春の闇 ― 2023年04月01日 21時48分27秒
桜がはらはら散る一方で、樹々はにわかに芽吹き、ピンクとグリーンのコントラストが美しい季節となりました。まこと「柳桜をこきまぜて」と謳われた都の春もかくや…と思わせる四囲の景色です。
だから心が浮き立つかというと、意外にそうでもありません。
秋の心と書いて「愁」。そして「春愁」という言葉もあって、今の季節はのどかな中にも、一抹の淋しさを感じます。命の営みは、どこか悲しさを感じさせるものですが、それがより強く感じられるからかもしれません。
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今日は故・安倍氏の事績を振り返る映画、『妖怪の孫』を見に行ってきました。
そして、家に帰ってからも、何となく索漠とした思いで、従軍慰安婦と歴史修正主義の問題に取材した映画『主戦場』(2019)をアマゾンプライムで見直していました。安倍氏は後者にも登場して、いろいろ「活躍」しているのですが、この間に横たわる4年という歳月が、そこにある種の陰影を添えて、話に奥行きを感じました。
「桜を見る会」でタレントに取り巻かれ、我が世の春を謳歌した安倍氏。両親にねじれた愛憎を抱き、祖父・岸信介を超えることで、彼らに心理的復讐を果たそうとした安倍氏。そのための権謀術数に明け暮れ、果ては凶弾に斃れた安倍氏。
まあ、すぐれて人間的なエピソードではあります。
でも、だからといって、仁も義も乏しい人間が宰相の地位に付くことは正当化できないし、国民の側からすれば、それは悲劇以外のなにものでもありません。
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灯取虫 死しての後の名なりけり 松宇
「灯取虫」は灯火に慕い寄る蛾のことで、夏の季語です。自ら灯火に飛び込むからこそ、その名があるわけで、これはたしかに「死しての後の名」です。そう考えると、いくぶん理に勝ちすぎている気もしますが、私にとっては不思議と鮮明な印象をもたらす句で、折にふれて口をついて出てきます。
安倍氏と灯取虫がどう結びつくかは、自分でもよく分かりませんが、今また口をついて出た以上、そこには何か連想が働いているのでしょう。でも、安倍氏の姿を仮に灯取虫に重ねたとして、彼が身を焦がした「灯火」とはいったい何だったのか?
(速水御舟 「炎舞」、1925)
ちなみに、作者の伊藤松宇(1859-1943)は古俳書収集で知られた人。齢は正岡子規よりも年長ですが、子規とも交流があり、明治~大正の俳壇で一家を成しました。
蝶百種 ― 2023年04月02日 17時49分56秒
昨日の速水御舟の絵から、日本画による昆虫表現について考えていました。
(表紙サイズは約18×24.5cm)
そこからさらに、『蝶百種』と題した画帖形式の図譜が手元にあるのを思い出しました。本来は上・下巻、あるいは上・中・下巻から成るもののようですが、手元にあるのは上巻だけです。
収録図版(Plate)数は全部で12。各図版が2~4点の図(Fig.)を載せており、収録図数は、上の目次にあるとおり全41図。ただし同じ種類で複数の図にまたがるものがある関係で、掲載種数は33種です(…ということは、全体で上・中・下の3巻構成だった可能性が高そうです)。
この上巻には、奥付や序言のようなものがどこにもないので、刊行年や版元、出版事情等は一切不明。ただ、描かれた蝶の一覧に台湾産のものが含まれていることから、おそらく台湾が日本に割譲された1895年(明治28年)以降に制作されたと思われ、もろもろ考え合わせると、明治の末から大正初めごろ、すなわち1900~1910年代に出版されたものだと想像します。
作者は春木南渓(生没不詳。活動期(※)1876-1916)。
南渓は、花鳥山水を能くした南画家の春木南溟(1795-1878)を祖父に、同じく春木南華(1818-1866)を父に持つ、画人一家に生まれた人。その人が、実弟の春木南峰(生没不詳)や、さらに後続世代に当たるらしい春木南汀や弟子筋とおぼしい南涛、南山、南湘(いずれも伝未詳)らとともに絵筆をとり、それを木版で起こしたのが、この図譜です。
