ルナ・ソサエティのこと(1)2022年10月10日 14時02分13秒

(昨日のつづき)

(稲垣足穂 『一千一秒物語』より、冒頭作「月から出た人」)

「ジャパン・ルナ・ソサエティ」を慕って、かぼそい糸をたどると書きましたが、この糸は本当にかぼそいです。まず、ネット上にはほとんど情報がありません。

かろうじて見つかるのは、松岡氏自身の書物エッセイ「松岡正剛の千夜千冊」の中で数か所その名が出てくるのと(下述)、以下のページぐらいです。

■ファンタシウム倶楽部:月見る月は…
 「ルナ・ソサエティ」

「ファンタシウム倶楽部」は、2000年代初頭に開設されていた個人サイト。当時のことを、何だか「黒歴史」のように感じている作者の方も多いようなので、あまり喧伝するのもどうかと思いますが、私は当時から素敵なページだなと思って拝見していました。のみならず、その内容は、この「天文古玩」にも少なからず影響している気がします。
このルナ・ソサエティについての貴重な一文も、いつまでネット上に残っているか分からないので、勝手引用で恐縮ですが、ここに引かせていただきます(〔 〕内は引用者)。

 「おそらくそれ〔=イギリスのルナ・ソサエティ〕にヒントを得て、日本でも同じような集まりを開いていた人々がいました。日本版ルナ・ソサエティというわけです。
 呼びかけたのは、月学なるものを提唱して、『ルナティックス』という、まるごと月に関する本まで出してしまった松岡正剛さん。
 それに応えて集まったメンバーは、フリーアナウンサー兼エッセイストの楠田枝里子さん、イラストレーターの長新太さん、稲垣足穂の本の装丁・挿画画家のまりの・るうにいさん、奇妙な味の博物学に詳しい荒俣宏さん…などなど、要するに太陽よりは月派の人たち。
 会合は満月の晩、思い思いに月に関する服装をして(月のアクセサリーをつけたり、銀色の服を着たりして)、月の見える屋上に集まるのだとか。
 ござを敷き、月球儀やら月面図やらも持ち込んで、BGMはキング・クリムゾンの『ムーンチャイルド』やエノケンの『月光値千金』といった懲りようで、雰囲気を盛り上げていたとか。
 あるときは月の俳句にいそしみ、あるときは幻燈会を催し、またあるときは各自が杯を用意して、そこに酒を張って月を映しながら酌み交わす、なんとも風雅な月飲み会も行なっていたそう。
 そんな会に私もちょっとだけ参加してみたい。」

この記述はかなり詳細かつ具体的なので、何か典拠があるのだと思いますが、それが何かは今のところ不明です。イギリスのルナ・ソサエティが、満月の晩に集まって、月に限らず四方の話をしたのに対し、日本のルナ・ソサエティは、その話す内容も趣向も、すべて月で固めていた点が本家とは違います。まさに「月夜に月狂いが催した月に捧げる宴」です。

私は月狂いというわけではありませんが、月に関するモノは少なからず手にしているので、そんなモノを自慢げに持参して、月飲み会にまぜてほしいなあ…とは思います(こういうのは、なかなか自慢する相手を選ぶんですよね)。


(長くなるので、いったんここで記事を割ります)

ルナ・ソサエティのこと(2)2022年10月10日 17時00分25秒

(先ほど投稿した記事が長すぎるので、2分割します。)

(工作舎『遊-野尻抱影・稲垣足穂追悼号-』(1977年12月)に掲載された、抱影の『大泥棒紳士館』広告)

さて、以下は資料的意味合いで、「松岡正剛の千夜千冊」から、ジャパン・ルナ・ソサエティとその周辺の記述を抜き書きしてみます(カッコ内は、その連載回で採り上げられた書物)。

■65夜(『神道とは何か』鎌田東二、PHP新書、2000)
 鎌田東二は国学院の出身で、若いころからぼくのところに遊びにきていた俊英である。『遊』もよく読んでくれていた。
 ぼくが7人と8匹で住んでいた渋谷松濤の通称ブロックハウスにも、汗をかきかきよく訪れてきて、そのころブロックハウスで満月の夜に開いていた「ジャパン・ルナ・ソサエティ」での俳句会などにも顔を出し、「お月さまぼくのお臀にのぼりませ」などという“名句”を披露してくれていた。この句はその夜の句会の一席になっている。

