、天の川の印象を素直に詠んだ歌。織姫・彦星の人間臭いドラマよりも、天の川そのものを主役に据えた点に特徴があります。

描かれたのは「雲間の銀河」です。大気上層の状態によるのか、星々がチラチラと「静心なく」またたき、天の川が波立つように感じられた―という叙景が美しいです。

   ★

ひこほしの 行あふかけ〔影〕を うつしつゝ
たらひの水や あまの河なミ  (正治院御百種/藤原朝臣範光)

これは風俗史的に面白い歌です。七夕の晩、たらいに張った水に牽牛・織女を映して、二星の行き合いを見守るというのは、江戸時代の絵でよく見ますが、その起こりは江戸よりはるか昔に遡るようです。

(伊東深水画、「銀河祭り」(1946)の絵葉書)

「澄んだ水に映る星影」というのが、清らかなイメージを喚起しますが、水鏡に星が映るぐらいですから、昔はよっぽど空が暗く、星が明るかったのでしょう。

   ★

ちょっと毛色の変わったところでは、下の歌は、その着想において光っています。

天河 これやなか〔流〕れの 末ならん
空より落る 布引の滝  (金葉和歌集/よみ人しらす)

「布引の滝」は、今の新神戸駅の近くにある名滝で、古くからの歌枕。
どうどうと音を立てるこの瀑布は、天の川の遥かな末流である…と想像の翼を広げています。

(一昨年、神戸を訪れたときに見た布引の滝)

中国には、黄河をさかのぼると銀河に達するという観念があったことを、以前書きましたが(http://mononoke.asablo.jp/blog/2011/06/16/)、あるいはそれに影響されたのかもしれません。しかし、発想は似通っていても、彼方の悠然たる大河に対し、冷たいしぶきを上げる滝を持ってきたところに、両者の風土の違いがよく出ています。

これは都人の机上の作だと思いますが、それだけにとどまらない、幻想味の濃い、鮮烈な良い歌です。

  ★

…こんなふうに挙げていくと、「名歌なし」と言いながら、結構な数の歌を挙げることになってしまうので、最後に本当のメモを書き付けておきます。

これも以前の話題ですが(http://mononoke.asablo.jp/blog/2015/07/07/)、『銀河鉄道の夜』に登場する、銀河のほとりに群生するススキの原に関連して、そのイメージは賢治以前から、日本の文芸の世界に伝わってきたものと推測したことがあります。

そのときは、江戸時代の短冊一枚からそう思ったのですが、『七夕和歌集』に他の類例を見付けたので、ここに挙げておきます。

七夕の 行あひになひく 初おはな〔尾花〕
こよひはかりや 手枕にせん  (新続古今和哥集/前大納言為定)

手枕は共寝の謂い。いかにも艶なる歌です。

コメント

_ S.U ― 2017年07月30日 09時31分30秒

>「七夕の歌に名歌なし」
 うーん、本当ですね(笑)。確かに、現代人にとっては、星空とか男女の出会いとかは、素直に感情的に賛美するべきものだという価値観があって、昔の機知に走った歌は評価できないのかもしれませんね。

 それでも、お写真の「布引の滝」、濃くくびれた部分から末広がりになっていて、たて座からへびつかい座、いて座と続く夏の銀河の印象に良く合っていると思います。ちょっと、はっとしました。

 何とか名歌はないものかと思って、正岡子規が「歌よみに与ふる書」で、実朝の金槐和歌集をべたぼめしていたのを思い出して七夕の歌をしらべてみました。ネットで調べたところでは、さすがに実朝といえども七夕の名歌は見当たりません。

七夕にあらぬ我身のなぞもかく年に稀なる人を待つらむ (金槐和歌集)

 これなど、誰にもありそうなしょうもないことをあえて詠んだところに好感が持てます。

 一方、子規自身はどうなのか、と言いますと、

星合の七日も近き天の川桐の木末や浅瀬なるらん (子規)

というのがあって、これは天の川の構造を見る観察力とともに、他人のデートのためにさりげない援助をしてやるやさしさもあり、秀逸ではないかと感じました。実朝以外の人の短歌をクサしまくっただけのことはあるように思います。

_ Nakamori ― 2017年07月31日 10時42分43秒

日本の景観の中で草地は、少し前までは、少なくとも昭和の初期くらいまでは、もっともっと広がっていたそうです(『日本列島草原1万年の旅 草地と日本人』(築地書館)などが参考になります)。

その当時、草は、緑肥や家畜の餌、屋根葺きの材料として生活の必需品でした。

日本の気候条件下では、植生は遷移して森林となりますので、草地として維持されるには何らかの人為的な攪乱=草刈り・火入れ・放牧など、が必要となります。

生活の中で草の需要が減り、人為的な攪乱が無くなるとともに、広大な草地は森林へと変わっていったそうです。それが今、我々が見ている景観の特徴のようです。

昔はススキの原の向こうに天の川やフォーマルハウトを愛でることができたのでしょうね。

_ 玉青 ― 2017年08月01日 20時35分21秒

○S.Uさま

実朝というのは、私の中では白面の貴公子のイメージですが、貴公子は貴公子で、なかなか苦労があったみたいですね。

>「布引の滝」

コメントを拝見し、滝の方位がよく分からないながらも、もし夜空に直立した銀河と、この滝の姿を重ねた写真が撮れたら素敵ですね。コンクールの星景写真部門で相当いいところまで行けるんじゃないでしょうか。

○Nakamoriさま

今の我々が「武蔵野」という言葉から連想するのも、国木田独歩やトトロの森的な「里山」の姿ですが、「武蔵野の月」といえば、萩ススキに月が浮かぶ絵画や和歌に代表されるように、伝統的な武蔵野のイメージは、どこまでも見渡す限りの薄野原で、それはまさに平安時代の武蔵野の実景であったと聞きます。

それが里山的な景観に変わったのは、中世の農業技術の進歩で、せいぜい萱葺材の供給地だったところが、耕作適地に変化するのと並行してのことと思いますが、往時の光景を思い浮かべると、本当に不思議な気分になります。

虫すだくススキの原の向こうに浮かぶ満天の星空…広がりのある美しいイメージですね。

_ S.U ― 2017年08月02日 07時26分42秒

>実朝というのは、私の中では白面の貴公子
 私のイメージもそうですが、強い男ぶりの秀歌が多く、子規は上記書で肝の据わった人に違いないと激賞しています。

 もっとも、白面の貴公子が必ずしも精神的に弱いということにはならないようで、例えば、日本人プロボクサーの軽量級では、色白細面でなよっとした感じの人が実は撲たれ強く、判定に持ち込んで世界を制することもできる、と聞いたことがあります。

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