あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」について考える2019年08月03日 12時02分59秒

今、話題の標記展覧会。
いろいろな意見を眺めていて、気になったことを書きつけます。

ただし、「国辱」とか、「反日」とか、「胸糞悪い」とかは、単なる感情の発露であって、「論」とは言えないので、ここでは取り上げません。ここでは、目についた以下の3つの論について、私見をメモ書きします。


(その1)
「あれを展示するんだったら、〇〇も展示したらどうだ」論

これはまったくその通りで、それを拒む理由はありません。
ただし、今回はいったん展示されたものの、何らかの理由によって展覧会から撤去された作品群というくくりなので、それに合致する必要があります。また、それは提案としては「あり」ですが、強制できる性質のものでもないでしょう。

(「展示したくても展示を拒否された作品もあるぞ。それも表現の不自由を表しているんじゃないの?」という意見もあると思います。それもまた別に考えないといけません。)


(その2)
「表現の自由と言うなら、ヘイトも認めるんだな」論

これは「表現の自由」の論理を貫徹すると、そういうことになります。
つまり、ヘイトスピーチをしている人が「これが俺の表現だ」ということは自由だし、表現の自由に基づいて、ヘイトを表現することは本来自由です。(この点で、私と意見を異にする人も少なくないでしょう。でも、表現の自由を突き詰めると、そういうことになるはずです。)

ただし、ここでハッキリさせないといけないことがあります。

表現の自由を認めることと、表現の内容を是認することは、全く別の次元の話だということです。以前挙げた例だと、私は誰かが「地球は平たい」と主張する自由は認めますが、同時に地球は平たいという説には反対です。両者は全く問題なく両立します。ヘイトも同じことです。私はヘイトを叫ぶ自由は認めますが、ヘイトには断じて反対です。

「でもさ、現実にあちこちでヘイトに対する法規制が進んでいるじゃない。あれは表現の自由に対する脅威じゃないの?」と思う人もいるでしょう。もし、これが「ヘイトは絶対悪だから規制する」という主張だったら、確かにその通りです。それは表現の自由に対する脅威以外の何物でもありません。

しかし、現実の法規制は、「ヘイトが悪だから」という何やら神学論争めいたものではなくて、それが他者の私権を侵害しているから存在するのです(と、私は理解しているのですが、違っていたら教えてください)。

各種のハラスメントや、さらには暴行・傷害・殺人まで「表現」と呼ぶ人がいてもおかしくはないですが、それが禁じられるのも同じ理由です。それは表現の自由に対する規制ではなく、私権侵害に対する規制です。

「じゃあ、あの少女像だって、俺の私権を侵害しているぞ。あれのせいで俺の感情はいたく傷つけられた。俺の平穏な生活が脅かされたことはどうしてくれるんだ」という意見もあるでしょう。それも論として十分成り立っているので、そう主張するのも自由だし、「像の撤去と損害賠償を求めるぞ」と実行に移すのももちろん自由です。それにしたって、日本では自力救済が認められないので、判断は司法にゆだねなければなりません。


(その3)
「税金を使ってあんな展示をするのはけしからん」論

納税者の権利として、そう主張することは問題ありません。というか、大事なことだと思います。私だって「〇〇に無駄な税金を使うなんて!」と、国を非難したことは数知れません。

問題は「あんな展示」を支持する人も多いことです。そうした中で、自分の主張を絶対視するのはバランスを欠きます(これは私自身についても当てはまります)。バランスを欠こうが何だろうが、自分の主張を貫くのも「あり」ですが、「支持する人もいる」ことも、しっかり念頭に置いてほしいです。

「こんなものに俺の税金を使うな。その分返せ」というのは心情的には理解できますが、通らない意見でしょう。ましてや意見が割れているのに、「俺は反対だから、俺の主張だけ通せ」は全く通らないです。

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今回の展示は「表現の不自由展」という名称どおり、「表現の自由」という命題がテーマで、各作品はその<素材>に過ぎません。そういう特殊な企画なので、「展示作品の意図」と「展示企画の意図」を切り離して考えないと、ここは一寸おかしなことになります。