(※)東京文化財研究所の「書画家人名データベース(明治大正期書画家番付による)」の掲載年代【LINK】。
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ヒオドシチョウ(右)、コノハチョウ(左)を描いた第1図版。
この図だけからも、すでに並々ならぬものを感じます。
絵師も頑張りましたが、この彫りと摺りは見事だと思います。
ヨーロッパで刊行された極美の蝶類図譜(それを手に取ったことはありませんが)に劣らず、日本の木版技術の粋を尽くしたこの図譜も、また素晴らしい仕上がりと言ってよいのではないでしょうか。
ジャコウアゲハ(右)とクロアゲハ(左)。
そのクロアゲハの後翅の付け根のリアルな色合いに、思わず目を見張ります。
顔料の進歩で、青い蝶たちの発色も冴えています。左はオオムラサキ(♂)、右下はコシジミ、上の見慣れない蝶は台湾産のツマムラサキマダラ。
アオスジアゲハ。
朱の斑紋が美しいワタナベアゲハ(台湾産)。蝶の描写は、静的なものばかりでなく、こんなふうに飛翔の姿を捉えたものもあります。
ちなみに「ワタナベアゲハ」という和名は、台湾に駐在していた渡辺亀作(警部補)の名前に由来し、虫好きの彼が、日本昆虫学の開祖、松村松年(1872-1960)に標本を提供した関係で、この名が付いたんだそうですが【LINK】、渡辺警部補は1907年に台湾で起きた「北埔事件(ほくふじけん/台湾住民による抗日騒乱事件)」の際に命を落としており、なかなか穏やかならぬ歴史がそこにはあります。
なお、この『蝶百種』には蝶ばかりでなく、蛾も載っています。
たとえば上図。中央上はシロスジトモエ、右下はシンジュサン。
下図はホタルガです。
この点が、この図譜の「博物学的相貌」をさらに強めているように感じます。
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ところで、この図譜を見て気づくのは、和名が現行のものとほぼ一致することです。
昆虫の標準和名は、上に出てきた松村松年によるところが大きく(この辺は小西正泰氏の受け売りです)、その名称や虫体の表現に、松村の『日本昆虫学』(1898)、『日本千虫図解』(1904~1907)、『続日本千虫図解』(1909~1912)あたりの影響があるのではないか…とぼんやり想像しますが、まだ調べたわけではないので、確証はありません。
そもそも、南画系の絵師がなぜ蝶の図譜づくりに駆り出されたのか?
絵師は画業修練として、実物の写生や模本づくりを盛んに行いましたが、この図譜はそうしたレベルを超えているようにも思います。
かつて、自分は日本的博物画について、以下のような一文を書いたことがあります。
(画像再掲。元記事はこちら)
「日本画の筆法による絵図に博物学的解説を付した、この種の図譜が、大正から昭和にかけて流行った時期があり、〔…〕かつて荒俣宏さんが激賞した、大野麥風(おおのばくふう、1888~1976)の『大日本魚類画集』(昭和12~19年=1937~44)はその代表で、それ以外にも、動物・植物を問わず、いろいろなジャンルで優美な作品が作られたのでした。
そこには、花鳥画の長い伝統、江戸期以来の「画帖」という出版ジャンルの存在、錦絵の衰退と前後して興った新版画運動のうねり、明治の消費拡大(さらに輸出の増大)に伴う染色工芸図案集へのニーズ、そして美しいものを欲する都市受容層の拡大…etc.、純然たる博物趣味とは別の要因もいろいろあったと思います。
それだけにこうした作品群は、いわば「博物図譜の日本的展開」として、大いに注目されるところです。」
そこには、花鳥画の長い伝統、江戸期以来の「画帖」という出版ジャンルの存在、錦絵の衰退と前後して興った新版画運動のうねり、明治の消費拡大(さらに輸出の増大)に伴う染色工芸図案集へのニーズ、そして美しいものを欲する都市受容層の拡大…etc.、純然たる博物趣味とは別の要因もいろいろあったと思います。
それだけにこうした作品群は、いわば「博物図譜の日本的展開」として、大いに注目されるところです。」
この本が生まれたのも、たぶん上のような文脈においてなのでしょう。
