パリ天文台の3世紀 ― 2022年09月21日 22時13分56秒
先日、パリ天文台のテレホンカードを載せました。
あれからちょっとパリ天文台のことが気になっています。
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今から55年前に、「パリ天文台 1667-1967:天文学の3世紀」という展覧会がありました。そのポスターが手元にあります。
(大きさは49.5×36.5cm)
会期は1967年6月23日から7月31日まで、入場は毎日15時から18時まで…とあって、会場は書かれていませんが、当然パリ天文台でしょう。
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事程左様に、パリ天文台の歴史は古いです。
天文台の歴史というと、その言葉の定義にもよりますが、近代的な天文台――望遠鏡観測を主体とする、一定規模以上の施設――に限れば、その嚆矢は1637年創設のコペンハーゲン天文台(デンマーク)で、次いで1650年のダンチヒ天文台(ポーランド)、そして三番手が1667年のパリ天文台になります(さらにその後は、1670年のルンド天文台(スウェーデン)、1675年のグリニッジ天文台(イギリス)…と続きます)。
こうした老舗天文台の中でも、その後の歴史的影響という点では、グリニッジと並んでパリ天文台が図抜けていて、自らの歴史を天文学の歴史に重ねて、「天文学の3世紀」と称するだけのことはあります。
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改めて1967年のパリ天文台。
この水彩スケッチ風の絵には、何となく懐かしさを感じます。
うまく言えませんけれど、私が子供の頃も、こういうタッチの絵があちこちに――たとえば学生街の喫茶店あたりに――架かっていた気がボンヤリするからです。折りしも世界的に学生運動が高揚し、パリは1968年の「五月革命」の前夜でした。
パリ天文台の3世紀は、そうした時代の変遷を横目に、星を眺め続けた300年であったわけです。
なお、原画はの作者は「Gilles Murique」というサインが見えますが、ネットで検索すると、この人はJeannine Gilles-Murique(1924-2002)というパリ出身の画家で、お祖父さんの代から画家という、絵師一家に育った女性だそうです。【参考LINK】
閑語 ― 2022年09月23日 09時50分23秒
世上かまびすしい「国葬」の問題。
安倍さんの国葬については、私ももちろん反対です。
世間一般では、法的裏付けのない、内閣が勝手に決めた違法な国葬だから…という声も強いですが、ただ、あまりそれにこだわると、「じゃあ、臨時国会を開いて、手続きを踏んで決定したものならいいんだね?」と言われたとき、ぐうの音も出なくなる気がします。
もちろん、岸田さんの不法行為は、それ自体咎められねばならないですが(法治国家なので当然です)、それよりも私が安倍さんの国葬に反対するのは、私には彼がそれにふさわしい人物とは到底思えないというのがひとつ。
それと、そもそも国家が人間の死を序列化する(=国葬に値する人とそうでない人を、国が選別する)ことに、強烈な違和感を覚えるからです(靖国思想をちょっと連想します)。
後者は、安倍さんの問題とは離れた、国葬という制度そのものに対する批判なので、議論の際には分けて考える必要があります。それに、後者をつきつめると、私自身が「安倍さんは国葬にふさわしくない人だ」と主張するのも矛盾じゃない?という点にも跳ね返ってきます。まあ、私のは「彼は別に褒めそやすような人物ではない」という個人の感想に過ぎないので、国家の意思決定と同列に論じることはできないでしょう。
国葬は、このままなし崩しに挙行されるのかもしれません。
でも、おぼしきこと言わぬは腹ふくるるわざですから、はっきり反対であることを、ここに書きつけておきます。
若き日のパリ天文台 ― 2022年09月23日 09時53分41秒
パリ天文台を主役に据えて、話を続けます。
(版面サイズ19×28cm)
1690年制作の銅版画なので、1667年のオープンから23年後。
御年355歳になるパリ天文台の、まさに青年時代の絵姿です。
パリ天文台の屋上にドームが載ったのは、19世紀半ば、正確には1847年のことで、その歴史はドームの有無でほぼ折半されます。もちろん、この絵はドームがない時代のものです。
作者のアダム・ペレル(Adam Pérelle、1640-1695)は、その父親や弟とともにパリで図案家・版画家として名を成した人。いずれも風景や建物の絵をよくし、全部で1300点の作品が一家の手になるものとされます。さらに「王室御用版画家」の称号を許され、高位の人々に絵の手ほどきをするなど、社会的にも栄達を遂げました。
…というのは、例によってwikipediaからの安易な引用ですが、ペレルはそういう立場の人でしたから、天文台の敷地に入ってスケッチすることも許されたでしょうし、この絵は当時のかなり正確な描写だと思います。
とはいっても、昼日中に星を観測することはないし、これほど多くの人が同時に作業を進めたとも思えないので、この絵は何枚かのスケッチを合成して1枚の絵にまとめた、いわゆる「異時同図法」でしょう。
