なぜ天文古書を?(後編) ― 2022年09月11日 09時37分56秒
スチュアートさんの書き込みを読んだとき、実は微妙な違和感がありました。
それは、スチュアートさんが「天文古書なんて古臭いものを、なぜ一部の人は集めるのか?」と問うていたからです。
もちろんスチュアートさんの真意は全く違うところにあると思いますが、その問いの前提ないし含意は、「天文古書は古臭くて、実用性に欠け、そうしたものは読んでもしょうがないんだ」という考え方です。でも、私が天文古書に惹かれる理由(のひとつ)は、まさに「古風で実用性に欠ける」からなので、出発点からして全然違います。
(賑やかしの演出写真。以下も同じ)
京の伝統町家や、優美な茅葺の古民家を、単に「古臭い」とか「住みにくい」とかいう理由で取り壊して、新しい家に建て替える――実際そうした例は多いし、それは住む人の権利だとは思いますが、一部の人にとっては、はなはだ嘆かわしいことでしょう。私が天文古書をいとおしむ気分は、それに通じるものがあります。
人から人に伝わってきた古いものは、それだけで慈しむに足るし、ましてやそこに優美さや、往時の人の思いが感じられれば、それを尊重しないわけにはいきません。
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ここでちょっと注釈を入れておくと、「天文古書には実用性がない」と書きましたが、ある立場の人にとっては、天文古書にも立派な実用性があります。それは、過去の学説史を学ぶ人、つまり「天文学史」の研究者で、そうした人にとって、天文古書は大切な研究材料であり、いわば飯の種です。
研究こそしていないものの、私も興味関心は大いにあるので、天文学史家にはシンパシーを感じます。でも極論すれば、研究目的のためだけなら、デジタルライブラリでも事足りるので(今後、古書のデジタル化はますます進むでしょう)、モノとしての本は無くても良い…ということになりかねません。この点で、私の立場は純粋な天文学史家ともズレる部分があります。
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「天文古書好き」というのは、「天文好き」と「古書好き」の交錯領域に成り立つものでしょう。「真理を説く」という科学書の第一目的から逸脱してもなお、古民家のごとくそれを愛惜するというのは、もっぱら後者の観点からです。いわば審美的観点。
実際、天文古書はビジュアル面でも優美と呼ぶほかないものが多々あります。
古風な装丁もそうですし、その美しい挿絵の数々には、まったく目を見張らされます。まあ、美しい挿絵ならば現代の本にも多いわけですが、天文古書の場合は、まさに「古い」ということが重要な要素です。それは自分と過去の世界とのつながりを保証するものであり、甘美なノスタルジーを存分に託せるだけの頼もしさを備えています。
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そして、これまで何度も口にしてきた「星ごころ」。
16世紀の人は16世紀なりに、19世紀の人は19世紀なりに、そして21世紀の人は21世紀なりに、精いっぱいの知識と知恵で星空を見上げ、そこに憧れを投影してきたという事実、それが私のシンパシーを誘うわけです。この点では、古いも新しいもなくて、みな同格です。いずれも熱く、そして優雅な営みだと思います。
そして、現代の星ごころを知るためのツールはたくさんありますが、過去の人の星ごころを知ろうと思えば、何といっても天文古書が良き窓であり、好伴侶です。それが天文古書を集める大きな理由です。
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スチュアートさんの問いに対する答をまとめておきます。
「あなたは天文古書を集めていますか?」
はい、集めています。
「誰の本を?」
過去のあらゆる時代の星好きが著した本です。
「どんな本を?」
優美で、愛らしく、星ごころが横溢した本です。
「なぜ?」
それがまさに過去に属し、古人と語らう場となるからです。また審美的にも優れたものが多く、ロマンを感じさせるからです。
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