甲府の抱影(前編)2017年09月20日 13時21分53秒

この連休に、老いた両親を見舞ってきました。
その帰り途、いつもとコースを変えて、ちょっと甲府に足を延ばしました。

(昇仙峡から望む甲府盆地と富士)

昇仙峡見物や、信玄の館跡である武田神社詣でなど、普通の観光もしつつ、初めて訪れる甲府で楽しみにしていたのが、一時甲府で暮らした、野尻抱影(1885-1977)の面影を偲ぶことでした。

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抱影の甲府生活は、明治40年(1907)5月に始まりました。
前年に早稲田の英文科を卒業した青年英語教師として、旧制甲府中学校(現・甲府第一高校)に赴任するためです。その甲府生活は、明治45年(1912)に、東京の麻布中学校へ転任するまで、満5年間続きました。

(甲府中時代の抱影。石田五郎(著) 『野尻抱影 ― 聞書“星の文人”伝』 より)

前回の記事でも触れた、1899年のしし座流星群は、日本の新聞でも盛んに取り上げられ、それに触発されて、抱影少年は初めて天文趣味に目覚めた…ということが、石田五郎氏の『野尻抱影―聞書“星の文人”伝』(リブロポート、1989)には書かれています。

その天文趣味は、この山国の満天の星の下、さらに進歩を遂げ、都会育ちの彼が山岳や自然一切の魅力に開眼したのも、この甲府での生活があったればこそです。甲府暮しがなければ、おそらく後の抱影はなかったでしょう。

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抱影が赴任した甲府中学校は、今の山梨県庁のところにありました。

(甲府駅周辺地図)

上の地図だと、甲府駅のすぐ南が甲府城(舞鶴城)跡で、その西側に山梨県庁があります。今は甲府城の城地が大幅に狭まっていますが、旧幕時代は県庁一帯もお城の内で、二の丸の一部を構成していました。

(城の南側から甲府駅方面を見たところ。道路を挟んで左が山梨県庁、右が舞鶴城公園)

明治13年(1880)創設の甲府中学校が、この場所に新築・移転したのは、明治33年(1900)です。その後、昭和3年(1928)に、現在の甲府一高の地に移転し、その跡地に県庁が引っ越してきました。

上の地図で、「山梨・近代人物館」と表示された建物が、昭和5年(1930)に竣工した県庁旧庁舎です。さらに、その北隣の建物が、旧庁舎と同時にできた県会議事堂で、このあたりが甲府中学校の跡地になります。

(山梨県庁旧庁舎(現・県庁別館))

抱影は、学校近くの下宿屋から、当時はまだあった内堀(今は埋め立てられて県庁西側の大通りになっています)にかかった太鼓橋を渡って、毎日学校に通いました。

(大正~昭和初期の甲府城跡。奥に見えるのが中学の校門。甲府市のサイト掲載の白黒写真を、試みにAIで着色してみました。)

(記事が長くなるので、ここで記事を割ります。以下次回につづく)


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▼閑語(ブログ内ブログ)

しばらく政治向きのことは静観していましたが、ここにきて、「大義なき解散」の話が持ち上がり、これについては大義どころか小義もないし、安倍晋三という人は、つくづく姑息な人だなあ…と改めて歎息しています。

で、歎息ついでに、ふと「姑息」というのは、なんで「しゅうとめの息」なんだろうと思いました。「姑の息」は、そんなに邪悪なものなんでしょうか?

調べてみると、「姑息」とは「一時しのぎ」の意味で、これを「卑怯」の意味に使うのは誤用である…と多くの人が指摘しています。これは、「(歌の)さわり」とか、「情けは人の為ならず」と同様、今や誤用の方が主流に転じた例でしょう。

何でも「姑」という字には、「しゅうとめ」の意味の他に、もともと「一時的」の意味があって(たぶん同音他字の意味を借りたのでしょう)、そこから「姑息」イコール「一時的に息(やす)むこと」、すなわち「一時しのぎ」の意味になったんだそうです。

でも、この「姑息」という字句は、一時的どころか、ずいぶん長い歴史のある言葉です。出典は四書五経のひとつ『礼記』で、孔子の弟子に当る曽子が、臨終の間際、曽子の身を気遣う息子を叱って、「お前の言い分は君子のそれではない」と言ったことに由来する(「君子の人を愛するや徳を以てす。細人の人を愛するや姑息を以てす。」 君子たる者は大義を損なわないように人を愛するが,度量の狭い者はその場をしのぐだけのやり方で人を愛するのだ。)…ということが、文化庁のサイトで解説されていました。

こうして、日本では「一時しのぎは卑怯なり」と受け止められて、「姑息」の意味が変容しましたが、一方現代中国語にも「姑息」という語は生きており、そちらはもっぱら「甘い態度をとること、無原則に許すこと」の意味に使われるそうです。文化の違いというのは、なかなか面白いものです。(ちなみに今の中国語だと、「姑」は主に「夫の姉妹」、すなわち「こじゅうと」の意味で使われることも、さっき辞書で知りました。)

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さて、話が一周して、安倍晋三という人がやることは、一時しのぎだし、卑怯だし、身内に大甘で、あらゆる意味において「姑息」だなあ…と改めて思います。かの宰相は、まこと君子に遠き細人なるかな。