本書は国会図書館でも、さらに大学図書館の横断検索CiNii Booksでもヒットしないので、かなり稀な本だと思いますが、日本の昆虫図譜、ひいては博物図譜の歴史において決して無視できぬ作品だと思います。
★
冒頭にもどって「日本画による昆虫表現」ということについて述べれば、日本画は甲虫類のような硬質な対象を表現するのは苦手だと思いますが、鱗翅類のようなソフトな対象にはまことに好適で、これは花鳥画の筆法がそのまま使えるからではないか…と思いました。
夢の中のパサージュにて ― 2023年04月04日 19時19分57秒
名古屋のantique Salonさんを中心に継続開催されているヴンダー系の博物イベント、「博物蒐集家の応接間」のご案内をいただきました。
■第9回 博物蒐集家の応接間~Passage de Rêve 夢の中のパサージュ
○会期 2023年4月14日(金)~4月16日(日)
11:00~18:00 (最終日は17:00終了)
○会場 アイルしながわ 東京都品川区東品川 2-3-2
東京モノレール天王洲アイル駅南口より 徒歩0分
りんかい線天王洲アイル駅より 徒歩5分
ご案内を手にして、私は大層驚きました。
その奇想ぶりや、そこに登場する不思議な品々に驚いたのはもちろんです。
しかし、今回驚いた理由はもうひとつあります。
初期の頃は、たしか尋常なポストカード式のご案内だったと記憶します。
それが徐々に手の込んだものとなり、進化を遂げ、遂にここまでトランスフォームしたのです。もちろんこれは単に広報媒体の変化にとどまりません。それは間違いなくantique Salonさんとお仲間たちの情熱の現れであり、ひるがえってイベントそのものの充実ぶりも、有無を言わさず直覚されるのです。
そういえば、antique Salonさんのお店にもしばらくお邪魔していませんが、その店内も、今や恐るべきものになっているようです。
まことヴンダーに果てなし―。
今回、個人的な興味に引き付けていえば、信州小諸のメルキュール骨董店さんが、「天空堂」という仮りそめの屋号で、天文アンティーク系の品々を中心に出品されるらしいのが大層気になります。
残念ながら、この時期東京に赴くのは難しそうですが、私は夢の中で不思議なパサージュを訪ね、店から店へと存分に徘徊しようと思います。そして、夢の中でもう一度自分だけの夢を見つけようと思います。
寺田寅彦と牧野富太郎 ― 2023年04月05日 06時23分00秒
かつて「明治科学の肖像」と題して、東京帝国大学理科大学の古い卒業写真を採り上げたことがあります。
そこには、学生・教員とりまぜて、日本の科学を先導した偉人たちが居並んでいるのですが、そのうちの1人が寺田寅彦で、記事を読まれた寺田寅彦記念館(高知市)の関係者からご連絡をいただき、画像データを同館に提供させていただいたことがあります。
たったそれだけの御縁にもかかわらず、寺田寅彦記念館友の会様からは、会報「槲(かしわ)」を毎号お送りいただいており、さすが土佐の人は情誼に厚いと、大いに感じ入っています。
★
先日も会報の第96号が届き、興味深く拝読したのですが、その中に宮英司氏による「寺田博士と牧野博士のご縁」という記事が掲載されていました。
寺田寅彦と牧野富太郎は、ともに高知出身の科学者ですが、両者にはこんなエピソードがあった…として、以下にように書かれています。一部を引用させていただきます。
「寺田博士(1878~1935年)と牧野博士(1862~1957年)は同じ時代を生きている。この2人に関しては興味深い話が残されている。高知県越知町の横倉山自然の森博物館ニュースの「不思議の森から」(2006年1月号)を以下に引用する。(著者は当時の同博物館の安井敏夫副館長兼学芸員)
*
高知県出身の動物学(魚類学)の大家・田中茂穂博士がかつて東京の私電の中で、寺田寅彦博士と同車した際、たまたま土佐出身の人物の話になり、田中博士が「ときに寺田さん、貴方は土佐出身者で誰を一番偉いと思いますか」と尋ねたところ、寺田博士はすぐさま「牧野富太郎」と答えたという。後日、田中博士が牧野博士に会った時、同じ質問をしたところ、牧野博士は直ちに「寺田寅彦」と答えたといわれている。」 (「槲」第96号〔令和5年2月〕、pp.8-9.)