展示作品に対する批判はそれとして、批判する人は、表現の自由そのもの、つまり「表現行為に対する社会的制限のあり方」についても、ぜひ意見を開陳してしかるべきです。

いずれにしても、これが重要な問題提起であることは間違いなく、そういうテーマに公金を投じる意義は十二分にあると、私は考えます。

「表現の不自由展・その後」のその後2019年08月04日 17時49分19秒

これがまさに「主戦場」というやつでしょうか。

まあ、いちばん悪いのはテロを予告した人間ですが、それに次いで悪い(と私が思う)のは、河村名古屋市長です。この点はコメント欄でもご意見をいただき、我が意を得た思いです。河村さんが個人として何を思っても、それこそ自由ですが、市長が公人として芸術展の内容に介入するなんて論外です。一体何を考えているのか?

…と、ここで私の考えが止まります。

もし事態の色合いを変えて、これがヘイトだったり、ナチズムや軍国主義を礼賛する内容の展示に対して、市長が中止を求めて抗議したのだったら、私はそれに異議を唱えたでしょうか?

昨日の私の言い分からすれば、抗議しなければ首尾一貫しないことになります。
私はその仮想市長氏の反ヘイト、反ナチズム、反軍国主義の意見には強く賛同しても、市長という立場で、表現の自由を脅かすような行動をとることについては、断固抗議しないといけません。ええ、その場になったら、これはぜひそうしたいと思います。

河村さんにしたって、展示内容に異を唱えつつも、「しかし、暴力で展示をやめさせるなんて、断じてあっちゃならん」と言ったなら、河村さんの考えには、こちらも意見を述べつつ、その姿勢には大いに賛同できたはずですが、今回は全くダメダメな一幕でした。

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(愛知県芸術文化センター)

今日は遅ればせながら、トリエンナーレを見に行ってきました。
せめて展示会場の跡地だけでも見たいと思いましたが、会場の入口はボードでふさがれて、残念ながら全く見ることができませんでした。

(このボードの向こう、左手に曲がった先が問題の会場・A23)


展示が中止になった経緯を説明するものが何もなかったので、知らない人が見たら本当に何のこっちゃという感じです。

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その後、他の展示を見て回り、いろいろ考えさせられました。
作品の多くは何らかの政治的メッセージ――難民問題だったり、環境問題だったり、情報監視の問題だったり――を含むもので、現代芸術はおしなべてそうですから、「芸術は政治にかかわるべきではない」なんていうのは、今のアートシーンからは相当遠い言葉と感じられました。

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それと「表現の不自由展」の会場跡に、いかにも右翼という身なりの人がいたので、「たぶん立場や意見はだいぶ違うと思いますけど…」と前置きした上で声をかけたら、その人(以下、右氏)は、なかなか気持ちのいい人で、年恰好が同じぐらいだった気安さもあり、いろいろ率直に話を聞けたのは良かったです。(右氏は少女像よりも、昭和天皇の写真を燃やす映像作品を主に問題にしていました。)

「ガソリンをまくという電話もあったみたいですが、ああいうのはどうなんですかね?」と水を向けると、「うん、ああいうのはいかんよね。」と右氏。

「左の人も一枚岩ではないでしょうけど、右の人もいろいろですか?」「まあ、そうだねえ」と、終始穏やかに話をしてくれた、民族主義を標榜する右氏とは、他にも意見の一致するところがあったし、もちろん一致しないところもあったのですが、顔を見ての対話はやっぱり大事だと思いました。(これがツイッターの文字だけの応酬だったら、たぶんグチャグチャになっているでしょう。)

おしゃべりの自由2019年08月07日 21時48分02秒

今回の件は非常に心を動かされたので、もう1回だけ書きます。

前回、前々回と2回書いてもうまく書けなかったことが、その後「うーむ」と腕組みをしているうちに、パッと分かった気がするので、ここに書きつけます。

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もちろん私は、その都度自分なりに正しいと思ったことを書いているのですが、それでも一抹のためらいが常にありました。筆先がちょっと鈍るというか、何かモヤモヤするものがあったのです。