そういう目で仔細に見ると、その細密な描写に思わず惹き込まれます。
屋上で熱心に望遠鏡?を覗く人々。
地上では天球儀(アーミラリースフィア)を脇に、何やら盛んに書き物をしています。これは屋内作業を、屋外の景に置き換えたのかもしれません。瘠せ犬を追っ払う姿がユーモラス。
こちらは滑車で操作する、長焦点望遠鏡の調整作業でしょうか。
大型四分儀による星の位置測定。
パリ天文台は同時代の他の天文台と同様、星の厳密な位置測定を重ねて、それを天測航法に生かそうという「航海天文学」の研究拠点でしたから、これこそが天文台の本務といえるものです。
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忙しく立ち働く300年前の天文学者や技術者たち。
その姿を見ていると、観測装置こそ素朴なものでしたが、彼らもまた現代と同様、持てる力を尽くして、天界の秘密に挑んでいたことが、無言のうちに伝わってきます。
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この機会に一言釈明しておくと、このブログに掲載する写真は、しばしば右上に影が入りがちです。これは下のような狭苦しいところで写真を撮っているためで、いかにも見苦しいのですが、環境のしからしむるところ如何ともしがたいです。
パリ天文台の裏の顔 ― 2022年09月24日 07時29分28秒
昨日のペレルの版画には「相方」がいます。
こちらはパリ天文台を反対側(北側)から見たところ。
昨日の版画とサイズは同一で、1690年に一連の作品として制作されたようです。
こちらも細部に注目してみます。
天文台の足元には、豪華な馬車や馬上の貴顕紳士、それに恭しく礼をする人物群が描かれ、ここが王立の施設であることを示しています。まあ、こんなふうに人々で常時賑わっていたとも考えにくいですが、一種のパリ名所として、王族や貴族が訪れる機会も実際多かったのでしょう。あるいは王様の御成りか何かの場面を、これまた「異時同図法」で描いたのかもしれません。
一方、建物を囲む塀の外は庶民の世界で、かごを背負った人、物売り、徒歩(かち)で行く男たちの姿が描かれています。
ここにビジュアライズされているのは、「内」と「外」の峻別された世界であり、当時の身分制社会そのものです。
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昨日の版画と著しく違うのは、地上に学者や技術者らしき姿がまったく見当たらないことで、彼らは一体どこにいるのかといえば…
みな屋上で観測に余念がありません。
昨日の作品では、庭前に描かれていた大型望遠鏡や四分儀は、すべて屋上に引き上げられ、そこで活躍しています。そもそも天文台が何のために建てられたかを考えれば、こちらの方が実景に近いでしょう。
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天文台の外に目をやれば、そこに広がるのはまったくの田園風景。風車がやたら目に付きますが、これらは製粉用でしょう。
(GoogleMap掲載。Hiền PHAN氏撮影)
パリ天文台から同じ方向(南東)を写した現代の写真を見ると、天文台に付属する公園緑地の向こうは、延々と市街地が続いていて、まさに「桑海の変」を目の当たりにする思いです。
変わらぬものは、ただ天文台の建物と星ごころばかりなり…です。
パリ天文台、華やぐ。 ― 2022年09月25日 18時42分56秒
時はおよそ200年下って、西暦1874年。
ナポレオン3世が退場し、フランスは第3共和政の時代です。日本では明治7年、西郷隆盛が前年に下野し、佐賀では不平士族が反乱を起こすという世上騒然とした時代。
その頃、パリ天文台で紳士淑女を集めた、優雅な科学の催しがありました。
(版面サイズは31×21cm。周囲をトリミングしてありますが、ページサイズは38×27cmあります)
題して「Une Soirée à l'Observatoire(天文台の夕べ)」。
掲載誌の「ル・モンド・イリュストレ」は、当時流行の絵入り雑誌のひとつで、関連記事が併載されているはずですが、版画の裏面は別記事なので、これがいったいどういう機会に行われたイベントかは不明です。
ただ、いずれにしても19世紀後半のフランスは、ジュール・ヴェルヌの時代であり、カミーユ・フラマリオンの時代であり、いわばポピュラー・サイエンスの黄金時代でしたから、こういう科学趣味の夜会が開かれ、そこに好奇心に富んだ紳士淑女が押しかけても、別段不思議ではありません。
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場所が天文台ですから、天球儀があったり、星図を前にしての講演があったりしたのは当然です。
でも、この晩の出し物はそればかりでなく、物理万般に及んでいたようです。
たとえば下はガイスラー管のデモンストレーションのようです。
ガイスラー菅は、低圧の希ガス――というのは古い表記で、今は「貴ガス」と書くのが正しいそうですが――を封入したガラス管の両端に電圧をかけ、放電発光させる実験装置。見た目が派手で美しいので、こういう折にはぴったりの演目です。
こちらは何でしょうか?
