歳末に厄を拾う2022年12月21日 22時37分10秒

このところPCがずっと不調だったのですが、とうとうダメになりました。

その症状は特徴的で、最初はディスプレイにピンクの横線がチラチラ何本か入るところから始まります。じっと見ていると、その横線が徐々に増えて、ついには画面全体がピンクになり、やがてそれが緑になり、水色になり、黄金色になり、再びピンクになり…。その律動的に輝く画面は、あたかもマジックマッシュルームを口にしたときのサイケデリック体験のようで、それはそれで興味深いのですが、PC本来の機能はまったく果たしてないので、とても困ります。

これまでは30分ぐらい辛抱強く待っていると、自然に症状が回復したので我慢して使っていたのですが、それが1時間になり、2時間になるとさすがにお手上げです。

背に腹は代えられないので、PCを買い替えることにしました。いずれにしても、Windows8もいよいよサポート終了ですから、買い替え時ではあったのです。ただ、新しいPCを買うのはボーナスをはたいて何とかするとしても、そんな幻覚状態にあるPCからデータをどうやって移行するか? 何となくディスプレイ以外は正常っぽいので、画面のミラーリングをすればいいのかなと思ったんですが、実際にやろうとすると、そこにはいろいろ壁があって断念しました。

それでも1時間待ち、2時間待ち、少しでも機械の機嫌のいいときを狙って、何とか移せるものは移しました。その夜なべ仕事ですっかり憔悴しました。

こんなふうに機械に振り回されるのは良くないことだと思います。
でも、それはこういう特別な機会だから意識したことで、実はマシントラブルのない普段から、私は機械を使役しているつもりで、機械に使役されているのだろう…ということも思いました。

記事のほうは少し身体を休めてから再開します。
コメントへのお返事も後ほど改めて。

雪の森、星の林2022年12月24日 08時31分06秒

強い寒気が襲来し、各地で大雪だと天気予報は告げています。
私の住む町でも初雪。そしていきなりの大雪警報です。
雪に降り込められたおかげで、今日は一日静かに過ごせそうです。
記事のほうものんびりした気持ちで再開します。

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マックノートさんの星図ガイド(LINK)を見て、こんな本を買いました。


■Louise Brown(著) The Sky Winter Nights.
 The Womans Press (NY)、1920


副題は「自分の目で星空に親しみたいと考える多忙な若者のための授業」
著者のルイーズ・ブラウンさんは、タイトルページによれば、当時YWCAの教育部門に所属した人のようで、これは100年前に出た女性による女性のための星空ガイドです。

(「第3部 空を眺めよう~戸外における10のレッスン」)


星図は巻末に控えめに載っている程度で、わりと地味めの本ですが、この表紙はなかなか素敵ですね。


白銀の森で星を見上げて浮き立つふたりの女性。
その軽やかな様子に、見ているこちらの心も弾みます。
でもふたりが素足なのは、どういうわけでしょう?
なんとなく妖精じみた感じです。

大気が心底冷えきった晩。
空気の透明度が上がるにつれて、星の光は徐々に鋭さを増し、それに比例して星たちのシンチレーションもいよいよ激しく、その不安定な像は天文マニアを悩ませますが、レンズから目を離して虚心に空を見上げれば、そのきらめきは空の宝石さながの美観です。

妖精じみた彼女たちも、豪華な空の宝石箱を前にはしゃいでいるのかもしれませんね。

一枚の星座早見盤が開く遠い世界2022年12月26日 06時33分29秒

皆さんのところにサンタクロースは来ましたか?
私のところにはちゃんと来ました。
今年、サンタさんから届いたのは一枚の星座早見盤です。


これは世界にまたとない品です。なぜならこの早見盤が表現しているのは、紀元137年のアレクサンドリアの星空なのですから。


「紀元137年のアレクサンドリア」とは、何を意味するのか?
それはアレクサンドリアで活躍した、かのプトレマイオス(紀元100頃-170頃)の大著『アルマゲスト』に含まれる星表のデータが記録された年であり、この早見盤はそのデータを元に作られた、いわば「アルマゲスト早見盤」なのです。この円盤をくるくる回せば、「プトレマイオスの見た星空」が、文字通り“たなごころに照らすように”分かるわけです。

(今からおよそ1900年前、12月25日午後8時のアレクサンドリアの空)

この早見盤は、元サンシャインプラネタリウム館長を務められた藤井常義氏から頂戴したもので、藤井氏こそ私にとってのサンタクロースです。この早見盤のオリジナルは、藤井氏がまだ五島プラネタリウムに勤務されていた1976年に制作されたものですが、最近、私がいたくそれに感動したため、藤井氏自ら再制作の労をお取りいただいたという、本当に嬉しいプレゼントでした。

