ハレー彗星来たる(その1)2020年01月26日 10時35分37秒

「史上最初に観測されたハレー彗星は、西暦何年のものでしょう?」

――正解は1758年です。

1682年に出現した彗星が周期彗星であることを見抜いた、英国のエドモンド・ハレーが、「次は1757年に再び現れるぞ」と予言し、若干時期はずれたものの、見事その予測が当たったことから、この彗星は「ハレー彗星」の名を得たのでした。すなわち、同じ実体を備えていても、それ以前に登場したのは「ハレー彗星」という名を持たず、初めて「ハレー彗星」として観測されたのが、1758年の暮れだったのです。

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このときの近日点通過は、翌年の1759年にずれこみましたが、それを紹介する当時の新聞記事が売られていました。


掲載紙は1732年に創刊した『ザ・ロンドン・マガジン』。
新聞と言っても月刊で、今で言うと「雑誌」に当たるのですが、当時はそれでも十分耳新しいニュースを人々に提供したのでしょう。

その1759年6月号に、図入りでハレー彗星が紹介されています。

(図版ページが上下逆に綴じ込まれているのは、おそらく乱丁)


星図(Fig.Ⅱ)の中央に描き込まれた点線(Fig.Ⅲ)が、彗星の位置変化。
下から順に5月1日、2日(e)、5日(a)、6日(b)、18日(c)、21日(d)…と移動していき、いちばん上が5月30日の位置。「うみへび座」の南から、天の赤道を越えて「しし座」まで、ひと月かけてその位置を変えていく様子が描かれています(この図は天球儀と同じく、左右(東西)が逆転した描写になっています)。

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それにしても、これを読んで世の中の変化を実感します。

当時、人々の主要関心事は、すでに議会内外の人間模様であり、貿易問題であり、株の値動きでした。そして彗星の出現は、かつてのように凶兆でも何でもなく、ちょっとした科学ニュースの一つに過ぎなくなっていたのです。

これは世俗化著しいイギリスだから、特にそう感じるのかもしれませんが、それにしたって、250年前の人は、さらにその250年前(西暦1500年ごろ)とは、まるで違った世界を生きていたのは確かで、むしろ250年後の現代人とそう変わらない精神構造を持っていたと言えるんじゃないでしょうか。

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程度の差こそあれ、事情は日本でも似ています。
江戸時代の人は、士農工商を問わず、室町時代の人とはずいぶん違った心組みを持っていた気がします。その背景にあったのが、日本版「啓蒙主義」の発展と、「世俗化」の進行であり、それを下支えしたのが出版文化の隆盛です。

くしくも江戸開幕と時を同じくして、海の向こうではセルバンテスの『ドン・キホーテ』が大当たりをとり、17世紀の幕開けと共に、欧州でも日本でも、中世は遠い物語の世界に押し込められていったのです。

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とはいえ―。 いつの世も若者は過去を嗤い、老人は過去を懐かしみ、その若者もやがては老人となって、新たな若者の登場に目をみはり…そんなことを繰り返しながら、時代は徐々に移り替わっていきます。

ハレー彗星の75~6年周期というのは、人の一生と奇妙にシンクロしていて、非常に人間臭い周期です。今後、人間の寿命が大きく変わらない限り、未来の人々もハレー彗星の話題が出るたびに、「前回あいつが来たときは…」と、しみじみ振り返ることを繰り返すでしょう。

(この項、間をおいて続く。次回は1835年の回帰です。)