中央の2本のチューブをつないだ大きな実験装置は、かなり大掛かりですが、残念ながら正体不明です。左の装置は風力計っぽい姿ですが、室内に風力計を持ち込んでもしょうがないですね。向かって右手から、ライムライトの強烈な光で照射しているのが、何かの実験になっているんでしょうか?
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…というわけで、いくぶん謎めいた感じはあるんですが、会場が賑やかなことは驚くばかりで、盛装した男女と実験装置の取り合わせに、科学趣味がファッショナブルであった時代の空気を感じます。
パリ天文台、再び華やぐ。 ― 2022年09月27日 06時57分55秒
1874年からさらに下って1935年。
暦が1回まわって、当時生まれた赤ん坊も、すでに61歳です。
この年の7月10日、パリ天文台で、またも華やかなパーティーが開かれました。
こちらは「イリュストラシオン」誌の1ページ。
天文台から漏れる明かりに照らされて、夜の庭園でくつろぐ男女の姿が、いかにも大人の雰囲気を漂わせています。
とはいえ、パリ天文台はしょっちゅうパーティーを催していたわけではありません。当然のことながら、普段は天体観測の本業に忙しく、そこで人々が笑いさざめくのは例外的な出来事です。
「宵っ張りのパリジャンにとって、天文台は気づまりな場所だ。暗闇の中をこそこそ人影が出入りし、その厳かな巨体から時折漏れる灯りは、いかにも謎めいた雰囲気を漂わせている。そこで働く科学者自身すら、自分たちが何やら孤独な、魔術めいた仕事に従事しているものと考えている。だがそうした光景は、7月10日に一変した。」
――適当訳ですが、記事はそんな書き出して始まっています。
この日何があったかといえば、国際天文学連合(IAU)の総会がパリで開かれ、その歓迎宴が、ここパリ天文台で開かれたのでした。1919年に設立されたIAUは、1922年のローマ総会を皮切りに、3年に1回のペースで総会を開き、このパリ総会が第5回です。
普段は天体観測の妨げになるためご法度の照明も、この日ばかりはフル点灯で、さらに建物自体もライトアップされているようです。
「優雅な夏の宵、天文台の庭前では、主催者が願った通り、まことに魅力に富んだ『炎の夕べ(nuit de Feu)』が繰り広げられた。天文学者はこの地上では生きられないなんて、いったい誰が言ったのか?」
…と、記事の筆者は書き継ぎます。いささか浮世離れしたイメージのある天文学者たちが、見事に「浮世の宴」を楽しんでいることに、驚きの目を向けているわけです。
それにしても、前回の記事と見比べると、男の人の姿はあんまり変わらないんですが、女性の姿は驚くほど変わりました。
(1874年の夜会風景。前回の記事参照)
かつて一世を風靡したバッスル・スタイル(スカートが大きく後ろに張り出したファッション)はとうに影も形もなくて、夜会に集う女性たちは、みんなゆったりしたイブニングドレスを身にまとっています。
前回の記事とちょっと違うのは、今回のパーティーに集っているのが一般の紳士淑女ではなく、天文学者(とその家族)限定ということですが、皆なかなか堂に入った伊達者ぞろいです。ただ、下の集合写真を見ると、やっぱり画工が相当下駄をはかせているんじゃないかなあ…という疑念もあります。
■IAU General Assembly 1935
まあ、いずれにしてもここに集った学者たちにとって重要なのは、夜会よりも学問的討議そのものなわけで、その内容については以下にレポートされています。
■The International Astronomical Union meeting in Paris, 1935
「The Observatory」、1935年9月号所収
この年のIAU総会では、アーサー・エディントンや、チャンドラセカールらによる、恒星の構造と進化に関する、当時最先端の議論があった一方で、「世界標準時」の呼称問題のような、どちらかといえば些末な問題が熱心に話し合われたようです(イギリスが推す「グリニッジ平均時(G.M.T.)」ではなく、「世界時(U.T.)」を使うべし、とかそういった議論です)。
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ちなみに上の記事の裏面は、月の地球照に関する記事になっていて、フラマリオン天文台が撮影した月の写真が大きく掲載されていました。素敵な偶合です。
パリ天文台を訪ねる ― 2022年09月28日 06時30分38秒
ちょっと箸休めです。
パリ天文台にこだわって書いているものの、そもそもパリ天文台に行ったことがないのでは、我ながら話にならんなあ…と思いました。でも今の時代、パリ天文台にも立派なバーチャルツアーがあって(※)、画面をグリグリしながら建物の中を自由に見て回ることができます。…という事実をこのあいだ知ったので、参考に貼っておきます。