(早見盤の裏面)
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アレクサンドリアの位置は北緯31度、日本だと九州最南端の佐田岬付近に当たるので、今でもそこから見える星空は、東京あたりとはちょっと違います。でも、1900年の歳月はそれ以上の変化を星空にもたらしました。


こぐま座のしっぽの位置に注目。今では北極星として知られる尻尾の先端の星が、天の北極からずいぶん離れてしまっています。言うまでもなく地球の歳差運動によるもので、当然プトレマイオスの頃は、この星はまだ「北極星」と呼ばれていませんでした。


あるいは、先日のオジギソウの記事(LINK)のコメント欄で、みなみじゅうじ座β星「ミモザ」の由来が話題になったときに、古代ローマ時代にはすでに南十字が知られていたという話が出ました。早見盤を見ると、そこには南十字こそ描かれていませんが、位置関係からいうと、ケンタウルス座の足元に、今では見えない南十字の一部が確かに見えていたはずです。

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プトレマイオスの威光のせいで、当時のアレクサンドリアは栄光の絶頂期のようなイメージを個人的に持っていましたが、話を聞いてみると、アレクサンドリアが文化・経済の中心として繁栄したのは紀元前2世紀頃のことで、プトレマイオスの時代には有名なアレクサンドリアの大図書館も、ずいぶん寂しいことになっていたらしいです。まあ今の日本のようなものかもしれませんね。

それでも古代ローマの残照はいまだ眩しく、この早見盤の向こうには遠い世界の華やぎと、星座神話が肌感覚で身近だった時代の息吹が感じられます。

雷の化石2022年12月27日 09時50分46秒

雷にも大きいもの、小さいもの、いろいろありますが、中でもとびきり大きいやつがドーンと砂地に落ちると、そこが瞬間的に高温となって珪砂が溶融し、それがまた冷却固化することで、雷が砂地を走り抜けた形のままに、筒状の構造物が残ります。


それが「フルグライト(雷管石)」と呼ばれるものです。
手元の品は、アレクサンドリアの星座早見盤と一緒に藤井さんから頂いたもので、同じく北アフリカの、こちらはサハラ砂漠由来の品です。


ドーンと大地に落ちた雷は、この口を通ってバリバリと砂の層を貫通し、その波打つ電撃が、このこぶこぶした形を砂層に印象しました。


中は中空。フルグライトは溶けた珪砂を主成分とする、いわば天然のガラス管なので、内壁はツルツルしています。

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大神ゼウスは、あらゆるものを溶かす雷霆(らいてい)を武器とし、北欧神話の戦神トールは、その槌から雷撃を放って、あらゆる敵を倒したといいます。雷は昔の人にとって最も強力な武器のイメージだったのでしょうが、そこは今もあまり変わりがなくて、創作の世界には雷属性のキャラがたくさんいます。

天地が出会うところに生まれた不思議な石、フルグライト。
その穴を覗き込めば、リアルな雷の威力は、ときにそうした人間の想像力をも超えて凄まじいことを感じます。

驚異の部屋にて2022年12月29日 16時16分03秒

先日、所用で東京に行ったついでに、しばらくぶりに東京駅前のインターメディアテク(IMT)を訪ねました。この日は一部エリアが写真撮影OKだったので、緑の内装が美しい「驚異の小部屋・ギメルーム」で盛んにシャッターボタンを押しながら、かつて東大総合研究博物館の小石川分館で開催された「驚異の部屋展」(2006~2012)のことなどを懐かしんでいました。


ただ、「ワクワクが薄れたなあ」ということは正直感じました。
昔…というのは、このブログがスタートした当初のことですが、あの頃感じたゾクゾクするような感覚を、今のIMTから汲み取ることができないのは、我ながら寂しいなあと思います。もちろんこれはIMTのせいではなくて、見慣れることと驚異は、本来両立しないものです。


当時、「驚異の部屋展」会場で味わった、未知の世界を覗き込むあの感じ。
思えば、あれは私にとっての大航海時代であり、ひるがえって、大航海時代のヴンダーカンマーの先人たちが味わった感動は、あれに近かったのかもしれません。


…と、ここまで書いて「いや、待てよ」と思いました。

ここでもう一段深く分け入って考えると、「見慣れる」ことと「熟知する」ことは、まったく別物のはずです。私はギメルームに居並ぶモノたちを、なんとなく見知った気になっていますが、じゃあ解説してみろと言われたら、言葉に詰まってしまいます。私はそれを知った気になっているだけで、実は何も知らないのです。そして、一つひとつの品に秘められた物語を知ろうと思ったら、その向こうに控えている無数の扉を開けねばならず、それはやはり広大な未知の世界に通じているのでした。