なぜか? 例えば、政権批判にしても、慰安婦問題にしても、私は自分と違う意見を持つ人がたくさんいることを知っています。そして、たくさんいるということは、何かそこに私の見落としている論理と根拠があるのではないか?…という疑念を拭えませんでした。だから、相手の言い分にも耳を傾ける必要があると考えて、自説をいかにも自信満々に書くのをためらう気持ちがあったのです。

そういう「謙虚さ」(自分で言うのもなんですが)の背後にあるのは、「お前さんの話も聞くから、俺の話も聞いてくれ」という態度です。もちろんこれは悪いことではなくて、至極真っ当な態度です。というか、当たり前のことだと思います。

ただ、「お前さんの話も聞くから、俺の話も聞いてくれ」というのは、相手も同じスタンスでいるときしか通じない態度です。相手が最初から話を聞く気がないとき、いくら「お前さんの話も聞くから…」と言ったって、馬耳東風もいいところで、相手とイーブンの関係にはなりえません。

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私が今回悟ったこと。

それは、こういう場面――不特定多数に対して何かを発するとき――で大事なのは、「お前さんの話も聞くから、俺の話も聞いてくれ」よりも、まず「お前さんも話せ。そして俺にも話させろ」だということです。これならば、相手のスタンスによらず、お互いイーブンの関係で向き合えます。

そして、表現の自由の本質とは、まさにこの「お前さんも話せ。そして俺にも話させろ」にあるんじゃないでしょうか。裏返せば、表現の自由が守られない場面とは、「俺は話すぞ。だけどお前は話しちゃいかん」という態度が登場する場面です。

今回の騒動の基本構図も、「お前さんも話せ。そして俺にも話させろ」vs. 「俺は話すぞ。だけどお前は話しちゃいかん」の対立と言える気がします。

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でも、お互い自分のことを話すだけだったら、いたずらに言葉が飛び交うばかりで、不毛じゃないの?と思われるかもしれません。確かに不毛な場合もあるでしょうが、意外にそうでない場面も多いです。

たとえば、各種の自助グループなどは、お互いワーワー言いっぱなしで、あれこそ、「お前さんも話せ。そして俺にも話させろ」の原則が徹底している場面です。でも、参加者はそのやりとりに確かな意味を感じ、だからこそ参加しているわけです。

そんなわけで、これからは「お前さんも話せ。そして俺にも話させろ」の態度で、筆先を大いに煥発(かんぱつ)させようと思うのです。

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それともう一つ、表現の自由とヘイトの問題について。

これは、敷衍すれば、「表現の自由はいついかなる時でも認められるか?」という問題でしょうが、「いついかなる時も認められる」というのが、私の意見です。もうちょっと言葉を足すと、「表現の自由は基本的人権だから、誰に対しても恒常的に与えられている」という考え方です。これは一見常識に反するので、「おや?」と思われるかもしれません。

問題は、基本的人権は「表現の自由」だけがポンとあるわけではなく、他にもいっぱいあって、しかも時に相矛盾することがあるので、矛盾が生じた場合は、そこに調整が必要だということです。

例えば「これが俺の表現だ!」といって刃物を振りかざして向かってくる人がいた場合、こちらは自分の「生存権」を主張して、それを排除することができます。そして、生存権に優越する表現の自由はない…というのが、たぶん法の考え方でしょう。

ここで重要なのは、生存権の前に、表現の自由が「無」になるわけではないことです。つまり、表現の自由は常にあるんだけれど、それよりも生存権が「優越する」ということです。現象面で、両者は同じことになりますが、「無い」と「有る」では大違いなので、私はそこにこだわったのでした。

ヘイトの問題もそうです。
差別と憎悪を煽動するヘイト行為は、あってはならないことです。でも、そこにもやっぱり表現の自由はあります。ただし、それが他者の基本的人権とバッティングした場合、その場面で、表現の自由が優越することはなかろう…というのが、ヘイトが認められない理由です。「俺には表現の自由がないのか?!」と叫ぶヘイターがいたら、「いや、ある。でも、この場面では他に優越することがある」というのが、彼への答です。