*
高知県出身の動物学(魚類学)の大家・田中茂穂博士がかつて東京の私電の中で、寺田寅彦博士と同車した際、たまたま土佐出身の人物の話になり、田中博士が「ときに寺田さん、貴方は土佐出身者で誰を一番偉いと思いますか」と尋ねたところ、寺田博士はすぐさま「牧野富太郎」と答えたという。後日、田中博士が牧野博士に会った時、同じ質問をしたところ、牧野博士は直ちに「寺田寅彦」と答えたといわれている。」 (「槲」第96号〔令和5年2月〕、pp.8-9.)
これだけでも、だいぶ引用の連鎖が伸びていて、究極の出典は今のところ不明です。話としては、なんだか出来すぎのような気もします。しかし、古来「英雄は英雄を知る」と言いますから、他に抜きん出た存在として、両博士は互いに深く感ずるところがあったのでしょう。
★
NHKで朝ドラ「らんまん」が始まり、主人公の牧野富太郎(今はまだ子供時代のエピソードですが、成人後は神木隆之介さんが演じる由)に注目が集まっています。それはそれで興味深く、大いに盛り上げてほしいですが、その人間的魅力やドラマ性においては、寺田寅彦もおさおさ劣りませんから、こちらもいずれぜひ作品化してほしいと思います。(上掲の記事で、筆者の宮氏もそのことに触れられていました。)
草木の精、牧野富太郎 ― 2023年04月07日 06時35分23秒
牧野富太郎と聞くと思い出す本があります。
すなわち、飯沼慾斎(いいぬまよくさい、1783-1865)著、『草木図説』。
幕末の安政~文久年間にかけて出版された本草図譜で、後の植物図鑑のはしりです。江戸時代に出版された本草書は多いですが、これを植物図鑑のはしりと呼ぶわけは、改訂を繰り返しながら、植物図鑑として近代に入っても使われ続けたからです。
まず明治8年(1875)に、田中芳男(1838-1916)と小野職愨(おのもとよし、1838-1890)が、原著にラテン語の学名を加えるなどした『新訂草木図説』というのが出ています。
そして明治40年(1907)から大正2年(1913)にかけて、牧野富太郎がさらに加筆訂正した『増訂草木図説』が出ました(以下、「本書」と呼びます)。
(深緑のクロス装に銀の箔押しをした洒落た造本。全4巻から成ります)
(本書奥付)
(内容の一部)
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私が本書を思い出したのは、その第1巻の冒頭に、彼の印象深い肖像写真が載っていたからです。
(「東京帝国大学理科大学植物学教室内実験室ニ於ケル牧野富太郎」)
大量の植物標本と西洋から輸入したであろう大判の植物図譜、それらが放つ博物学的香気に打たれるとともに、それらに囲まれて少壮の気を放つ牧野富太郎の姿に、私は大いに感銘を受けました。
これは私の想像ですが、ここで彼の周りを飾っている植物標本は、当然、彼自身が手ずから採集したものでしょうし、のみならず、いかにも値の張りそうな洋書類も、その多くが帝大の備品ではなしに、彼が実家の酒造業を傾け、さらに多額の借金までして蒐集に努めた、彼の個人蔵書ではないでしょうか。そう思って眺めれば、彼の強い自信に満ちた表情にも納得がいくのです。
★
ときに、明治8年版『新訂草木図説』の「附言」を書いたのは、慾斎の曾孫の飯沼長蔵です。
(本書収録の「新訂草木図説附言」末尾)
当時すでに曾孫の代になっていたわけですから、慾斎はずいぶん昔の人だと感じますが、驚いたことに、その慾斎の肖像写真も、本書冒頭には収録されています。
いつの撮影かは分かりませんが、慾斎はよっぽどハイカラな人だったのでしょう。
ついでに言うと、本書には田中芳男と小野職愨の写真も収められているので、そちらも載せておきます。
(田中芳男、1838-1916)
(小野職愨、1838-1890。小野の肖像写真は、今日現在、画像検索しても出てこないので、これはわりと貴重な画像です)
