火星探検双六(2)2021年02月22日 21時38分47秒

(昨日のつづき)

おさらいとして、昨日の全体図を載せておきます。


双六なので、当然途中で行きつ戻りつがあるのですが、とりあえずマス目に沿って進みます。


地球を出発した飛行艇が訪れるのは、まず順当に月です。
ただ、その月は西洋風の「顔のある三日月」で、この旅がリアルな「科学的冒険譚」というよりも、「天界ファンタジー」であることを示唆しています。この辺は描き手の意識の問題であり(樺島画伯は明治21年の生まれです)、「少年倶楽部」という雑誌の性格もあるのでしょう。(これが「子供の科学」の付録だったら、もうちょっと違ったのかなあ…と思います。)


そして、月の次に訪れるのがなぜか土星で、さらに金星を経て、火星へ向かうというのは、順序としてメチャクチャなのですが、そこは天界ファンタジーです。そして途中で彗星に行き会い、いよいよ「火星国」に入ります。


火星国は、石積みの西洋風の塔が並ぶ場所とイメージされており、完全にファンタジックな夢の国です。


そして王国の首都らしき場所に入城し、「大運河巡遊船」に迎え入れられる場面が「上り」です。確かにそこは威容を誇る都ではありますが、いかにもサイエンスの匂いが希薄で、単なる「お伽の国」として描かれているようです。

もちろん、火星を科学文明の栄える場所として描くのも、まったくのファンタジーですから、そこは五十歩百歩と言えますけれど、後の「タコ足の火星人が、透明なヘルメットをかぶって『$#?@%#;+?~&@??』と喋っている」イメージとの懸隔は大きく、少なからず奇異な感じがします。

これが時代相なのか、それともやっぱり画家の資質の問題なのか、その辺を考えるために、もう1枚の火星探検双六を見てみます。

(この項つづく)

火星探検双六(3)2021年02月23日 09時52分10秒

大日本雄弁会(現・講談社)が出した「少年倶楽部」(1914-1962)と並んで、一時は最もメジャーな少年誌だったのが、実業之日本社の「日本少年」(1906-1938)です。

もう1枚の火星探検双六とは、この「日本少年」の正月号付録です。
前回登場した樺島双六の4年後、昭和6年(1931)に出ました。その名も「火星探検双六」。(書き洩らしましたが、前回の樺島双六のサイズは約53.5×78.5cm、大双六の方は約54.5×79cmと、その名の通りちょっぴり大きいです。)

(こちらもタタミゼして、背景は畳です)

原案は野口青村、絵筆をとったのは鈴木御水。
野口青村は、当時「日本少年」の編集主筆を務めた人のようです。一方、鈴木御水(1898-1982)は、「秋田県出身。日本画の塚原霊山や伊東深水に師事。雑誌「キング」や「少年倶楽部」に口絵や挿絵を描き、とくに飛行機の挿絵にすぐれていた。」という経歴の人。

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この大双六と樺島双六を比べると、いろいろ気づかされることがあります。
まず両者には、もちろん似たところもあります。


いきなり核心部分を突いてしまいますが、画面で最も目に付くであろう、この「上り」の絵。冒険を終えた二人の少年が、ペガサス風の聖獣麒麟に乗って、「日本へ!日本へ!」と凱旋の手を振っているところです。


そして、その直前の火星の王様に謁見する場面。二人は旭日旗を掲げ、恭しく太刀を王様に献上しています。はっきり言って、どちらも変な絵柄なんですが、こうしたお伽の国的描写において、大双六は樺島双六と共通しています(大双六の方が、いささか軍国調ではありますが)。

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その一方で、両者が著しく異なるのは、SF的要素の取り扱いです。

大双六には、樺島双六に欠けていた「最新空想科学」の成分がふんだんに盛り込まれており、火星探検ストーリーはお伽話ではなく、科学の領分であることをアピールしているようです。子供たちが科学に夢を抱き、火星にその夢を投影したというのは、戦後にも通底する流れですが、1931年当時、既にそれが少年たちのメインカルチャーとして存在したことを、この大双六は教えてくれます。(この点は、樺島双六でははっきり読み取れないので、何事も比較することは大事です。)

(科学冒険譚の細部に注目しつつ、この項つづく)

