理科室のバイプレイヤー…解剖顕微鏡 ― 2021年09月15日 18時44分15秒
私のイメージする理科室にあって欲しいモノ、それは解剖顕微鏡です。
ふつうの顕微鏡が100倍とか200倍とかの高倍率で、ミクロの世界を探検する道具であるのに対し、解剖顕微鏡はごく低倍率(10倍とか20倍)で、肉眼的な対象をじっくり観察する道具です。用途としてはルーペに近いですが、ルーペと違って、覗きながら両手が自由に使えるのがミソで、検鏡しながら解剖作業を行ったりすることから、その名があります。
解剖顕微鏡は、昔の理科の児童書や学習図鑑にはやたらと出てきて、その使用を推奨されましたけれど、実際に子供の手の届く範囲には存在しないという、不思議な品でした。子ども向きの学習顕微鏡は、あちこちで売っていたのに(半世紀前の子供は、親や親戚が必ず買ってくれたものです)、解剖顕微鏡はデパートにも売っていませんでした。そんなに高価なものではなかったと思うんですが、子供時代の印象としては、解剖顕微鏡は理科室の占有品で、ものすごく立派で有難い存在だったのです。
…と呟いても、なかなか伝わりにくいと思いますが、そんな個人的体験から、解剖顕微鏡はぜひ欲しい品でした。
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そして、そもそも古い理科室にこだわった末の行動ですから、古めかしい品であればなおさら結構で、見つけたのは戦前のそれです。
蓋に「解二」と筆太に書かれた木箱。
サイズは縦19.5×横14×高さ17cmと、わりと小ぶりなものです。
箱を開けると、真っ先に真鍮の輝きが目に映ります。真鍮はやはり華があります。
そして本体を箱から出して、パーツを取り付けると、
こんな姿の解剖顕微鏡が出現します。ペンギンの羽のように左右に広がったパーツは、解剖作業をするときの「手載せ台(ハンドレスト)」で、この特徴的なシルエットに、子供のころの自分は畏敬の念を抱いたのでした。
はめ込まれているのは20倍のレンズ。もうひとつ10倍のレンズがあったようですが、残念ながら欠失しています。
メーカーは、カルニュー(Kalnew)光学機器製作所。
大正10年(1921)に東京で設立された、日本でも指折りの老舗顕微鏡メーカーです。手元の解剖顕微鏡も、おそらくは大正末~昭和初年(1925年前後)のものでしょう。なおカルニュー社は、戦後、島津製作所の傘下に入り、現在は「島津デバイス製造」を名乗っています。
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この品の由来をもう少し書いておくと、これは明治38年(1905)に開校した、東京の日本橋高等女学校(その後、日本橋女学館の名称を経て、現在は開智日本橋学園高校)の備品だった品です。
私が購入したのは2007年で、当時校舎の建て替えに伴い、同校の古い備品が大量に廃棄された折に、運よく入手できました。これもひとえに、まめなリサイクル業者のおかげです。まさに捨てる神あれば拾う神あり。このとき購入した品は他にもいろいろあって、以前書いた記事では固有名詞をぼかしていましたが、今となっては特に支障もないでしょうから、文字にしておきます。
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古い女学校の理科室に鎮座していた解剖顕微鏡。
私の子供時代をはるかに飛び越えた古い品ですから、懐かしい上にも懐かしく、手に取れば、その長い物語が聞こえてくるようです。
コメント
_ S.U ― 2021年09月19日 07時49分09秒
_ 玉青 ― 2021年09月19日 08時42分40秒
S.Uさんは幼少の頃より徹頭徹尾、理科少年だったと思いますが、そのS.Uさんにしても記憶にとどめおられないということは、やっぱり相当個人差がありますね。記事でも書いたように、昔の理科の児童書や学習図鑑には、解剖顕微鏡がやたら出てきた印象があって、私は今でもそのページが浮かんでくるんですが、この「やたら出てきた」という印象自体、かなり個人的バイアスがかかっているんだろうなあ…と思い直しました。人間の記憶とは、そして体験とは、面白いものですね。
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正直申し上げて、こういうものは聞いたことがありませんでした。聞いたことがあるにしても、よほどマイナーなものとして失礼ながら無視していたと思います。解剖するとしたら、昆虫でしょうか。
私がこの類いのもので思い出すのは、電子基板の半田付け作業台で、1990年代にハーフピッチ(0.05インチ)というコネクタや基板が普及して、配線を自作でするときに必要となりました。今は一般人が手動でやらなくなったので、またもおおむね用無しになっていると思います。