田中芳男は、名古屋の博物学者・伊藤圭介の弟子で、明治の日本で博物館のソフトとハードの基礎を築いた人。小野職愨は高名な博物学者・小野蘭山の曾孫に当たる植物学者です。こうした江戸と明治をつなぐ先輩たちに伍して、植物学の道をさらに切り開いていこうとする強い意思を、牧野富太郎の肖像写真からは感じます。
★
ドラマ「らんまん」は、牧野富太郎をモデルにしたフィクションの体をとっており、主人公の名前は「槙野万太郎」(配役・神木隆之介)になっています。そして、田中・小野のふたりも、「里中芳生」(いとうせいこう)、「野田基善」(田辺誠一)の名で、今後メインキャラ扱いで登場するそうです。
【付記】 本項執筆にあたって、俵浩三氏の『牧野植物図鑑の謎』(平凡社新書、1999)を参考にしました。
牧野富太郎の名刺 ― 2023年04月08日 16時30分49秒
牧野富太郎でさらに話を続けます。
以前、牧野という人物に関心を持った際、彼のことを身近に感じたくて、その自筆書簡を手に入れたことがあります。その詳細を書こうと思うのですが、何せ昔の人の手紙ですから、ちょっと読みにくいところもあって、内容については次回に回します。
ただ、書簡を手に入れて、ちょっと得した気分になったのは、そこに彼の名刺が付いていたことです。
ただ1行「牧野富太郎」の姓名のみで、裏面も白紙です。
今の情報過多の名刺とはえらい違いですが、ものの本によると、こういう姓名のみ、あるいはせいぜい位階勲等のみを添えたカードは、「コーリングカード(calling card)」と称するもので、今のゴタゴタした名刺、すなわち「ビジネスカード」とは本来別物だそうです。
ビジネスカードというのは、文字通り商売向けに配るものであるのに対し、コーリングカードは他家を表敬訪問した際、名刺受けに置いてくるもので、そうした折には先方の夫妻に敬意を表して、2枚置いてくるのがエチケットだった…という話です(板坂元(著)『紳士の文房具』、小学館)。
今や「刺を通ずる」というのは、大分古風な言い回しに感じられますが、そういう振る舞いも、こういう名刺を渡してこそ絵になろうというものです。
この場合は、ちょっとした挨拶代わりに名刺を封書に同封して送ったのでしょうが、こうして時空を越えて刺を通ぜられると、何となく牧野富太郎と親しく面会し、その謦咳に接した気分になります。
牧野富太郎の手紙 ― 2023年04月09日 07時29分51秒
(昨日のつづき)
さて、牧野富太郎の手紙の内容に入ります。
手紙の差し出しは、昭和10年(1935)12月7日、消印は12月8日付になっています。
宛先は荏原区戸越、今の品川区に住んでいた篠崎信四郎という人物です。
篠崎は伝未詳ながら、明治43年(1910)に成美堂から『最近植物採集法』という本【LINK】を上梓しています。同書は牧野の校閲を経ており、篠崎は序文で牧野を「恩師」「先生」と呼んでいます。また、牧野が明治44年(1911)に組織した「東京植物同好会」(発足時の名称は「東京植物研究会」)の会員として、1910~30年代の植物学関係の雑誌に、その名が散見されます。おそらく牧野に学び、牧野の周辺で活動を続けた、在野の植物研究者なのでしょう。
手紙は便箋2枚にペン書きされており、下がその全文。
江戸時代のくずし字ほどではないですが、今ではこうした手紙もずいぶん読みにくいものになっていて、私も首をかしげた箇所がいくつかありました。それでも凝視していると徐々に読めてくるもので、特に不都合な内容もないので、以下に書き起こしてみます(改段落は引用者。ネット情報をつまみ食いして、いくつか註も附けました)。
★
貴簡をありがたく拝見いたしました。其后御変りない事と御慶び申上げます。
「趣味の植物採集」(注1)其内に御送りいたします これは三省堂の乞ひにより彼の岩波のもの(注2)や何かを集め参考して拵へたものです それに出てゐる菩多尼訶経(注3)の誤字御しらせ下され誠にありがとう存じます 私は出版語〔後〕余り気を附けて見なかったが大分訂正せねばならぬものがありますナー