■184夜(『ニッポンマンガ論』、フレデリック・ショット、マール社、1998)
 七〇年代半ば、渋谷の東急本店裏通りの借家、通称ブロックハウスに七~九人の男女と暮らしていたことがある。みんなが持ち寄ったもので日々を凌ごうという最低限共用ライフスタイルを試したのだが、一番集まったのが本とレコードだった。本ではマンガが圧倒的に多かった。

■517夜(『ペンネームの由来事典』、紀田順一郎、東京堂出版、2001)
 ぼくの俳号は「玄月」という。
 渋谷のブロックハウスで何人もと共同生活をしているころ、まりの・るうにいと謀って中井英夫・長新太・鎌田東二・楠田枝里子・山尾悠子・荒俣宏・南伸坊・羽良多平吉らと「ジャパン・ルナソサエティ」を満月の夜に催していたのだが、それがときどき趣向の句会になって、ある例会の夜に残念ながら小雨が降ったので、それならと、その見えない月に因んで玄月とつけた。玄とは黒よりも濃いという意味である。

■1316夜(『毎日が夏休み』、大島弓子、角川あすかコミックス、1990)
 そのころ、渋谷松濤のブロックハウスには男女7人と猫6~8匹と、そして少女マンガがドーキョしていた。1970年代のおわり近くまでのことだ。
 十数本の細竹生い茂る陽の当たりにくい庭があり、ぼくと同居人たちとともに満月の夜のたびに屋上でジャパン・ルナソサエティをモヨーシていた。楠田枝里子や鎌田東二(65夜)や山尾悠子や南伸坊や佐藤薫がよく遊びにきていた。ここでぼくは、初めて萩尾望都(621夜)から山岸涼子までのセンレーをうけた。

■1660夜(『知のトップランナー:149人の美しいセオリー』、エッジ/ブロックマン、青土社、2014)
 ぼくも1975年ころにささやかな「ジャパン・ルナ・ソサエティ」を遊んだり、その後は「伝習座」や「連塾」や「纏組」を作動させたりもしたが、いずれも内々のものだった。できればそろそろ半ば公然の、もっとありていにいえば公私混同が平ちゃらの、ボードやキャビネットとともに在りたいと思うようになっている。

■1732夜(『月はすごい―資源・開発・移住』、佐伯和人、中公新書、2019)
 『ルナティックス』はぼくの「月狂い」の集大成となった。自分で言うのもなんだけれど、そうとうにユニークな構成の1冊だろうと思う。できるかぎり多彩な角度から「月知学」(ルナティシズム)というものがありうることを強調した。
 月球派宣言をすべく、古今東西の月知感覚をこれでもかこれでもかというつもりで磨ぎ澄ませて仕上げたものだ。文庫になったときは鎌田東二君がキラッとした解説を書いてくれた。鎌田君はかつてぼくがまりの・るうにい、長新太、楠田枝里子らとともにジャパン・ルナソサエティを催していたときのメンバーでもある。

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片々たる情報で、かつ重複が目立ちますが、これと工作舎の沿革、及びウィキペディア所載の松岡氏の来歴を重ね合わせてみます。

<工作舎の沿革(抜粋)>
1971年4月───雑誌『遊』(1971-1982)の編集制作チームとして工作舎発足。池袋東口の池ビルに事務所設立
1971年9月───『遊』創刊号刊行
1971年12月───株式会社工作舎設立
1972年8月───事務所を新宿番衆町ローヤルビルに移転
1977年7月───事務所を渋谷区松濤に移転
1982年10月───『遊』休刊。出版の中心を雑誌から単行本にシフト

<松岡正剛氏来歴(同)>
1971年にのちに編集工学研究所主任研究員となる高橋秀元ら友人3人で工作舎を設立し、雑誌『遊』(1971年 - 1982年)を創刊する。〔…〕1982年に工作舎を退社し、松岡正剛事務所を設立して独自の活動を開始する。

「ジャパン・ルナ・ソサエティ」という酔狂な催しが開かれていたのは、松岡氏が渋谷区松濤を根城に、シェアハウスのような生活をしながら、そこに多彩な人々が出入りしていた時期のことで、絶対年代でいうと1977年~80年頃のことのようです。(厳密にいうと、会社の移転と住居の移転が同時に行われたのか分からないのですが、たぶん同時期でしょう。)

(あのころの渋谷の町角。1977年放映「Gメン’75」の1シーンより。動画はこちら

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ここまでのところで、「ジャパン・ルナ・ソサエティ」の輪郭がおぼろに見えてきましたが、さらにその内実を考えてみます。

(この項さらにつづく)