海洋気象台、地震に立ち向かう2017年09月01日 16時29分38秒

大正12年(1923)9月1日、午前11時58分。
94年前の今日、相模湾を震源とする巨大地震の発生で、東京と横浜を中心に甚大な被害が出ました。いわゆる関東大震災です。

あの地震を経験したのは、私の身内でいうと祖父と曾祖父の世代の人たちで、私は幼いころに祖父から、「あのときはまるでコンニャクの上を歩いているようだった」と、事あるごとに聞かされたため、今でもコンニャクを見ると地震を連想します。

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ときに、地震を科学する立場の中央気象台(現・気象庁)は、その瞬間どんな有り様だったか?当時その場で執務していた、地震学者・中村左衛門太郎(1891-1974)の証言があります。

(震災後の中央気象台。ウィキメディアコモンズより)

■『関東大震災調査報告 地震篇1』
 中央気象台編、大正13年(1924)発行
 国会図書館デジタルコレクション所収 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/984966

彼は当日、皇居の東側にあった中央気象台本館の階上にいました。
最初、南北方向の急激な振動が数秒続き、北向きに並べた戸棚が転倒。中村はあまりの揺れに歩くこともままならず、机に両手をついて立っているのがやっとでした。そして、いったん揺れが収まったものの、直後に東西方向の激しい揺れが襲ってきて、東向きの戸棚も次々に転倒。

この間、中村は外の様子を確認しようと窓に目をやりましたが、とにかく自分の身を守ることに精一杯で、「僅かに神保町附近に砂塵の立昇るを目撃したるに過ぎず、錦町河岸附近には目立ちたる家屋の倒壊するを見ざりき」。

たしかに揺れは凄かったのですが、窓外の町並は意外に持ちこたえていました。
中央気象台においても、「本館其他主要庁舎並に附属庁舎の被害は極めて軽微」でした。しかし、この震災の恐ろしさは、周知のごとくその後に続いた大火災で、「斯くの如く地震に因る被害は比較的軽微なりしが 次いで起れる火災にかゝりて 大部分焼失の悲運に陥りたるなり」…という結果になったのです。

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貴重な測器類も被害甚大でした。

当時の中央気象台あった、大森式微動計、普通地震計、ウィーヘルト地震計はいずも重錘の落下や転倒により大破。中村式簡単微動計や、最新式のガリッチン地震計は、大破を免れたものの、「何れも今回の地震に依って破損せられ 一時観測を中止するの止むを得ざるに至」ったのでした。

こうした状況の下、震災直後の東京で、中央気象台員たちがどんな苦労を重ね、地震のデータ解析に取り組んだかは、上の報告書に記載がないので分かりませんが、当然のことながら、かなり右往左往したことでしょう。

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そんな中、頼もしい助っ人が、地震発生直後から活動を始めていました。
震災の3年前、大正9年(1920)に業務を開始したばかりの神戸海洋気象台」(現・神戸地方気象台)の台員たちです。

(9月1日、午前11時59分27秒、東京に遅れること41秒後に神戸で感知した地震動。Wiechert地震計が記録した南北・東西方向の揺れは、神戸でもあっさりスケールアウトしており、その揺れの大きさを物語っています。)

神戸のスタッフは、全国の気象台・測候所の観測データを整約し、地震の全貌を明らかにするとともに、須田皖次(すだ かんじ、1892-1976)ほか2名の台員が現地入りして、地震の影響を実地に確認しました。

9月10日に沼津入りした彼らは、以後10月12日までのほぼ1ヶ月にわたって、御殿場、三島、熱海、小田原、箱根、厚木、藤沢、鎌倉、横浜、東京、大宮、熊谷、千葉、木更津、館山、鴨川、銚子…と、静岡、神奈川、東京、埼玉、千葉の各所を踏査しましたが、鉄道が寸断されていたため、その行程の多くは徒歩でした。未曽有の惨事を前に、いつも以上に奮い立った面はあるにせよ、その研究者としての熱意と執念に打たれます。


その須田が、震災の翌年、海洋気象台報として英文でまとめた論文が手元にあるので、その中身を少し見てみます。


(この項つづく)