■The Paris Observatory, virtual tour of the Perrault building
そして当然のごとく、「Paris observatory」とか「Observatoire de Paris」で検索すれば、YouTubeで動画を見ることもできるし、ストリートビューで天文台の周囲を散歩することもできるわけです。
あと、これも参考情報ですが、ウィキペディアよりもうちょっと詳しい情報を知りたいときは、以下が便利だと思いました。(元記事は、昔の「Sky and Telescope」誌(vol.59、1980)に掲載されたものです。)
■A Short Story of Paris Observatory
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現在、フランスへの入国規制はないので(むしろ帰国時の手続きの方が面倒らしいです)、格安航空券を握りしめて、1万キロの空の旅をする手もなくはないのでしょう。でも、出不精な私としては、やっぱり億劫な気がします。当分は机の前で、のんびりバーチャルツアーを楽しむことにします。
モノにこだわるとか、ノスタルジーとか言ってる割に、何だかだらしない気もしますが、文明は得てして怠惰な方向に発展していくもので、その影響を脱することはなかなか難しいです。
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(※)ただし創立350年を記念して、2017年に制作されたコンテンツなので、現状と内容が一部異なるところがあります。たとえば、以前紹介した「フランス版117」、すなわち電話による音声時刻案内は、ツアー解説ではまだ稼働していることになっています。
ルヴェリエ賛江 ― 2022年09月29日 06時44分20秒
パリ天文台の絵葉書は、これまで何枚か載せた記憶がありますが、これはまだだった気がします。
(1910年ごろの石版刷り)
パリ天文台に長く勤め、後に天文台長となったユルバン・ルヴェリエ(Urbain Jean Joseph Le Verrier、1811-1877)の銅像です。この像について、コメント欄でお尋ねがあったので、覚えとして貼っておきます。
ルヴェリエの名は、海王星とともに記憶されています。
1846年の海王星発見に関わった役者は何人かいますが、ルヴェリエもその一人。
彼は天王星の位置が計算値と微妙にずれること(摂動)から、そこに未知の惑星が影響していると考え、その位置を計算によって導き出しました。海王星はその意味で、「発見される前に予測された最初の惑星」です。
ルヴェリエはその偉業によって、英国王立天文学会のゴールドメダルを受賞し、こうしてパリ天文台にも立派な銅像が立ちました。
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さて、コメント欄でのお尋ねというのは、「この像が建立されたのはいつか? その際の写真や記録はあるか?」というものでした。パパッと検索したところ、建立時期についてはこちら【LINK】のページに記載がありました。
少し肉付けして引用すると、この記念碑は1889年6月27 日に除幕式があり、式典には当時の公共教育大臣(後に大統領)、アルマン・ファリエール(Clément Armand Fallières、1841 -1931)が臨席し、その面前で様々なスピーチが行われた…という趣旨のことが書かれています。
で、ここからさらに検索すると、以下の同時代資料に行き当たりました。
■La Statue de le Verrier a l'Observatoire de Paris.
L'Astronomie、vol. 8(1889)、pp.281-284.
L'Astronomie、vol. 8(1889)、pp.281-284.
フランス語なので詳細はお伝えできないのですが、当日のスピーチを引用しながら、式典の模様が描写されているようです。
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それにしても―。
絵葉書の隅に、こんなかわいいお客様が、ルヴェリエを表敬されていたことに、今の今まで気づきませんでした。人間の目って存外いい加減なものですね。
この少女の存在によって、「無個性な絵葉書」は、にわかに「個性あふれるスナップ写真」となり、その場の空気、匂い、音までも感じ取れるような気がします。
そして、彼女はこの後どんな人生を歩んだのか?…と、連想は静かに続きます。
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