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以上のことは、法学者がとっくに細かく解釈をしているでしょうが、自分にとっては、自分の頭で考えたオリジナルなので、将来の自分へのメモとして書きました。

元に戻って、「お前さんも話せ。そして俺にも話させろ」という態度。
考えてみれば、これは日常のおしゃべりの大半に当てはまることです。今日書いたことも、いわば「おしゃべり」に類することでしょう。

おしゃべりが常に楽しいわけではありません。時には、意図せず相手を傷つけたり、傷つけられたりすることもあるでしょう。それでも、おしゃべりは楽しいに越したことはない…という気持ちを大事にしながら、私はおしゃべりを続けようと思います。

雪氷三話2019年08月11日 07時41分30秒

しばし心を静めて…と思えど、暑いですね。

暦を見れば、二十四節季だと「立秋」を過ぎ、七十二候だと「涼風至る」だと書かれています。いったいどこの国の話か…と思いますが、これは話が逆で、昔の日本を標準にする限り、異国化しているのは、むしろ我々の方です。

まあ、二十四節季は中国大陸のものを、そのまま引き継いでいるので、日本の季節感とズレがあってもおかしくはないですが、七十二候のほうは、近世に入ってから日本に合うよう修正が施されているそうなので、これはやっぱり時代とともに気象条件が変わってしまった証拠でしょう。

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こういうときこそ涼しい話題をと思って、日本雪氷学会(編)『雪氷辞典』をパラパラ見ていました。(この本は、2014年に新版が出ていますが、手元にあるのは1990年に出た旧版です。)


本書はもちろん全編これ雪と氷の話題ばかりですが、その中でも、とりわけ涼しさを感じた言葉を3つ取り上げます。

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「とうれつ 凍裂 frost crack」

 厳冬期に、通直な太い幹の内部から樹皮まで、縦方向の割れ(放射状)を生ずる現象を、凍裂(または霜割れ)という。割れ目の長さは1mから数mに及び、生長期に癒着しても、冬に再発を繰り返す例が多い。この現象は、水分を平均よりも多く含む「水喰い材」の、凍結・膨張による強い内圧と、樹幹外周部の低温による収縮とに起因するといわれている。北海道では谷筋のトドマツ、ドロノキ、ヤチダモなどの凍裂が、その音とともによく知られている。 〔…下略…〕

がっしりとした樹木までもが、激しい叫び声をあげて屈するとは、まったく想像を絶する寒さです。その音が実際どんな音かは、ネットで容易に聞くことができます。以下はNHKの「新日本風土記」で紹介された、北海道・陸別町の映像と音。(凍裂音は、0:37と2:11の2回出てきます。)

北海道・陸別町「凍裂」~日本でもっとも寒い町
陸別町は、冬ともなれば氷点下20度を下回る日が続き、そんな折には、夜明けの無人の森から、「パーン!」と鉄砲を放つような音が時折聞こえてくるのだそうです。なんだか耳も心も凍るようです。

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「とうきらい 冬季雷 [冬の雷] winter thunderstorms」

 日本海側に冬季に発生する雷のこと。日本の平均雷日数分布は、内陸部と日本海側で多く、ともに40日前後だが、内陸部は夏、日本海側は冬に多い。〔…中略…〕冬季雷雲は雲高が低く、水平方向に広がり、電気的には発雷の日変化が少なく、雷放電数も少なく、上向き雷、正極性のものが多いといった特徴がある。冬季雷はノルウェー西岸と日本海側に多く、メキシコ湾流と対馬暖流の影響が大きい。

雷といえば、夏の入道雲や夕立とセットに考えていたので、日本海側では雷は冬のものだと聞いて、目から鱗がはらりと落ちました。雪催いの日、低く垂れこめた雲に向けて、地上から雷光がさかしまに走るなんて、なんとも凄愴味があります。でも、これは日本海側で暮らしたことのない人間の無責任な感想で、実際にはやっぱり相当怖いでしょう。

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「ゆきおんな 雪女」

 雪国の伝説で、大雪の夜などにあらわれるという雪の精。一般にはその名称から、白い衣を着た雪のように白い女の姿が想定されている。しかし、ところによっては小正月や元日に現れる歳神であったり、片目片脚の雪女もある。