それは新幹線でIMTまで出かけなくても、私が今いる部屋にゴタゴタ置かれたモノたちだって同じことです。私はまだ彼らのことを本当には知りません。だからこそ、こんな「モノがたり」の文章を綴って、彼らの声を聞き取ろうとしているのだ…とも言えます。


ヴンダーカンマーが「目を驚かす」ことにとどまってるうちは、まだまだヴンダー白帯で、その後に控えている「学知の山脈」に足を踏み入れてこそ、ヴンダーの妙味は味わえるのだ…と、「ワクワクが薄れたなあ」などと、生意気な感想を一瞬でも抱いた自分に対する自戒を込めて、ここに記したいと思います。

惣める話2022年12月30日 21時16分59秒

昨夜夢を見ました。

なにか気の利いた博物趣味の品を探しに行く夢です(ここに昨日の記事が影響しているのは確実です)。でも、お目当てのデパートに着いても、その売場が思い出せず、「あれ?以前ここで買ったのは夢だったのかな?いや、でも買ったときの記憶は鮮明だから、自分は確かにここで標本を買ったはずだ…」と右往左往する夢です。

夢の中にいながら、以前その店で買ったという記憶が本当に鮮明に感じられて、もちろんその記憶自体、夢の中で作り上げた偽りの記憶なんですが、その鮮明さが目覚めたあとも、私に不思議な印象を残しました。なんだか莊子の「胡蝶の夢」の逸話のようです。

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さて、昨日書いたことを反芻しながら、改めて考えたことを、もう少しだけ書きます。(似たようなことを以前も書いた気がしますが、自分に言い聞かせるために、もういっぺん書きます。)

(彩りとして昨日貼りきれなかった写真を貼っておきます。)

対象を見慣れることで、そこから得られる驚異―感動と言ってもいいです―が薄れるという話。そこに決定的に欠けているのは「対話」だと思います。

モノではなくて、人間相手で考えてみます。

相手が家族でも恋人でも友人でも、見慣れるだけならとっくに見慣れているし、ある意味これ以上見慣れた存在もないんでしょうが、だからといって、見慣れたからそれで終わり…なんていうことはないですよね。そこには言語的・非言語的コミュニケーションがあり、たえず影響を及ぼし合い、常に新たな気付きと学びがあります。ともに過ごす時間の中で、ときに気の利いたやりとりがあり、ときに厳しいことを言われつつも、同時に大きな慰藉と励ましがあります。あるいは言葉はなくとも、ただそこにいてくれるだけで良かったりします。


これはモノとの関係でも、まったく同じじゃないでしょうか。
まあ、すべての人間関係が情愛と友愛で彩られているわけではないように、モノとの関係も文字通り即物的な場合も多いんでしょうが、少なくとも向き合うに足る相手と思って手元に引き寄せた品ならば、もっとゆっくり対話してしかるべきだと思います。

やたら目新しさを求めて次から次になんて、なんだか不品行な猟色家のようです。もっとも、猟色家には猟色家の言い分があるのかもしれませんが、やっぱりそこには何か大きな欠落がある気がします。モノと向き合う雅量に欠けると言いますか。


もちろん、上のことは反省を交えて書いているので、自らの雅量の乏しさを大いに嘆かないわけにはいきませんが、上のようなモノとの付き合い方が理想だという思いは平生から強いです。そして、そういう付き合い方こそが、結局いちばんタイムパフォーマンスがいいことにならないだろうか…とも思います。タイムパフォーマンスとかいうと、なんだか浅薄な感じもしますけれど、人生の有限性が身にしみるこの頃、それは結構切実な問題です。

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物に心と書いて「惣」。そして、この字は「惣(あつ)める」と訓ずるそうです。



名残の空2022年12月31日 17時52分54秒

霽(は)れてゆく 名残の空と なりにけり   大文字

形ばかりの大掃除を済ませ、年越しそばも食べ、あとは除夜の鐘を聞くばかりです。
今年も「天文古玩」にお付き合いいただき、ありがとうございました。
年末は少ししおらしい記事を書きましたが、来年はモノとの付き合いが今以上に濃密になるといいなと思います。そしてもちろんモノばかりでなく、人とのふれあいも。

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白いものに覆われた古びた屋敷。
すでに雪雲は吹き払われて、空には三日月と満天の星が静かに光っています。
1911年の消印を持つ、ドイツ製の美しいクロモリトグラフ絵葉書。当時のドイツは絵葉書を盛んに輸出していたので、これも輸出仕様の英語表記で、差出地は米国カンサスです。


月が沈めば夜の闇はさらに深く、空には新年を予祝する巨大な流れ星が。


「A Happy New Year」を「あけましておめでとう」と訳すと、ちょっとフライングですが、ここでは「良いお年を」の意味に取ってください。

それでは皆さま、どうぞ良いお年を!