夏の日の出来事2022年07月08日 20時25分37秒

蝉の声が遠くに聞こえる昼下がり、安倍さんが銃弾に倒れたというニュースをぼんやり眺めていました。言うまでもなく大変な事件なわけですが、なんだか現実感が希薄で、この事件に衝撃を受けない自分がむしろ衝撃でした。そして、共謀罪法が強行採決されたことに抗議するため、黒ネクタイを締めて出勤したことなんかを、うっすら思い出していました(5年前の暑い6月のことです)。

私にとって安倍氏は、「巨悪」であったり、「小悪党」であったり、一貫して好ましからざる人物として目に映っていましたが、たとえ悪を身にまとっても、銃弾を身に受ければ赤い血が流れ出る人間であり、かつては母の胸に抱かれて、その生を祝福されたこともあったのだろう…と思うにつけ、やはり無慚な思いにとらわれます。

とはいえ、釈然としない思いもいろいろ胸に去来します。
「民主主義の根幹に対する挑戦だ!」と、判でついたようにコメントする自民党の要人を見ながら、「そもそも民主主義の根幹に挑戦し続けたのは、一体誰なのか?」と思うのもそうですし、死者は先ずもって悼むべきだという声に深くうなずきつつ、「安倍さんは赤木俊夫氏の霊前に線香の一本も手向けたのだろうか?」ということも思います。この辺は自分でも偏頗な意見だと思いますが、どうしてもその思いを抑えかねます。

   ★

それにしても、金属の武器を前にしたとき、生身の肉体はいかに弱いものか。
武器とは非人間的なものだ…と改めて感じます(武器を使うのは人間だけという意味では、この上なく人間的と言えるのかもしれませんが…)。今回のような手製の拳銃ですらそうなのですから、まして重火器や、大量破壊兵器を人に向けて使うという発想は、いったい人の心のどこから生まれてくるのか?

毎度のことながら、人間の「業」の深さに圧倒される思いがします。

コメント

_ S.U ― 2022年07月09日 07時34分45秒

>「民主主義の根幹に対する挑戦だ!」と、判でついたようにコメントする自民党の要人

玉青さんのご意見と共通する視点なのかどううかはよくわかりませんが、私も似たような「釈然としない思い」を持ちました。これは、与野党を問わず党首が(岸田さんも泉さんも志位さんも・・・です)、「言論の自由を封じる許されない行為」といった点についてです。

 国会に出ようというような政治家は、与野党を問わず、街頭で演説すればそれなりの人数の人が集まって聞いてくれますし、国会議員になればテレビの中で自説が唱えられ、法律を採決すれば人民をこれに強制的に従わせることができます。いっぽう、大多数の庶民は、自分の政治的意見を演説にまとめる気持ちの余裕すらなく、たとえ、一念発起、奮発して意見をまとめて街頭演説したところで、人々に白い目で見て見ぬふりをされ、交通警察の指導を受けるのがオチでしょう。最近は、ブログやSNSで政治的意見を公表することは容易になりましたが、これとて一般市民の場合は、大勢の人に読んでもらえるかわからず、ましてやその意見で自分の名を挙げることは凡人には相当困難です。また、国会で通った法律で、いくら自分が損をしたり面白くないことが起こっても、一般人は、裁判で勝つ見込みがない限り、世を恨みながら、黙るか酒を飲むかで泣き寝入りするしかありません。政治家と一般庶民の間には高い高い壁があると言わざるを得ません。

 今の日本で、政治家でも誰でも撃たれていいはずはなく、銃を街なかで発砲する犯人が尋常な市民であろうはずももちろんないのですが、犯人が政治家と市民の間のこの高い壁のどちら側にいる人か、ということは、政治家も市民も思いをはせないといけないことではないかと思います。特に、明日の選挙の開票の時に、国会議員の政治家にこのことを思い浮かべてもらいたいと思います。(おかげさまで、明日の選挙に結びつけられたので、少し釈然としました。)

_ 玉青 ― 2022年07月10日 08時37分25秒

まったく庶民は踏んだり蹴ったりで、じゃあ銃の代わりにプラカードを手に穏便に訴えればいいのかというと、それもすぐ排除されたりで、ほんまにどうせえちゅうねん…と思います。そもそも政治家が世襲化して、政治家と一般市民が分断されているという状況そのものがおかしいです。

_ S.U ― 2022年07月10日 11時29分38秒

こういう事件が起こると「言論での対話が重要」ということになるのですが、結局のところ起こるのは、政治家と一般市民の間の壁がさらに高くされ、市民の活動が制約される。まったく、踏んだり蹴ったりへの一方通行です。

 それの答えになるか、単なる脱線かわかりませんが、以前、自由社会をゆったりと満喫しているかに見えるフランス(特にパリ)で、デモやストライキ、時に過激な暴動が多い理由についてフランス人に尋ねたことがあります。(繰り言になっていたらごめんなさい) その答えは、ようするに、パリでは、政治家というのは市民が強く導いてやらないとちゃんとした政治ができないというのが前提になっていて、デモやストライキがまともな政治の必要構成条件になっている、(つまり、それでかろうじて政治が何とかなっている、と市民が考えている)ということでした。
 たった一人の意見を聞いただけなので、正しいかどうかわかりませんが、頼りない評判のようなマクロンさんが選挙では勝ったので、これは、頼りなくて、かつ、市民のコントロールが効くと見なされたと考えれば話が合うように思います。

