黄色い粉の舞い飛ぶ空に希望はあるか2021年03月15日 19時14分17秒



私の机の上に、かつて1本の杉の木が生えていました(LINK)。
枯死してすでに久しいですが、それを嘆くまでもなく、杉の木はこの国土全体を覆っています。

世の中に たえて花粉のなかりせば 春の心はのどけからまし
心底そう思っている人も多いことでしょう。

何故、たかがあんな小さな粒々に苦しまなければならないのか?
といっても、ここで真の問題は、花粉ではなくて、花粉に対する我が身の反応の方です。そんなにいちいち反応しなければいいのに…と思いますが、我が身のことながら、これがなかなか自由になりません。

なぜ自分で自分を苦しめるようなことをするのか? 
ここにおいて、苦しめる「自分」と苦しむ「自分」は、はたして同じ「自分」なのか?
そもそも「自分」とは何なのか?…と、大いに哲学的な問いが発せられます。

ちょっと考えると分かるように、「自我意識」「自分」(=自己という存在)は大きくずれる部分があって、強いていえば、後者の方が圧倒的に大きな存在です。自我意識は、そう念じても髪の毛一本の脱落すら阻止できないし、そのプロセスを意識することもできません。(だから自殺は良くないのだ…という人もいます。ちっぽけな自我意識が、より大きな自分そのものを抹殺するのは僭越に思えるからです。)

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まあ暇に飽かせて、そんなことを考えても、花粉症が軽くなるわけではありませんが、ただ、希望がまったくないわけではありません。たとえば鼻がグズグズする、目がかゆい、頭がボーっとする、そうした感覚の存在は否定できないとしても、それを「苦痛」と感じるかどうかは、結構裁量が利くからです。

鼻がグズグズすると、人はなぜ苦痛と感じるのか? それは必然というよりは、単なる予断と刷り込みに過ぎないのではないか? ひょっとしたら、人間は鼻がグズグズする状態を「快」と受け止める可能性だってあるのではないか?
…ということは、考えてみる価値が大いにあります。

何だか「坊主の寝言」のようですが、実際、「鼻がグズグスしだしたら、報酬(たとえば金銭や精神賦活物質)がもらえる」という条件付けをくりかえし行った場合、「鼻グズグズ」の主観的体験の色合いが、180度変わることだって、理論的にはあり得ます。

我々の経験を形作るものとして、いわゆる「認知的成分」(対象の受け止め方)は、相当大きなウェイトを占めるので、この辺がちっぽけな自我意識を以て花粉症という難敵に立ち向かう肝であり、大いなる希望ではなかろうか…と、うららかな空を見上げながら考えました。