「雪女」の怪談は別に珍しくありません。
でも、最後の「片目片脚の雪女」というのは知りませんでした。

これを聞いて、ただちに思い出したのが、岡本綺堂「一本足の女」という話。
最初は単に可憐な不具の少女だったものが、長ずるにつれて、その器量によって父親代わりの侍を狂わせ、果ては生血を欲する鬼女となっていくさまが不気味に綴られた、時代物の怪談です。

そういう連想が働いたので、「片目片脚の雪女」にヒヤッとするものを感じたのですが、彼女が常ならぬ美貌の持ち主だったら、確かにいっそう恐ろしさが勝る気がします。

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現今の暑さは、なかなか怪談ぐらいでは追いつきませんが、それでも想像力を働かせれば、ちょっとは涼しくなるような…。

トアの話2019年08月12日 06時53分25秒

ハイカラ神戸の象徴である、「トアロード」のことは、これまでも稲垣足穂に関連して、何度か記事にしました。昨日の『雪氷辞典』を見ていて、ゆくりなくトアロードのことを思い出したので、そのことをおまけに書いておきます。

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「トアロード」という地名の語源は、その突き当りに「トアホテル」があったからだ…ということになっています。では「トアホテル」の「トア」とは何か?これも昔からいろいろ言われてきましたが、現時点で最も確からしいのは、以下の説です。

すなわち、「トアホテル」の開業は1908年ですが、それ以前に、この場所には「The Tor」と称するイギリス人の邸宅があり、ホテルはその名称を受け継いで「Tor Hotel」を名乗ったという説です。

(お伽めいたトアホテルと、鳥居マークのラゲージ・ラベル)

そのイギリス人とは、F. J. バーデンズという人で、「Tor」とはケルト由来の古英語で、「高い岩や丘」を意味し、コーンウォールやデヴォン地方の地名に多い由。このことは、水田裕子氏(編著)『TOR ROAD STYLE BOOK』(1999)に教えてもらったのですが、同書はさらにこう述べます。

 「英国人バーデンズ氏が、なぜ「トア」を称したかは何の記録もありませんが、当時外国人の間でこのあたり一帯をThe Hill(丘)と呼んでいたことを考えると、毎夕、居留地のオフィスを出て家路をたどるとき、突き当りの小高い石垣とわが家、その背にある山の岩肌を見るにつけ、故郷のtorとダブッたのではないでしょうか。」(p.13)

(1900年ごろ、神戸市西町の「玉村写真館」で撮影された英国人夫妻の肖像。バーデンズその人ではないにしろ、同国人のよしみで、彼らはバーデンズ氏の顔と名前ぐらいは知っていたでしょう。英国ノリッジの古書業者から購入)

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その「トア」が、『雪氷辞典』にも出てきたので、「ほう」と思いました。

「トア [トール、岩塔] tor」

 風化に対して抵抗性の強い岩石がつくる塔状・塊状の高まりをいう。さまざまな気候下でみられるが、周氷河気候下でみられることが多く、凍結風化によって破砕されやすい部分が除去されたあと、壊されにくい部分だけが残って、まわりの地表面から突出した地形と考えられている。現在形成中のものもあるが、多くは氷期の周氷河環境下でできた周氷河地形である。凍結風化に対して抵抗力の強い、節理間隔の大きな岩石や、空隙率の小さい岩石からなる。

氷河期の酷寒にさらされても、なお凍結破砕を免れた頑丈な岩体、それが塔のようにそびえたものが「トア」です。

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足穂もトアホテルの語源には注目していて、「緑の蔭―英国的断片」というエッセイにそのことを書いています。

足穂は、最初「トア」とは単純に「東亜」のことだと考えました。

次いで、英和辞典を引いて、「 tor 」に「岩山、岡 (特に英国 Dartmoor の)」という意味があるのを見つけ、さらにダートムーア地方と神戸周辺が、ともに花崗岩質であることに何か意味があるのでは?…と推理を働かせます。かつての鉱物少年の面目躍如です。