神変大菩薩の碑(注4)の蘭山が若し彼の蘭山(注5)でしたらマダ誰れも知らぬ面白い事です それはそれが蘭山の手跡ならば其文字を見れば判断がつくと思ひます 拓本を作って見てはどうですか これは彼の雪花墨即ち鐘墨(ツリガネズミ)でやれは造作もなくとれます 鐘墨は鳩居堂に売ってゐます 廉価な品物です 確か一個十五銭位だと思ひます
榕菴(注6)の学識は無論貴説の通りシーボルトの感化もありませうが何を言へ蘭書など読む力が充分であった為めそれからそれへと読み行いてこそでいろいろの新知識と新知見を得たものでせう
作〔乍〕延引右御礼申上げます
御自愛を願上げます 牧野富太郎
十二月七日
篠崎賢台 机下
「趣味の植物採集」(注1)其内に御送りいたします これは三省堂の乞ひにより彼の岩波のもの(注2)や何かを集め参考して拵へたものです それに出てゐる菩多尼訶経(注3)の誤字御しらせ下され誠にありがとう存じます 私は出版語〔後〕余り気を附けて見なかったが大分訂正せねばならぬものがありますナー
神変大菩薩の碑(注4)の蘭山が若し彼の蘭山(注5)でしたらマダ誰れも知らぬ面白い事です それはそれが蘭山の手跡ならば其文字を見れば判断がつくと思ひます 拓本を作って見てはどうですか これは彼の雪花墨即ち鐘墨(ツリガネズミ)でやれは造作もなくとれます 鐘墨は鳩居堂に売ってゐます 廉価な品物です 確か一個十五銭位だと思ひます
榕菴(注6)の学識は無論貴説の通りシーボルトの感化もありませうが何を言へ蘭書など読む力が充分であった為めそれからそれへと読み行いてこそでいろいろの新知識と新知見を得たものでせう
作〔乍〕延引右御礼申上げます
御自愛を願上げます 牧野富太郎
十二月七日
篠崎賢台 机下
【注】
(1)『趣味の植物採集』は牧野の自著。1935年、三省堂より刊行。
(2)岩波書店から出た『岩波講座生物学 第8』(1932)を指すか。牧野は同書で「植物採集及び標本調製」の項を分担執筆した。
(3)『菩多尼訶経(ぼたにかきょう)』は、江戸後期の蘭学者、宇田川榕菴(うだがわようあん、1798-1846)が著した植物学書。文政5年(1822)刊。「ぼたにか」とは「botanica」(羅、植物学)の意。折本仕立ての経本をまねた体裁をとっている。
(4)神変大菩薩は、修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ、伝7
世紀の人)の諡号。彼の没後1100年を記念して、江戸時代の寛政11年(1799)、光格天皇より追贈された。ここに出てくる「蘭山」揮毫の碑が何を指すかは不明。
(5)小野蘭山(おのらんざん、1729-1810)。江戸時代の本草学者。蘭山は号で、本名は識博(もとひろ)。その曾孫が前々回の記事に登場した、植物学者の小野職愨(おのもとよし、1838-1890)。
(6)(3)に記した宇田川榕菴のこと。
★
旧知の弟子相手ですから、いかにも心安い感じの手紙です。文章もあまり推敲せず、さらさらと書き流した感があります。
内容は最初から最後まで植物学に関連した事柄ですが、リアル植物学に加え、植物学史や植物民俗史的な話題が多いのが注目されます。同時代の野尻抱影が、各地の弟子たちと盛んに文通して、天文民俗語彙の収集に努めていたことが思い合わされるのですが、牧野の場合も弟子たちと似たようなやりとりがあったんでしょうか。(遠目から見ると、こういう動向は、柳田民俗学の隆盛とシンクロしているように感じられます。)
★
昭和10年、牧野はすでに73歳になっていましたが、その活力と好奇心は衰えることなく、『牧野植物図鑑』や『(正続)植物記』等の主著を発表するのは、さらにこの後のことになります。平均寿命を考えれば、これは今よりも格段にすごいことで、この一点だけ見ても、牧野という人は文句なしに稀代の傑物です。
