フェイクと本物、そして物語2019年05月02日 07時16分44秒

フェイク・アストロラーベと、ちょっと毛色の似た話題をひとつ。

これも大いに驚きつつ読んだのが、カリフォルニア大学サンディエゴ校で、近世オスマン帝国史を教えるニール・シャフィール氏の『偽りのイスラム科学』というエッセイです。


Nir Shafir: Forging Islamic Science

タイトルの後に「イスラム科学を描いた偽の細密画は、今や最も権威ある図書館や歴史書にも入り込んでいる。いったいどのようにして?」というリード文が続くこの記事。科学を主題にしたイスラムチックな歴史画が現在大量に贋作され、それがイスラム科学史の本を飾り、錚々たる博物館や図書館まで侵食しているという、これまた衝撃的な内容です。

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ある日、講義の準備をしていたシャフィール氏は、学生向け指定図書に選んだ本を前に当惑します。上の画像のような絵が、その表紙を飾っていたからです。

この絵は、昔の天文学者を描いたもののようです。塔のてっぺんで、ターバンを巻いた人物が望遠鏡で星を観測し、その下で弟子らしき男が、遥かな星を指さしています。さらにリンク先の原文には、絵の全体図が掲げられていますが、そこには別の望遠鏡を覗く人物や、地球儀を見ながら羽ペンで記録を取る男の姿が見て取れます。

 「色彩がいささか鮮やか過ぎるし、筆遣いがちょっと整いすぎているというのもあったが、私を大いに戸惑わせたのは望遠鏡だ。ガリレオが17世紀に発明して以来、望遠鏡は中東でも知られてはいた。しかし挿画にしろ、細密画にしろ、この品を描いた作品はほぼ皆無だ。」

望遠鏡ばかりではありません。地球儀もイスラムの古画にはめったに登場しないし、極めつけは「羽ペン」です。中東の学者ならば、伝統的に葦の茎を削った「葦ペン(リードペン)」を使ったはずなので、これは明らかに現代の贋作者の手になるものです。

同様の例は、今やあちこちで見られます。

天然痘の治療をする医師、虫歯の原因とされた奇妙な虫の姿をした魔物、人体の血管系を示す図…それらは過去の絵の模写だったり、アレンジだったりしますが(ちなみに上の望遠鏡の絵は、六分儀で星を観測する学者の姿が元絵で、贋作者がそれを望遠鏡に置き換えたものです)、そうした絵が現代のイスタンブールでは山ほど売られており、今や錚々たるコレクションにも入り込んでいるし、果てはオックスフォード科学史博物館の展覧会を飾るまでになっているのです(シャフィール氏はそう指摘します)。

さらに、そうした画像がひとたびネット上にアップされると、もはや人々は疑うことなく、それらの引用・再引用を繰り返し、イスラム科学に対する誤解まじりのイメージは、いよいよ強固なものとなっていきます。

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シャフィール氏の文章は、こうした現状を嘆くにとどまりません。
彼はそこからさらに深い問題へと読者を導くのです。シャフィール氏は、ここでイスタンブールにある2つの展示施設を取り上げます。

1つは「イスラム科学技術史博物館」です。
そこには天文観測機器あり、軍事機械あり、複雑な蒸留装置あり、過去のイスラム科学の「偉業」を、観覧者にこれでもかとばかりに見せつける施設です。ただし、そこにはホンモノが何ひとつありません。並んでいるのは、すべて最近作られた複製品ばかりです。中には、昔の本に記載があるものの、実物が全く知られておらず、そもそも実在したのかどうか不明な展示品もあります。

イスラム科学技術史博物館は、科学を通じてイスラム世界の特殊性ではなく普遍性を、閉鎖性ではなく開放性をアピールするという、一種ポジティブな意図があるようなのですが、その根っこにおいて、「人にこう見てもらいたい」あるいは「自らこうあってほしい」と願う姿に向けて、過去を再構成している点で、偽の細密画と共通するものがある…とシャフィール氏は指摘します。そこには素材選択の恣意性と加飾が必然的に伴っています。

(無垢の博物館。ウィキペディアより)

そして、シャフィール氏が注目するもう1つの施設が、「無垢の博物館(The Museum of Innocence)」です。ここは、2006年にノーベル文学賞を受賞した、トルコのオルハン・パムク(1952-)の同名小説(ウィキペディアの作品解説にリンク)を元に、その作品世界を具現化した建物です。建物の中には、昔のレストランの宣伝カード、古いラク酒の壜、焼き物の犬、懐中時計、ミスコンテストの写真…そんな1970年代のイスタンブール生活を偲ばせる品が、そして作品の主人公が、愛する女性に執着して集めた小物たちが並んでいます。

シャフィール氏はここで、「われわれは自分が集めたモノ(objects)からストーリーを物語るのだろうか?それとも、自分が望むストーリーを物語るためにモノを集めるのだろか?」と問います。「実際のところ、この2つのアプローチはコインの両面に過ぎない。われわれは、自分が想像した物語に一致する素材を集めるし、手元にあるモノとソースにしたがって物語を形作るのだ。」

なかなか深いところに入ってきますね。

古今東西、「偽史」というのがあって、贋物に基づいてフェイク・ストーリーを語ったり、あるいはフェイク・ストーリーに合わせて、贋物をでっちあげてしまうというのは、ありがちなことです。

でも、ホンモノに基づくフェイク・ストーリーというのもあります。
ホンモノを綴り合せて、自分好みの衣装を仕立ててしまう―- これは良心的な歴史家なら常に自戒しているところでしょう。

歴史家のみならず、古物好きも一度はこの問いを自問しなければなりません。
もちろん私も含め、趣味の範疇ならば、「自分が望むストーリーを物語るためにモノを集める」のでも一向にかまわないとは思います。でも、そこで捨象されるもの、無視されてしまう歴史的存在、自分が見たくないために目を覆っている事実があることも、たまには思い出すことが必要なんじゃないかなあ…というのが、たぶんシャフィール氏の帰結であり、私もそれに同意します。