でも、結局、これは日本語の「Torii 鳥居」に由来し、ホテルの中に鳥居があったからだ…という説に落ち着いています。

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「トア」が鳥居なんぞでなく、やっぱり岩山で、しかもすこぶる地質趣味に富んだ名称だと足穂が知ったら、彼の「神戸もの」に、一層硬質な趣きが加わったかもしれないなあ…と思うと、ちょっぴり残念な気もします。

ガラスの雪2019年08月13日 06時26分37秒

一昨日の写真の端っこに写っていたモノについて。

以前――だいぶ以前です――雪のペーパーウェイトを集めようと思い立ったことがあります。でも、あっさり断念しました。珍重に値する古い品は少ないし、新しいものまで含めると、今度はキリがなくなるからです。それに、ペーパー「ウェイト」の名の通り、重くてかさばるのも、挫折した理由です。


でも、こうして改めて見ると、なんだか懐かしいです。
何せ、あれからもう10年以上も経つのですから。

右側の大きいのはエイボン社の製品。
エイボンというのは、あの化粧品のエイボンのことですが、同社は化粧品ばかりでなく、家庭用品も手掛けているので、これもそうした品のひとつです。eBayで雪のペーパーウェイトを探すと、たぶん真っ先に表示されるのがこれで、今でも大量に流通しているせいで、あまり「有難み」はないんですが、雪のペーパーウェイト好きなら、避けては通れない品。

エイボンの雪模様が型押しなのに対し、あとの二つはエッチング彫刻です。

下のお饅頭型は、石川県加賀市の「中谷宇吉郎 雪の科学館」で購入したもの。このブログでは、わりと頻繁に画面に映りこんでいます(本のページを開いておくのに便利だからです)。でも、記事を書くため、同科学館に確認したところ、この品はもう取り扱ってない由。

そして、左上の薄い円柱型の品は、大阪のガラス工房に発注したものですが、こちらはすでにお店そのものが営業されていないようです。


購入した日の記憶はこんなにも鮮明なのに、すべては雪のようにはかないです。
まあ、こうやってはかながっている私だって、遠からず全ての記憶とともに、はかなくなるわけですが。

ケミカル蛍狩り2019年08月14日 19時03分00秒

蛍狩りの時期はとうに過ぎましたが、棚の隅からこんなものを見つけたので、暑中に涼を求めることにします。


幅14.5センチの箱に書かれた文字は「蛍光物質」

「昭和40年 理振法」のラベルが貼られた、半世紀余り前の理科教材です。
今も甲府盆地の中央に立つ笛南中学校が、開校と同時に購入したもので、さすがに教材としては使用に堪えないので、廃棄されたのでしょう。メーカーは内田洋行科学教材部で、「Kent」はそのブランド名。


ぱかっと開けると、中に管瓶が5本並んでいます。
この赤ん坊の人差し指ほどの、ちっちゃな瓶に紫外線を照射すると、



…といった感じで、涼やかな化学の蛍を楽しめるのですが、でも、今も元気なのは、左の2本の「有機蛍光塗料」だけです。


真ん中の瓶は「石油」で、石油が蛍光物質とは知りませんでしたが、石油は可視光線を受けて暗緑色の蛍光を発するとあります。今では完全に揮発して、石油は影も形もありません。ただコルク栓に塗られた塗料が、鮮やかな蛍光を発するばかりです。

右側の2本は「ハロゲン化物」「炭酸カルシウム」で、紫外線を浴びると、オレンジやら何やらの光を放つはずですが、今はその能力を失い、単なる“白い粉”として、紫外線LEDの光で青っぽく見えているだけです。

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50年もたてば、「蛍雪の功」も、自ずと空しくなるのもやむを得ません。
古い理科教材を前に、わが身を省みつつ、まあそんなことも含めての「涼」ですね、これは。

蛍光と蛍石の話(その1)2019年08月16日 21時09分41秒

ところで、「蛍光」という言葉。

エネルギーの供給を受けて励起状態となった物質が、再び基底状態に戻る際に発する光、それが「蛍光」です。何か言われて頭に血の上った人が、冷静さを取り戻す際、頭蓋から赤外線を放出する…かどうかは知りませんが、まあ、そんなイメージでしょう。