Midspring Night’s Dream ― 2023年04月12日 19時51分16秒
ここのところ、ちょっとぼんやりしていました。花粉と黄砂のせいかもしれません。
ぼんやりついでに、昨日は仕事帰りに、名古屋・伏見のantique Salonさんをひさしぶりに訪ねて、店主の市さんとあれこれ話し込んでいました。
何か珍しいものはないか?という、いつもの挨拶代わりの話題に始まり、仕入れの苦労、年齢をめぐる話、さる富豪の噂、そして将来のイベント構想など、互いに微苦笑の交じるひと時を過ごした後、「そのうちのんびり酒でも飲みながら、星でも眺めたいですね…」というところに話は落ち着きました。
長っ尻のわりに何も買わない、そんな客ともいえない客を迎えて、市さんにとってはご迷惑だったと思うんですが、ぼんやりした頭を抱えて、春の夕刻にそんな話をして時を過ごすというのは、とても贅沢な時間の使い方だと感じられました。しかも顔を上げれば、棚には解剖模型が並び、目を落とせば義眼と目が合う仄暗い空間に身をおいて、互いにくぐもった声でやりとりするのですから、なんだか目を開けながら夢を見ているような気分です。
「酔生夢死」というのは、無駄に生きることを指す、一般には好ましからざる言葉なのでしょうが、こういう時を過ごした後では、むしろ理想の生き方のようにも思えてきます。
★
電車に揺られて家に帰ると、京都の古書店から古書市の案内が届いていました。
カラー図版の美しい目録を眺めているうちに、「あ、この本いいな」と思える古書が見つかりました。でも当然のごとく値が張るので、一体どうしたものか…と腕組みをして考えていたんですが、しばらく見ているうちに、なんだかこの本はすでに持っているような気がしました。
さっそく本棚をひっくり返すと、なるほど確かにありました。
「やったー」と喜びながら、でも何かおかしいぞ…と思いました。自分の欲しいと思う本が、そんなに都合よく本棚から出てくるはずがありません。ひょっとしてこれは夢を見ているのだろうか? 夢だとしたら、自分は一体いつから夢を見ているのだろう? 京都から届いた目録というのは、本当に現実に属するものなのか?
そこまで考えると、antique Salonさんで市さんと話したことも、本当のことなのか自信がなくなってくるし、「存在の不確かさ」みたいなものが、ひたひたと周囲から押し寄せて、春の闇はいよいよ濃く深くなってゆくのでした。
(今日の晩酌の友は「よなよなエール」)
日本的昆虫画の展開 ― 2023年04月13日 19時31分05秒
昨日はなんだかぼんやりした文章を書いてしまいましたが、改めて確認すると、例の古書目録は確かに存在し、欲しかった本も確かに手元にありました。もちろん市さんのところに行ったことも本当です(たぶん)。
本棚から期せずして出てきたのは、明治時代の古い昆虫画譜です。
■森本東閣(画・編)『虫類画譜』
芸艸堂(うんそうどう)、明治43(1910)
芸艸堂(うんそうどう)、明治43(1910)
先日、やっぱり明治に刊行された『蝶百種』というのを採りあげましたが【LINK】、そのことが意識にあったので、目録を見ていてパッと目についたのだと思います。でも、そうでなくとも、私の中にある昆虫趣味、博物趣味、古物趣味の重複する本ですから、これは目に飛び込んで当然です。
冒頭には題字と緒言が3丁、それに続いて図版が23丁綴じられています。
和本というのは、原則1枚の紙を二つ折りにしたものが糸で綴じられていて、この1枚の紙を「丁」と数えます。今風にいえば1丁は2ページに相当します。したがって本書は、都合46ページ分の図版を含むわけですが、多くが見開きの図なので、図版数でいえば、24図版、そして図示された蟲類(昆虫以外に蜘蛛も載っています)は全部で47種です。
内容はこんな感じです。