 日本にすぐに応用が聞く話ではないと思いますが、市民側としては、デモクラシーの先輩による参考になる考え方だと思います。

_ 玉青 ― 2022年07月11日 07時29分55秒

件のフランスの方の仰ることは至極真っ当ですね。
というか、日本でもちょっと前まではそうでしたし、今の日本の方が古今東西を通じて珍しい例なのだと思います。でも回帰効果によって、この特異な状態もいずれは解消されますから、為政者が「我が国は従順でモノ言わぬ民ばかりだな。ちょろいちょろいw」と侮っていると、いつかきっと足元をすくわれるでしょう。まあ、それまで日本という国がもつかどうか、今気になるのはその点です。

_ S.U ― 2022年07月12日 07時50分17秒

玉青さんの投票日の「余滴」にも書かれているように、統一教会の問題が出てきたので、心情的にはさらに「壁のこちらがわ」という気持ちがしてきました。我々が学生の頃は、統一教会のために家庭が壊れる、というのが身近で切実な問題になっていました。

 でも、それから40年経って、みんな忘れやすいのをいいことに、どんどんうやむやにしていくのでしょうね。私からすれば、たかだか40年前のことをぼやかしてもらっては困るのですが。昔というか、せいぜい私自身の人格の基礎になった時代に過ぎませんから(安倍元首相にとっても同様だったでしょう)。

_ 玉青 ― 2022年07月13日 07時19分03秒

原理研、ムーニズム…。危険な香りのする懐かしさがあります。あそこはいろいろ名前を変えたフロント組織があって、盛んに勧誘をやっていました。私もボーっとして見えたせいか、何度か声をかけられました。一人暮らしで、大学でも孤独を感じているような人は、本当に危なっかしいものがありました。

さっき、統一教会(世界平和統一家庭連合)のサイトを覗いてみたんですが、いまだに合同結婚式はトップページに載っているし、「世界を共産主義の脅威から守るために「国際勝共連合」を創設」し、「世界から集まってきた学者や文化人を前に「メシヤ宣布」を行い、自らが再臨主であることを公に宣言」した文鮮明を個人崇拝する姿勢は全く変わってなくて、極右カルトぶりは健在でした。

山上容疑者と教団の関係、警備の問題、安倍さんは世界平和の理念に共鳴しただけ…そんなワードで、関係者は問題の矮小化を図ろうとしていますが、偏向著しいカルトと時の首相(及び政権党)との蜜月ぶりこそ重大な事柄なわけで、今後の世間の動きをしっかり見届けたいと思います。

_ S.U ― 2022年07月14日 07時18分41秒

ほんと懐かしいですね。こうなると、私も簡単には止まりません  m(_ _ )m
>原理研
私は、学生時代に福音書にあるイエスの史的生涯に関心を持っていたので、原理研にも興味を引かれました。「原理」というからには史実か聖典に忠実にやっているのかと思いきや、意外に唯心論的みたいで、さいわい宗旨が合わず、ひっかかりませんでした。私はイエスは左派活動家に近いと捉えていましたもので、彼らはぜんぜん踏み込みが足らないと思いましたね^^;

>「世界を共産主義の脅威から守るために「国際勝共連合」
この文脈で見ると、統一教会が守ろうという「世界平和」が「大資本家の金権」を意味することは明白なのですが、それを我々とほぼ同時代に学生時代を送り、関係する政治家の父、祖父を持つ安倍さんが知らないはずはありませんし、当時の学生の常識を考えても知らないと言って通るものではないと思います。
 今思えば、安倍氏が演説中のヤジを指して「こんな人たちに負けるわけには・・・」と言ったのも、やはりこの文脈に起源する発想ではないかと感じます。

_ 玉青 ― 2022年07月15日 06時47分36秒

>さいわい宗旨が合わず、ひっかかりませんでした

いやあ、危なかったですねえ。宗旨が合わず本当に幸いでした。
人の心には波があり、そこに穴が開くときもありますから、そういうタイミングで巧みな言葉を掛けられたら、そしてたまたま宗旨が合うものだったら、当時の私も持っていかれたかもしれないなあ…と、今振り返ってもヒヤヒヤものです。そして、そういう人の弱さにつけ入る先方の悪質さに、改めて怒りを感じます(まあ、これは統一教会に限らないでしょうが)。

安倍さんの場合、自分は「大資本家の金権」の側であり、さらにその上に立って人々を統治し、かしずかれる立場の人間だ…というぐらいの意識だったでしょうから、統一教会に接近することに、何の葛藤も呵責もなかったのでしょう。しれっとしたものです。まあ、世間の物差しでは、それがまずいことになっていることぐらいは知っていたでしょうけれど、それにしても大っぴらにメッセージを寄せたり、だいぶタガが外れている感じはありましたね。

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