蛍光の学理は私の手に余るので深入りせず、ここでは、「蛍光(フローレッセンス)」や、その元になった「蛍石(フローライト)」という<言葉>にこだわってみます。

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「蛍光」という言葉は、文字通り「ホタルの光」ですから、あのホタルのお尻の光に由来する言葉だろうと、私は何の疑問も抱かずにいました。

(ホタル。ウィキペディア「ホタル」の項より)

でも、改めて考えてみると、「蛍光」は、「フローレッセンス(fluorescence)」を訳したもので、それは「フローライト(fluorite)」に由来する言葉です。

なるほど、たしかに「蛍石」という日本語は、ホタルに由来するのでしょう。
でも、「蛍光」の方は、直接ホタルから来ているわけではありません。「フローライトが発するからフローレッセンス」であり、「蛍石が発するから蛍光」なのです。つまり、「蛍光」という言葉は、本来「蛍石光」とでも書かれるべきところを、はしょって「蛍光」としているわけです。

(紫外線に照らされて蛍光を発する蛍石(下)。上は白色光で見たところ。ウィキペディア「蛍光」の項より)

ちなみに、「フローライト」の方は、英語の「flow (流れる)」と同根のラテン語から来ており、鉱石を加熱精錬する際、フローライトを融剤として加えると、不要成分が“溶けて流れ出る”ことに由来するそうです。要するに、西洋語のフローライトは、ホタルとは縁もゆかりもない言葉です。それを「蛍石」と呼び、そこから「蛍光」という語が生まれたのは、あくまでも日本独自の事情によるものです。

そうなると「蛍石」という日本語が、いつどこで生まれたかに、興味の焦点は移ってきます。

(この項つづく)

蛍光と蛍石の話(その2)2019年08月17日 08時55分21秒

蛍石の人気は、色・形・透明感の3拍子が揃っていることに加えて、「ほたる石」という名前の可憐さも一役買っているでしょう。その名前をめぐって、さらにメモ書きを続けます。

(様々な蛍石。中央は中国湖南省の黄沙坪鉱山産。八面体は、米・ニューメキシコ州、同イリノイ州産)

そもそも、「蛍石」という名前はいつからあるのか?

この点を考えるのに、一つ重要な資料があります。それは以前、「天河石(アマゾナイト)」の由来を調べたときにも参照した、ヨハンネス・ロイニース(著)、和田維四郎(訳)の『金石学』(文会舎、明治19年<1886>)です。

和田はこの本を訳すにあたって、鉱物の名称について、意訳したり、直訳したり、音訳したり、いろいろ苦労してネーミングしています。そして、それが現在の鉱物和名の基礎となっているので、鉱物名の由来を調べるときには、真っ先に参照すべき本です。

さて、同書で蛍石はどうなっているか?

(国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/831991
 から第257~258丁(コマ番号141~142)を合成)

結論からいうと、「蛍石」はそうやって明治に生まれた新名称ではありません。昔から日本で使われた「和名」だと、和田は記しています。(彼はそれとは別に「コウ灰石」(コウは「行」の中央に「黄」)という意訳を考えましたが、これは普及しませんでした。文意をたどると、コウは今の弗素のことらしく、今風にいえば「弗灰石」です。)

ということは―。
「蛍石」の称は少なくとも江戸時代にさかのぼるものであり、しかも江戸時代の人は、蛍石という鉱物を知っていたばかりでなく、その発光現象も知っていたことになります(そうでなければ、唐突にホタルを持ち出すことはないでしょう)。

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「へえ」と思う一方、でも、そんなに印象的な名前を持った石なら、江戸時代の書物にもっと出てきてもよさそうなのに、江戸の大百科事典『和漢三才図絵』にも、当時の代表的な鉱物誌である『雲根志』にも、蛍石の名を見つけることができないのが、ちょっとモヤモヤする点。

そんな次第なので、江戸時代の蛍石が、すでに工業的に利用されていたのか、あるいは単なる飾り石としての扱いだったのか、そういう基本的なことも今のところ不明です。

(蛍石。メキシコ産)