ご覧のように、虫たちはそれぞれ植物と取り合わせて描かれており、花鳥画ならぬ「花虫画」の様相を呈しています。伝統的な日本画の文法にのっとって描くと、必然的にこうなるのでしょう。
本書の作者は、日本画家の森本東閣(もりもととうかく)。
東閣は昭和22年(1947)に70歳で没したそうなので、これが数え年なら、明治11年(1878)の生まれです。東閣は他家を継いで森本姓となりましたが、元は日本画家・幸野楳嶺(こうのばいれい、1844-1895)の長男で、父楳嶺の門人・菊池芳文に師事しました。
緒言によれば、本書は実父・楳嶺の遺志を継いで、楳嶺がかつて編んだ虫類画譜の続編として上梓した旨が書かれています。したがって、本書は博物学的関心から編まれたのではなくて、あくまでも日本画の絵手本として作られたものであり、その描写が日本画風であるのも当然です。
本書で面白いのは、虫名の記載が「スジクロカバマダラ」とか「ウラナミアカシジミ」のように妙に細かいのもあれば、「カミキリムシ」とか「蟻」のように、至極大雑把なのもあって、その精粗の差が激しいことです。緒言には「本図附記する所の名称多くは世俗の称を用ゆ 科名学名に至りては誤なきを保せずと雖ども 是れ蓋し絵画資料に供する目的なれば 観者之を恕せよ」とありますが、画題として細かく描き分ける必要があった蝶類と、日本画の世界では脇役に過ぎない虫たちとの格差にも、日本画家の目線を感じます。
★
それにしても、この木版の味わいというのは何なんですかね。
和紙に摺られた多色木版による昆虫たちの優しさ、美しさは言うまでもありませんが、そこにさらに言葉を加えるならば、「懐かしさ」でしょうか。
もちろん私にしたって、明治時代を実際に生きていたわけではないんですが、明治の小説や祖父の昔語りから刷り込まれた往時のイメージが私の中には明瞭にあって、こういう刷り物を見ると、それが強く賦活されて「嗚呼…」とため息がもれます。
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さっき写真を撮って気づきましたが、本書の表紙は版元「芸艸堂」の名を捺した、非常に凝ったものです。まさに美術専門書店の面目躍如。
でも、本書は格別の稀書というわけでもなくて、現時点でも複数の古書店で普通に売られているので、同好の方はぜひ手に取っていただければと思います。
【付記】 上記の幸野楳嶺の弟子にあたる竹内栖鳳が、画家として一本立ちする前、まだ十代の修業時代に描いた昆虫スケッチを、MOA美術館のツイートで拝見しました。https://twitter.com/moa_museum/status/1408004675484278784
肉筆画になると、その精細なること木版画よりもさらにすごいですね。こうなると下手な博物画よりもよっぽど真に迫っています。
残花 ― 2023年04月14日 17時01分57秒
桜はもうすっかり散って、ソメイヨシノは葉桜の装いです。
でも、よく注意して眺めると、まだ枝ごとに一、二輪の残り花を見ることができます。
生き遅れ、死に遅れた花たち。
もし花に自意識があったら、かつて無数に咲き誇った仲間の存在を聞かされた時、どんな気持ちがするでしょうね。
そういえば、シーズン最後の蝉の声を聞いたときも、似たような感慨を持ちました。
彼はいったい何のために鳴いているのだろう? おそらく彼に配偶者はもう現れないし、周囲には競い合うライバルだって一匹もいないのに、なぜそんなに声を張り上げているのか?
もちろん、花は無心に咲き、蝉は無心に鳴いているだけのことで、こんな感慨は時代に遅れた人間が、眼前の対象に自己を投影しているにすぎません。でも…。
我ながら感傷的だと思います。
春の愁いはもう少し続くことでしょう。
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