火星探検双六(4)2021年02月24日 18時57分54秒

さっそく訂正です。
昨日の記事で、少年たちが麒麟に乗って地球に帰る直前、火星の王様と謁見し云々…と書きましたが、よく順番を目で追ったら、王様に謁見したあとも、いろいろなエピソードが続くので、この点をお詫びして訂正します。

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それでは改めて「火星探検大双六」のストーリーを、コマごとに見ていきます。


「1 ふりだし 富士山上を出発」
日の丸の小旗を振って見送る群衆。敬礼して振り返る凛々しい少年冒険家。
少年たちが乗り込むのは真っ赤な機体の「日少号」、推力はロケット式です。樺島双六に登場したのは、プロペラで飛ぶ飛行船式のものでしたから、これはかなりの技術的進化です。

「2 雷雲にあふ」
高度を上げる機体の前に、真っ黒な雷雲が立ちふさがります。もちろん、ここに太鼓を持った雷様の姿はありません。

「3 雷雲突破」「4 星雲に大衝突」

無事雷雲を突破し、大気圏外に出たものの、月に到達する前に星雲に衝突…というのも変な話ですが、作り手も「星雲」の何たるかを、明瞭に認識していなかったんじゃないでしょうか。おそらく「宇宙空間に漂う怪しいガス」ぐらいに思っていたのかもしれません。背景のやたら土星っぽい星が浮かぶ宇宙イメージにも注目です。

「5 月世界到着」「6 月の探検」

20世紀ともなれば、月は荒涼たる世界で、月世界人はいないことが既に前提になっています(それでも火星人はいることを、大勢の人が信じていました)。船外活動する二人が、立派な宇宙服を着ているのも、すぐれて科学的描写です。

「7 ヤッ彗星だ」

彗星との邂逅は、樺島双六でもありました。どうも宇宙探検で、彗星は外せないイメージみたいですね。

「8 火星軍現る」「9 電波で墜落」

さあ、いよいよ火星に到着です。
しかし二人は歓迎されざる存在のようで、すぐに火星軍が恐るべき兵器で襲いかかってきます。

(手に汗握りつつ、この項さらにつづく)

火星探検双六(5)2021年02月25日 08時50分04秒

(昨日のつづき)

「10 見張」

「11 火星軍総動員」「12 物すごい海中城」

火星の恐るべき科学力は、ロボット兵士を作り出すに至っています。そのロボット部隊に動員が下り、海中にそびえる軍事要塞から次々に飛来。


「13 海蛇艇の包囲」
さらに人型ロボットは、巨大な龍型ロボットを操作して、鼻息荒く主人公に襲い掛かってきます。メガホンで投降を呼びかける人型ロボットに対し、ハッチから日の丸を振って、攻撃の意思がないことを示す少年たち。

「14 なかなほり」「15 火星国の大歓迎」
至誠天に通ず。少年たちの純な心が相手を動かし、一転して和解です。
あとはひたすら歓迎の嵐。

「16 王様に謁見」

これが以前言及した場面です。ふたりは豪華な馬車で王宮に向かい、王様に拝謁し、うやうやしく黄金造りの太刀を献上します。(火星人はタコ型ではなく、完全に人の姿です。)

「17 火星の市街」

空中回廊で結ばれた超高層ビル群。この辺は地球の未来都市のイメージと同じです。

「18 魚のお舟」

「19 人造音楽師」

「20 お別れの大宴会」

火星の娯楽、珍味佳肴を堪能して、二人はいよいよ地球に帰還します。

「21 上り 日本へ!日本へ!」

嗚呼、威風堂々たる我らが日本男児。
何となく鬼が島から意気揚々と引き上げる桃太郎的なものを感じます。

それにしてもこの麒麟型の乗り物は何なんですかね?日少号は?
日少号は置き土産として、代わりに火星人に麒麟号をもらったということでしょうか。

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今からちょうど90年前に出た1枚の双六。
ここでパーサビアランスのことを考えると、90年という時の重みに、頭が一瞬くらっとします。1世紀も経たないうちに、世の中はこうも変わるのですね。

しかも、一層驚くべきことは、この双六が出た30年後には、アメリカがアポロ計画をスタートさせ、それから10年もしないうちに、人間が月まで行ってしまったことです。

アポロの頃、この双六で遊んだ子供たちは、まだ40代、50代で社会の現役でした。当時のお父さんたちは、いったいどんな思いでアポロを見上げ、また自分の子供時代を振り返ったのでしょう?…まあ、実際は双六どころの話ではなく、その後の硝煙と機械油と空腹の記憶で、子供時代の思い出などかき消されてしまったかもですが、戦後の宇宙開発ブームを、当時の大人たちもこぞって歓呼したのは、おそらくこういう双六(に象徴される経験)の下地があったからでしょう。