(この項さらにつづく)

蛍光と蛍石の話(その3)2019年08月18日 08時37分01秒

(昨日のつづき)

論旨を補強するため、もう一冊明治の本を挙げておきます。


こちらは、和田の本のさらに4年前に出た、松本栄三郎『鉱物小学』(錦森閣、明治15年(1882)再版)です。この本には種本があって、スコットランドのJames Nicol(1810-1879)の『Elements of Mineralogy』(初版1858)を編訳したものです。

(上掲書第27丁「蛍石」の項)

この本は、鉱物名が未確立だったことを反映して、石脳油(クサウヅノアブラ)とか、石英(メクラズイセウ)とか、ほかにも雲母(キララ)長石(ボサツイシ)緑泥石(チチブアヲイシ)など、漢字の脇に古めかしいルビを振っています。そして、この本でも「蛍石」はやっぱり「ホタルイシ」ですから、これが日本に昔からあった名前である傍証になります。

注目すべきは、文末に産地として「豊後・美濃等」が挙がっていること。

同書の産地記載は、琥珀は「陸前、陸中等」、辰砂は「大和、紀伊等」、雲母は「岩代、近江、三河其他所々」…などとあって、近時のものではなく、古来の産地のように読めます。少なくとも明治の初めには、蛍石の産地と見なされる鉱床が見つかっていたことは確かです。

蛍石が江戸時代にも産した(天然自然に存在するばかりでなく、人の手で採掘が行われていた)ことをうかがわせるものとして、シーボルト(及び彼の同行者、ハインリッヒ・ビュルガー)が、日本産鉱物種を記載した資料中に、「Flussspath」(蛍石)が出てくることが挙げられます(文献1)。

オランダ商館員のシーボルトらが、各地の山間深く分け入って、自由に鉱物を採集できたはずはないので、これも同時代の日本人が掘ったものが、彼らの手に渡ったのでしょう。

   ★

その後、明治から昭和にかけて、工業化の進展とともに蛍石の需要はますます高まり、あまりにも掘られすぎたせいで、ついに国内鉱山からは枯渇し、姿を消します。

岡野武雄氏の論文(文献2)を読むと、「日本で蛍石は1972年迄採掘され、その最盛期は1963年(2.1万t)であった。日本の蛍石はほぼ掘り尽くされたといってよい。〔…〕国内からは今後も採掘可能な鉱床の発見される可能性は乏しい」とあります(p.30)。

1980年代以降、今に至るまで、蛍石は全量を輸入に頼る状態が続いています。

その使途は、当然のことながら、ほぼすべて工業用で、岡野氏が挙げる1981年現在の状況は、「1981年の蛍石の輸入量は43万tで、中国(60%)、タイ(20%)、南ア(18%)などから輸入されている。輸入蛍石の主要な仕向先は、製鋼用18万t、弗化物用(弗酸など)12万t、アルミ精錬用3万tなど」でした(同)。

最近、韓国ともめた高純度の「フッ化水素」も元は蛍石が原料です。(フッ素の「フッ(弗)」も、大元は「フローライト」の「フ」であり、猛毒の弗素を相手に、かつて多くの科学者が犠牲になったことを、今回知りました。)

(英・ロジャリー鉱山産)

可憐な「ほたる石」も、なかなか可憐の一語では済まないものがあります。

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以上、勢い込んで調べ始めたわりに、さっぱり分からないことばかりですが、でも、「分からないということが分かる」ことも大事ですし、こうやって疑問を形にしておけば、いつか『諸国産物帳』とか、江戸時代の本草書や地誌の中から、蛍石の名がひょいと見つかることもあるでしょう。

(この項おわり)

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文献1) 田賀井篤平 「江戸時代の鉱物認識とシーボルト」
東京大学コレクションXVI「シーボルトの21世紀」所収
※蛍石は「石類」の26に登場。

文献2)  岡野武雄 「日本の工業原料としての非金属鉱物 (2)」
「地学雑誌」92-6(1983)、pp.22-38.