七夕短冊考(補遺)2022年08月20日 08時51分15秒

先日まで7回にわたって書き継いだ「七夕短冊考」

“戦前は、七夕の短冊に願いごとを書く習慣はなかった”
“いや、一部には確かにあった”
“でも、大勢としてはなかったはず。戦後の幼児教育の影響が大きいのでは?”

…みたいなことを書きましたが、その流れにうまく接合できなかった情報があり、何となくモヤモヤしているので、ここに補遺として挙げておきます。

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連載第5回で、歌人の鮎貝久仁子氏が書かれた「甦る七夕祭(東京)」という文章を引きました。東京で育った鮎貝氏が、少女時代(大正時代)に家庭内で短冊に願い事を書くよう勧められた…という回想記です。

鮎貝氏の文章は、雑誌「短歌研究」1972年7月号に掲載されたものですが、この号は「夏の歳時記Ⅲ」と称して、一種の七夕随筆特集を組んでいます。鮎貝氏の文章ももちろんそのひとつです。

で、私が気になったのは、同じ号に収められた、中原勇夫氏(1907-1981)による「佐賀平野の七夕まで」という文章です(pp.134-137)。これは氏の思い出話ではなくて、1972年現在の佐賀近郊の情景を叙したものです。

(出典:ウィキペディア「佐賀平野」の項より)

以下、いささか長文になりますが、一部を引かせていただきます(pp.136-137、太字は引用者)。


 「街や村の小店には、やはり八月に入ると、「七夕紙あります」という貼り紙が出る。子供たちは五十円ほどのお金を手にして楽しげに連れ立ってそれを買いに行く。七夕紙には赤、黄、緑、紫色のものと、薄桃の地色に星をちりばめたものの五種があって、全体にくすんだ色調のヒキの強い紙からできている。

 八月六日、七夕の前日には、どの家も家族全員で準備にかかる。〔…〕

 七夕の当日、八月七日はどの家も早く起きる。日の出前に、大人たちに連れられて子供たちは、容器を持参して露をとりに行くのである。〔…〕持ち帰った露の水は用途が二つあって、家族みんながそれで顔を洗うのと、それで墨をするのとである。その墨で短冊を書くのであるが、短冊には天の川、家内安全、八月七日、おりひめさま、ひこぼしさま、自分の願いごと、自分の名前、いろは文字などをそれぞれ年齢に応じて書く。女の子たちは「早く一年生になれますように」とか「くつを買ってもらえますように」とかわいいことを書いたりする。また男の子たちは、将来の希望の職業(おまわりさんとか新幹線の運転手とか)などを書いたりする。これらの願いごとは、朝露ですった墨で書かないとかなわないと言われる。書きはじめるのは、年長者からで、祖父がいれば祖父からはじめるのが常である。七夕竿につるすときには、「七夕さま、どうか私の願いをかなえてください」あるいは「字が上手になりますように」などと祈ってつるすのである。〔…〕書き損じた失敗作の短冊もやはりみんな残らずつるすならわしである。〔…〕

 七夕様にお願いした願いごとは、短冊が早く切れて落ちるほど、早くかなえられると言われている。また、落ちた短冊を拾いあげたら願い事がかなえられぬというので、女の子たちは自分の願い事を他人に見られて恥ずかしくてもじっとがまんして拾わずにいるのは可憐である。〔…〕

 以上の、部落、一家をあげての七夕の風習がまだまだ佐賀平野、とくに西南部の白石地方に滅びずに残っているのはうれしいことだと思う。」


これを読んでただちに分かるのは、学校や園の行事とは別に、伝統的な民俗行事としての七夕にも、短冊に願い事を書く風習はたしかに入り込んでいたという事実です。この点で、自分が以前書いた記事は、若干修正が必要です。

ただし、これは1972年現在の風習ですから、それが戦前まで遡るかどうかは分かりません。でも、少なくとも明治生まれの中原氏が、特にそれを異としている気配はありませんし、各家庭の年長者たちも、「そういうもの」と当然視しているように読めます。

また、「願いごとは、短冊が早く切れて落ちるほど、早くかなえられる」云々とあるのは、連載第5回で引用した、「〔願いを書いた短冊が〕行き方も分からないようになったら願いは叶う」という、幕末期の江戸の庶民の観念を彷彿とさせます。幕末の江戸と昭和の佐賀とで、似たようなことを信じていたということは、そうした観念が時間的・空間的に一定の広がりを持つことを推測させるもので、この辺はもうちょっと探りを入れてみたいです。

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それにしても、1972年といえば、私の子ども時代とかぶっていますが、私自身はこんな経験をしたことはありません。でも、これぞ私が思い浮かべる「懐かしい七夕」のベタなイメージで、何となく昔の「新日本紀行」を見ているような気分になります。