(この項おわり)

博物趣味の春2021年02月27日 17時55分13秒

壁に掛かっている暦を見ると、先週の木曜が雨水、来週の金曜日が啓蟄だと書かれています。水仙のつぼみが膨らみ、紫陽花の鮮やかなグリーンの新芽が顔を見せ、やっぱり春は毎年めぐってくるものですね。年々歳々花は相似たり…とはよく言ったものです。

そして上の句は「歳々年々人同じからず」と続きますが、人の方もやっぱり相似ていて、政治の醜聞が続いています。まあ、人が人である限り、醜聞が絶えることはないのかもしれませんが、それを肯定することはできません。醜聞を前にして、「これは醜聞である」と、きっぱり認識できることが大事であり、目の前の出来事はどう見ても醜聞です。

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さて、こういう季節になると、野山に出かけて、にわかナチュラリストを気取りたくなります。まあちょっとした観察なら近所の裏山でも十分ですから、気取るも何も、すぐに出かければいいわけですが、「天文古玩」の常として、まず形から入ることにします。


そのための小道具として、小さな野外用顕微鏡を買いました。
箱の高さが17cmというかわいいサイズで、合焦ノブのない、手で鏡筒を出し入れしてピントを合わせる、ごく素朴なタイプの顕微鏡です。野外に簡単に持ち出せるので、field microscope とも呼ばれるし、安価で生徒にも買えたため、student microscope と呼ばれることもあります。いわば日本でいう「学習顕微鏡」のアンティーク版。


科学機器の歴史が専門のGerard L’E. Turnerの本を見ると、この手の顕微鏡(ターナーは drum microscope(円筒型顕微鏡)と呼んでいます)の歴史も結構古くて、最初は1740年代にイギリスのベンジャミン・マーティンが売り出して、その後19世紀半ばには英仏両国の多くのメーカーが手掛けて、大いに売れたようなことが書かれています。当時の博物趣味と顕微鏡の一大ブームが追い風になったのでしょう。

(Gerard L’E. Turner(著)『Collecting Microscopes』、Christie’s of South Kensington Colectors Series、1981より)

大いに売れたということは、それだけ数が残っているわけで、しかも元々廉価版ですから、アンティークとしての価格もリーズナブルです。私ももっと早く買えばよかったのですが、これまでたまたま縁がありませんでした。


ただ、私が買った品が19世紀まで遡るかどうかは疑問で、木箱の造りや、ラッカーの色合いからすると、20世紀第1四半期ぐらいかなと想像します。
メーカーはエディンバラのE. Lennie社で、ここは1840年に創業し、1971年まで続いた老舗です(参考LINK)。最初は創業者Jamesの名をとって「J. Lennie」でしたが、ジェームズの没後、未亡人のElizaが店を継いで「E. Lennie」に改名しました


木箱に焼き印で押された住所はPrinces Street 46番地で、同社がここに店を構えたのは1857年から1954年までだそうですから、少なくともこの範囲を出る品ではありません。

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自分で言ったことを食言するようですが、この相棒をかばんに忍ばせて野山を闊歩するか…といえば、たぶんしないでしょう。野山に持っていくならば、もっと実戦向きの機材がいろいろあります。

ただ、この真鍮製の筒に象徴される博物趣味の世界は広大で、たいそう滋味豊かです。こうして顕微鏡を脇から眺めているだけでも、それは感じ取ることができます。

1枚の葉、1匹の虫の向こうに広がる自然の奥深さは言うまでもありませんが、人と自然が出会うところに生まれる博物趣味の豊かさも、それに負けぬものがあります。これはちょうど、詩に詠われる自然の美しさと、詩文そのものの美しさとの関係に等しいと言えるかもしれません。

そしてまた、文人が文飾を練りつつ文房四宝を愛でるように、鈍く光る顕微鏡の向こうに、博物趣味の佳趣を感じる人がいても良いのです。(何を言っているのか、自分でもよく分かりませんが、まあ分かったことにしましょう。もっと平たく言えば、これは「積ン読」のモノ版です。)