10月の星の句、星の歌2018年10月14日 14時32分01秒

10月14日付けの 『朝日俳壇・歌壇』 より。(以下敬称略。句切れは引用者)

(大串 章 選)
●銀漢や 小さき星の核兵器  (いわき市)馬目 空

天の川を振り仰ぎ、宇宙の大きさを思うとき、多くの人の胸に去来するであろう思い。
人間はおそらく過去幾百世代にもわたって、無限に広がる夜空を前に、人間の卑小さを感じ、人はなぜ生まれ、なぜ相争うのか、自問自答を繰り返してきたことでしょう。

とはいえ、人は今や銀河の一粒一粒が核の炎で燃えていることを知っているし、自らの内に燃える修羅の炎が、遺伝的にプログラムされたものであることも理解しつつあります。そこに一縷の望みがなくもありません。この句に込められた思いが、人間の遠い過去の記憶となる日が、早く来ることを願わずにはいられません。

とはいえ、人が己の闘争心を制御する術を、今後仮に身に着けたとしても、宇宙を前にして感じる深い戦(おのの)きの感情は、いささかも変わらないかもしれません。

   ★

(同)
●高原に星月夜 地に街明り  (茅ヶ崎市)村上芳江

一読、平板な句だと感じました。
しかし、作者はいったい今高原にいるのか、それとも街にいるのか…と考え出したら、いささか謎めいた句と感じられてきました。もちろん、単純に「街を見下ろす高原に来ているのだ」というのが正解かもしれません。

ただ、私なりに想像をたくましくすると、作者は高原にあって街を思い、街にあって高原を思うという、二つのリアルな経験を、今この瞬間に重ね合わせて、この句を詠まれたような気がします。だとすれば、現実の作者が今高原にいても、街中にいても、この句は成り立つことになります。

<自然と人間の対比>という意味では、先の句と同工ですが、作者は星月夜の荘厳な美に打たれると同時に、街明りの人間臭さにもどこか惹かれている感じがあって、何となくホッとできる句でもあります。

   ★

(永田和宏 選)
●理学部を一応出ました 信州の月はたしかに大きいのです (長野市)原田りえ子

一読笑みがこぼれる歌。
これはもはや反論を許さない歌ですね。
「月の錯視」とか何とか、そういう理屈を一切抜きにして、信州の月はたしかに大きいのです。それはもう確かなことです。

   ★

(江戸前期の百科全書、『倭漢三才図会』より「天河」の項。
後段では、西洋天文学の漢訳書『天経或問』を引きつつ、天の川が望遠鏡で覗くと小さな星の集まりであることを教えています。そうした天文知識が、専門の学者のみならず、市井の知識人にもよく知られていた…というのが、近世の近世たる所以でしょう。)